calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>

profile

selected entries

categories

archives

recommend

links

search this site.

sponsored links

others

mobile

qrcode

powered

みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2016.11.21 Monday - 16:08

利根川の風 その6 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯 受験、前期試験合格、後期試験の合間にキリスト教の集会に行く

★受験、前期試験合格

 開業するためには今でいう国家試験にパスしなければならない。医学学校卒業は受験資格ができたに過ぎない。最後の難関は国家試験である。内務省管轄の『医術開業試験』と言った。願書を提出すると、その場で却下された。そもそも女性には受験資格がないのである。新しい時代、文明開化の明治の世が進んでいるのに、いまだに女性が医師になるという発想は政府や官僚のお役人にはなかったのだ。依然として封建時代の男尊女卑のままである。

 

 吟子はほとほと困り果てた。押せども叩けども聳え立つ扉はびくともしない。受験期が来ると願書を出すがそのたびに却下された。また挑戦した。むなしいばかりであった。しかしじっとしてはいられない。吟子の焦燥と苦悩を深く理解し同情したのは、吟子の家庭教師先の高島嘉右衛門であった。吟子のかつての漢学の教師井上頼圀を通して、時の衛生局長長与専斎に紹介してくれた。また、石黒子爵も長与に頼んでくれた。しかし女医の前例はなく現行制度にもないと断ってきた。すでに長与はじめ内務省に女医を認可するべく、全国から多くの女性たちの声も上がっていた。吟子以外にも女医志願者たちが各地にいたのである。彼女たちもみな吟子に劣らない苦節の道を歩みながら女医を目指していたのだ。

 

 吟子の志を応援する井上、石黒、高島たち有力な男性たちの熱心な口添え、また時流の力もあって、ついに女性にも受験の道が開かれた。ついに、ついに巨大な沈黙の石は動き、鋼鉄の扉は開かれたのであった。しかし、扉は開かれたが通過するには試験に合格しなければならない。吟子は勉学から離れていた二年間を取戻し是が非でも合格するために、再び昼夜分かたずの受験勉強に力を振り絞った。

 

 明治十七年九月三日、吟子は前期医術開業試験を受験した。他に女性三名が受験したが、月末の合格発表では女性の合格者は吟子一人であった。それは吟子にとってどれほどの喜びであったろう。支援者、理解者の喜びも大きかったろう、しかし吟子と同じ振動で喜びの共鳴板を鳴らせた人はいなかったのではないか。この十年、吟子の流した涙の量は大河を造り、うめきの数は天にまで達したであろう。吟子は合格通知を手にしてひとり座していつまでも泣き続けたにちがいない。

 

 ゴールまであと一息である。半年後に後期の試験があるのだ。安閑としてはいられなかった。

 

 

 ★後期試験の合間にキリスト教の集会に行く

 ある日、吟子は友人の古市静子からキリスト教の大演説会に誘われた。吟子はそこへ出かけたのである。場所は京橋の新富座であった。今でいえば超教派の一大伝道集会のことだろう。なぜ、場違いなところへ行く気になったのだろう。

 

 古市静子とは東京女子師範学校でいっしょだった。同室者として特別に懇意でもあった。静子はクリスチャンであった。静子がひそかに吟子のために祈っていたことは想像がつく。すぐ近くで大きな伝道集会があるのだ、これこそ神の備えた絶好のチャンスではないか、静子はそう信じたであろうから、誘わないわけがない。

 

 吟子は義理で誘いに乗ったのだろうか。それも皆無ではないだろうが、いっときの歓楽的な催しなら親友の誘いといえども言下に断っただろう。吟子には無駄に使う時間も心もない。後期の試験が迫っている。しかし緊張と期待とが背中を擦り合わせる、小さなすきまがあったのかもしれない。静子の誘いはその小さな空間に伸ばされたのだ。静子の信じたとおり、その時こそ、吟子の後半生を導く神の時であった。

 

 吟子は、そこで植村正久とともに日本のキリスト教界をリードする海老名弾正牧師の説教に出会った。海老名牧師の説教は内容の斬新さと鋭い舌鋒と内側から燃えたぎるエネルギーで吟子を圧倒し魅了した。吟子は我を忘れ目を輝かせて聴き入った。この日の説教は吟子の魂の深いところに留まったにちがいない。

 

