利根川の風 その5 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

  • 2016.10.23 Sunday
  • 15:56

★東京女子師範学校入学 私立医学校好寿院へ入学

 

 甲府で一年余り女子教育に誠心誠意で携わった吟子の評判は高かったが、吟子の内心は満たされてはいなかった。女医の志があるからである。吟子の心には生木のままかまどに放り込まれた丸太のように黒い煙がくすぶり続けていた。そんなとき、ある説によれば、故郷俵瀬以来強い絆で結ばれている松本万年師の娘荻江がわざわざ甲府まで吟子を訪れたという。

 

 荻江は驚くような話をしに来たのである。

政府はついに女子の教育者を育てるために東京女子師範学校を設立することになり、松本万年と荻江はそこの教師として招聘を受けたという。すでに上京して備えている。それにつき、入学を勧めるために来たのだ、女医の道は今は閉ざされているが、世の中は大きく動いている、きっとその時が来る。その時のためにも東京へ戻って目の前に開けた新しい道を歩んでみたらどうだろうと荻江は言うのである。

 

 荻江の親切と適切な助言は吟子の心を動かして余りがあった。吟子は応じる決意をした。

――女性の教師を育てる国の学校ができる、その次は女性の医者の学校の番かもしれない。今、開かれた道を歩いてみよう――

 翌年明治八年、二四歳の吟子は後のお茶の水女子大になる女子師範の第一期生として入学し、四年間、寝る間も惜しんで厳しい勉学に挑戦した。努力の甲斐あって、明治十二年、吟子は主席を守り通して卒業した。二九才になっていた。約五年間の学びであった。

 

 しかしめでたく卒業したからといって吟子は学校の教師になるつもりは毛頭ない。先の見えない五年間はどんなにつらかっただろう。それに耐えられたのは女医になるという初心があるからこそであった。

意志あるところ道ありというけれど、五年経ってもまだ女医の道はない。有るのは強烈な意志だけである。医学を学ぶための医学校は男子のみで女人禁制であった。が、立ち往生してはいられなかった。

 

 卒業面接で幹事の永井久一郎教授に医学を学びたいのでなんとしても医学校に行きたいと志を明かした。永井教授は驚きつつも、現行制度では女子には門戸が閉ざされていることを語った。しかし吟子の鋼のような意志と健気さを前に、真摯に向き合ってくれて、医学界の実力者、陸軍軍医監石黒忠悳(ただのりあるいはちゅうとく)子爵を紹介した。石黒子爵も吟子の熱意を理解し、下谷練塀町の私塾『好寿院』に入学することができた。ないはずの道がほんのわずかではあったが備えられたのである。

 

 しかし吟子の戦いはいよいよ本番を迎えたにすぎない。本番とは苛烈なものだ。志を抱いて上京してからすでに五年が経っていた。学びの場が与えられたとはいえ当然ながら塾生は全員男性である。しかも、女性が自分たちと同じ医学を学び医師を目指すことは到底受け入れられないことであった。自分たちの誇りが汚されたとさえ感じたのだ。吟子への嫌がらせはすさまじかったそうである。今でいえばセクハラ、パワハラの類が公然とまかり通った。レイプの危険さえあった。吟子は野獣の檻にいるようで、極度の緊張を強いられた。いつも命がけであった。

 

 学費、生活費の問題もあった。どこからも援助はないし頼むつもりもない。すべて自立である。吟子はいくつも家庭教師をした。すぐ上の姉友子が始終心にかけて援助してくれたがそれだけではどんなに切りつめても間に合わない。幸い、女子師範を卒業していることが有利に働き、名家に出入りすることができた。中でも豪商高島嘉右衛門は後々まで吟子を支援した。

 

 当時は乗り物がない。すべて徒歩である。真夏も寒中も雨の日も雪の中も、ひたすら歩くしかなかった。時に持病が頭をもたげ体をさいなむ時もあったが寝込んではいられない。身も心も酷使しながらの勉学であった。無我夢中とはこのことではないだろうか。なりふり構わず食うや食わずの三年間が過ぎ、吟子はついに『好寿院』を卒業したのである。医者としての知識、技術などは男性と同等に習得したから免許さえあればすぐにでも医者として開業できるのだ。明治十五年、吟子は三一歳、あの順天堂での屈辱的診察から、女医を目指して歩いたいばらの歳月は十年を超えていた。

 

 

利根川の風 その4 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

  • 2016.10.06 Thursday
  • 08:39

★再び上京、国学者井上頼圀に師事、甲府の内藤塾へ 

 

女医への志は不動のものであっても、それを家族や周囲に公言し理解を得るのは不可能であった。時代が開いていないのだ。家族の中で唯一吟子を不憫に思ってかばってくれるのは母のかよとすぐ上の姉友子だけであるが、この二人も、吟子の本心を知ったら気が狂ったとしか思わないだろう。吟子は万年父娘にはすぐに打ち明けた。しかしさすがの彼らも吟子の大胆で遠大な志には戸惑ったようだ。

 

ある文書に依れば、吟子は奥原晴湖に相談したとある。晴湖は女流画家として名声を馳せていた。茨城県古河の人であるが、いっとき熊谷の近く上川上村に仮住まいしていた。晴湖は芸術の分野でこの時代に考えられないような活躍をした女性である。岩倉具視、木戸孝允らにも認められ、後には明治天皇の前で揮毫したという。一時は三○○人からの弟子がおり、岡倉天心も門下生であった。吟子はこの力ある女性を信頼したのだ。晴湖は吟子の中に稀に見る学才と固い意志を見抜いたのであろう、なによりも晴湖には男性特有の女性蔑視の視線はなかったにちがいない。

