calendar

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< January 2018 >>

profile

selected entries

categories

archives

recommend

links

search this site.

sponsored links

others

mobile

qrcode

powered

みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2017.06.05 Monday - 21:39

サムエル記を愛して その2

【サムエル記】は第一が三一章、第二が二四章、合計五五章から成ります。

分量から見ると、「創世記」の五〇章にほぼ匹敵します。

 ざっと区分けしてみます。

 

★サムエル記第一

一章から七章 預言者サムエル

八章から一五章 預言者サムエルとサウル王・不一致と確執

一六章から三一章 サウル王とダビデ

★サムエル記第二

一章から四章 ユダの王ダビデ

五章から八章 統一王国の確立

九章から二〇章 王位継承争い

二一章から二四章 付録

 

 サムエル記の時代はごく大まかに見て、BC一〇〇〇年ごろです。日本はまだ縄文式土器の時代、かのローマ帝国でさえかたちもありませんでした。そんな大昔の出来事が、つい昨日のことのように記されている『聖書』にいまさらながらに驚きます。一冊の本として読めることに言い知れぬ感動を覚えます。

                            

 

 

サムエル記第一・一章 ハンナの懊悩と涙の祈り

 

『エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに……エルカナというひとりの人がいた。……エルカナにはふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ……』1節。

 国家的巨人サムエル、サウル、ダビデを中心にした壮大な【サムエル記】が、一市井のしかも珍しくもない家庭騒動からスタートするのに驚きます。そこには神のどのようなおこころが秘められ、どんな意味があるのでしょうか。この冒頭の語り出しに「むかしむかしあるところに……」を連想して興味津々、またたく間に引きこまれます。

 

 第一章を見ていきます。

 エルカナの二人の妻のうち、ペニンナには十人の子どもがいましたが、もう一人の妻ハンナには一人さえいないのです。今風に言えばハンナは不妊の女性です。当時は、不妊は神から呪われているとの迷惑な烙印を濫用した時代でしたから、当事者の痛みと嘆きはいかばかりだったでしょう。

 

 しかも十人の子を持つペニンナは、勝利者気取りでハンナに嫌がらせをします。同性をいじめるのです。ハンナにとっては傷口に塩をすり込まれるような苦痛でした。夫エルカナに『私はあなたにとって十人の息子以上の者ではないのか』8節、と慰められてもその屈辱を和らげる役には立ちませんでした。悲しいかな、エルカナはハンナの深い苦悩が理解できないのです。そこがまたハンナの嘆きを深くしたことでしょう。

 

 エルカナは毎年家族を連れてシロの神殿へ礼拝に出かけます。家長としての信仰であり、家族にとっては楽しいイベントでもあったでしょう。神に多くの捧げものをし、神のみ前で家族の祝福を求めて祈り、感謝の宴を催すのです。広い神殿内には家族ごとに輪になって、あちらでもこちらでもお弁当を広げる、ピクニックのような風景が繰り広げられたと思われます。辺りは賑やかで華やいだ雰囲気に満ちていたでしょう。ところがハンナにはなによりもそれが苦痛でした。信仰の深いハンナですから神殿に行くのは抵抗がなかったとしても、ペニンナやその子どもたちと同じ輪に入ることは、喜びの宴ではなく、針の筵に座るようでした。

 

 その年、ハンナは涙にあふれて食事が出来ず、やがて席から離れてしまいます。ハンナの苦悶は頂点に達していました。ハンナはそのうめきを神に向けたのです。夫にさえ理解してもらえない苦悩を、ハンナは神のみ前に持ち出したのです。ハンナの選んだその方法こそが、問題解決の糸口になりました。平たく言えば運命の転機になりました。もしハンナが自己憐憫の穴に落ち込み、自暴自棄になり、ペニンナに嫉妬し、夫を憎んで泣いているだけだったら、聖書に登場することもなく今に至るまで信仰者の鏡として尊敬されることもなかったでしょう。

 

 ハンナを一躍神の表舞台に引きだしたのはわずかな心の働きでした。神に向けた心と一筋の細い小さな意志でした。ハンナが立ち上がると同時に神様が立ち上がります。ここを起点として神様が鮮やかに働き出します。神様はこの時までじっとハンナを見つめ、この時を待っていたのかもしれません。『ハンナが立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばに座っていた』9節。神はハンナの行動の見えるところに、祭司エリを派遣したのです。ご自身の使者として遣わしたのです。エリは神の代理人といえます。

 

『ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた』10節。

『ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた』12節。

 ハンナはあたりの喧騒に気付かないほど、時間の経つのも意識にないほど、ひたすら祈り続けます。ときどき嗚咽が肩を震わせ、唇はわなないていたでしょう。ハンナは「神と我」の世界に没入していました。その様子を、神の代理人エリがじっと見ていたのです。しかしエリはハンナの何を見たのでしょう。何を感じたのでしょう。流れ落ちる涙を、背中をよじる嗚咽の波を見たのでしょうか。 

 

『いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい』14節。

 エリがハンナにかけた第一声には仰天します。かりにも彼は祭司ではありませんか。一人の女性がうめきながら祈る姿を酔っていると見て疑わないのです。当時、神聖な主の宮の中ですら、酔っている人がいたのでしょうか、神の民も祭司も同様に信仰は形ばかりだったようです。二一世紀だからと言ってのんきに彼らを笑ってはいられないのかもしれませんが。それにしても、エリはイスラエルの歴史を変える夜明けの、一筋の黎明の役目を与えられたはずです。その名誉ある地点に立たされながら、ハンナの心を見抜けなかったのはお粗末千万です。しかし神はこの老祭司をご自身の器として用いられました。

 

 ハンナは、エリを祭司と信頼すればこそですが、切々と心情を打ちあけます。まるで祈りの続きのようです。エリはようやくハンナを理解します。そして、神の器になりきって祭司として役割を果たします。『安心していきなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように』17節、と適切な言葉をかけてハンナを励まし希望を与えます。さすがは祭司エリ、ここには年季の入った牧会者の的を得た働きが細々ではありますが表れています。