 古市静子と吟子の間には知る人ぞ知るかなり有名なエピソードがある。

 時は遡って東京女子師範時代のことである。吟子は同室で親しくしていた静子からある悩みを打ち明けられた。一方的に婚約を破棄されて苦しんでいるという。聞けば、相手は明治政府の高官、森有礼であった。森も静子も薩摩藩の人で長い付き合いがあった。が、有礼は静子を捨てて他の女性としかも福沢諭吉を証人に立てて、当時としては新式の結婚式を教会で挙げたそうである。大いに話題になって世を沸かせたのだ。

 

 聞いた吟子は義憤に燃え、有礼に単身直談判に行った。彼の非をなじり、非を認めさせ、償いとして静子の卒業までの学費を出させたという。吟子の正義感と勇気に驚くとともに、大胆な行動力に吟子のもう一つの面を見て、興味深い限りであった。なによりも痛快であった。洋行帰りの政府の高官といえども、品位に欠ける男性の横暴さに対して吟子と同じ怒りを抱くからだ。吟子さん、あっぱれと声援を送りたくなった。

 

 ところで、古市静子は日本の幼児教育の分野で草分け的な大きな働きをした、忘れてはならない偉人である。しかし、世間での知名度は高くない。隠れた女傑である。本郷に初めて「駒込幼稚園」を開設し、三〇年間幼児教育と経営に力を尽くした。鹿児島県種子島の人で、種子島には静子の偉業をたたえた記念碑があるという。

 静子は、その後もずっと吟子のそば近くで力強く祈り支えた人ではなかったろうか。

 

 

Category : 利根川の風

  • 2016.10.23 Sunday - 15:56

利根川の風 その5 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

★東京女子師範学校入学 私立医学校好寿院へ入学

 

 甲府で一年余り女子教育に誠心誠意で携わった吟子の評判は高かったが、吟子の内心は満たされてはいなかった。女医の志があるからである。吟子の心には生木のままかまどに放り込まれた丸太のように黒い煙がくすぶり続けていた。そんなとき、ある説によれば、故郷俵瀬以来強い絆で結ばれている松本万年師の娘荻江がわざわざ甲府まで吟子を訪れたという。

 

 荻江は驚くような話をしに来たのである。

政府はついに女子の教育者を育てるために東京女子師範学校を設立することになり、松本万年と荻江はそこの教師として招聘を受けたという。すでに上京して備えている。それにつき、入学を勧めるために来たのだ、女医の道は今は閉ざされているが、世の中は大きく動いている、きっとその時が来る。その時のためにも東京へ戻って目の前に開けた新しい道を歩んでみたらどうだろうと荻江は言うのである。

 

 荻江の親切と適切な助言は吟子の心を動かして余りがあった。吟子は応じる決意をした。

――女性の教師を育てる国の学校ができる、その次は女性の医者の学校の番かもしれない。今、開かれた道を歩いてみよう――

 翌年明治八年、二四歳の吟子は後のお茶の水女子大になる女子師範の第一期生として入学し、四年間、寝る間も惜しんで厳しい勉学に挑戦した。努力の甲斐あって、明治十二年、吟子は主席を守り通して卒業した。二九才になっていた。約五年間の学びであった。

 

 しかしめでたく卒業したからといって吟子は学校の教師になるつもりは毛頭ない。先の見えない五年間はどんなにつらかっただろう。それに耐えられたのは女医になるという初心があるからこそであった。

意志あるところ道ありというけれど、五年経ってもまだ女医の道はない。有るのは強烈な意志だけである。医学を学ぶための医学校は男子のみで女人禁制であった。が、立ち往生してはいられなかった。

 

 卒業面接で幹事の永井久一郎教授に医学を学びたいのでなんとしても医学校に行きたいと志を明かした。永井教授は驚きつつも、現行制度では女子には門戸が閉ざされていることを語った。しかし吟子の鋼のような意志と健気さを前に、真摯に向き合ってくれて、医学界の実力者、陸軍軍医監石黒忠悳(ただのりあるいはちゅうとく)子爵を紹介した。石黒子爵も吟子の熱意を理解し、下谷練塀町の私塾『好寿院』に入学することができた。ないはずの道がほんのわずかではあったが備えられたのである。

 