一八七三年(明治六年)吟子は二二歳になっていた。

 

吟子は上京すると、有名な国学者井上頼圀の門に入った。紹介者が松本万年であるのか、奥原晴湖であるかはっきりしないが、吟子を女性と分かって許可した頼圀はかなり開かれた目をもった人であったと思える。明治の世になったとはいえ、たいていの男性の女性に対する見方は旧態依然、封建時代からの男尊女卑であった。女性が学問すること、まして男性と机を並べるなど、奇異としか思えなかったのだ。吟子はめきめきと頭角を現した。松本万年のもとでの学びがしっかりした基礎になっていた。吟子の才媛ぶりは東京の学界にちょっとしたセンセーションを巻き起こした。

 

ある時、吟子の名声を聞きつけて、甲府で女子の私塾を開いている内藤満寿子塾長が教師として招聘したいと訪ねてきた。吟子は内に秘めている女医への夢をいっときも忘れたことはないが、迷った末にしばらくして甲府行きを承諾したのである。理由があったのだ。日々学問を教授されている師井上頼圀から後妻にと結婚を申し込まれたのである。当時頼圀は妻を亡くして独り身であったから、彼にとって美と才を兼備した吟子は妻にするにはまたとない女性であったのだろう。

 

吟子にはその気は皆無である。吟子の心を占めるのは女医の二字だけである。吟子はていねいに断ったがもはや井上塾に留まることはできない。一度は辞退した甲府へ下るのは本意ではなかったが、かといって俵瀬には戻れない。女医になるまではなんとしても自活しなければならなかった。吟子は苦渋の回り道を選ばねばならなかった。

しかし内藤満寿子女史は大いに喜んだであろう。明治七年、二三歳のことである。

内藤塾で、吟子は漢文と歴史を教え、舎監も兼ねて女子教育に専念した。吟子には持って生まれた威厳があり、教師は適役ではなかったかと思われる。今でいうリーダーシップの能力も優れていたのではないだろうか。また手も気も抜かない一本気と熱意があった。

 

 

利根川の風 その3 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

  • 2016.09.11 Sunday
  • 08:52

★順天堂に入院、治療の日々

 

 吟子の嫁した上川上村の名主稲村家は荻野家より格段上の豪農で、吟子の結婚は玉の輿だと世間から羨望の的になるほど荻野家には誇らしい良縁であった。学問好きで世事に疎い吟子は、先に嫁いでいった姉たちに倣って、疑いも抵抗もなく言われるままに稲村家の嫁になった。吟子の学問好きといえば、その利発さは父も戸惑うほどであった。父が兄たちのために江戸から儒学者寺門静軒を招いて講座を開いていた折、幼い吟子は後ろの方で目を輝かせて、兄たちよりも熱心に学び理解したという。さらに寺門静軒の弟子で土地の学者松本万年に漢学を学ぶようになり、ますます才媛振りを発揮するようになった。吟子より八歳上の万年の一人娘荻江は後の失意の吟子を理解し励ます無二の友となった。荻江は父の跡を継ぐ漢学者であり、後に東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大)の教授に父とともに招かれて活躍した。 

 

 後日、吟子はここに入学することになる。

 

 それはさておき、実家に出戻って病床に臥す吟子を追わねばならない。

 

 実家の奥座敷に隠れるようにして養生していても、病状は一進一退で回復の見込みは望めなかった。そもそも決め手となる治療法も薬もないのだ。時に気分のよい時があっても庭にすら出る気になれない。まして家の外へは気配さえ見せられなかった。人の目があった。家人たちを初め、辺り一面が真相を知ろうとする好奇の目と耳でうずまっていた。離縁という煮え湯を勇ましく飲み干すには吟子も荻野家も非力であった。利根川の風は覚悟した以上に無情に吟子の胸を突き刺した。

 

 学問の師として親しく仰ぐ松本万年は漢方医でもあったから、折々に訪れては問診し、薬を出してくれた。ある時、万年は東京の順天堂病院での診察を勧めた。院長は関東一円に名を馳せている西洋医学の名医佐藤尚中である。万年は尚中と面識があった。婚家と正式に離縁の話がついて荻野姓に戻ってほどなく、吟子は順天堂に入院することになった。明治三年のことであった。まだ維新の混乱は続いていたが、すでに江戸は東京と改名、幕府は江戸城を明け渡し明治天皇の御代が始まっていた。

 

 吟子は佐藤尚中の治療に人生を賭ける思いで上京した。俵瀬から東京まで、現在では通勤もできるほど交通は便利になったが当時は二日がかりの旅路であった。吟子は舟であった。分家の荻野家所蔵の二十石積の高瀬船に、母のかよと乗船した。利根川から江戸川、東京湾から隅田川に入り浅草で停泊した。そこで下船し、下谷の順天堂医院に着いた。入院手続きをしてその夜は近くに宿をとったという。

――是が非でも治りたい。我が身を、わが心を蝕む悪病から解放されて、新しい人間になりたい。そうなれば忌まわしい三年間を悪夢として忘れられるだろう。どんなに憎んでも恨んでも飽き足らない夫をも見知らぬ他人のように思えるだろう――

 吟子は自分を縛り付ける呪縛の縄から自由になりたいと激しく願った。

――丈夫になって新しくなりたい、新しい自分になりたい、生まれ変わった別人のようになりたい―― 

吟子は狂おしいほどに思ったにちがいない。

 