 

 神の前に自分を粉々に砕いて祈りを捧げ、神の代理人、祭司エリから過分な祝福を受けたハンナはそのときすでに別人になっていました。祈りのなかで変えられたのです。『それからこの女は帰って食事をした』18節、気が晴れて、食べ物がのどを通るようになったのです。

 

 このときハンナは、自分の祈りがかなえられると確信したわけではないでしょう。エリも保証したわけではありません。『願いをかなえてくださいますように』と希望の励ましを与えただけです。しかし、ハンナは積年の煩悶から解放され、まるで願いがかなったかのように『彼女の顔は、以前のようではなかった』18節、のです。頬に明るい紅が差し、瞳が輝きはじめていたのでしょう。『以前のようではなかった』のひとことはキリスト者の勲章です。他の人から『以前のようではな』い、と言われてはじめて証しが立つというものです。

 

 その後のハンナにはペニンナのいじめも意味がありません。ペニンナはいじめ甲斐のないハンナに二度と同じ矛先を向けることはなかったでしょう。まもなくハンナは神の介入によって男の子を産みました。この子こそサムエルです。

 


  • 2017.05.31 Wednesday - 22:13

聖書エッセー『サムエル記を愛して』その1

これからしばらくの間、2016年7月に出版した私の一冊、

聖書エッセー『サムエル記を愛して』を掲載していきます。

今までのようにご都合の良い時にお訪ねくださればたいへん幸いに存じます。

イエス・キリストの恵みをお祈り申し上げます。

 

 はじめに

 本著は『聖書を愛して』、『創世記を愛して』に続く第三弾です。

 聖書の【創世記】は天地創造の経緯から始まり、人類の祖であるアダムとエバの誕生、続いて神様が目をとめた一人の遊牧民アブラハムを祖とするイスラエル一族が、エジプトに移住するまでの歩みを綴っています。

 

【サムエル記一、二】は、偉大な指導者モーセによってエジプトを脱出したイスラエル民族が、神様に導かれて約束の地カナンに移住、繁栄し、王の統治する国家を形成して行くイスラエルの歴史を記しています。時代は士師時代からソロモンの即位直前までです。

 民族から国家への架け橋となるのが最後の士師預言者サムエルですが、この巻の中心人物は一介の羊飼いから二代目の王になったダビデです。その他、ダビデに先立つ初代の王サウルを筆頭に、多様な人物による波瀾に富んだ出来事が物語風に展開されています。

 

 本著では聖書が区分する一章ごとに、そこに繰り広げられるストーリーを中心に追いかけながら、背後で、絶対的権威と完全な愛で国や民を導く神のみこころにも思いを馳せたいと思います。いつもながらのことわりですが、本著は、聖書の解説書でも説教集でもありません。聖書を愛し、イエス・キリストの救いに感謝し、みことばに生きようと努める一信徒の信仰エッセーです。したがって随所に私見が入りますが、教理や神学を論ずる場ではありませんのでご理解を賜りますように。 

 
 

 


  • 2017.05.06 Saturday - 16:07

『利根川の風 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯』ゆかりの地訪問の写真

『利根川の風 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯』ゆかりの地訪問の写真

 

吟子終焉の地・墨田区源森橋たもとの説明版

 

説明版の一部

 

荻野医院開業の地・文京区湯島

 

吟子が洗礼を受けた教会 文京区本郷

 

吟子が講師、校医、舎監を務めた明治女学校跡・文京区麹町

 

埼玉県熊谷市妻沼俵瀬の記念館

 

熊谷市俵瀬・利根川の土手下

 

俵瀬の記念館脇生誕地にある公園

 

俵瀬の吟子公園内の顕彰碑の一部

 

生誕地の利根川土手

 

利根川の土手

 

吟子が後半生を生きた北海道後志半島瀬棚(現在の久遠郡せたな町)にも行ってきました。

 

開業三か月の北海道新幹線に乗りました。

 

せたな町の一隅にある吟子公園

 

公園に隣接した顕彰碑

 

顕彰碑全景

 

せたな町の庁舎の入り口に掲げられている吟子の写真

 

せたな町の記念館内の展示物から

 

せたな町の道路案内

 

長万部からせたな町へのバス車窓から

 

 

 

 

 

 

Category : 利根川の風

  • 2017.04.18 Tuesday - 21:38

利根川の風 その15 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯 おわりに

15回にわたって連載しましたが今回で終わりです。

長らくのご愛読ありがとうざいました。

出典は、拙著「利根川の風」からの全文です。

なお、取材地の写真がありますので、次回に掲載します。

 

 ■おわりに

利根川の風の中で・生誕地に立って

 

 この書を閉じるにあたって、生誕の地を訪問した。最後に、生誕の地訪問を記すのは順当ではないが、そもそも、終焉の地に立ったことから吟子を追かける旅が始まったのだ。終わりからの始まりであったわけである。

 

 だれのことであれ、どこでこの世に第一声を上げ、どこで最後の息をしたかは興味深いものがある。その間にその人の人生模様がある。誕生と死が同じ場所の人は今では少ないかもしれない。異国の地で客死した人もいるであろう。吟子がその信仰に生きたイエス・キリストは、ユダヤのベツレヘムの家畜小屋で旅の途中に生まれ、エルサレムの丘で十字架にかかって亡くなった。

 

 吟子は利根川の風に包まれるようにして産声を上げた。そして、隅田川の水を流す横十間川の源森橋のたもと近くで息を引き取った。そのとき吟子の耳には利根川の水音が聞こえ、一陣の川風が頬をかすめたかも知れない。六二歳とは、今では若すぎる死である。あと二十年生きていてほしかったと思う。吟子より一八歳年上の矢島楫子は九二歳、羽仁もと子も八四歳まで生きた。