 しかし吟子の戦いはいよいよ本番を迎えたにすぎない。本番とは苛烈なものだ。志を抱いて上京してからすでに五年が経っていた。学びの場が与えられたとはいえ当然ながら塾生は全員男性である。しかも、女性が自分たちと同じ医学を学び医師を目指すことは到底受け入れられないことであった。自分たちの誇りが汚されたとさえ感じたのだ。吟子への嫌がらせはすさまじかったそうである。今でいえばセクハラ、パワハラの類が公然とまかり通った。レイプの危険さえあった。吟子は野獣の檻にいるようで、極度の緊張を強いられた。いつも命がけであった。

 

 学費、生活費の問題もあった。どこからも援助はないし頼むつもりもない。すべて自立である。吟子はいくつも家庭教師をした。すぐ上の姉友子が始終心にかけて援助してくれたがそれだけではどんなに切りつめても間に合わない。幸い、女子師範を卒業していることが有利に働き、名家に出入りすることができた。中でも豪商高島嘉右衛門は後々まで吟子を支援した。

 

 当時は乗り物がない。すべて徒歩である。真夏も寒中も雨の日も雪の中も、ひたすら歩くしかなかった。時に持病が頭をもたげ体をさいなむ時もあったが寝込んではいられない。身も心も酷使しながらの勉学であった。無我夢中とはこのことではないだろうか。なりふり構わず食うや食わずの三年間が過ぎ、吟子はついに『好寿院』を卒業したのである。医者としての知識、技術などは男性と同等に習得したから免許さえあればすぐにでも医者として開業できるのだ。明治十五年、吟子は三一歳、あの順天堂での屈辱的診察から、女医を目指して歩いたいばらの歳月は十年を超えていた。

 

 

Category : 利根川の風

  • 2016.10.06 Thursday - 08:39

利根川の風 その4 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

★再び上京、国学者井上頼圀に師事、甲府の内藤塾へ 

 

女医への志は不動のものであっても、それを家族や周囲に公言し理解を得るのは不可能であった。時代が開いていないのだ。家族の中で唯一吟子を不憫に思ってかばってくれるのは母のかよとすぐ上の姉友子だけであるが、この二人も、吟子の本心を知ったら気が狂ったとしか思わないだろう。吟子は万年父娘にはすぐに打ち明けた。しかしさすがの彼らも吟子の大胆で遠大な志には戸惑ったようだ。

 

ある文書に依れば、吟子は奥原晴湖に相談したとある。晴湖は女流画家として名声を馳せていた。茨城県古河の人であるが、いっとき熊谷の近く上川上村に仮住まいしていた。晴湖は芸術の分野でこの時代に考えられないような活躍をした女性である。岩倉具視、木戸孝允らにも認められ、後には明治天皇の前で揮毫したという。一時は三○○人からの弟子がおり、岡倉天心も門下生であった。吟子はこの力ある女性を信頼したのだ。晴湖は吟子の中に稀に見る学才と固い意志を見抜いたのであろう、なによりも晴湖には男性特有の女性蔑視の視線はなかったにちがいない。

一八七三年(明治六年)吟子は二二歳になっていた。

 

吟子は上京すると、有名な国学者井上頼圀の門に入った。紹介者が松本万年であるのか、奥原晴湖であるかはっきりしないが、吟子を女性と分かって許可した頼圀はかなり開かれた目をもった人であったと思える。明治の世になったとはいえ、たいていの男性の女性に対する見方は旧態依然、封建時代からの男尊女卑であった。女性が学問すること、まして男性と机を並べるなど、奇異としか思えなかったのだ。吟子はめきめきと頭角を現した。松本万年のもとでの学びがしっかりした基礎になっていた。吟子の才媛ぶりは東京の学界にちょっとしたセンセーションを巻き起こした。

 

ある時、吟子の名声を聞きつけて、甲府で女子の私塾を開いている内藤満寿子塾長が教師として招聘したいと訪ねてきた。吟子は内に秘めている女医への夢をいっときも忘れたことはないが、迷った末にしばらくして甲府行きを承諾したのである。理由があったのだ。日々学問を教授されている師井上頼圀から後妻にと結婚を申し込まれたのである。当時頼圀は妻を亡くして独り身であったから、彼にとって美と才を兼備した吟子は妻にするにはまたとない女性であったのだろう。

 

吟子にはその気は皆無である。吟子の心を占めるのは女医の二字だけである。吟子はていねいに断ったがもはや井上塾に留まることはできない。一度は辞退した甲府へ下るのは本意ではなかったが、かといって俵瀬には戻れない。女医になるまではなんとしても自活しなければならなかった。吟子は苦渋の回り道を選ばねばならなかった。