 佐藤尚中の治療は患部を徹底して洗浄することだった。ところが、である。思いもかけない展開になった。診察する尚中はじめ取り巻く医師たちは男性ばかりではないか。当時、女医がいるわけはないのだから当然のことではあったが、いざ診察となって気づけば、すべてが男性ばかりである。ハッとしたが、吟子はたった一人、半裸にされて患部を覗き込まれ、触診もされた。全身が羞恥と屈辱の塊となって縮みあがった。なんという苦行であろう。いっそ、舌を噛み切って死んでしまいたかった。身を切り刻んで捨ててしまいたかった。しかし逃げ出すことも悲鳴を上げることもできない。耐えねばならなかった。

 

 思えば、病気をうつされたことも、病んで臥したことも、離縁の恥を味わったことも、男性医師たちに取り囲まれることに比べればたいしたことではなかった。吟子は診察のたびに血の出るほど唇を噛んで屈辱に耐えた。泣きに泣き、食事も取れず眠れない夜が続いた。

 

 そうした中で耳に入るのは、診察を嫌悪するあまり一日延ばしにして悪化させ、不妊になり、ついに命を落としていった女性たちが無数にいることであった。

 もし、女医がいて、女医が診察するのなら、耐えられるだろう。

――女医、女性の医師、女医、同性の医師、ああ、女医がいてくれたら――

――女医になろう。女医になろう。同じ思いに泣く同性たちが安心して治療を受けられるように、私が女医になるのだ。私は人のためになりたい。人を助けたい。女医になって苦しんでいる人たちを助けたい――

突然、稲妻が走るようにこの思いが吟子の脳を貫いた。閃光は心臓を貫き手の先から足の先まで全身を走り、やがて心に留まった。決意は不動の塊になって心の中心を占め、以後の吟子を支え続けた。天が吟子に与えた使命ではなかったか。

 

 新しい目標は希望の火になって心を照らしてくれた。苦渋に満ちた診察の時の杖とも柱ともなった。しだいに涙が乾いていった。女医になるのだ、女医になるのだと呪文のように言い続けた。心の張りは病状をも好転させた。完治する病ではなかったが、吟子は一年余りの闘病の末、退院して故郷俵瀬の生家に帰ることができた。

しかし喜んではいられなかった。実家は安穏として長く居られる場所ではない。出戻り女性の生きる場所はないのだ。恥じさらしな居候として座敷牢に閉じ込められるか、新しい嫁ぎ先を探すほかはないのだ。

 

 吟子は自立を選んだ。それはもちろん女医への道であったが、道はない。道なき道を行くことしかなかった。しかし吟子はひるまなかった。

 

 たった一つ、頼れる人は松本万年荻江父娘であった。すでに松本万年のアドバイスで順天堂への道が開けた。そこは地獄を見るような日々であったとはいえ、地獄の底で希望を見つけることができた。希望は生きる力の母ではないか。吟子の新しい道はすでに始まっていたのである。

『利根川の風』 その2 女医第一号――荻野吟子の生涯

  • 2016.08.23 Tuesday
  • 14:04

『利根川の風』 女医第一号 荻野吟子の生涯

 

目次

 

◎前半生 風に向かって

★離縁からのスタート

★順天堂に入院、治療の日々

★再び上京、国学者井上頼圀に師事、甲府の内藤塾へ 

★東京女子師範学校入学、私立医学校好寿院へ入学

★受験、前期試験合格

★後期試験の合間にキリスト教の集会に行く

★後期試験合格、婦人科荻野医院誕生

★医院大繁盛の中で、洗礼を受け、婦人矯風会活動へ 

 

◎後半生 風の中で

★若き伝道者、志方之善との出会い、結婚

★渡道する志方 後志半島利別原野、インマヌエルの丘開拓 

★吟子の出発 利別、国縫

★瀬棚へ

★志方、学業復帰、同志社へ  

★十二年ぶりの帰京 墨田区本所小梅町へ 

★吟子の最期

 

■おわりに 生誕の地俵瀬に行く

 

前半生 風に向かって

 

★離縁からのスタート

ちょうど世が改まって明治が始まったころ、まだ少女とも思える小柄な痩身の女性が武蔵国幡羅郡俵瀬(はたらぐんたわらせ・現在の埼玉県熊谷市妻沼町)の実家へ急いでいた。

名は荻野吟子。後に不屈の意志で苦節の歳月を乗り越え、明治十八年、三十四歳で女医第一号に認可された女性である。十六歳の時に八里先の上川上村の豪農稲村家の長子と結婚した。が、嫁して三年、二年間は病床に苦しんだ。高熱と患部の激痛に耐えたその末に、再び稲村の家には戻るまいと心を決めて家出してきたのである。吟子の病は淋病、夫からうつされた性病であった。結婚早々に発病した。夫が不貞を働いていたことは明白だった。心も傷つき痛んでいた。

 

吟子は利根川の川風を体いっぱいに受けながら万感の思いをこめて歩き続けた。この道がさらに厳しい向かい風になるのは覚悟の上であった。――私は再びこの道を後戻りはしない。私の道は前にしかない――

当時離婚は本人だけでなく、家名を傷つけ計り知れない汚名を負わせる悪徳であった。自分の一生と家名のために、屈辱と涙の泥沼に沈んだ女性は数知れない。

 

俵瀬は利根川と福川に挟まれた低地で、荻野家は農家であったが代々苗字帯刀を許された名主であり、長屋門を持つ豪壮な屋敷を構えていた。男二人女五人の末娘として生まれた吟子は、両親や兄、姉の愛情の中で大切に育てられた純真無垢な深窓の花であった。吟子は小麦色の肌をした目鼻立ちの整った評判の美人の上に、幼い頃から利発で、何よりも学問好き、当時の女性らしからぬ一面があった。