 

 俵瀬は交通網の発達した今でも行きにくい僻地である。

 八月の末、暑さの和らいだ日に、熊谷市の荻野吟子生誕の地顕彰碑と記念館を目指した。高崎線普通電車で上野から一時間余りである。その後はバスに乗る。これも一時間を要した。バスは果てしなく広がる田園の中を走る。青空の下に畑や田んぼが整然とフラットな大地を埋めつくしている。点在する家々はまるで住宅展示場からそのまま運んできたモデルハウスのようだ。人々の暮らしの豊かさを物語っているように感じた。バス停の終点で下車。帰りの時刻を睨みながらまずは生誕の地へ。ちなみに降りたのは私一人であった。記念館見学者も終始一人であった。

 

 見上げるような顕彰碑に惹かれた。幅2メートル、縦3メートルほどの大きな石で、読むにもカメラに収めるのも難しかったが、碑の後部に、吟子女史の愛唱聖句『人 其の友の為には 己の命を捨つる 之より大いなる愛はなし』(ヨハネ15章13節)がしっかり刻まれているのがこの上なくうれしかった。この碑は北海道の瀬棚に同じく顕彰の碑が建てられたのに触発されて一年後に設置されたと、これもたった一人の記念館のボランティアの老男性が語ってくれた。

 

 この地を訪ねた大きな目的は利根川を見ること、利根川の風に吹かれることであったから、碑の裏手に見つけた階段を上がって土手に上った。広い河川敷のはるか向こうに利根川は静かに流れていた。吟子の産声を聞いたであろう利根川、失意の吟子が実家へ戻る心のうめきを聞いたであろう利根川だと思うと、胸が張り裂けそうだった。

ちょうど快晴に近い空の下を微風が吹いていた。心地よい風であった。しかし、離縁覚悟で家出してきた吟子には剣の刃先のように痛かったに違いない。

 

 今、私を急き立てるのは北海道の利別川の風と吟子が十年以上暮らした瀬棚の空である。

 吟子をその地へ導かれた神が、鷲の翼に乗せて連れて行ってくれる日を待望している。

 

                                   おわり

▼参考資料

『続すみだ ゆかりの人々』墨田区教育委員会社会教育課 

『荻野吟子 実録 日本の女医第一号』 奈良原春作 国書刊行会  

『花埋み』 渡辺淳一 新潮文庫

『人物近代女性史 明治女性の知的情熱』瀬戸内晴美編 講談社文庫 

『明治の女性たち』 島本久恵 みすず書房

『黙移』相馬黒光 日本図書センター

『とくと我を見たまえ 若松賤子の生涯』山口玲子 新潮社

『人物近代女性史 自立した女性の栄光』瀬戸内晴美編 講談社文庫

『ふぉん・しいふぉるとの娘』吉村昭 新潮文庫

『我弱ければ―矢嶋梶子伝―』三浦綾子 小学館

『時代を駆け抜けた三人のなでしこたち』DVD いのちのことば社

その他パンフレット等

 

 

▼訪問地

吟子終焉の地 墨田区向島   

吟子の写真を見に国立国会図書館 

吟子の墓地 豊島区雑司が谷霊園  

本郷教会 吟子受洗の教会 文京区真砂坂上 

荻野医院開業の地 千代田区三組坂下    

明治女学校跡 千代田区六番街   

吟子生誕の地 熊谷市妻沼町俵瀬  

吟子夫妻渡道の地 北海道久遠郡せたな町

 

 

 

Category : 利根川の風

  • 2017.04.11 Tuesday - 10:25

利根川の風 その14 十二年ぶりの帰京 墨田区本所小梅町へ  

 ★十二年ぶりの帰京 墨田区本所小梅町へ 

 

 志方の死後、吟子はなお三年瀬棚にいた。瀬棚は吟子には生まれ故郷の俵瀬につぐ、長期に住んだ土地であった。戦い激しかった、また、栄光の東京には、順天堂に入院の時から数えると二四年になるが、医者として活動したのはわずか六年に満たない。瀬棚で開業していたのは十一年に及ぶ。吟子は北海道の人になっていた。思えば、志方も吟子も世渡りの下手な人たちであった。これは否めない事実である。

 

 が、吟子はついに帰京することにした。

 吟子が渡道する時は、反対の声の渦巻く中を突っ走った。しかし、離道に際しては、瀬棚町の人たちが別れを惜しんでくれた。この町でこそ、吟子のキリストのスピリットは大きく開花したのだ。聖句の様に、吟子から愛を受けた人たちが別れを惜しみ涙した。

 

『人 其の友の為に己の命を損なう

      之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節)

 

 明治四一年十二月、吟子は五八歳になっていた。

 

 吟子は友子が用意したであろう隅田川の東岸、本所小梅町に住むようになった。かつての本郷や下谷はあえて避けたのかもしれない。吟子が初めて上京してから、また東京を不在にした十年余りの間に、明治の世は、特に東京はフルスピードで姿変わりをした。医学界の女性の活躍は目覚ましかった。明治十八年に吟子が初の公認の女医になったときはたった一人であったが、吟子の開いた門には洪水のように女性たちが押しよせた。明治三三年には、二七番目の女医、吉岡弥生が東京女医学校を開いている。三五年には十一番目の女医前田園子の声で日本女医会が設立された。女子教育も開かれていた。津田梅子が津田英語塾を、さらに翌年には日本女子大が開校した。女医界も女性教育も飛躍的に前進した。

 

 吟子は目がくらみそうであった。医学そのものは日進月歩、吟子が学んだ医術はもう過去のものであった。

――私は女浦島太郎――

 しかし吟子は過去の栄光をなつかしみ、感傷に更けり、立ち止まり座り込む人ではない。

もとより野心はない。道なき道を前へ前へと進む人である。婦人矯風会も過去の一ページ、再び訪れる気持ちはない。

 吟子は心身に老いを感じながらも、小梅町の自宅に医院を開設した。在京時代に深く係わった人たち、女医になるまでに支援してくれた多くの人たちと旧交を温めあうことができたであろうか。ある資料には、吟子の身内が近寄ってきて、小梅町の家に親しく出入りしたとある。姉友子の仲立ちによるものであろう。