しかし内藤満寿子女史は大いに喜んだであろう。明治七年、二三歳のことである。

内藤塾で、吟子は漢文と歴史を教え、舎監も兼ねて女子教育に専念した。吟子には持って生まれた威厳があり、教師は適役ではなかったかと思われる。今でいうリーダーシップの能力も優れていたのではないだろうか。また手も気も抜かない一本気と熱意があった。

 

 

Category : 利根川の風

  • 2016.09.11 Sunday - 08:52

利根川の風 その3 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

★順天堂に入院、治療の日々

 

 吟子の嫁した上川上村の名主稲村家は荻野家より格段上の豪農で、吟子の結婚は玉の輿だと世間から羨望の的になるほど荻野家には誇らしい良縁であった。学問好きで世事に疎い吟子は、先に嫁いでいった姉たちに倣って、疑いも抵抗もなく言われるままに稲村家の嫁になった。吟子の学問好きといえば、その利発さは父も戸惑うほどであった。父が兄たちのために江戸から儒学者寺門静軒を招いて講座を開いていた折、幼い吟子は後ろの方で目を輝かせて、兄たちよりも熱心に学び理解したという。さらに寺門静軒の弟子で土地の学者松本万年に漢学を学ぶようになり、ますます才媛振りを発揮するようになった。吟子より八歳上の万年の一人娘荻江は後の失意の吟子を理解し励ます無二の友となった。荻江は父の跡を継ぐ漢学者であり、後に東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大)の教授に父とともに招かれて活躍した。 

 

 後日、吟子はここに入学することになる。

 

 それはさておき、実家に出戻って病床に臥す吟子を追わねばならない。

 

 実家の奥座敷に隠れるようにして養生していても、病状は一進一退で回復の見込みは望めなかった。そもそも決め手となる治療法も薬もないのだ。時に気分のよい時があっても庭にすら出る気になれない。まして家の外へは気配さえ見せられなかった。人の目があった。家人たちを初め、辺り一面が真相を知ろうとする好奇の目と耳でうずまっていた。離縁という煮え湯を勇ましく飲み干すには吟子も荻野家も非力であった。利根川の風は覚悟した以上に無情に吟子の胸を突き刺した。

 

 学問の師として親しく仰ぐ松本万年は漢方医でもあったから、折々に訪れては問診し、薬を出してくれた。ある時、万年は東京の順天堂病院での診察を勧めた。院長は関東一円に名を馳せている西洋医学の名医佐藤尚中である。万年は尚中と面識があった。婚家と正式に離縁の話がついて荻野姓に戻ってほどなく、吟子は順天堂に入院することになった。明治三年のことであった。まだ維新の混乱は続いていたが、すでに江戸は東京と改名、幕府は江戸城を明け渡し明治天皇の御代が始まっていた。

 

 吟子は佐藤尚中の治療に人生を賭ける思いで上京した。俵瀬から東京まで、現在では通勤もできるほど交通は便利になったが当時は二日がかりの旅路であった。吟子は舟であった。分家の荻野家所蔵の二十石積の高瀬船に、母のかよと乗船した。利根川から江戸川、東京湾から隅田川に入り浅草で停泊した。そこで下船し、下谷の順天堂医院に着いた。入院手続きをしてその夜は近くに宿をとったという。

――是が非でも治りたい。我が身を、わが心を蝕む悪病から解放されて、新しい人間になりたい。そうなれば忌まわしい三年間を悪夢として忘れられるだろう。どんなに憎んでも恨んでも飽き足らない夫をも見知らぬ他人のように思えるだろう――

 吟子は自分を縛り付ける呪縛の縄から自由になりたいと激しく願った。

――丈夫になって新しくなりたい、新しい自分になりたい、生まれ変わった別人のようになりたい―― 

吟子は狂おしいほどに思ったにちがいない。

 

 佐藤尚中の治療は患部を徹底して洗浄することだった。ところが、である。思いもかけない展開になった。診察する尚中はじめ取り巻く医師たちは男性ばかりではないか。当時、女医がいるわけはないのだから当然のことではあったが、いざ診察となって気づけば、すべてが男性ばかりである。ハッとしたが、吟子はたった一人、半裸にされて患部を覗き込まれ、触診もされた。全身が羞恥と屈辱の塊となって縮みあがった。なんという苦行であろう。いっそ、舌を噛み切って死んでしまいたかった。身を切り刻んで捨ててしまいたかった。しかし逃げ出すことも悲鳴を上げることもできない。耐えねばならなかった。