 

語り始めてすぐに、生涯の最期に触れるのは順当ではないかもしれないが、吟子は六二歳で亡くなっている。波乱に満ちた生涯の晩年数年を過ごした地が墨田区向島であり、私の住居から遠くない。区の誇る偉人の終焉の地点を確かめ、そこに立ってみたかったので、まずは訪ねて行った。北十間川に架かる源森橋の北詰に、区の教育委員会による小さな掲示板が建てられていた。北十間川は江戸の時代から桜の名所として有名な隅田川と東の旧中川を結ぶ人工の堀川である。源森橋は今やスカイツリー周辺の名所となっているが、そのわりには往来する人影も車の量も少なくひっそりとしていた。吟子が住んだ頃はもっとうら寂しい場所ではなかったかと、しばらく川面を見ながら立ち尽くした。

 

掲示板の案内文は以下の通りである。

『荻野医院跡――日本女医第一号 荻野吟子開業の地――

所在地 墨田区向島一丁目八番

荻野吟子は、嘉永四年(1851年)三月三日に武蔵国幡羅郡俵瀬村((現在の熊谷市妻沼)の名主荻野綾三郎の五女に生まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけました。医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。

 

吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治十二年(1879年)、私立医学校「好寿院」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度も試験願書を却下されながらも決して諦めず、同十八年三月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子三十五歳。早くもその年の五月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。

 

しかし、開業まもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す十四歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治二七年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めてこの地に開業したのは志方と死別してまもない明治四一年十二月、五十八歳の時でした。

 

晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正二年(1913年)六月二三日、六二歳で亡くなりました。 

平成二四年三月 墨田区教育委員会)』

 

掲示板には一枚の写真が載っている。中年をとうに過ぎたであろう吟子の、地味な和服姿の上半身のモノクロ写真である。国立国会図書館所蔵と説明があった。実物が見られるならと意気込んで出かけて行った。ときおり五月の雨が緑を洗う日であった。

吟子には会えなかった。すべてデジタル化されていて、吟子はコンピューターの画面からその楚々たるしずやかなたたずまいを見せてくれただけであった。画像なら自宅のPCからでも探し出せる。しかし私は感動した。心を込めてじっと見つめた。深くくぼんではいたが、自分だけの宝物をひたと見つめている涼やかな大きな目に引きつけられた。

 

解説は次のようであった。

『日本における最初の女性医師。一六歳で結婚するが病を得て離婚。東京女子師範学校を経て、私立医学校好寿院に学ぶ。明治一八年(一八八五年)医術開業試験に合格、荻野医院を開業、女性として初めて医籍に登録された。キリスト教婦人矯風会に参加、二三年、牧師志方之善と結婚し、二七年北海道に渡り開業。夫の死後帰京し、四一年、東京でも医院を開いた』

  

終焉の地は墨田区であってもお墓はない。都立霊園の雑司ヶ谷墓地に葬られていると知ったので行ってみた。これも順序が逆さかもしれない。日頃、主義としては神社仏閣や墓地を敢えて訪れることはしないが、吟子は例外である。ゆかりの地の一つ一つをできるだけ見学したい思いに駆り立てられている。墓地は都内でもあり、行けない距離ではない。

 

乗り物は、東武線で曳舟、曳舟から東武スカイツリー線で牛田、京成電車では関屋駅である。関屋から上野行きに乗って町屋下車。さあ、そこから東京でただ一本の都電荒川線に乗り換えた。街中を走る都電、昔懐かしい都電に四〇分ほど乗って雑司ヶ谷に着いた。

 

墨田区小梅町で亡くなった吟子がなぜ雑司ヶ谷霊園なのか、それなりの理由があるのだろうが今のところ私には分からない。吟子は夫の志方之善の姉(北海道瀬棚で夫婦とも死去)の遺児で姪にあたるトミを養女にしていた。志方亡きあとも吟子はずっと育ててきた。小梅町での吟子の最期を看取ったのもトミであったからおそらく葬りもトミが係わったと思われる。

 

お墓の前で、吟子の生涯を思い出しながらしばらく佇んでいた。初めは書物や写真から知っただけの女性であるが、平面から立ち上がって血肉を備えた立体的な人間として私の近くにいるような気がしてくる。というのも、荻野家の墓地には吟子の立像が建っているのだ。その像は、女医になってからすぐと思われる吟子が華やかな鹿鳴館時代を思わせる洋装で、飾りのついた帽子を胴のあたりに持ってすっくと立っているのである。

 

墓地のは石像であるが、よく見かける肖像画では、明るい青地のドレスには両袖の肩から手首まで真っ赤なリボンが縦にぬいつけられ、同じリボンが立ち襟から胴体までトリミングされていて、今にも優雅なお辞儀をしてワルツでも踊り出しそうな装いである。いや、そんな浮ついた雰囲気はない。右向きであるが顔はほとんど全部見えている。可憐とは言い難くむしろ威厳が漂っている。軟な男などはにじみ出る風圧で近寄れそうもない。気品の匂うきりりとした姿である。

 

埼玉県熊谷市の吟子の生誕地跡に記念館が建てられている。そこには以下のような紹介がある。まだ訪れていないが、ぜひとも行かねばと思っている。

 

『荻野吟子は、嘉永四年(一八五一年)俵瀬村(現在の熊谷市妻沼)に生まれました。小さい頃から勉学に意欲的で、両宜塾等で学問の基礎を学びました。一八歳のとき、熊谷の名主に嫁ぎましたが、婦人病のために離婚。診療の屈辱をバネに女医志望を決意した吟子は、周囲の反対を押し切って上京。刻苦勉励し、明治一八年政府公許の女医第一号となり、東京本郷に「産婦人科荻野医院」を開業しました。