 

 残念ながら俵瀬の実家は紆余曲折の内に没落して跡形もない。そのかわり、上京している者が幾人かいた。

荻野家の血筋の者たちは、一門から日本初の女医が出たことが大きな誇りであったようだ。吟子と友子とトミのおんな三人暮らしの家は結構賑やかであった。

 

 『荻野医院』であるが、吟子の手に負えない病気もあったが、今までの処方で間に合う患者も多くいた。今でいえば『かかりつけ医』、『ホームドクター』である。人々は気軽に吟子の医院を訪れ、喜んで診察を受けた。

はからずも、『信仰に生きている吟子の、自然ににじみ出るような徳性は人を引きつけずにはおかなかった』と、ある吟子研究者の証言を目にして、胸が熱くなった。

 

 ★吟子の最期

 小梅町での穏やかな五年余りが過ぎた大正二年(一九一三年)三月二三日、吟子は肋膜炎を併発して病床に臥した。さらには、姉の友子、養女トミを初めとする近親者の必死の看病のさなか、五月二三日は脳卒中を起こし、一か月の後の六月二三日、吟子は波乱の人生を終えて神の御元に旅立って行った。六二歳であった。

 『人 其の友の為に己の命を損なう

      之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節) 

  

 吟子は神の命ずるように、何にも勝って、神を愛し人を愛する人であった。

Category : 利根川の風

  • 2017.04.01 Saturday - 18:40

利根川の風 その13 志方、学業復帰、同志社へ 

★志方、学業復帰、同志社へ 

 

 一方、志方にはずっとくすぶっている課題があった。もともと志方は伝道者、つまり教会の牧師になるために人生をスタートさせたのである。その準備のために同志社に学んでいた。たまたま夏期伝道に参加して大久保牧師に同行し、秩父で伝道を終えて関西へ帰る途中に吟子宅に宿泊したのであった。そこで、吟子に出会ったところから方向が変わってしまった。同志社を中途止めにして情も意志も吟子に傾注してしまった。やがて北海道の開拓にのめり込んで行った。命も惜しくなかったインマヌエルの理想郷建設は、志方のビジョンを越えて大勢の人の手で、そこそこ進んでいる。

 

 志方は中途半端な立場であり、不完全燃焼なのだ。彼はいつも真っ赤に燃えていたいのだ。立ち止まること、まして座り込むことは彼の性分ではないのだ。ふと、心の隙間に囁くものがあった。中途にしている同志社の学びに決着をつけて正式に牧師になろうと。牧師になって教会に仕え、伝道するのだとの思いが満ち満ちてきた。ローランド宣教師の強い勧めもあったようだ。

 

 明治三六年九月、四十歳の志方は京都の同志社へ再入学し相国寺畔の寄宿舎へ入った。吟子とトミはそのまま瀬棚である。時に吟子は五二歳、渡道して十年近くが経っていた。志方が京都にいる間に、吟子は勧める人たちがあって札幌で開業した。医師会名簿にも登録した。しかし理由ははっきりしないが、一年ほどで瀬棚に戻っている。札幌は吟子が精魂込めて活動できる地ではなかったようだ。その間にインフルエンザに罹って一時熊谷の姉友子宅で療養している。夫の志方は京都である。幼いトミを連れて、札幌、熊谷、再び瀬棚と、吟子の足取りをたどるとその時々の吟子の心境がおのずと偲ばれる。いくら奮い立っても逆境の中では平安な笑みは浮かばない。もともと吟子は寡黙で笑顔の少ない人だったようだ。

 

 同志社を卒業した志方は浦河教会の牧師として赴任した。念願かなったのである。しかし同じ北海道とはいえまたまた別れ別れの生活である。吟子もトミも寂しかったに違いない。ところが志方は早々に浦河教会の牧師を辞し、ひとりで自給伝道することにした。この辺りに来ると、志方の行動には着いていけないし共感もできなくなる。なぜ落ち着いて一つのことに身を入れることができないのか。半年ほど自給開拓伝道に奔走し、基礎が固まりつつあった。たが、どうしたことだろう、一度も寝込んだことのない強靭な志方が、高熱にうなされ、吟子は肺炎を疑ったが、数日で息絶えた。明治三八年九月二三日、志方四二歳であった。吟子が渡道して十一年の歳月が流れていた。

 

 

この書も終わりに向かっている。もの寂しく悲しい。吟子の身の上に起こった出来事を拾い集めてみれば不幸な人、悲劇の人と言わざるを得ない。世間はそうやって吟子の人生の収支報告書を出している。しかし、そもそも、その評価に不服で、吟子を追かけてみたのだ。吟子は志方が利別原野に最初に入植し、一足を付けたインマヌエルの丘に彼を葬った。これを知った親戚たちは東京へ戻ることを勧めた。志方がいない以上、吟子のいる意味がないとの思いからだったのだろう。しかし吟子は同意しようとはしなかった。吟子にとって瀬棚は志方以上に生活の場であった。志方がどこへ行こうとも吟子は町の医者として町の社会活動家としてしっかり町に根を下ろした生活を営んできた。志方のそばに単に妻としていたのではなかった。瀬棚の人たちは、吟子は知っていても志方を知らない人が多かったそうだ。現に、吟子が往診の時、馬を曳く志方を、下男と思っていた人もいたほどである。

 

