calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< January 2017 >>

profile

selected entries

categories

archives

recommend

links

search this site.

sponsored links

others

mobile

qrcode

powered

みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

Category : -

  • 2017.01.28 Saturday - 10:01

利根川の風 その10 日本の女医第一号 ★後半生 風の真中で

後半生 風の中で

 

★若き伝道者、志方之善との出会い

 いよいよ吟子の名声は高まり大東京のど真ん中で押しも押されぬ名士となった。本業の医業と心の支えとしての信仰生活、そして熱情を燃やすに足る矯風会を始めとするいくつかの社会活動で、吟子の心は明るく張り合いに満ちていた。

 

 最初の医院ではどうにも手狭になりすぎたので、十九年秋に下谷西黒門町にひとまわり大きな家を借りて移転した。看護婦、下働きの男性、女性、車夫も雇った。今や一国一城のあるじである。時に四十歳になっていた。

 しかし吟子の生涯はここで大きく向きを変えることになる。吟子自らが選んだのだが、神が吟子を捉えて新しい道の先頭に立っていると思えてならない。だが、それは前半生にも勝る苦難の道であった。

 

 終焉の地である墨田区向島、源森橋のたもとに立つ案内板は語る。

『開業もまもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す十四歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治二七年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めてこの地に開業したのは志方と死別してまもない明治四一年十二月、五十八歳の時でした。晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました』

 

 案内板が、『開業もまもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです』、『晩年は不遇でした――』と語るのに不服を感じる。安穏とは何か、不遇と決めつける基準はなにかと問いたい。こうした偉人を、単なる世の秤の上に乗せて、幸福な人、不幸な人と色分けするのはどうであろうか。

 吟子の後半生を追いかける。

 

 人の日常はある日突然、一瞬の出来事によって大きく変わる。出来事をもたらすものは人災、天災、あるいは人との出会いがある。吟子の前に、一人の青年が現れた。突然、天から降りてきたようであった。もっとも天使のような容貌ではなく、もさっとした大男、九州は熊本の男児で、志方之善(しかたゆきよし)といった。

 志方は同志社に学び新島襄から洗礼を受け、大久保慎二郎牧師の助手として秩父伝道の帰途に下谷に寄ったのである。吟子はかねてから懇意の徳富蘇峰・蘆花兄弟の実姉大久保慎二郎夫人に彼を一晩泊めてほしいと依頼されていた。ちなみに徳富蘇峰・蘆花兄弟は婦人矯風会の創始者矢島楫子の甥たちである。大久保夫人はその後矯風会の代表となる久布白落実の母である。

 

 吟子と志方は一瞬のうちに恋に落ちたと世の人は非難めいて言う。吟子については、恋情に負けて、医師の座も社会活動の栄光の立場も投げ捨てて、十四も年下の男を北海道くんだりまで追いかけて行き、悲惨極まる年月の果て、無一物になりはててひっそりと東京に引き上げ、墨田区の片隅で息を引き取ったと、嘲笑めいた噂を立てる。

 人はそれぞれの価値観から自分流の判断を下す。「自分が見たいように見」、聞きたいように聞き、書きたいように書く。悪人が善人になったり、その逆があったりする。歴史は超然とその評価に任せ、関知しない。

 

 私は、私なりに吟子像を描きたい。史実のすきまに突っ込みを入れたい。突っ込みに使うメスは、吟子の人となりへの愛であり、吟子への信頼と友情であり、吟子を導かれる神への信仰である。

 

 明治二三年夏、吟子三九歳のある日、大久保夫人が紹介して寄こした志方之善が荻野医院を訪れた。二六歳の九州男児は小山の様な体躯をすぼめて吟子の前にかしこまった。全身キリスト教の伝道熱に燃える同志社の学生志方は、吟子の敬愛する海老名弾正牧師と同県人で面識もあるという。

 

 この時、確かに吟子の内に固く立っていた長年にわたる男性不信の垣根が一度に壊れたと言えよう。吟子は目を細めて、熱弁をふるう志方の話を母親のような心持ちで聴き入った。一方、志方はその名を知らぬ者のない女傑吟子に直接会えたことで感情は激しく昂り、吟子の柔らかな雰囲気に包みこまれ敬愛の色濃い親しみを抱いた。ごく短期間のうちに二人の感情は一つになった。周囲はそれを常軌を逸した不釣り合いな恋だと激しく批判した。

 

 結婚の意志を固め、親しい人たちに知らせたが、日ごろ吟子を応援してきた人たちはだれ一人として、理解し賛成しなかった。俵瀬の実家は無論だが、松本万年・荻江父娘も、志方を吟子に紹介した大久保牧師夫妻も、さらには海老名弾正牧師も反対の手紙をよこした。四面楚歌とはこのことではないか。しかし二人はひるまなかった。もともと吟子は反対されることには慣れていた。女医を目指した時に比べれば取るにたりなかった。二人は熊本の志方の生家で式を挙げた。

