- 2023.07.12 Wednesday -
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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
利根川の風 その5 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯★東京女子師範学校入学 私立医学校好寿院へ入学
甲府で一年余り女子教育に誠心誠意で携わった吟子の評判は高かったが、吟子の内心は満たされてはいなかった。女医の志があるからである。吟子の心には生木のままかまどに放り込まれた丸太のように黒い煙がくすぶり続けていた。そんなとき、ある説によれば、故郷俵瀬以来強い絆で結ばれている松本万年師の娘荻江がわざわざ甲府まで吟子を訪れたという。
荻江は驚くような話をしに来たのである。 政府はついに女子の教育者を育てるために東京女子師範学校を設立することになり、松本万年と荻江はそこの教師として招聘を受けたという。すでに上京して備えている。それにつき、入学を勧めるために来たのだ、女医の道は今は閉ざされているが、世の中は大きく動いている、きっとその時が来る。その時のためにも東京へ戻って目の前に開けた新しい道を歩んでみたらどうだろうと荻江は言うのである。
荻江の親切と適切な助言は吟子の心を動かして余りがあった。吟子は応じる決意をした。 ――女性の教師を育てる国の学校ができる、その次は女性の医者の学校の番かもしれない。今、開かれた道を歩いてみよう―― 翌年明治八年、二四歳の吟子は後のお茶の水女子大になる女子師範の第一期生として入学し、四年間、寝る間も惜しんで厳しい勉学に挑戦した。努力の甲斐あって、明治十二年、吟子は主席を守り通して卒業した。二九才になっていた。約五年間の学びであった。
しかしめでたく卒業したからといって吟子は学校の教師になるつもりは毛頭ない。先の見えない五年間はどんなにつらかっただろう。それに耐えられたのは女医になるという初心があるからこそであった。 意志あるところ道ありというけれど、五年経ってもまだ女医の道はない。有るのは強烈な意志だけである。医学を学ぶための医学校は男子のみで女人禁制であった。が、立ち往生してはいられなかった。
卒業面接で幹事の永井久一郎教授に医学を学びたいのでなんとしても医学校に行きたいと志を明かした。永井教授は驚きつつも、現行制度では女子には門戸が閉ざされていることを語った。しかし吟子の鋼のような意志と健気さを前に、真摯に向き合ってくれて、医学界の実力者、陸軍軍医監石黒忠悳(ただのりあるいはちゅうとく)子爵を紹介した。石黒子爵も吟子の熱意を理解し、下谷練塀町の私塾『好寿院』に入学することができた。ないはずの道がほんのわずかではあったが備えられたのである。
しかし吟子の戦いはいよいよ本番を迎えたにすぎない。本番とは苛烈なものだ。志を抱いて上京してからすでに五年が経っていた。学びの場が与えられたとはいえ当然ながら塾生は全員男性である。しかも、女性が自分たちと同じ医学を学び医師を目指すことは到底受け入れられないことであった。自分たちの誇りが汚されたとさえ感じたのだ。吟子への嫌がらせはすさまじかったそうである。今でいえばセクハラ、パワハラの類が公然とまかり通った。レイプの危険さえあった。吟子は野獣の檻にいるようで、極度の緊張を強いられた。いつも命がけであった。
学費、生活費の問題もあった。どこからも援助はないし頼むつもりもない。すべて自立である。吟子はいくつも家庭教師をした。すぐ上の姉友子が始終心にかけて援助してくれたがそれだけではどんなに切りつめても間に合わない。幸い、女子師範を卒業していることが有利に働き、名家に出入りすることができた。中でも豪商高島嘉右衛門は後々まで吟子を支援した。
当時は乗り物がない。すべて徒歩である。真夏も寒中も雨の日も雪の中も、ひたすら歩くしかなかった。時に持病が頭をもたげ体をさいなむ時もあったが寝込んではいられない。身も心も酷使しながらの勉学であった。無我夢中とはこのことではないだろうか。なりふり構わず食うや食わずの三年間が過ぎ、吟子はついに『好寿院』を卒業したのである。医者としての知識、技術などは男性と同等に習得したから免許さえあればすぐにでも医者として開業できるのだ。明治十五年、吟子は三一歳、あの順天堂での屈辱的診察から、女医を目指して歩いたいばらの歳月は十年を超えていた。
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利根川の風 その4 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯★再び上京、国学者井上頼圀に師事、甲府の内藤塾へ
女医への志は不動のものであっても、それを家族や周囲に公言し理解を得るのは不可能であった。時代が開いていないのだ。家族の中で唯一吟子を不憫に思ってかばってくれるのは母のかよとすぐ上の姉友子だけであるが、この二人も、吟子の本心を知ったら気が狂ったとしか思わないだろう。吟子は万年父娘にはすぐに打ち明けた。しかしさすがの彼らも吟子の大胆で遠大な志には戸惑ったようだ。
ある文書に依れば、吟子は奥原晴湖に相談したとある。晴湖は女流画家として名声を馳せていた。茨城県古河の人であるが、いっとき熊谷の近く上川上村に仮住まいしていた。晴湖は芸術の分野でこの時代に考えられないような活躍をした女性である。岩倉具視、木戸孝允らにも認められ、後には明治天皇の前で揮毫したという。一時は三○○人からの弟子がおり、岡倉天心も門下生であった。吟子はこの力ある女性を信頼したのだ。晴湖は吟子の中に稀に見る学才と固い意志を見抜いたのであろう、なによりも晴湖には男性特有の女性蔑視の視線はなかったにちがいない。 一八七三年(明治六年)吟子は二二歳になっていた。
吟子は上京すると、有名な国学者井上頼圀の門に入った。紹介者が松本万年であるのか、奥原晴湖であるかはっきりしないが、吟子を女性と分かって許可した頼圀はかなり開かれた目をもった人であったと思える。明治の世になったとはいえ、たいていの男性の女性に対する見方は旧態依然、封建時代からの男尊女卑であった。女性が学問すること、まして男性と机を並べるなど、奇異としか思えなかったのだ。吟子はめきめきと頭角を現した。松本万年のもとでの学びがしっかりした基礎になっていた。吟子の才媛ぶりは東京の学界にちょっとしたセンセーションを巻き起こした。
ある時、吟子の名声を聞きつけて、甲府で女子の私塾を開いている内藤満寿子塾長が教師として招聘したいと訪ねてきた。吟子は内に秘めている女医への夢をいっときも忘れたことはないが、迷った末にしばらくして甲府行きを承諾したのである。理由があったのだ。日々学問を教授されている師井上頼圀から後妻にと結婚を申し込まれたのである。当時頼圀は妻を亡くして独り身であったから、彼にとって美と才を兼備した吟子は妻にするにはまたとない女性であったのだろう。
吟子にはその気は皆無である。吟子の心を占めるのは女医の二字だけである。吟子はていねいに断ったがもはや井上塾に留まることはできない。一度は辞退した甲府へ下るのは本意ではなかったが、かといって俵瀬には戻れない。女医になるまではなんとしても自活しなければならなかった。吟子は苦渋の回り道を選ばねばならなかった。 しかし内藤満寿子女史は大いに喜んだであろう。明治七年、二三歳のことである。 内藤塾で、吟子は漢文と歴史を教え、舎監も兼ねて女子教育に専念した。吟子には持って生まれた威厳があり、教師は適役ではなかったかと思われる。今でいうリーダーシップの能力も優れていたのではないだろうか。また手も気も抜かない一本気と熱意があった。
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