 

翌年、キリスト教に入信し、女性解放の先覚者として活躍。明治二二年には明治女学校教師となり、後に校医となりました。明治二八年、志方之善と再婚、吟子四〇歳の時でした。明治二九年、キリスト教による理想郷実現のため北海道に渡り、瀬棚町で医院を開業、開拓民の医療に従事しました。瀬棚町の開業した場所には、顕彰碑が建っています。また、北海道今金町には、吟子と志方之善が住んでいた住居跡も残され、貴重な資料となっています』

 

吟子の人生を考えるに、クリスチャン以前と以後に分けるのも一つの方法であると思う。キリストの信仰に立った吟子は、今までの人生以上に大きな冒険をする。北海道に渡るのである。北海道にも数か所吟子の足跡が大きく残されている。その一つである瀬棚に建立された顕彰碑には吟子の愛唱聖句が刻まれている。

 

『人 其の友の為に己の命を損なう 之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節)

 

以上、吟子紹介の記事をいくつか集めてみた。これらを総合すると、吟子の生涯全体がおぼろではあるが浮かび上がってくる。これを素材にして、冒頭の一文に繋げていくことにする。

 

利根川の風 その1 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

  • 2016.08.14 Sunday
  • 21:59

利根川の風 その1 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

 

 

 

2016年も8月半ばを迎えました。

『創世記を愛して』を終えて以来、長期間お休みしてしまいました。立秋の声とともに感じる秋風に励まされ、気持ちも新たに、新しい記事を掲載してまいりたく願っています。休みの期間も、日々、一日も途絶えることなく多くの方々が訪問してくださったのを知って、ただただ感謝と感激でいっぱいです。これからもよろしくお願いします。

 

新しい記事は、昨秋上梓しましたささやかな拙著『利根川の風 日本の女医第一号荻野吟子の生涯』を全文掲載する予定です。荻野吟子は、弓町本郷教会で海老名弾正牧師から洗礼を受けたクリスチャン女医です。すでに伝記や小説、演劇、テレビなどで取り上げられた偉人ですが、知らない方も多数おられます。私自身確かな知識がありませんでした。ある時、俄然、吟子への思いに駆り立てられ、以後、参考図書を調べ、ゆかりの地を訪ね歩き、一冊が誕生しました。お楽しみいただけたらこの上ない幸いです。

 

なお、この6月末に、数名で吟子ゆかりの地、北海道の渡島半島、日本海側のせたな町へ旅しました足跡を、ブログ『希望の風』に掲載しましたので、覗いていただけたら感謝です。

 

本文に入る前に、簡単な吟子伝をまとめましたのでまずはそれをご紹介します。

 

 

★荻野吟子略史(埼玉県熊谷市妻沼町俵瀬に1851年嘉永4年に生まれる)

 

★荻野吟子は、明治18年、34歳で政府公認の女医第一号の栄冠を手にしました。志を立ててから13年の苦節の歳月がありました。早速本郷に「産婦人科 荻野医院」を開業し宿願を果たしました。その偉業は世に知れ渡ることになり、吟子は時の名士として一躍有名人になり、医院は朝から晩まで患者であふれ、婦人病を患う多くの女性たちを助けることができました。それこそが吟子に女医の志を与えた理由の原点でした。

 

★明治19年、35歳で、弓町本郷教会で老名弾正牧師から洗礼を受け、クリスチャンになります。まもなく熊本出身の同志社の学生志方之善(しかたゆきよし・新島襄から受洗)と結婚します。しかし、14歳年下の若い伝道者との結婚に賛成する人はだれ一人としていませんでした。

★医療活動とともに、女性を社会悪から救済するための婦人矯風会運動に賛同し、風俗部長になり、特に婦人病の元凶である公娼制度廃止に力を注ぎます。また、そのころ女性教育で一世を風靡する「明治女学校」の講師、校医、やがて舎監としても活躍します。

 

★一方、若き夫志方は、伝道熱に燃え、北海道の原野を開拓してキリスト教の理想郷を作るため、後志半島に入植します。3年後、吟子は東京でのすべての活動にピリオドを打って夫のもとに駆けつけます。ここから吟子の13年に渡る北海道での生活が始まります。18946月、吟子は43歳になっていました。

 

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★開拓地は現在の今金町神丘。神丘とはインマヌエルの丘の意味。ここに多くのキリスト教徒たちと一大理想郷を築こうとしました。しかしろくな道具もなく、いわば素手で原野を切り開くのは想像を絶する至難のわざでした。気候は内地とは比較にならない極寒です。風雨、洪水、質の悪い水、害虫、栄養不足で、多くの開拓民が倒れていきます。吟子は婦人病だけでなくあらゆる病気、怪我の手当てに明け暮れる、貴重な医師でした。

 

★理想郷を目指したキリスト者の群れは、信仰の違いから対立するようになり、志方は嫌気がさしてグループから離脱し、国縫の山中にマンガン鉱採掘のため移住します。二人は志方の姉夫婦が遺した幼い養女トミを連れていました。しかし、そこも長くはいられず、1897年、明治30年、吟子は元の地の近くの漁村瀬棚町に「荻野医院」を開業しました。この町で、女性のために「淑徳婦人会」を立ち上げ会長として活躍、また宣教師とともに「日曜学校」を作って伝道にも熱心に励みました。

 