 

 思えば、病気をうつされたことも、病んで臥したことも、離縁の恥を味わったことも、男性医師たちに取り囲まれることに比べればたいしたことではなかった。吟子は診察のたびに血の出るほど唇を噛んで屈辱に耐えた。泣きに泣き、食事も取れず眠れない夜が続いた。

 

 そうした中で耳に入るのは、診察を嫌悪するあまり一日延ばしにして悪化させ、不妊になり、ついに命を落としていった女性たちが無数にいることであった。

 もし、女医がいて、女医が診察するのなら、耐えられるだろう。

――女医、女性の医師、女医、同性の医師、ああ、女医がいてくれたら――

――女医になろう。女医になろう。同じ思いに泣く同性たちが安心して治療を受けられるように、私が女医になるのだ。私は人のためになりたい。人を助けたい。女医になって苦しんでいる人たちを助けたい――

突然、稲妻が走るようにこの思いが吟子の脳を貫いた。閃光は心臓を貫き手の先から足の先まで全身を走り、やがて心に留まった。決意は不動の塊になって心の中心を占め、以後の吟子を支え続けた。天が吟子に与えた使命ではなかったか。

 

 新しい目標は希望の火になって心を照らしてくれた。苦渋に満ちた診察の時の杖とも柱ともなった。しだいに涙が乾いていった。女医になるのだ、女医になるのだと呪文のように言い続けた。心の張りは病状をも好転させた。完治する病ではなかったが、吟子は一年余りの闘病の末、退院して故郷俵瀬の生家に帰ることができた。

しかし喜んではいられなかった。実家は安穏として長く居られる場所ではない。出戻り女性の生きる場所はないのだ。恥じさらしな居候として座敷牢に閉じ込められるか、新しい嫁ぎ先を探すほかはないのだ。

 

 吟子は自立を選んだ。それはもちろん女医への道であったが、道はない。道なき道を行くことしかなかった。しかし吟子はひるまなかった。

 

 たった一つ、頼れる人は松本万年荻江父娘であった。すでに松本万年のアドバイスで順天堂への道が開けた。そこは地獄を見るような日々であったとはいえ、地獄の底で希望を見つけることができた。希望は生きる力の母ではないか。吟子の新しい道はすでに始まっていたのである。

Category : 利根川の風

  • 2016.08.23 Tuesday - 14:04

『利根川の風』 その2 女医第一号――荻野吟子の生涯

『利根川の風』 女医第一号 荻野吟子の生涯

 

目次

 

◎前半生 風に向かって

★離縁からのスタート

★順天堂に入院、治療の日々

★再び上京、国学者井上頼圀に師事、甲府の内藤塾へ 

★東京女子師範学校入学、私立医学校好寿院へ入学

★受験、前期試験合格

★後期試験の合間にキリスト教の集会に行く

★後期試験合格、婦人科荻野医院誕生

★医院大繁盛の中で、洗礼を受け、婦人矯風会活動へ 

 

◎後半生 風の中で

★若き伝道者、志方之善との出会い、結婚

★渡道する志方 後志半島利別原野、インマヌエルの丘開拓 

★吟子の出発 利別、国縫

★瀬棚へ

★志方、学業復帰、同志社へ  

★十二年ぶりの帰京 墨田区本所小梅町へ 

★吟子の最期

 

■おわりに 生誕の地俵瀬に行く

 

前半生 風に向かって

 

★離縁からのスタート

ちょうど世が改まって明治が始まったころ、まだ少女とも思える小柄な痩身の女性が武蔵国幡羅郡俵瀬(はたらぐんたわらせ・現在の埼玉県熊谷市妻沼町)の実家へ急いでいた。

名は荻野吟子。後に不屈の意志で苦節の歳月を乗り越え、明治十八年、三十四歳で女医第一号に認可された女性である。十六歳の時に八里先の上川上村の豪農稲村家の長子と結婚した。が、嫁して三年、二年間は病床に苦しんだ。高熱と患部の激痛に耐えたその末に、再び稲村の家には戻るまいと心を決めて家出してきたのである。吟子の病は淋病、夫からうつされた性病であった。結婚早々に発病した。夫が不貞を働いていたことは明白だった。心も傷つき痛んでいた。

 

