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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2017.10.21 Saturday - 11:33

サムエル記を愛して その9  

サムエル記第一・第九章 サムエルとサウルとの出会い

 

 この章からサムエル記の風景はがらりと一変します。馴染みのない新人が登場します。

『ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った』1、2節。

 

 読者には、ああ、このサウルという人がキーパーソンだな、たぶんイスラエルの初代の王になる人に違いないと推測が出来ます。そんな書き出しです。しかし、サムエルが仲介者になるはずですから、見知らぬ二人がどのようにして出会い、どんなプロセスを得て、国中の人がサウルを王として認めるようになるのか、そこに興味が沸いてきます。

 

『王を立てよ』とは神様のご命令ですから、しばらくは神さまが直接に事態を引っ張っていくことになると、それも推察できます。はたして、その通り神様は日常生活の出来事を通してサムエルとサウルの出会いを創ります。その不思議な道のりを追ってみます。

 

 サウルは父の言いつけで行方不明の雌ろばを探しに行く→従者の助言で町の預言者に訊くことにする→ちょうどサムエルが来ることになっていた→サウルとサムエルの初対面(主はサムエルにサウルが来ることを前日に告げていた)→サムエルはサウルこそが選ばれた王であることを確認→サウルはもてなしを受けサムエルと会食。

 

 サムエルとサウルが町の有力者たちの前で食事の席に着いたことで、サウルが特別な人であることが人々に知れ渡ります。神の道備えに深い配慮を感じます。

 

サムエル記第一・第十章 公認される初代の王サウル

 

 神は慎重にことを進めます。一見、あまり興味をそそられない記事が続きますので、ちょっとたいくつを覚えますが、まず、サウル自身が、自分は神から選ばれた王になることと、民が無名の若者が自分たちの王になることを納得するのは容易ではありません。現代のように世界の隅々まで自宅に居ながらにしてしかも映像で見ることができ、多くの解説を聞ける時代とは天と地ほど違います。

 

 神様は人心をよく御存じで、忍耐強く慎重に一つ一つていねいにことを進めます。

 サムエルはひそかにサウルに油を注いで『主が民の君主として、あなたに油をそそがれた』1節、と告げます。ところが、サウル自身も寝耳に水のことなので混乱します。納得して受け入れるまでには段階が要るのです。何よりもこのことが神から出たことだとわかるために、サムエルはサウルがその日一日に起こることを詳細に予言します。その通りに、ギブアでサウルは激しい主の霊を体験し、周囲の人がいぶかるほどに変えられます。

 

 一方サムエルはミツパにイスラエルを招集し、神は民の要求通り、イスラエルに王を立てることを許されたから、これからくじを使って王を決めると宣言します、19節。

 

 十二部族は部族ごとにくじを引くと、ベニヤミン族が取り分けられ、ついにキシュの子サウルに白羽の矢が立つのです。サムエルは万民の前で『見よ。主がお選びになったこの人を』と叫んでサウルを名指し紹介します。それに対して民はいっせいに『王さま ばんざい』24節、と歓声をあげてサウルを認めます。


  • 2017.10.04 Wednesday - 16:54

サムエル記を愛して その8

しばらく間が空いてしまいました。大きなイベントに参加したり、

その後夏バテに見舞われて体調不良が続きました。

10月の声を聞いて、心身が立ち上がってきました。

これに懲りずにお立ち寄りくださいませ。

 

 

サムエル記第一・第八章 晩年のサムエルと王制を求める民の声

 

 この章のどこに希望の光が見えるでしょうか。神の恵みを探せるでしょうか。読んでいて気がふさいできます。民と神とサムエルのそれぞれの悩み苦しみ、失望が激しくぶつかり合っています。元凶は人心の変化です。世俗化です。民はサムエルと後継の息子たちに飽き足りず、神の愛による統治の手を払いのけ、王制を求めたのです。族長ではなく士師でもなく、王様を求めたのです。神信仰は二の次で、政治的軍事的支配者を求めたのです。   

イスラエルの歴史にはなかった新しい発想が民の中に生まれ、民はそれを主張したのです。確かにサムエルは民の先頭に立つにはあまりに年老いて頼りなげに見えたのでしょう。跡継ぎの息子たちは語るに足らず、悪事を重ねるばかりでした。民の怒りや失望ももっともです。先頭に立つ者があまりに不適格なら政権を交代してもらうばかりです。

 

『今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください』5節。こんなにあからさまに自分と息子たちを拒否されてはサムエルも立つ瀬がありません。『そのことばはサムエルの気に入らなかった』6節。サムエルは不愉快なのです。傷ついてしまったのでしょう。サムエルは晩年になって人生の無常風に曝されました。

 

 一人では抱えきれない重荷を、サムエルは主のみ前に持ち出します。サムエルは祈る人です。単に個人の憂いではない、神の民イスラエルの一大事です。このことを神はなんとおぼし召すのか。サムエルは私情を置いて預言者として士師として、主に祈るのです。意外や意外、神からはサムエルの思いを越えた答えがありました。『この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ』7節、なのです。神は、サムエルの心情をくみ取り、切々と慰めるように言い聞かせます。この民はあなたを退けたのではない、わたしを、神を、退けたのだ、出エジプト以来、彼らのした事といえば、わたしを捨ててほかの神々に仕えたことだけだったと。サムエルより先に失望し嘆いていたのは神なのです。

 

 神はため息の塊のようなお心の内を語ります。まるで被害者の先輩と後輩の分かち合いのようです。しかし神は同病相哀れむにとどまるお方ではありません。預言者サムエルに、王とは何か、王は民に何を求めるのか、そのきびしい義務を残らず告げ知らせよと命じます。

 

 サムエルは、王制とは王の奴隷になって軍務に服すること、畑や家畜の収穫の十分の一を納税すること、家族、使用人を労働力として提供することなど、今までになかった過大な義務を負うことになると告げ、それでも王がほしいかと民に迫ります。民はそれだけ聞かされてもなお『いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません』19節。しっかり語った神のことばとしっかり受けた民の言葉は神に受け入れられました。ついに神はおおせられました『彼らにひとりの王を立てよ』22節。

 

 さあ、鶴の一声、いや、神の一声です。以後、イスラエルは王制を導入し、軍事国家の色あいを濃くしていきます。しかし、王を選ぶのは神です。まだ神による政治国家、神政政治です。この後、王位は継承されていくことになります。イスラエル始まって以来の方向転換にあたって、最初の王になる人はだれでしょう。サムエルは早く言えば強制引退です。新しい王を指名して座を譲ることになります。

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