1903年、明治36年 夫志方は中途であった学びを続けようと単身同志社に再入学します。志方40歳、吟子は53歳。渡道して約10年。吟子は養女トミと二人暮らし。一時札幌で開業しますが病のため熊谷の姉のもとで療養することもありました。1904年同志社を卒業した志方は浦河教会牧師として赴任、しかしまもなく挫折して辞任。瀬棚で単身、自給伝道をします。ところが1905923日、肺炎で急死してしまいます。42歳でした。

 

★吟子は途方にくれますが、帰京を促す姉の忠告を知りながらも夫の眠る地に骨を埋めたいと願い、なお3年を過ごします。しかし、自分の死後は孤児になるトミの将来を憂慮し、ついに帰京を決意。190812月、東京墨田区、隅田川の東岸小梅町に落ち着き、再び「荻野医院」を開業し、地域の人たちの医療に係わりながら静かな生活を送ります。1913623日、脳卒中のため死去。62歳でした。

 

1967年、瀬棚に顕彰の碑。1968年、生誕地埼玉県妻沼に顕彰碑建設。

 

 

 

 

 

 

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その25

  • 2016.04.06 Wednesday
  • 10:47
いよいよ最終回になりました。
 

ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。
 
 臨終に当たって、ヤコブが息子たちに残した言葉を掲げます。
『彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買ったものである。」
 
 ヤコブは移住先のエジプトで何不足ない晩年を暮らしました。息子や孫たち大家族に囲まれ、家長としての尊厳を保ち、さらに、アブラハム、イサクの一族を継承した堂々たる族長でした。異国エジプトに身を寄せていたとはいえ、息子ヨセフはパロから篤い信任を受け、宰相として国家の最高地位にありました。いうなれば、一大成功者です。大きな顔をしてエジプトに住み、エジプト流の壮大なお墓に入れたのです。ヤコブはエジプトに葬られようとは望みませんでした。


 神様が祖父アブラハムに約束した地、カナンこそ帰るべき地、骨を埋める場所だと決めていました。信仰者ヤコブの誇り高き一面を見る思いです。
 
ヘブル書を思い出します。『彼らはさらにすぐれた故郷、天の故郷にあこがれていたのです』(一一章一六節)



創世記五〇章(終章)二〇節
「あなたがたは私に悪を計らいましたが、神はそれをよいことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして多くの人を生かしておくためでした」
 
 兄弟全員が力と心を合わせて父ヤコブを葬ったあと、残された者たちの心にすきま風が忍び入ります。これはよくあることで、時に遺産を巡って骨肉相食む凄惨劇が展開すると、今でもよく聞きます。ヨセフの兄弟たちが遺産相続争いをしたとは聖書にはありませんが、ヨセフを疑う思いが浮かび上がるのです。過去の罪が苛むのです。加害者の苦しみというのでしょうか。裏返せば、仕返しを恐れる自己保身の心理でしょう。今までは父親がいたから何とか穏便にすんだけど、盾とも杖ともしたものが無くなったのだから、タダでは済むまいと恐れるのです。

 赦しを信じ切るのも難しいことだと思わずにはいられません。せっかくの赦しなのに、もったいないことです。ヨセフは嘆きます。そして兄たちに言うのです。赦しは神がなしたことだ、人を救うためにと。ヨセフは信仰の秤で、自分の人生を計ったのです。

『神は、愛する者たち、ご計画に従って召された者たちのためには、万事を益としてくださるのです』


 創世記全体から、救いのメッセージを乗せた恵みのファンファーレが高らかに聞こえてきませんか。
アブラハム、イサク、ヤコブを用い、さらに御ひとり子主イエス・キリストを私たちに賜ったみわざに万感の思いを込めて感謝し聖名を崇めます。ハレルヤ!



長期にわたってご愛読いただき心から熱くお礼申し上げます。
また、聖霊なる生ける神に導かれて、「聖書の緑風」をお届けしたいと願っています。




 

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その24

  • 2016.03.25 Friday
  • 20:19
お詫び・まただいぶ間が空いてしまいました。今度の理由がパソコンの故障です。前回もそうだったかもしれません。修理センターへ運んだり、引き取りに行ったりの作業が、一人ではできません。人のお世話にならねばなりません。そのために2倍の日数が要りました。ブランクの期間の間も驚くほど多くの方々がお訪ねしてくださったのを知りました。心からお礼申し上げます。さて、「創世記」もあと一回を残すだけになりました。早めにアップする予定です。感謝して。

創世記四七章二八節
ヤコブはエジプトで一七年生きながらえたので、ヤコブの一生の年は一四七年であった。
 
 だんだんと真相を知るにつけヤコブは元気になり、私は死なないうちにヨセフに会いに行こうと、ヨセフの勧めどおり一族郎党の先頭に立ってエジプトへ下っていきます。総勢七十人の小さな民族移動ですが、ヤコブはヨセフから送られたエジプト風の立派な車に乗るのです。王侯貴族のようではなかったでしょうか。

 エジプトへは父祖アブラハムも飢饉を逃れて行っています。その話は知っていたかもしれません。途中、父イサクが居住していたベエル・シェバに寄って礼拝をします。ヤコブは若かったころを偲んだことでしょう。

 さて、エジプトでヤコブ一族はゴシェンに居住を許されます。へブル人街とでも呼ばれたのでしょうか。ふと、後代のゲットーのそもそものルーツはここにあるのではないかと思うのです。強制的居住区ではなかったにしても、パロが一方的に定めた居住区であったことは確かです。

 しかし神様の特別な恩寵の中で、民族は存続し続け増え続けていきました。よい時ばかりではなかったでしょう。モーセが生まれたころは、ヘブル人の男の子は産まれるとすぐにナイル川に捨てなければならなかったのです。その患難困難を越えてなお民族は数を増やしていったのです。

