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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2016.12.28 Wednesday - 14:55

利根川の風 その8 医院大繁盛の中で、洗礼を受け、婦人矯風会活動へ 

★医院大繁盛の中で、洗礼を受け、婦人矯風会活動へ 

 

 吟子は多忙ではあったが患者一人一人に十分な医術を施し、治療の成果を確認し、医師として充実した日々を送っていた。初めて心に憂いなく順調な人生の手ごたえを実感した。満足といっていい日々であった。患者の対応も板に着き、患者たちも、特に性病に付きまとわれている女性たちは、医者が同じ女性であることから気を楽にし、ぽろぽろと生活の様子を話すようになり、吟子は彼女たちの私生活や心の内を知るようになった。

 

 思えば吟子はわずか二十歳で独り身になって以来、一筋に勉学の道を走ってきたのだから、世間の実態は知る所ではなかった。医師になって初めて一般庶民の生活を知ったのだった。患者の中には夜の街の女性たちも囲われ女性もいた。そうした女性たちのあからさまな生活ぶりや切ない身の上話や心持ちを知るようになると、吟子の心には、一通りの同情では済まされない、受け入れがたい感情が生まれ、わだかまってくるのだった。

 

 もっと強い意志を持って生きてほしい、自分の態度を変えれば病気も治るのにと、歯がゆくてならないのだ。生き方一つで治る病もあるのだ。診察して施術して薬を出しても、本人の自覚が変わらないからまた病が高じてしまう。泣きついてくるとそれをまた診察するのだ。終わりなき治療の現状に吟子はむなしさを感じないわけにはいかなかった。

何のための医術か、自分は何をしているのか、こんなことのために人生を賭けてきたのでないと怒りを覚えることもあった。

――もっと役に立ちたい、役に立てたい、役に立つことをしたい――

 吟子は自分でもわからない渇望にもだえることもあった。

 

 不完全燃焼の自分をもてあまし、満たされない思いを抱きながら、吟子はキリスト教の教会をたずねた。以前、古市静子に誘われて初めて接したキリスト教は、あの時以来吟子の心の底から消えることはなかった。幸いにも、新富座での説教者海老名弾正が近くの本郷教会の牧師をしていた。吟子は日曜日になると教会へ通うようになった。まもなく洗礼を受けた。明治一九年、吟子三四歳、開業して一年ほどのことであった。

 

 日曜日の礼拝が待ち遠しくなった。渇きをいやす氷水のようであった。説教と聖書のことばは診療で疲れ切った心身の隅々にまで流れ込むいのちの水であった。吟子は夜、仕事が終わると自室にこもって聖書を書き写した。一字一句、かみ砕くように読んでは書いた。

 

 吟子の通った弓町本郷教会は今も活発に活動を続けている。建物は火災や関東大震災に遭って建て替えられ、場所も変わったが、訪ねてみた。都バスで、先の荻野医院跡の本郷三丁目の一つ先『真砂坂上』で下車してすぐであった。吟子が歩いて通ったことがうなずける。平日であったためか、正面入り口は厚い鉄の扉でしっかり施錠されてびくともしなかった。あの時代から130年も経っているのに、教会は健在、今も毎週日曜日には信徒が集まり、讃美歌と聖書を中心とした礼拝が捧げられていることに深く感動し、感謝した。日本でたった一人の女医として日本中から称賛され注目の的になったばかりの吟子が、それに溺れず奢らず、神のみ前に額ずく姿を思い浮かべて、心に染み入る涼風を感じた。

 

 吟子は当時の思想書を手当たり次第に読んだ。吟子は世の中に矛盾を感じていた。特に女性の生き方に失望を感じた。それは社会の在り方への批判に繋がった。つまり、女性の意識改革とそのための教育の必要を強く感じ始めていた。特に諸悪の根源は公娼制度にあると痛感した。こうした前近代的なことがまかり通っている社会が、政治が許せなかった。医術だけを見ていた吟子の目は社会へ向けられて行った。

 

 折しも、矢島楫子を中心にした『東京婦人矯風会』の活動が始まった。禁酒、禁煙、廃娼などの社会悪への運動である。それは吟子の琴線に触れて、新しい音色を奏でた。吟子は運動の中に飛び込んで行った。矯風会の中心女性たちは学識もキャリヤも最先端を行く才女たちであったが、吟子は女医第一号という立場から廃娼制度を強く訴えた。医師として性病に取り組む現場からの声は説得力があった。吟子は早速風俗部長になった。 

 

 一介の女医としての働きに限界を感じていた吟子の熱く広くたくましい精神は、キリスト者の信仰と矯風会の社会活動による女性救済活動で、深められ高められていった。

Category : 利根川の風

  • 2016.12.13 Tuesday - 07:45

利根川の風 その7 日本の女医第一号 後期試験合格、婦人科荻野医院誕生

★後期試験合格、婦人科荻野医院誕生

 