 

 まもなく志方は学業半ばで北海道の開拓に行きたいと言い出した。キリスト教の理想郷を建設しようというのである。志方は瀬棚郡利別(としべつ)原野に二百町歩を借りることができた。北海道の南西部渡島半島の日本海側である。そこへ丸山という二十歳の青年と入植していった。吟子との結婚にも勝る冒険であり無謀ともいえた。しかし志方は理想に燃えていた。九州男児の一徹と信仰による希望は周囲の声を聞く耳をふさいでしまった。

 

 吟子は若き夫の唐突で非現実的なビジョンをどのように受け止めたのだろうか。おそらく心からではないにしても、賛成したのではないだろうか。熱っぽく語る夫の夢を聞きながら、しだいに共感が増し、やがて自分の夢としたのだ。できることならすぐにでもいっしょに飛んでいきたいとさえ思った。

 

 考えるに、吟子という女性は現状に留まるタイプではないのだ。どんなに困難が待ち構えていようと、自分で納得できることなら突き進んでいく人だ。未知の世界へ冒険するエネルギーがたぎっているのだ。小柄で痩身な体は全身が希望の風なのだ。女医もその一つだったと思う。一つ達成するとまたもっと違う目標を発見し、前へ前へ、上へ上へと向かっていく、そんな人に思えてならない。そのためには今の名誉も地位も勘定に入れない。吟子はまもなく夫の冒険をそのまま受け入れたのではないだろうか。

 

 しかし当面は東京に残って資金援助などで協力することにした。しかし、吟子の思いはすでに北海道に走っていた。そうそうに医院を畳んだ。あれほどの辛苦のあげくに手にした医院をあっさりと閉じてしまったのだ。周囲は唖然として言葉もなかったろう。結婚のせいにして吟子を非難した。確かに常識では考えられない行動である。そもそも常識の範囲内の人だったら、婚家を飛び出しては来なかった。男の中で医学を学びはしなかった。道なき女医の制度を作らせはしなかった。吟子は英雄なのだ。凡人に英雄の心が分かるはずはない。

 

 吟子は幸いにも係わっていた明治女学校の舎監になって渡道する備えに入った。かつての支援者たちは遠のいて行った。吟子は再び孤独の道を行くことになった。しかし今度は夫がいる。同時に神への信仰が燃えていた。それに、医者としての力がある。開拓地には医者はいないだろう、しかし病人はいる。都会よりももっと医者は必要だろう。その人たちを助けることができる。夫の開拓事業のそばで、キリストの愛と医術をもって地域の人々に仕えたい。吟子の夢も膨らんだ。

 

Category : 利根川の風

  • 2017.01.08 Sunday - 13:11

利根川の風 その9 日本の女医第一号 婦人矯風会と矢島梶子、明治女学校

★婦人矯風会と矢島梶子、明治女学校

 

 矯風会の中心人物である矢島楫子については、かの名門女子学院の初代院長であり明治、大正の女子教育と社会運動家としてその名を海外にまで馳せた熱血女子であるから、知らぬ人はいないだろうが、多少紹介する。

楫子もまた封建制度、男尊女卑の苦杯を飲み干して立ち上がった人である。明治元年三五歳を自分の「新生元年」と名付けて屈辱の婚家を飛び出して以来、大正十四年九二歳で天に帰るまで、女性の福祉のために一生をささげた優しき猛女である。

 

 天保四年、一八三三年熊本生まれ。二五歳で富豪林七郎の後妻として嫁いだ。夫は儒学者で維新十傑の一人横井小楠の弟子であった。しかし家庭内では暴君、酒乱。時に白刃を振り上げた。楫子は今でいえばDVに苦しみ、ついに半死半生で婚家を飛び出した。数年後上京して病気の兄直方の家庭を取りしきりながら教員伝習所に通い、明治六年に学制が施行されると芝の桜川小学校に採用された。明治十四年桜川女学校の校主代理に就任した時、楫子は生徒たちに「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と言って校則は作らなかったという。このエピソードは忘れ難い。教育者として資質が美しく匂ってくる。

 

 明治十二年、築地新栄教会でディビッド・タムソンから洗礼を受けた。明治十九年には東京婦人矯風会を組織して初代会長に就いた。二六年、楫子六十歳のとき全国組織を結成し、会頭になった。以後、活動は海を越え、明治三九年にはバンコク矯風会大会に出席しルーズベルト大統領と会見した。楫子七四歳である。その後も海外に出かけ、八九歳で三回目の渡米を果たした。楫子の姉たち、また親族からは社会に名を馳せた有名人が多数輩出されている。書き出したら相当の紙面が要るだろう。

