- 2023.07.12 Wednesday -
スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
Category : -
calendarprofileselected entries
categories
archives
recommendlinkssearch this site.sponsored linksothersmobilepowered |
聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その11創世記二一章一節 主は約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりにサラになさった。 サラを顧みて、サラになさった、です。いつも主人公はアブラハムですが、その陰にいるサラにも神様のあわれみと恵みは注がれていたのです。顧みれば、サラは夫アブラハムがまだアブラムと呼ばれていたころから、カナンへの冒険の旅に従ってきました。 カナンに飢饉が起こった時、エジプトへ避難しましたが、夫はサラを妹だと触れ回ったのです。サラは宮廷へ召し抱えられました。また、ネゲブでは豪族アビメレクにも妹だと言ったことから召しいれられました。二回とも神様の介入で危ういところを逃れましたが、サラの心中は穏やかならず、恐れ、悩み苦しんだことでしょう。 最大の苦悩は、侍女ハガルの腹を借りてアブラハムの子を産ませたことでしょう。跡取りを望む夫の願いをかなえるためにはそれしかないと、悲壮な決意をしたのだと思います。しかし理屈では割り切れても、生身の人間です、感情が分裂しました。サラはハガルにきつく当たってしまいました。無理からぬ心情だと、あわれな女ごころに共感します。 神様はじっとサラを見守り続け、失敗を包み込み、サラに子どもを与えるのです。サラは二五年の苦渋の歳月を一瞬で忘れてしまえるような歓喜をいただき、『国々の母』としての栄誉ある名称、サラの名をいただいたのでした。 主のあわれみはつきることがない。 創世記二二章二節 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と息子イサクをいっしょに連れて行った。 翌朝とは、神様がアブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」と命じられた日の翌日のことです。それはアブラハムにとって人生最大の試練なのでした。 それにしても、言われた翌朝の朝早くに行動開始とは、事の重大さを思うとき、たとえ神様の命であっても、決心するまで、まして決行するまでにもう少し時間がかかってもいいと思うのです。これではまるで、オウム返しのような応答ではないでしょうか。いくら考えてもアブラハムに同調できません。 私だったらどうするだろうか、アブラハムのようにできるだろうかと考えたとき、くっきりと見えてくるのはアブラハムの信仰です。かつてアブラハムは、天の星を見上げながら『主を信じた』のです。神様はその信仰をみて『彼の義と認めた』たのです。手も届かないはるか天の星の一つでもある跡取りはいまや一人の人間イサクとしてすぐそばにいるのです。アブラハムは神様の約束は必ず成就すると確信して、信仰を揺るがすことはなかったのでしょう。だから朝早く立ち上がれたのでしょう。 サラが、ことを知らない訳がありません。サラはもう一度笑って愛する夫と息子を見送ったことでしょう。
Category : 風の置いた籠
|