吟子は利根川の川風を体いっぱいに受けながら万感の思いをこめて歩き続けた。この道がさらに厳しい向かい風になるのは覚悟の上であった。――私は再びこの道を後戻りはしない。私の道は前にしかない――

当時離婚は本人だけでなく、家名を傷つけ計り知れない汚名を負わせる悪徳であった。自分の一生と家名のために、屈辱と涙の泥沼に沈んだ女性は数知れない。

 

俵瀬は利根川と福川に挟まれた低地で、荻野家は農家であったが代々苗字帯刀を許された名主であり、長屋門を持つ豪壮な屋敷を構えていた。男二人女五人の末娘として生まれた吟子は、両親や兄、姉の愛情の中で大切に育てられた純真無垢な深窓の花であった。吟子は小麦色の肌をした目鼻立ちの整った評判の美人の上に、幼い頃から利発で、何よりも学問好き、当時の女性らしからぬ一面があった。

 

語り始めてすぐに、生涯の最期に触れるのは順当ではないかもしれないが、吟子は六二歳で亡くなっている。波乱に満ちた生涯の晩年数年を過ごした地が墨田区向島であり、私の住居から遠くない。区の誇る偉人の終焉の地点を確かめ、そこに立ってみたかったので、まずは訪ねて行った。北十間川に架かる源森橋の北詰に、区の教育委員会による小さな掲示板が建てられていた。北十間川は江戸の時代から桜の名所として有名な隅田川と東の旧中川を結ぶ人工の堀川である。源森橋は今やスカイツリー周辺の名所となっているが、そのわりには往来する人影も車の量も少なくひっそりとしていた。吟子が住んだ頃はもっとうら寂しい場所ではなかったかと、しばらく川面を見ながら立ち尽くした。

 

掲示板の案内文は以下の通りである。

『荻野医院跡――日本女医第一号 荻野吟子開業の地――

所在地 墨田区向島一丁目八番

荻野吟子は、嘉永四年(1851年)三月三日に武蔵国幡羅郡俵瀬村((現在の熊谷市妻沼)の名主荻野綾三郎の五女に生まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけました。医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。

 

吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治十二年(1879年)、私立医学校「好寿院」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度も試験願書を却下されながらも決して諦めず、同十八年三月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子三十五歳。早くもその年の五月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。

 

しかし、開業まもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す十四歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治二七年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めてこの地に開業したのは志方と死別してまもない明治四一年十二月、五十八歳の時でした。

 

晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正二年(1913年)六月二三日、六二歳で亡くなりました。 

平成二四年三月 墨田区教育委員会)』

 

掲示板には一枚の写真が載っている。中年をとうに過ぎたであろう吟子の、地味な和服姿の上半身のモノクロ写真である。国立国会図書館所蔵と説明があった。実物が見られるならと意気込んで出かけて行った。ときおり五月の雨が緑を洗う日であった。

吟子には会えなかった。すべてデジタル化されていて、吟子はコンピューターの画面からその楚々たるしずやかなたたずまいを見せてくれただけであった。画像なら自宅のPCからでも探し出せる。しかし私は感動した。心を込めてじっと見つめた。深くくぼんではいたが、自分だけの宝物をひたと見つめている涼やかな大きな目に引きつけられた。

 

解説は次のようであった。

『日本における最初の女性医師。一六歳で結婚するが病を得て離婚。東京女子師範学校を経て、私立医学校好寿院に学ぶ。明治一八年(一八八五年)医術開業試験に合格、荻野医院を開業、女性として初めて医籍に登録された。キリスト教婦人矯風会に参加、二三年、牧師志方之善と結婚し、二七年北海道に渡り開業。夫の死後帰京し、四一年、東京でも医院を開いた』

  

終焉の地は墨田区であってもお墓はない。都立霊園の雑司ヶ谷墓地に葬られていると知ったので行ってみた。これも順序が逆さかもしれない。日頃、主義としては神社仏閣や墓地を敢えて訪れることはしないが、吟子は例外である。ゆかりの地の一つ一つをできるだけ見学したい思いに駆り立てられている。墓地は都内でもあり、行けない距離ではない。

 

乗り物は、東武線で曳舟、曳舟から東武スカイツリー線で牛田、京成電車では関屋駅である。関屋から上野行きに乗って町屋下車。さあ、そこから東京でただ一本の都電荒川線に乗り換えた。街中を走る都電、昔懐かしい都電に四〇分ほど乗って雑司ヶ谷に着いた。