 吟子には瀬棚は立ち去りがたい愛着の地であった。自分の半生を掛けて愛し従ってきた夫、働きの同志でもあった人生の同伴者を残すには忍びなかった。夫の墓に骨をうずめるのが本意であった。吟子はトミと静かな暮らしを続けた。しかし、吟子は老いていた。臥せる日もあった。姉の友子からは毎月のように帰京を促す便りが届いた。いっしょに暮らそうと言うのだ。そのころ友子は夫とはとうに死別し、子や孫も成人し、一人暮らしであった。吟子は長い間経済的に支援されてきただけに、姉の誘いには心が動くのであった。恩返しの思いも働いた。トミの将来のこともあった。自分亡きあと身寄りのないトミを僻地に残すのは養母としての責任から不安があった。今ではトミは吟子の支えでもあった。

Category : 利根川の風

  • 2017.03.12 Sunday - 14:57

利根川の風 その12 瀬棚へ

★瀬棚へ

 

 明治三〇年、吟子四六歳の時、瀬棚の町に転居し、ここで吟子は渡道して初めて『荻野医院』の看板を掲げて本格的に医療に従事する。吟子のたっての願いなのか、吟子に本来の働きをさせたいとの志方の思いやりなのか、そのあたりは判然としないが、生計をたてるのにはこれしかなかったこともある。志方は医師としての吟子を助けながらも利別のインマヌエルの地を往復しながら開拓と伝道にも力を注いだ。

 

 ここではかなり腰を落ち着けて吟子らしさも発揮でき、慣れない気候のもとではあるが利別原野や国縫ほどの苦労はなかったのだろう。瀬棚はニシン漁の港町であり、当時は町として経済的に繁栄していた。女医が開業したといううわさで一時は多くの患者が押し寄せたそうである。しかし目立った看板を掲げることもなく、まして吟子が日本の公認女医第一号であることなど誰も知らず吟子も言わず、ひっそりした物静かなおばさん医師と言われ、それで通したらしい。いかにも吟子らしいではないか。医院では専門の性病もさりながら、日常の様々な病気を扱い、病人たちには分け隔てなく誠実に暖かく応対した。往診にも出かけた。

 

 馬に乗る吟子のかたわらで、志方は轡を取り、患者の家々を訪ねた。志方は吟子をいつも労り下僕のように仕えた。夫婦は確かにキリストの愛で結ばれていたのだ。お互いの人格を尊重し、お互いのビジョンを理解し、相手の必要に徹しようとする自己犠牲の愛があった。吟子も志方もともに生きることに喜びを感じていたのだろう。幸せ感を味わっていただろう。端が見るほど不幸でも失敗でもないのだ。吟子にはいつでも『人 其の友の為に己の命を損なう 之より大いなる愛はなし』が息づいていた。 

 

 瀬棚では吟子の持ち前の実践力が働き出した。吟子は頭脳明晰であるが、机の上の人ではなく体の動く人であった。医師として町の人たちには一目も二目も置かれていたから話は早かった。町の有力婦人たちに呼び掛けて『淑徳婦人会』を立ち上げ、自分から会長になった。会にはいわゆる町の名士婦人たちが集まってきた。村長夫人、警察署長夫人、神社宮司夫人、住職夫人、呉服屋や小間物屋、菓子店の主婦などが主だった人たちであった。活動内容は、吟子のことだからまず女性としてのあるべき考え方や女性たちの地位向上のための講座、また病人の救急法や衛生面のことなど医師の立場からの知識を教えた。さらに親睦の場もある会であったようだ。吟子の頭の隅には東京の婦人矯風会があったと思う。吟子はここでは張り合いと生きがいを感じてうれしかったに違いない。

 

 さらに吟子は日曜学校も作った。志方もかかわった。インマヌエル教会の牧師や、宣教師ローランドも応援した。ローランドの国や日本に来た動機などは今の所資料を見つけられないが、瀬棚には二度訪れており、伝道の演説会もしている。吟子がこうした伝道にも一線に立って働いているのを見ると、信仰が単に精神的なものではなく、生活そのものになっているのを知る。吟子は生きた信仰者であった。だからこそ、自分の過去の栄光に捕われず、もちろんひけらかすこともなく、辺境の地で黙々と隣人愛に励み、日々の働きに喜びを感じたのだ。吟子は大東京の医療や社会活動と同じ重さで瀬棚のそれにも体当たりした。

 

Category : 利根川の風

  • 2017.02.13 Monday - 07:10

利根川の風 その11★渡道する志方、後志(しりべし)半島の利別原野、インマヌエルの丘開拓 

★渡道する志方、後志(しりべし)半島の利別原野、インマヌエルの丘開拓 

 

 明治二四年五月、志方と丸山は横浜港から汽船で出発した。二人が入植した中焼野は瀬棚から利別川を二日遡った前人未踏の原始林であった。昼間も暗いほど木々が生い茂り、特に熊笹が密生し、開墾は困難を極めた。蚊とブヨの大群に襲われ、手も足も顔も膨れ上がった。のこぎりと斧だけではわずかな平地を作るのにも気の遠くなるような時間と労力が要った。その厳しさを吟子は想像もできない。

 

 越冬は不可能と思えた。丸山はどうしても残ると言い、志方は十月末に一人で引き上げた。翌年春、志方は姉夫婦など新しい仲間五人と出発した。志方は心流行る吟子を押さえた。あの未開の恐ろしい地へ妻と言えども、いや、愛する妻だからこそ、連れて行く気にはなれなかったのだ。しかし事実をそのまま伝えるわけにはいかない。もう少しめどがつくまで東京で待機していてほしいというほかはなかった。

 

 吟子は瀬棚の町や利別川に、生家のある俵瀬と利根川を重ねた。故郷のように懐かしく恋しい思いがこみ上げた。利別川の風に吹かれてみたい、北海道の川風はどんな風合いなのだろうと、未知の地へ憧れにも似た思いを抱いた。

 

 

★吟子の出発 利別、国縫(くんぬい)

 