 現代の神の民、クリスチャンもこうした一大集合に増えているでしょうか。もちろん一か所に身をひそめる民でなく、世界中に散って花を咲かせ実を結ぶ民としてです。
 
創世記四八章一一節
イスラエルはヨセフに言った「わたしはあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった」
 
 いよいよ創世記も終わりに近づき、最後の楽章が高らかに奏され、フィナーレに向かっていきます。ヤコブが最愛の息子ヨセフに向かって語るこの言葉は、ヤコブの人生の凝縮版ではないでしょうか。思えば、創世記のもう一人の主人公はヤコブではないかと思うほどです、読者は彼の言動に、ある時は怒りを感じ、ある時は同情し、ある時は喝采し、共感し、自分の人生を重ね合わせるほど、親近感を感じます。もしかしたら神様は、私たちの見本としてヤコブを選んだのではないでしょうか。
 
 そのヤコブがしみじみというのです。あなたの顔が見られるとは思わなかったと。これは偽らざる言葉でしょう。ヤコブはヨセフが荒野で獣に襲われて命を奪われ死んでしまったと信じ切っていたのです。ヨセフはヤコブの中では死んでいたのです。失われていたのです。心の墓の奥底に葬ったのです。死んでいたのに見つかり、とはイエス様の福音です。復活のみわざです。イエス様のたとえ話の放蕩息子の父が叫んだ歓喜に繋がります。ヨセフは放蕩息子ではありませんが、父親に多大な喪失の涙を流させました。あなたの顔が見られようとは思わなかったとは、死んでいた者が復活したのと同じです。この再会に勝る喜びがあるでしょうか。ヤコブは孫にまで会えたと、祝福のおまけにも喜びます。


 神様の無限の恵みです。ヤコブの弱さも醜さも、神様の前では数えるに足りません。

 

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その23

  • 2016.01.25 Monday
  • 14:15
創世記四五章三節
ヨセフは兄弟たちに言った「私はヨセフです。父上はお元気ですか」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、こたえることができなかった。
 
 ヨセフがどうして意地悪なたくらみをして兄たちを困らせたのか、その意味はよくわかりません。しかし仮にも復讐だなどと世俗的、短絡的には考えたくありません。
 
ユダの命を懸けたとりなしを聞いて、ヨセフはもう黙ってはいられませんでした。思えば一回目のときから、ヨセフは名乗りたくてたまらなかったでしょう。一刻も早く父に自分の無事を知らせて安心させ、できれば会いたかったでしょう。しかしもうヨセフは一時の感傷に負けて前後を見失うほど未熟ではありませんでした。数々の辛酸の経験から状況を見る目や判断する力や知恵を備えていたと思われます。そして、今や時は熟したと判断したのでしょう。一番言いたかったことを涙ながらに切り出しました。


 私はヨセフです、私はヨセフです、私はヨセフですと。もうひとつ言いたかったのは、父という言葉でしょう。ヨセフは母ラケルの記憶はほとんどなかったでしょう。心から母と呼べる人はいなかったのです。複雑な家族関係の中で、安心できたのは父の胸ひとつのみ。兄たちの嫉妬と恨みを買った父の盲愛もヨセフには唯一の喜びだったでしょう。ヨセフは父を恋い慕い、再会を夢見ながらエジプトでの歳月を耐えたのではないでしょうか。このときの兄たちの驚きは聖書にあるとおり、ことばにも、そして声にもならなかったのです。
 
 
創世記四六章二九節
ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンヘ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。
 
 ベニヤミンも交えて無傷で帰還した息子たちから、ヨセフ生存の知らせを聞いたヤコブの驚きはいかばかりだったでしょう。信じ難さは、目の前にヨセフを見ながら声も出なかった兄たちよりはるかに勝っていたでしょう。すべての思考は停止し、目は開いていても何も見ていなかったでしょう。「ぼんやりしていた」とは至言です。
一度はヨセフを失った悲しみに我を失ったヤコブですが、この度は歓喜の絶頂へ向かう、ふもとの忘我です。

 歓喜の現実へ引き戻してくれたのはヨセフが用意してくれた車でした。それを見ると俄然目が覚めたように元気になり、死なないうちに会いに行こうと、エジプト行きを決心するのです。やがて、総勢七〇人がカナンを後にします。この一族が、四三〇年の後に出エジプトする時には壮年の男子だけでも約六〇万人になっていました。
ヤコブ一行は途中ベエル・シェバで神にいけにえをささげます。神はヤコブに「エジプトに下ることを恐れるな、必ずカナンに導き上る」と約束します。

 一方ヨセフはゴシェンまで父たちを出迎えます。ヨセフは父を見るなり首に抱きついて泣き続けるのです。泣き続けるヨセフとヤコブです。一七歳で別れてから二〇年あまりが経っていたはずです。しかしヨセフは少年のように抱きついて泣き続けたのです。ああ、兄たちも泣いたでしょう。総勢七〇人が泣き続けたでしょう。

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その22

  • 2016.01.02 Saturday
  • 11:01
創世記四三章一四節
「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもう一人の弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように」
 
 エジプトの宰相がシメオンを人質にとり、末の弟を連れて来いと命じたことを知ったヤコブは懊悩苦悩します。ヨセフを失った後のヤコブの喜びはベニヤミンひとりなのです。たった一つの掌中の宝をどうして手放せましょう。思えばヤコブは苦悩の人です。しかし手をこまねいていては飢饉の牙で一族が滅んでしまいます。再びエジプトへ食料乞いに行くほかはないのです。それにつけても、なぜもう一人弟がいるなどと言ったのかと、ヤコブは息子たちをなじります。息子たちは、宰相のしつこい尋問についつい話してしまったと弁解します。親子の繰り言と深いため息が聞こえてくるようです。