 明治十八年三月二十日、後期試験を経て、ついに発表の日である。吟子は合格者の中に自分の名を見つけた。『荻野吟子』、『荻野吟子』、『荻野吟子』。

 吟子は見ては目を閉じ、開いては見た。消えてしまいそうで、吹き飛んでしまいそうで、何度も何度も確かめては脳裏に刻み心に収めた。とうとう女医になったのだ。患者を看られる資格が自分のものになったのだ。吟子は一度に体中の緊張が解けて行くのを感じた。ふわふわと宙に浮くようであった。二十歳で実家に出戻って以来、実に十五年近くが過ぎ、吟子は三四歳であった。

 

 ついに日本で初めての第一号の公認女医が誕生したのである。吟子がこじ開けたこの門こそ大きな意義があった。すぐ後ろには続々と志高き有能な女性たちが押し迫っていた。彼女たちは吟子の苦闘に感謝しながらこの門をくぐり、女医ならではの貴い働きに従事した。

 ――もう、だれにも妨げられずに堂々と患者が見られる。女性たちの喜ぶ顔がみたい。彼女たちを救うのだ。さあ、一刻も早く医院を開こう――

 

 吟子は感慨に更ける暇もなく早速医院開業に着手した。事は終わったのではなく始まったのである。吟子の名はあっという間に広まり、一躍有名人になった。今までの支援者に続いて、ぞくぞくと手が差し伸べられた。しかし吟子は浮かれはしなかった。なるべく人の好意に甘えず乗らず、本郷三組町のしもた屋を借りて診察のできるように改装した。『産婦人科荻野医院』の看板が掲げられると吟子は時を忘れて見つめた。体の奥深くから喜びが込み上げてくる。それは女医の免状に勝るうれしさであった。

明日、最初に医院の戸をたたく人はだれであろう。自分にとって第一号となる患者はどんな人であろう。安心して受診できるように、信頼してもらえる女医にならねばと、吟子は患者受け入れの心構えまで考えたことだろう。

 

 今でいえばマスコミに大々的に取り上げられた女医第一号のニュースを聞きつけて、物見高い江戸っ子、東京人たちはぞくぞくと荻野医院に押し寄せてきた。「産婦人科」と看板に銘打ってはあるものの内科も外科も小児科も扱ったので、患者は女性ばかりではなかった。診察時間の制限はない。患者が来ればどんな早朝でも迎え深夜まで拒まなかった。吟子は連日連夜の診察に疲労過労に陥っても、時に持病が起きても、患者を看られる喜びと使命感に燃えて、持ち前の一途さでひたむきに従事した。

 

 地名を頼りに、場所をたずねてみた。『三組坂下交叉点』あたりとのことである。

都バス錦糸町から大塚駅行きへ乗車し湯島三丁目で下車した。近くには全国的に有名な湯島天神がある。『産婦人科 荻野医院』跡とは文献にあるだけで、実際の地に何一つ記念のものはない。案内板すらない。文京区の怠慢ではないかとさえ思う。医院があったとされるところは、上野から銀座、新橋を南北に走る中央通りの一本西を並行して走る都道452号線を南に250mほど下った地点である。そこには現在があるだけである。私がカメラを上に向けて道路標識を写しているのを、ガソリンスタンドの店員さんが、一瞬視線を向けただけであった。辺りは湯島天神を抱えている土地柄なのか、飲食店や小さな宿泊場所がびっしりと重なり合うように軒を並べていて、表通りにはない独特の雰囲気が漂っていた。

 

 急に、初老の女性と中年女性の二人組に「あの、湯島天神はどこでしょう」と声を掛けられ、すぐ先の木々のこんもりした高台を指さしたが、吟子「ぎ」の字も見当たらないのは寂しかった。無表情な都道452号線を眺めながらも、涙が滲んでならなかった。

 

 ここで余話を一つ。

 世には、日本初の女医は楠本いね子との説がある。いね子はかのオランダ人医師シーボルトの娘である。母は長崎の芸妓である。父が帰国して以後、混血児として好奇の目、蔑みの目、差別扱いされながらも男性世界の中で吟子のように道なき道を血の涙を流しつつ医術を学び、明治三年、東京築地居留地の近くで産科を開業した。

当時はまた明治政府公認の開業試験制度はなかった。いね子は吟子より二八歳上である。いね子も立派な医者であったが、公認の女医第一号は荻野吟子なのだ。ついでながらいね子を主人公にした小説『ふぉん・しいふぉるとの娘』が吉村昭氏の著にあるが、史実を丹念にたどった超大作である。

 

Category : 利根川の風

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