 ついに吟子は渡道を決意した。一人で東京に残っている意味を見いだせなかった。夫婦は一心同体、生きるも死ぬもいっしょだ。吟子は相変わらず一直線であった。みな大反対であったが、だれひとり止められる者はいなかった。若くはない吟子の行くところではないのだ。東京には吟子ならではの重要な働きがいくつもあった。みな、かつての吟子が勇んで選んだものだった。富と名誉も自然についてまわり、何よりも吟子自身が女性の地位向上の見本のような存在なのだ。折しも、次期婦人矯風会会頭にとの話があったとか。姉の友子だけは、肉親ならではの情をもっておろおろと心配した。

 

 明治二七年六月、四四歳の吟子は単身、志方の開拓する原野に入って行った。

 志方はその地をインマヌエルと名付けた。インマヌエルとは、【神ともにいます】の意味である。彼らは理想郷建設を目指して希望に燃えていたのだ。現実には、吟子の予想した通り医者を必要とする日々が待ち構えていた。吟子は人々の間を駆け回って医療を施した。

 当時、政府の開拓奨励策もあって、全国各地から続々と大規模な開拓団が渡って行った。利別原野にもキリスト教徒の開拓団が入植してきた。志方は信仰者同士が一致すれば、理想郷の実現も進むだろうと、さらに意欲を燃やした。 

 

 ところが思わぬ状況になった。

 志方たちプロテスタントの信者と聖公会の信者たちの間で組織の運営などで意見の相違が表立ってきて対立状態になった。あとから入植した聖公会の人数は多く、しだいに志方たちの影は薄くなってしまった。もう、志方の意見は聞き入れられなくなった。

 志方はやる気を失い、同志たちにあとを任せて、さらに奥地のクンヌイ(国縫)にあるマンガン鉱山開発へ行くことにした。彼は熱しやすく冷めやすい性格だと人は評す。一理あるだろう。

 志方は新しい仕事しか頭にないようであった。彼もまた夢を追う人であった。

 さすがに吟子は志方より冷静であったろう。マンガン採掘など素人ができることではない。吟子は止めたに違いないが志方の意志は固かった。

 

 あとさきになるが、内地からやってきた志方の姉夫婦は、女子を産むと相次いで死んでしまった。他にもこの劣悪な環境に耐えられず、亡くなる人はあとを絶たなかった。吟子夫婦は姪にあたる遺児にトミと名を付けて養女とした。その後トミは吟子と暮らし、吟子の最期を看取った。

 

 吟子夫婦は生まれたばかりのトミを背負って奥地、国縫に向かった。しかし、成功するはずがないのは初めからわかっていた。半年を待たずして吟子夫婦とトミはそこを出ることにした。しかし、もとの開拓地、インマヌエルの丘で生活するつもりはなかった。志方は瀬棚町に出て町暮らしを計画した。もともと志方は吟子を開拓地に迎えたくなかったようだ。極寒と飢えと熊や蚊とマラリヤの惨禍にみちた地に、女医第一号の栄光に輝く有能な女性、しかも丈夫ではない妻を連れていくには忍びなかったのだ。志方の吟子への愛は敬愛に近かった。志方は吟子には下男のように仕えたという。

 

 吟子には志方の愛が痛いほどわかっていた。吟子もまた夫のビジョンに身を捨てて尽力する思いがたぎっていた。割り切って、渡道せずあるいは離婚して、東京で最初の使命を続けていたら、吟子はもっと大きな働きが出来たかも知れない。

 しかし吟子は自分を捨てた。

 瀬棚の顕彰碑には吟子の愛唱聖句が刻まれているとはすでに述べた。

 

『人 其の友の為に己の命を損なう

 之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節)

 

 吟子は医術を持って、またキリストの愛を持って、地域社会の人たちを愛し仕えたのであるが、己を捨てる愛の対象者の中に夫志方之善が、最初に入っていたのではないか。夫への愛は神の愛による献身だと自覚していたと思う。

 

 

Category : 利根川の風

  • 2017.01.28 Saturday - 10:01

利根川の風 その10 日本の女医第一号 ★後半生 風の真中で

後半生 風の中で

 

★若き伝道者、志方之善との出会い

 いよいよ吟子の名声は高まり大東京のど真ん中で押しも押されぬ名士となった。本業の医業と心の支えとしての信仰生活、そして熱情を燃やすに足る矯風会を始めとするいくつかの社会活動で、吟子の心は明るく張り合いに満ちていた。

 

 最初の医院ではどうにも手狭になりすぎたので、十九年秋に下谷西黒門町にひとまわり大きな家を借りて移転した。看護婦、下働きの男性、女性、車夫も雇った。今や一国一城のあるじである。時に四十歳になっていた。

 しかし吟子の生涯はここで大きく向きを変えることになる。吟子自らが選んだのだが、神が吟子を捉えて新しい道の先頭に立っていると思えてならない。だが、それは前半生にも勝る苦難の道であった。

 

 終焉の地である墨田区向島、源森橋のたもとに立つ案内板は語る。

『開業もまもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す十四歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治二七年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めてこの地に開業したのは志方と死別してまもない明治四一年十二月、五十八歳の時でした。晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました』

 

 案内板が、『開業もまもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです』、『晩年は不遇でした――』と語るのに不服を感じる。安穏とは何か、不遇と決めつける基準はなにかと問いたい。こうした偉人を、単なる世の秤の上に乗せて、幸福な人、不幸な人と色分けするのはどうであろうか。

 吟子の後半生を追いかける。

 

 人の日常はある日突然、一瞬の出来事によって大きく変わる。出来事をもたらすものは人災、天災、あるいは人との出会いがある。吟子の前に、一人の青年が現れた。突然、天から降りてきたようであった。もっとも天使のような容貌ではなく、もさっとした大男、九州は熊本の男児で、志方之善(しかたゆきよし)といった。

 志方は同志社に学び新島襄から洗礼を受け、大久保慎二郎牧師の助手として秩父伝道の帰途に下谷に寄ったのである。吟子はかねてから懇意の徳富蘇峰・蘆花兄弟の実姉大久保慎二郎夫人に彼を一晩泊めてほしいと依頼されていた。ちなみに徳富蘇峰・蘆花兄弟は婦人矯風会の創始者矢島楫子の甥たちである。大久保夫人はその後矯風会の代表となる久布白落実の母である。

