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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2014.10.27 Monday - 21:42

風の置いた籠 創世記を愛して 一章・一節・一思・一考 その3


創世記第五章二九節
主がこの地をのろわれたゆえ、私たちは働き、この手で苦労しているが、この子は慰めを与えてくれるであろう。 
 
 ノアの誕生の時、父親レメクはそう叫んで、我が子の誕生を喜びました。単に我が子が生まれたからだけではないのです。この子に特別に大きな希望と慰めを期待したのです。それほどにレメクの日々は苦労が多かったのでしょう。
 もし祖先アダムとエバがずっとエデンの園にいてくれたら、子孫たちもどんなに豊かな日々を過ごせたことでしょう。しかしあの罪のために、のろわれた地で、額に汗して働かねばなりませんでした。
のろわれている、苦労しているとは、おもえばむごい言葉です。
 では、どのようにしてのろいのなわめを解くことができるのでしょう。レメクはカインの末裔ではなく、セツの子孫です。セツはアベルの後に生まれた子で、セツの子のころから人々は祈ることを始めました。神様御自ら祈りを教えたのかもしれません。人々は信仰を大切にし、神に向かって祈り続けたのです。
レメクは生まれた我が子ノアにも祈りを教えるつもりでしょう。ノアは祈る人になるでしょう。祈る我が子を見ることほど大きな慰めはないと、レメクは思ったのです。
 信仰者の最大の希望と慰めは、家族が、子や孫や子々孫々までもが、まっすぐに信仰を継ぎ、祈り続けることではないでしょうか。
 
創世記六章九節
ノアは正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
 
 ノアは出生時に父親レメクが叫んだように、文字通り慰めの子であり、慰めの人信仰の人になり、神様の御目にもかなう人になりました。その証拠に、聖書は壮大なノアの物語を記すにあたり、開口一番、ノアは正しい人、全き人であったと紹介しています。ノアは神様ご自慢の人なのでした。
 ところで、正しい人、全き人とはどんな人なのでしょう。倫理道徳に優れた人、世の悪に染まらない清い人、だれからも好評を博し愛される人。寛容で親切で慈悲深く、第一コリント一三章を地で行き、御霊の実を結んでいる人といえるでしょう。何から何まで褒められることづくめが全き人、完全な人の定義かもしれません。
 しかし、もう一つ、みことばは『ノアは神とともに歩んだ』と語っています。この一言こそ、ノアが神様に最も高く評価されたことでした。正しい人、全き人とは神様とともに歩む人と同義語といえます。これはまた、神がノアとともにおられたとも言い替えられます。ノアと神は一体といえる親密な関係にあったのです。だからこそ、後年、神様は箱舟による救いのみわざに用いられたのです。
 後代、妬みがもとで兄たちにエジプトに売られたヨセフが、神に愛され、神がともいたことから、ヤコブの全家族を飢饉から救済した立役者に用いられた出来事を思い出します。
 
 
Category : 風の置いた籠

  • 2014.10.20 Monday - 11:48

風の置いた籠 創世記を愛して 一章・一節・一思・一考 その2

創世記を愛して 一章・一節・一思・一考 その2

創世記三章九節

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた「あなたは、どこにいるのか」。
 
 何と悲痛な呼びかけでしょう。迷子の我が子を探す親の必死の叫びです。声のぬしは神様、迷子は人間なのです。
 一章を光り輝く金色の章とすれば、二章は愛の色、ピンク、ピンクといえましょう。しかし、三章は一転、暗雲立ち込める黒灰色に覆われています。一筋の光も見えません。
 神様との約束を反故にしたアダム夫婦は、神様に合わせる顔がなくて、草木の陰に隠れてしまったのです。『見よ、それは非常によかった』と、喜びのうちに造られた神様との関係が、早くも破たんの危機に直面しています。愛の絆を断ち切ろうとするのは人間の内にある欲望です。エバの手をひょいと木の実に向かわせたものは『食べるのによく、目に慕わしく』でした。一瞬の欲です、出来心と言える程度のものかもしれません。しかし、それが、神様との関係を破壊し、全人類に死をもたらした凄惨な罪だったとは、彼らはその時、微塵も考えなかったでしょう。まして、この罪を償うためには、神様は愛する独り子イエス・キリストのいのちを代償にしなければならなかったとは、露ほども知らなかったでしょう。
 今も『あなたは、どこにいるのか』と、神様を嘆かしていいでしょうか。
 その呼びかけを聞き分ける耳を、神様は備えてくださっているはずです。
 
創世記第四章七節
罪は戸口で待ち伏せしている…… あなたはそれを治めなければならない。
 
 アダムとエバの息子カインは、神様が自分のささげものより弟アベルのを喜んで受けられたのを見て腹を立てました。神様に、です。しかしその矛先はじきに弟アベルに向かいます。妬みが憎しみへと、どす黒い炎をあげて膨らんでいきました。
 このままでは取り返しのつかないことになると思われた神様は、カインの前に立ちふさがるようにして、罪は自分の意志で治めなければならないと警告します。あなたには治める力があるはずだ、一時の激情に負けてはいけないとの思いも込めて。しかし、カインにはもはや聞く耳はありませんでした。
ともに遊び、ともに笑い、一つ屋根の下で父母に可愛いがられて育ったたった一人の弟を、野に誘い出して殺害してしまうのです。人類初の死は自然死ではありませんでした。罪とはなんと恐ろしい力でしょう。罪の前には人間は敗北しかないのでしょうか。
 しかし神様は、治めなければならないと言われました。なかば命令調です。強い語気です。犯してしまった罪を赦すのは神様にしかできませんが、犯す前の選択は人間の側の責任です。
弟を殺したカインは主の前から逃げ去って、エデンの東ノデの地に住みつくのです。神様との交わりのない地に。カインが神様から隠れ離れたがるのは、親譲りなのしょうか。(つづく)