 

墨田区小梅町で亡くなった吟子がなぜ雑司ヶ谷霊園なのか、それなりの理由があるのだろうが今のところ私には分からない。吟子は夫の志方之善の姉(北海道瀬棚で夫婦とも死去)の遺児で姪にあたるトミを養女にしていた。志方亡きあとも吟子はずっと育ててきた。小梅町での吟子の最期を看取ったのもトミであったからおそらく葬りもトミが係わったと思われる。

 

お墓の前で、吟子の生涯を思い出しながらしばらく佇んでいた。初めは書物や写真から知っただけの女性であるが、平面から立ち上がって血肉を備えた立体的な人間として私の近くにいるような気がしてくる。というのも、荻野家の墓地には吟子の立像が建っているのだ。その像は、女医になってからすぐと思われる吟子が華やかな鹿鳴館時代を思わせる洋装で、飾りのついた帽子を胴のあたりに持ってすっくと立っているのである。

 

墓地のは石像であるが、よく見かける肖像画では、明るい青地のドレスには両袖の肩から手首まで真っ赤なリボンが縦にぬいつけられ、同じリボンが立ち襟から胴体までトリミングされていて、今にも優雅なお辞儀をしてワルツでも踊り出しそうな装いである。いや、そんな浮ついた雰囲気はない。右向きであるが顔はほとんど全部見えている。可憐とは言い難くむしろ威厳が漂っている。軟な男などはにじみ出る風圧で近寄れそうもない。気品の匂うきりりとした姿である。

 

埼玉県熊谷市の吟子の生誕地跡に記念館が建てられている。そこには以下のような紹介がある。まだ訪れていないが、ぜひとも行かねばと思っている。

 

『荻野吟子は、嘉永四年(一八五一年)俵瀬村(現在の熊谷市妻沼)に生まれました。小さい頃から勉学に意欲的で、両宜塾等で学問の基礎を学びました。一八歳のとき、熊谷の名主に嫁ぎましたが、婦人病のために離婚。診療の屈辱をバネに女医志望を決意した吟子は、周囲の反対を押し切って上京。刻苦勉励し、明治一八年政府公許の女医第一号となり、東京本郷に「産婦人科荻野医院」を開業しました。

 

翌年、キリスト教に入信し、女性解放の先覚者として活躍。明治二二年には明治女学校教師となり、後に校医となりました。明治二八年、志方之善と再婚、吟子四〇歳の時でした。明治二九年、キリスト教による理想郷実現のため北海道に渡り、瀬棚町で医院を開業、開拓民の医療に従事しました。瀬棚町の開業した場所には、顕彰碑が建っています。また、北海道今金町には、吟子と志方之善が住んでいた住居跡も残され、貴重な資料となっています』

 

吟子の人生を考えるに、クリスチャン以前と以後に分けるのも一つの方法であると思う。キリストの信仰に立った吟子は、今までの人生以上に大きな冒険をする。北海道に渡るのである。北海道にも数か所吟子の足跡が大きく残されている。その一つである瀬棚に建立された顕彰碑には吟子の愛唱聖句が刻まれている。

 

『人 其の友の為に己の命を損なう 之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節)

 

以上、吟子紹介の記事をいくつか集めてみた。これらを総合すると、吟子の生涯全体がおぼろではあるが浮かび上がってくる。これを素材にして、冒頭の一文に繋げていくことにする。

 

Category : 利根川の風

  • 2016.08.14 Sunday - 21:59

利根川の風 その1 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

利根川の風 その1 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

 

 

 

2016年も8月半ばを迎えました。

『創世記を愛して』を終えて以来、長期間お休みしてしまいました。立秋の声とともに感じる秋風に励まされ、気持ちも新たに、新しい記事を掲載してまいりたく願っています。休みの期間も、日々、一日も途絶えることなく多くの方々が訪問してくださったのを知って、ただただ感謝と感激でいっぱいです。これからもよろしくお願いします。

 

新しい記事は、昨秋上梓しましたささやかな拙著『利根川の風 日本の女医第一号荻野吟子の生涯』を全文掲載する予定です。荻野吟子は、弓町本郷教会で海老名弾正牧師から洗礼を受けたクリスチャン女医です。すでに伝記や小説、演劇、テレビなどで取り上げられた偉人ですが、知らない方も多数おられます。私自身確かな知識がありませんでした。ある時、俄然、吟子への思いに駆り立てられ、以後、参考図書を調べ、ゆかりの地を訪ね歩き、一冊が誕生しました。お楽しみいただけたらこの上ない幸いです。