 そのときユダが声を大にしてベニヤミンを連れて行かせてくださいと父に懇願します。「わたし自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください」。ユダは決死の覚悟をしたのでしょう。ところでユダは四番目の息子です。本来なら長男ルベンが言うべき言葉ではないでしょうか。


 ともあれ、ヤコブはユダの申し出に心を動かれたのでしょう、エジプトへ下ることを承諾します。その時のヤコブの心情が上記一四節に切々と語られています。最後に「私も失うときには失うのだ」と言い切り、この危機を突破するためには、いざとなったら二人とも失ってもいいと、捨て身の覚悟をします。ヤコブは捨てる信仰に立ったのです。「主は与え、主は取られる」と言ったヨブのようです。輝くのは信仰力です。


創世記四四章三三、三四節
どうか今、このしもべをあの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。……どうして私は父のところへ帰れましょう。
 
 ヨセフの兄弟たちは末弟のベニヤミンとともにふたたびエジプトへ下ります。彼らの心ははかり知れないほど重かったでしょう。いわば命がけです。しかし、かつてヨセフはたった一人、奴隷として売られていった道です。しかも一七歳で。道々彼らはヨセフを思い出したでしょうか。
 
 そのヨセフは、もう一度兄弟たちとそこに弟ベニヤミンを見たとき、我知らず泣くのです。無理もありません。ヨセフは彼らを自宅に連行させます。兄弟たちの不安は極限に達したでしょう。ところがヨセフは人質にしていたシメオンを釈放し、兄たちに食事を振舞います。やがてたくさんの食糧を得て兄弟たちは帰途に就きますが、ヨセフは一計を企み、ベニヤミンの袋に自分の盃を入れておき、追っ手を出してベニヤミンに盗みの咎を負わせます。青くなって、全員は再びヨセフの前にひれ伏すのです。ヨセフはベニヤミンだけを置いて全員帰っていいと言います。


 その時です、ユダがヨセフの前に飛び出して自分がベニヤミンの身代わりになるから彼を父のもとに返してほしいと切願します。「このしもべをあの子の代わりに、奴隷としてとどめ」ユダのとりなしは読む者の魂を震わせます。
このユダから私たちのためにとりなすイエス様が見えてきます。

 貴いのは身代わりの福音です。

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その21

  • 2015.12.22 Tuesday
  • 08:49


創世記四十一章一節
それから二年の後、パロは夢を見た。
 
いよいよヨセフ物語は佳境に入ります。キーワードは夢です。またも夢が先行します。ヨセフは神様から与えられた夢解きの杖で苦難の壁を打ち砕いていきます。
 
 献酌官長はヨセフのおかげで命拾いして職場復帰しますが、ヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。しかし神様はご計画を進めるために彼を一足先にパロのもとに返したと考えられます。


 二年後に、今度はパロが夢を見るのです。二年後です。献酌官長にとってはわずかな期間だったでしょうが、ヨセフには気の遠くなるような二年ではなかったでしょうか。それでも外界との一筋の糸に希望を持ってじっと耐えたのです。もちろんこれだけに執着したのではないでしょうが。
 
 パロは不思議な夢に心が騒ぎ、国中に触れを出して解き明かしのできる人を探します。しかし満足のいく答えを出せる人はいませんでした。そのとき、かの献酌官長はようやくヨセフを思い出すのです。遅い!と叫びたいほどです。しかしその後の神様のみわざは超スピードです。牢から出されたヨセフは直ちに王に謁見し、夢を解き、一気に王の信頼を得、この章の終わりにはナンバー2としてエジプト全土に君臨するに至ります。時にヨセフ三〇歳。一三年間の苦闘の暗雲はちぎれ雲となってかなたに飛び去り、主の知恵で政策、政務に実力を発揮します。七年間の豊作、七年間の飢饉を乗り越えるために。

 
 
創世記四十二章三節
そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。
 
 エジプトを襲った未曽有の飢饉は、カナンにもおよび、ヤコブ一族も飢餓に瀕します。そこへ、エジプトには多くの穀物の備蓄があり、内外から大勢の人たちが買い付けに行っているとの風のうわさが伝わってきます。今から三千年も、四千年も前のこと、思えば一番欠けているのは情報の手段だったでしょう。

 しかし、風が伝えるのです。風は神様の足です。ヤコブは十人の息子たちに食料を買いに行かせます。エジプトの宰相が、我が忘れじの息子ヨセフなどとは露も知らずに。もちろん兄たちも知りません。この時ヤコブは末息子ベニヤミンだけは行かせないのです。まだヤコブの偏愛は変わっていません。ところがこのことがことを複雑にする原因になるのです。


 十人の兄たちはヨセフの前に拝むようにひれ伏して食料を乞います。かつてヨセフの見た夢の通りになったのです。あの夢は兄たちの怒りを買い、ヨセフいじめの原因を作りましたが、まさに神様が見させたのです。ヨセフはすぐに兄たちだと気がつきます。しかしその場で名乗ったりしません。ヨセフは一計を巡らし、兄たちをスパイ扱いして詰問します。彼らは怯えながら言うのです「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった」。

 結局、ヨセフは彼らに食料を持たせて帰しますが、弟を連れて再度出直すように命じ、シメオンを人質にします。息詰るような場面が続いていきます。

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