 
Category : 風の置いた籠

  • 2014.10.10 Friday - 21:08

風の置いた籠 創世記を愛して/一章・一節・一思・一考 その1 

この夏に『創世記を愛して』と題して、小冊子を作りました。
友人知人に300冊ほど読んでいただきましたが、ここにも掲載しますので、お使いくだされば幸いです。
冊子の冒頭に、内容について、証しを交えて一文をしたためました

 
はじめに
 
 青春前期十五歳の夏に、初めて地域の小さな教会に導かれ、その年のクリスマスにイエス・キリストの救いに与り、以来、まもなく六〇年を、『聖書』を杖にし、ともしびとして歩き続けています。
『初めにことばがあった。ことばは神であった。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった』(ヨハネの福音書一章一節)にあるように、聖書は紛れもなく天地宇宙万物の創造主、神のことばであり、神の愛の結晶であり、私を生かすまことのいのちの書です。
『聖書』は現在のような形になって以来約二千年もの間、世界がどのように変わろうとも、つぎつぎに国々、民族、部族の言語に翻訳され、あらゆる文化、文明に大きな影響を与えてきました。なによりも人の心の闇を照らし続けてきました。
 光の中に生きるようになった人たちは、それまでの生き方の向きを真反対に変えられて、不安や恐れや心配から解放され、病苦や貧困や孤独や老いにもうちひがれず、物や金銭への執着から遠ざかり、明日を思い煩うストレスからも解かれ、心の足腰を強められて雄々しく生きる新しい人に造り替えられました。
 また『聖書』は、芸術家の創作意欲を刺激し、音楽に、彫刻に、絵画に、文学に、思想に、新鮮な刺激を与え、神の栄光を表わす多くの作品を生み出しました。
私は才ある芸の人ではなく、無位無官の一介のキリスト者ですが、ある時期から、偉人たちの真似をして、エッセーや小説や童話を書いて『聖書』、つまり、イエス・キリストのすばらしさを証ししようと励んでいます。
以前『聖書を愛して・聖書六六巻ウォーキング』を著しました。これは創世記から黙示録までの一巻一巻からその心臓部分を取り出して(私的選択)コメントをつけたものです。
今回は聖書の冒頭『創世記』だけをフォーカスし、さらに一章の中の一節をピックアップし、その周辺へ思いを巡らしてみました。明確なテーマによる説教集でも、研究書でもありません。日々のデボーションから生まれた神様への賛美です。神様からの、人間への無限の愛と誠実に対する感謝と喜びのひととしずくです。
本書を通して少しでも『聖書』に近づき、イエス・キリストとの豊かな交わりを知り、楽しんでいただけたらこの上ない幸いです。


注・一章ずつ、約800字の分量に統一しました。

創世記一章三一節
神はお造りなったものをすべて見られた。見よ。それは非常によかった。
 
 六六巻から成る旧新約聖書全巻の初巻『創世記』は、『初めに神が天地を創造した』と語りだします。しょっぱなから威風堂々、神様の登場です。『神が』、『神が』、『神が』です。圧倒されて平伏です。以後、六六巻、一一七一章のすべてに神様はヒーローぶりを発揮されるのです。聖書は、神様が作者であり、主人公でもあります。
 さて、何か創作して、作者自身が非常によかったと公言するのはめったにないことです。よほどの天才でもない限り声高に言えるものではありません。時に凡人がそう言えるとしたら、その作品に深い思い入れがあり、出来栄えよりも、評価よりも、愛着がある時でしょう。
 神様は全能のお方ですから文句なくご自分の作品を非常によかったと言われても、ちっとも違和感はなくむしろ当然なのですが、この叫びはお造りになった作品への特別な思い入れ、愛の発露だと思います。神様はその作品がいとしくてたまらないのです。そして、その作品とは、なんと人間のことです。実に私たちのことなのです。私たちといっても複数形では実感がわきません。
 この私も……ですかと問いたい気がします。問うてみませんか。
 神様は即座に、間違いなく、もちろんあなたのことですよと明言されるでしょう。
 神様は愛です。初めに愛があったのです。『神がまず私たちを愛し――』なのです。

 なにしろご自分の形に似せてお造りになったのですから。
 
創世記二章二三節
これこそ、今や私の骨からの骨、私の肉からの肉。
 
 人類最初の人、神様の傑作、お気に入りのアダムが、嫁いできた妻エバを一目見てうれしさのあまり感極まって歌った賛歌です。愛の告白です、愛の叫びです。エバは最高に美しかったにちがいありません。
 一章では神様の人への愛がさく裂し、二章では妻への愛がほとばしっています。一直線に愛が走ります。この愛は、親子の愛ではなく、師弟の愛ではなく、友愛ではなく、実に夫婦の愛なのです。ここには神様の深いお考えがあるのでしょう。私たちも考えねばなりません。
 明るくおおらかなアダムの愛の歌は、できたばかりの新鮮な天地宇宙に響き渡ったことでしょう。動物も、空駆ける鳥も、水中の魚も、山川草木こぞってアダムの愛の声を聞いたのです。骨の骨、肉の肉とは、なんと斬新なもの言いでしょう。聞いた者たちは深く納得し、大いに笑ったでしょう。愉快な表現ではありませんか。神様も、ほほえまれたでしょう。
 神様がまず人と結んでくださった関係が、今度は人間同士の間に生まれました。夫婦という関係が愛を絆の帯として成立したのです。夫婦関係が人間関係の原点だとしたら、家庭は社会の基本単位であり、社会への出発点です。 
 家庭の土台である夫婦愛、親子の愛が揺らぎませんように。(つづく)


 
 

 
Category : 風の置いた籠

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