 

 吟子と志方は一瞬のうちに恋に落ちたと世の人は非難めいて言う。吟子については、恋情に負けて、医師の座も社会活動の栄光の立場も投げ捨てて、十四も年下の男を北海道くんだりまで追いかけて行き、悲惨極まる年月の果て、無一物になりはててひっそりと東京に引き上げ、墨田区の片隅で息を引き取ったと、嘲笑めいた噂を立てる。

 人はそれぞれの価値観から自分流の判断を下す。「自分が見たいように見」、聞きたいように聞き、書きたいように書く。悪人が善人になったり、その逆があったりする。歴史は超然とその評価に任せ、関知しない。

 

 私は、私なりに吟子像を描きたい。史実のすきまに突っ込みを入れたい。突っ込みに使うメスは、吟子の人となりへの愛であり、吟子への信頼と友情であり、吟子を導かれる神への信仰である。

 

 明治二三年夏、吟子三九歳のある日、大久保夫人が紹介して寄こした志方之善が荻野医院を訪れた。二六歳の九州男児は小山の様な体躯をすぼめて吟子の前にかしこまった。全身キリスト教の伝道熱に燃える同志社の学生志方は、吟子の敬愛する海老名弾正牧師と同県人で面識もあるという。

 

 この時、確かに吟子の内に固く立っていた長年にわたる男性不信の垣根が一度に壊れたと言えよう。吟子は目を細めて、熱弁をふるう志方の話を母親のような心持ちで聴き入った。一方、志方はその名を知らぬ者のない女傑吟子に直接会えたことで感情は激しく昂り、吟子の柔らかな雰囲気に包みこまれ敬愛の色濃い親しみを抱いた。ごく短期間のうちに二人の感情は一つになった。周囲はそれを常軌を逸した不釣り合いな恋だと激しく批判した。

 

 結婚の意志を固め、親しい人たちに知らせたが、日ごろ吟子を応援してきた人たちはだれ一人として、理解し賛成しなかった。俵瀬の実家は無論だが、松本万年・荻江父娘も、志方を吟子に紹介した大久保牧師夫妻も、さらには海老名弾正牧師も反対の手紙をよこした。四面楚歌とはこのことではないか。しかし二人はひるまなかった。もともと吟子は反対されることには慣れていた。女医を目指した時に比べれば取るにたりなかった。二人は熊本の志方の生家で式を挙げた。

 

 まもなく志方は学業半ばで北海道の開拓に行きたいと言い出した。キリスト教の理想郷を建設しようというのである。志方は瀬棚郡利別(としべつ)原野に二百町歩を借りることができた。北海道の南西部渡島半島の日本海側である。そこへ丸山という二十歳の青年と入植していった。吟子との結婚にも勝る冒険であり無謀ともいえた。しかし志方は理想に燃えていた。九州男児の一徹と信仰による希望は周囲の声を聞く耳をふさいでしまった。

 

 吟子は若き夫の唐突で非現実的なビジョンをどのように受け止めたのだろうか。おそらく心からではないにしても、賛成したのではないだろうか。熱っぽく語る夫の夢を聞きながら、しだいに共感が増し、やがて自分の夢としたのだ。できることならすぐにでもいっしょに飛んでいきたいとさえ思った。

 

 考えるに、吟子という女性は現状に留まるタイプではないのだ。どんなに困難が待ち構えていようと、自分で納得できることなら突き進んでいく人だ。未知の世界へ冒険するエネルギーがたぎっているのだ。小柄で痩身な体は全身が希望の風なのだ。女医もその一つだったと思う。一つ達成するとまたもっと違う目標を発見し、前へ前へ、上へ上へと向かっていく、そんな人に思えてならない。そのためには今の名誉も地位も勘定に入れない。吟子はまもなく夫の冒険をそのまま受け入れたのではないだろうか。

 

 しかし当面は東京に残って資金援助などで協力することにした。しかし、吟子の思いはすでに北海道に走っていた。そうそうに医院を畳んだ。あれほどの辛苦のあげくに手にした医院をあっさりと閉じてしまったのだ。周囲は唖然として言葉もなかったろう。結婚のせいにして吟子を非難した。確かに常識では考えられない行動である。そもそも常識の範囲内の人だったら、婚家を飛び出しては来なかった。男の中で医学を学びはしなかった。道なき女医の制度を作らせはしなかった。吟子は英雄なのだ。凡人に英雄の心が分かるはずはない。

 

 吟子は幸いにも係わっていた明治女学校の舎監になって渡道する備えに入った。かつての支援者たちは遠のいて行った。吟子は再び孤独の道を行くことになった。しかし今度は夫がいる。同時に神への信仰が燃えていた。それに、医者としての力がある。開拓地には医者はいないだろう、しかし病人はいる。都会よりももっと医者は必要だろう。その人たちを助けることができる。夫の開拓事業のそばで、キリストの愛と医術をもって地域の人々に仕えたい。吟子の夢も膨らんだ。

 

Category : 利根川の風

  • 2017.01.08 Sunday - 13:11

利根川の風 その9 日本の女医第一号 婦人矯風会と矢島梶子、明治女学校

★婦人矯風会と矢島梶子、明治女学校

 

 矯風会の中心人物である矢島楫子については、かの名門女子学院の初代院長であり明治、大正の女子教育と社会運動家としてその名を海外にまで馳せた熱血女子であるから、知らぬ人はいないだろうが、多少紹介する。

楫子もまた封建制度、男尊女卑の苦杯を飲み干して立ち上がった人である。明治元年三五歳を自分の「新生元年」と名付けて屈辱の婚家を飛び出して以来、大正十四年九二歳で天に帰るまで、女性の福祉のために一生をささげた優しき猛女である。