 

 楫子の一生は三浦綾子の評伝『我弱ければ』にまとめられている。楫子は自分自身を筆頭に、人間の罪に対する《弱さ》を知り抜いていた人であった。ついで吟子は大日本婦人衛生会幹事に就任し、さらに明治女学校の生理衛生担当教師になり、校医になった。

 

 ここで、少し明治女学校と係わった人たちに言及する。

 

 千代田区六番町にあった学校跡をたずねてみた。

 東京は連日猛暑日を更新しついに37、7度まで行きつき天地が溶けるような、猛暑日の最中であった。明治女学校は、高校生の頃、島崎藤村に熱中したことから覚えていたが、まさか今ごろ荻野吟子のことで再会するとは思っても見なかった。懐かしさがよみがえり、すっかり忘れていた青春の血が噴き上げてきた。

明治女学校は明治一八年に開校し、明治四二年には閉校したが、そのわずかな二三年間、全国に名を馳せた、しかもきらびやかに存在を示した学び舎で、まるで夜空を焦がす花火、あるいは一日だけの朝顔、聖書で言えばヨナの日よけになったとうごまの木のようだ。明治の世が、特に女性たちに見せた真夏の夜の夢ともいえる、近代日本の女子教育の先駆けとなった学校である。

 

 創立者は木村熊二牧師、二代目はかの岩本善治(彼の妻が小公子などの翻訳で有名な若松賤子)であり、日本初の女性誌『女学雑誌』が刊行された。この雑誌の投稿者である文学者たち、なかでも島崎藤村も教壇に立った。初期の講師の顔ぶれは華やかである。音楽は幸田幸子(幸田露伴の妹・幸田文の叔母だと記憶する)英語は津田梅子、若松賤子、医学を荻野吟子(ここに吟子の顔が見える)。島田三郎、内村鑑三、植村正久まで教壇に立ったこともあった。

 

 生徒からは羽仁もと子が出た。この人こそ明治女学校が生んだ最高の偉人ではないだろうか。実践家もと子が夫君と建設した自由学園と女性誌『婦人之友』は今に至るまで栄え続けている。

 

 若松賤子も忘れられない。会津藩の悲劇をまともに経験し、孤児同然の身ながら不思議な出会いを重ねて横浜のフェリス女学院の一期生として学び、教師になり、英語力と文学の資質を用いて『小公子』などを翻訳した。若くして亡くなったのが惜しくてならない。羽仁もと子も若松賤子もキリストの信仰に生きぬいた人たちである。

彼女たち他、明治女学校の様子を詳しく書いているのが相馬黒光の『黙多』である。読み出したら止められない本である。この人のことも書けば一冊になるだろう。しかし、キリストの信仰を捨ててしまったことは嘆かざるを得ない。

 

 さて、今は無き明治女学校の跡であるが、そこに千代田区の建てた銘板があると知ったので、行ってみた。千代田区六番町である、JRでは四谷と市ヶ谷の間になる。土地勘であの辺りだと想像はつくが、その一地点を探すのは容易ではない。案内の通り、わざわざ市谷から有楽町線に乗って一駅の麹町で下車し、出口番号も間違いなかったのに、いざ、地上に出るとわからない。地番名も手にしているのに、なぜかそこだけ逃げてしまうのだ。『文人通り』というわかりやすい通り名もついている。まさにそこを歩いているのに、一軒の商店で訊いてみると、ここは確かに文人通りですがと言って、スマホで探してくださったが、ついに分らなかった。

 

 しばらく行くと、ようやく目指す地番名が現れてきた。うろうろしていると、自転車を引く初老の女性が声を掛けてこられた。「明治女学校ですか」といわれた。ずばり明治女学校の名が聞こえてきて、顔に血が上るのを感じた。「そこですよ、私は羽仁もと子の集まりの帰りです」とも言われた。なぜかその女性はとてもうれしそうだった。ついに銘板に行き当たった。マンションの植え込みの中に立っていたのだ。真紅の二〇センチ四方の千代紙の様な版で、菱形にしてあった。しかし、人工的な銘板だけとはなんとも物足りなく悲しい。建物の一部とか土台とか、なにか当時のものがすこしでもあれば現実感が沸くのだが、跡形もない。資料を思い出しながら想像するしかない。歳月の無常、歴史の一方的な流れには逆らえないのだろう。

 

 吟子は明治二二年に、講師、校医になり、女子教育の現場に立つのである。さらに、明治二五年には医院を畳んでここの舎監に就いている。この三年の間には、吟子の生き方を根底から変える大きな出来事があった。

 

 

Category : 利根川の風

| 1/1PAGES |