 

なお、この6月末に、数名で吟子ゆかりの地、北海道の渡島半島、日本海側のせたな町へ旅しました足跡を、ブログ『希望の風』に掲載しましたので、覗いていただけたら感謝です。

 

本文に入る前に、簡単な吟子伝をまとめましたのでまずはそれをご紹介します。

 

 

★荻野吟子略史(埼玉県熊谷市妻沼町俵瀬に1851年嘉永4年に生まれる)

 

★荻野吟子は、明治18年、34歳で政府公認の女医第一号の栄冠を手にしました。志を立ててから13年の苦節の歳月がありました。早速本郷に「産婦人科 荻野医院」を開業し宿願を果たしました。その偉業は世に知れ渡ることになり、吟子は時の名士として一躍有名人になり、医院は朝から晩まで患者であふれ、婦人病を患う多くの女性たちを助けることができました。それこそが吟子に女医の志を与えた理由の原点でした。

 

★明治19年、35歳で、弓町本郷教会で老名弾正牧師から洗礼を受け、クリスチャンになります。まもなく熊本出身の同志社の学生志方之善(しかたゆきよし・新島襄から受洗)と結婚します。しかし、14歳年下の若い伝道者との結婚に賛成する人はだれ一人としていませんでした。

★医療活動とともに、女性を社会悪から救済するための婦人矯風会運動に賛同し、風俗部長になり、特に婦人病の元凶である公娼制度廃止に力を注ぎます。また、そのころ女性教育で一世を風靡する「明治女学校」の講師、校医、やがて舎監としても活躍します。

 

★一方、若き夫志方は、伝道熱に燃え、北海道の原野を開拓してキリスト教の理想郷を作るため、後志半島に入植します。3年後、吟子は東京でのすべての活動にピリオドを打って夫のもとに駆けつけます。ここから吟子の13年に渡る北海道での生活が始まります。18946月、吟子は43歳になっていました。

 

*************************************

 

★開拓地は現在の今金町神丘。神丘とはインマヌエルの丘の意味。ここに多くのキリスト教徒たちと一大理想郷を築こうとしました。しかしろくな道具もなく、いわば素手で原野を切り開くのは想像を絶する至難のわざでした。気候は内地とは比較にならない極寒です。風雨、洪水、質の悪い水、害虫、栄養不足で、多くの開拓民が倒れていきます。吟子は婦人病だけでなくあらゆる病気、怪我の手当てに明け暮れる、貴重な医師でした。

 

★理想郷を目指したキリスト者の群れは、信仰の違いから対立するようになり、志方は嫌気がさしてグループから離脱し、国縫の山中にマンガン鉱採掘のため移住します。二人は志方の姉夫婦が遺した幼い養女トミを連れていました。しかし、そこも長くはいられず、1897年、明治30年、吟子は元の地の近くの漁村瀬棚町に「荻野医院」を開業しました。この町で、女性のために「淑徳婦人会」を立ち上げ会長として活躍、また宣教師とともに「日曜学校」を作って伝道にも熱心に励みました。

 

1903年、明治36年 夫志方は中途であった学びを続けようと単身同志社に再入学します。志方40歳、吟子は53歳。渡道して約10年。吟子は養女トミと二人暮らし。一時札幌で開業しますが病のため熊谷の姉のもとで療養することもありました。1904年同志社を卒業した志方は浦河教会牧師として赴任、しかしまもなく挫折して辞任。瀬棚で単身、自給伝道をします。ところが1905923日、肺炎で急死してしまいます。42歳でした。

 

★吟子は途方にくれますが、帰京を促す姉の忠告を知りながらも夫の眠る地に骨を埋めたいと願い、なお3年を過ごします。しかし、自分の死後は孤児になるトミの将来を憂慮し、ついに帰京を決意。190812月、東京墨田区、隅田川の東岸小梅町に落ち着き、再び「荻野医院」を開業し、地域の人たちの医療に係わりながら静かな生活を送ります。1913623日、脳卒中のため死去。62歳でした。

 

1967年、瀬棚に顕彰の碑。1968年、生誕地埼玉県妻沼に顕彰碑建設。

 

 

 

 

 

 

Category : 利根川の風

<< | 2/2PAGES |