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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2016.01.25 Monday - 14:15

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その23

創世記四五章三節
ヨセフは兄弟たちに言った「私はヨセフです。父上はお元気ですか」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、こたえることができなかった。
 
 ヨセフがどうして意地悪なたくらみをして兄たちを困らせたのか、その意味はよくわかりません。しかし仮にも復讐だなどと世俗的、短絡的には考えたくありません。
 
ユダの命を懸けたとりなしを聞いて、ヨセフはもう黙ってはいられませんでした。思えば一回目のときから、ヨセフは名乗りたくてたまらなかったでしょう。一刻も早く父に自分の無事を知らせて安心させ、できれば会いたかったでしょう。しかしもうヨセフは一時の感傷に負けて前後を見失うほど未熟ではありませんでした。数々の辛酸の経験から状況を見る目や判断する力や知恵を備えていたと思われます。そして、今や時は熟したと判断したのでしょう。一番言いたかったことを涙ながらに切り出しました。


 私はヨセフです、私はヨセフです、私はヨセフですと。もうひとつ言いたかったのは、父という言葉でしょう。ヨセフは母ラケルの記憶はほとんどなかったでしょう。心から母と呼べる人はいなかったのです。複雑な家族関係の中で、安心できたのは父の胸ひとつのみ。兄たちの嫉妬と恨みを買った父の盲愛もヨセフには唯一の喜びだったでしょう。ヨセフは父を恋い慕い、再会を夢見ながらエジプトでの歳月を耐えたのではないでしょうか。このときの兄たちの驚きは聖書にあるとおり、ことばにも、そして声にもならなかったのです。
 
 
創世記四六章二九節
ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンヘ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。
 
 ベニヤミンも交えて無傷で帰還した息子たちから、ヨセフ生存の知らせを聞いたヤコブの驚きはいかばかりだったでしょう。信じ難さは、目の前にヨセフを見ながら声も出なかった兄たちよりはるかに勝っていたでしょう。すべての思考は停止し、目は開いていても何も見ていなかったでしょう。「ぼんやりしていた」とは至言です。
一度はヨセフを失った悲しみに我を失ったヤコブですが、この度は歓喜の絶頂へ向かう、ふもとの忘我です。

 歓喜の現実へ引き戻してくれたのはヨセフが用意してくれた車でした。それを見ると俄然目が覚めたように元気になり、死なないうちに会いに行こうと、エジプト行きを決心するのです。やがて、総勢七〇人がカナンを後にします。この一族が、四三〇年の後に出エジプトする時には壮年の男子だけでも約六〇万人になっていました。
ヤコブ一行は途中ベエル・シェバで神にいけにえをささげます。神はヤコブに「エジプトに下ることを恐れるな、必ずカナンに導き上る」と約束します。

 一方ヨセフはゴシェンまで父たちを出迎えます。ヨセフは父を見るなり首に抱きついて泣き続けるのです。泣き続けるヨセフとヤコブです。一七歳で別れてから二〇年あまりが経っていたはずです。しかしヨセフは少年のように抱きついて泣き続けたのです。ああ、兄たちも泣いたでしょう。総勢七〇人が泣き続けたでしょう。
Category : 風の置いた籠

  • 2016.01.02 Saturday - 11:01

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その22

創世記四三章一四節
「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもう一人の弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように」
 
 エジプトの宰相がシメオンを人質にとり、末の弟を連れて来いと命じたことを知ったヤコブは懊悩苦悩します。ヨセフを失った後のヤコブの喜びはベニヤミンひとりなのです。たった一つの掌中の宝をどうして手放せましょう。思えばヤコブは苦悩の人です。しかし手をこまねいていては飢饉の牙で一族が滅んでしまいます。再びエジプトへ食料乞いに行くほかはないのです。それにつけても、なぜもう一人弟がいるなどと言ったのかと、ヤコブは息子たちをなじります。息子たちは、宰相のしつこい尋問についつい話してしまったと弁解します。親子の繰り言と深いため息が聞こえてくるようです。

 そのときユダが声を大にしてベニヤミンを連れて行かせてくださいと父に懇願します。「わたし自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください」。ユダは決死の覚悟をしたのでしょう。ところでユダは四番目の息子です。本来なら長男ルベンが言うべき言葉ではないでしょうか。


 ともあれ、ヤコブはユダの申し出に心を動かれたのでしょう、エジプトへ下ることを承諾します。その時のヤコブの心情が上記一四節に切々と語られています。最後に「私も失うときには失うのだ」と言い切り、この危機を突破するためには、いざとなったら二人とも失ってもいいと、捨て身の覚悟をします。ヤコブは捨てる信仰に立ったのです。「主は与え、主は取られる」と言ったヨブのようです。輝くのは信仰力です。


創世記四四章三三、三四節
どうか今、このしもべをあの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。……どうして私は父のところへ帰れましょう。
 
 ヨセフの兄弟たちは末弟のベニヤミンとともにふたたびエジプトへ下ります。彼らの心ははかり知れないほど重かったでしょう。いわば命がけです。しかし、かつてヨセフはたった一人、奴隷として売られていった道です。しかも一七歳で。道々彼らはヨセフを思い出したでしょうか。
 
 そのヨセフは、もう一度兄弟たちとそこに弟ベニヤミンを見たとき、我知らず泣くのです。無理もありません。ヨセフは彼らを自宅に連行させます。兄弟たちの不安は極限に達したでしょう。ところがヨセフは人質にしていたシメオンを釈放し、兄たちに食事を振舞います。やがてたくさんの食糧を得て兄弟たちは帰途に就きますが、ヨセフは一計を企み、ベニヤミンの袋に自分の盃を入れておき、追っ手を出してベニヤミンに盗みの咎を負わせます。青くなって、全員は再びヨセフの前にひれ伏すのです。ヨセフはベニヤミンだけを置いて全員帰っていいと言います。


 その時です、ユダがヨセフの前に飛び出して自分がベニヤミンの身代わりになるから彼を父のもとに返してほしいと切願します。「このしもべをあの子の代わりに、奴隷としてとどめ」ユダのとりなしは読む者の魂を震わせます。
このユダから私たちのためにとりなすイエス様が見えてきます。

 貴いのは身代わりの福音です。
Category : 風の置いた籠

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