 

 天保四年、一八三三年熊本生まれ。二五歳で富豪林七郎の後妻として嫁いだ。夫は儒学者で維新十傑の一人横井小楠の弟子であった。しかし家庭内では暴君、酒乱。時に白刃を振り上げた。楫子は今でいえばDVに苦しみ、ついに半死半生で婚家を飛び出した。数年後上京して病気の兄直方の家庭を取りしきりながら教員伝習所に通い、明治六年に学制が施行されると芝の桜川小学校に採用された。明治十四年桜川女学校の校主代理に就任した時、楫子は生徒たちに「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と言って校則は作らなかったという。このエピソードは忘れ難い。教育者として資質が美しく匂ってくる。

 

 明治十二年、築地新栄教会でディビッド・タムソンから洗礼を受けた。明治十九年には東京婦人矯風会を組織して初代会長に就いた。二六年、楫子六十歳のとき全国組織を結成し、会頭になった。以後、活動は海を越え、明治三九年にはバンコク矯風会大会に出席しルーズベルト大統領と会見した。楫子七四歳である。その後も海外に出かけ、八九歳で三回目の渡米を果たした。楫子の姉たち、また親族からは社会に名を馳せた有名人が多数輩出されている。書き出したら相当の紙面が要るだろう。

 

 楫子の一生は三浦綾子の評伝『我弱ければ』にまとめられている。楫子は自分自身を筆頭に、人間の罪に対する《弱さ》を知り抜いていた人であった。ついで吟子は大日本婦人衛生会幹事に就任し、さらに明治女学校の生理衛生担当教師になり、校医になった。

 

 ここで、少し明治女学校と係わった人たちに言及する。

 

 千代田区六番町にあった学校跡をたずねてみた。

 東京は連日猛暑日を更新しついに37、7度まで行きつき天地が溶けるような、猛暑日の最中であった。明治女学校は、高校生の頃、島崎藤村に熱中したことから覚えていたが、まさか今ごろ荻野吟子のことで再会するとは思っても見なかった。懐かしさがよみがえり、すっかり忘れていた青春の血が噴き上げてきた。

明治女学校は明治一八年に開校し、明治四二年には閉校したが、そのわずかな二三年間、全国に名を馳せた、しかもきらびやかに存在を示した学び舎で、まるで夜空を焦がす花火、あるいは一日だけの朝顔、聖書で言えばヨナの日よけになったとうごまの木のようだ。明治の世が、特に女性たちに見せた真夏の夜の夢ともいえる、近代日本の女子教育の先駆けとなった学校である。

 

 創立者は木村熊二牧師、二代目はかの岩本善治(彼の妻が小公子などの翻訳で有名な若松賤子)であり、日本初の女性誌『女学雑誌』が刊行された。この雑誌の投稿者である文学者たち、なかでも島崎藤村も教壇に立った。初期の講師の顔ぶれは華やかである。音楽は幸田幸子(幸田露伴の妹・幸田文の叔母だと記憶する)英語は津田梅子、若松賤子、医学を荻野吟子(ここに吟子の顔が見える)。島田三郎、内村鑑三、植村正久まで教壇に立ったこともあった。

 

 生徒からは羽仁もと子が出た。この人こそ明治女学校が生んだ最高の偉人ではないだろうか。実践家もと子が夫君と建設した自由学園と女性誌『婦人之友』は今に至るまで栄え続けている。

 

 若松賤子も忘れられない。会津藩の悲劇をまともに経験し、孤児同然の身ながら不思議な出会いを重ねて横浜のフェリス女学院の一期生として学び、教師になり、英語力と文学の資質を用いて『小公子』などを翻訳した。若くして亡くなったのが惜しくてならない。羽仁もと子も若松賤子もキリストの信仰に生きぬいた人たちである。

彼女たち他、明治女学校の様子を詳しく書いているのが相馬黒光の『黙多』である。読み出したら止められない本である。この人のことも書けば一冊になるだろう。しかし、キリストの信仰を捨ててしまったことは嘆かざるを得ない。

 

 さて、今は無き明治女学校の跡であるが、そこに千代田区の建てた銘板があると知ったので、行ってみた。千代田区六番町である、JRでは四谷と市ヶ谷の間になる。土地勘であの辺りだと想像はつくが、その一地点を探すのは容易ではない。案内の通り、わざわざ市谷から有楽町線に乗って一駅の麹町で下車し、出口番号も間違いなかったのに、いざ、地上に出るとわからない。地番名も手にしているのに、なぜかそこだけ逃げてしまうのだ。『文人通り』というわかりやすい通り名もついている。まさにそこを歩いているのに、一軒の商店で訊いてみると、ここは確かに文人通りですがと言って、スマホで探してくださったが、ついに分らなかった。

 

 しばらく行くと、ようやく目指す地番名が現れてきた。うろうろしていると、自転車を引く初老の女性が声を掛けてこられた。「明治女学校ですか」といわれた。ずばり明治女学校の名が聞こえてきて、顔に血が上るのを感じた。「そこですよ、私は羽仁もと子の集まりの帰りです」とも言われた。なぜかその女性はとてもうれしそうだった。ついに銘板に行き当たった。マンションの植え込みの中に立っていたのだ。真紅の二〇センチ四方の千代紙の様な版で、菱形にしてあった。しかし、人工的な銘板だけとはなんとも物足りなく悲しい。建物の一部とか土台とか、なにか当時のものがすこしでもあれば現実感が沸くのだが、跡形もない。資料を思い出しながら想像するしかない。歳月の無常、歴史の一方的な流れには逆らえないのだろう。

 

 吟子は明治二二年に、講師、校医になり、女子教育の現場に立つのである。さらに、明治二五年には医院を畳んでここの舎監に就いている。この三年の間には、吟子の生き方を根底から変える大きな出来事があった。

 

 

Category : 利根川の風

<< | 2/43PAGES | >>