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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
風の置いた籠 シュルの泉・ハガルの物語お詫びとお願い・心変わり 一度は閉じた扉ですが、再び開きます。一か月も経たないうちの心変わりで、お叱りを受けそうですが、どう工夫しても、本家の『希望の風』では収まりきれそうにありません。時に間が空くことがありますが、このブログ名に似合った記事を載せていきたいと願っています。以前のようにお訪ねいただけたら幸いです。聖書の緑風子より シュルの泉・ハガルの物語 創世記のアブラハム物語にはハガルという気の毒な脇役が登場する。ハガルは、アブラハムの正妻サラの指図によって、無理矢理にアブラハムの子を産む役割をあてがわれた。その結果、主役たちの人生に引きずり込まれ、思っても見なかった苦しみに遭うのである。貧乏くじを引かされた不幸な女性と言いたい。その上、新約聖書でのハガルの評価は低いせいか、教会の説教でも日陰者である。ハガルの存在とその苦労は報われないように思える。しかし、神様はハガルを忘れず、深いあわれみの目を掛けられた。アブラハムやサラを祝福してイスラエル民族の祖とされたように、ハガルももう一つの民族の母とされた。ハガルの子イシュマエルは現在のアラブ人の祖である。 ハガルはサラの女奴隷で、エジプト人だった。サラ付のお気に入りの侍女だったのだろう。ちなみにサラは見る影もない老女と思いがちだが、そのころアブラハムは数百人の下僕と莫大な冨と家畜の群れをもつ族長、日本の徳川以前になぞらえると地方豪族の頭首とでもいったらいいのだろうか、さしずめ、お館さま、あるいはお殿様であり、しがたってサラは凛然たる奥方様と言えるだろう。 ハガルは十六章に初めて名前が出てくるが、アブラハム一行は十二章でエジプトに行っている。カナンの地に飢饉があったのでエジプトに避難したのである。ハガルはその時から何らかの理由でアブラハム一族に加わったと思える。サラは一時パロの宮殿にいたから、もしかしたらハガルはそこでサラに巡り会い、サラに仕えるようになったのではないか。もしエジプトの宮廷にいたとしたら、例え仕え女であっても、美人で利発な娘だったと思う。そしてハガルはサラを慕い、サラもハガルを可愛いく思い、二人はまるで母娘のようだったのではないか。 いまだに跡継ぎがいないことが、アブラハム夫婦の最大の悩みであるとは、家の者たち全員が周知していたにちがいない。主人夫婦の老いぶりを見れば、もしかしたら、使用人の中からでも跡継ぎに抜擢される者があるかもしれないと、そんな憶測も密かに飛び交っていたかもしれない。サラのそば近くにいたハガルにはなおらさ、サラの苦悩が我がことのように思えたにちがいない。そうこうしている間にも、歳月人を待たず、主人二人はますます老いていくのである。 神様は『あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡をつがなければならない』と言われる。親類縁者ではいけない、まして家にいる者は対象外である。苦渋の末サラは一計を思いついた。――子を産めない私に代わって、ハガルがアブラハムの子を産めばいい。私はその子を自分の子として認め、育て、神様に跡継ぎにしていただこうーー サラは心を決めて夫アブラハムに提言した。 ところで、当のサラの女心が、どこまで自分の案に納得したかであるが、ここは深読みしないでハガルを追っていくことにする。 敬慕する女主人サラから代理妊娠を依頼されたハガルは、どんな思いだったろう。いい話だと思ったか、とんでもないことだと思ったか、どちらであろう。どう思ったにしろハガルには逃れの道はなかったろう。主人の命に従うほかはないのだ。ちょうどそこにあった格好の道具のように都合よく使われることになったのだ。そこにはハガルの人格、人権の尊重はあっただろうか。サラはハガルの意志を聞いただろうか。 引き受けてくれますか、いやならいいのですよ。あなたの意志次第です。決して強制ではありませんからねと、サラは優しく言っただろうか。例えそうであっても、ハガルは首を横には振れなかったであろう。 みごとに、まことにみごとに、ハガルは妊娠した。創世記十六章である。ところが事態は思わぬ方向に向かっていく。聖書はこう記している。 『彼女は自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった』 これが大きな事件に発展していくのだ。妊娠したハガルは、なんと、大事な主人サラに対して高慢な態度をするようになったというのだ。当然と言えば当然の、人の自然な心情だろうが、アブラハム夫婦には大きな誤算だった。特にサラにはまったくの番外。自分の作ったシナリオのどこにもないことだった。サラは憤然とした。黙ってはいなかった。押さえていたプライドや憤懣が火のように吹き出した。 『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです』と夫に詰め寄ったのである。 ハガルはどうして急変したのだろう。サラからの申し出があったときは、そこまでのいきさつと今後のこともよく理解したはずだ。自分が産んだとしても決して自分の子ではない。乳を与え育児をしたとしても、母としてはない。それは仕事なのだ。子どもはサラの子、アブラハムの息子、一族の大切な跡取りである。。自分とは立場の上では親子ではなく、子どもはご主人様なのだ しかし、本能として与えられている母性は日に日に目覚めていく。子への情愛が激しく高まっていく。この子はだれの子でもない、私の子。母は私なのだ。サラ様が母ですって、とんでもない。あの老女に子育てができるわけがないわ。私が産んで育てるのよ。この子は私の子。だれにも渡さない。跡継ぎになるのは結構なことだわ。父親はアブラハム様だもの。悪いけど、サラ様は無関係だわ。エジプト人のハガルが胎内に息づく我が子を感じながらそう思ったかどうか、単純な想像に過ぎないが、ハガルはサラに対しては以前のようにはなれなかった。秘めても心の内は外に出るもの、匂うものである。サラは鋭く見て取り、嗅いでしまったのだ。 アブラハムは大いに当惑しただろう。火のように、はたまたはがねのように強くなった二人の女性を扱うすべを知っているはずがない。アブラハムは逃げの一手でいく他はなかった。『あなたの女奴隷はあなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい』これは理にかなってはいるが、サラに対してもハガルに対しても無責任の何者でもない。 さあ、そこでサラは逆襲に出た。 夫アブラハムから高慢なハガルの処分権を手に入れたサラは即刻決行した。 『サラが彼女をいじめたので…』と聖書は語る。いじめたとは…。具体的なことは記されていないが大いに見当はつく。もともと権力を持っているサラが、さらに夫からのお墨付きを得たのだからことはしやすい。隠れてする必要もない。陰湿ないじめではない。制裁に近いものだったに違いない。ハガルはいたたまれなかった。 ついに『彼女はサラのもとから逃げ去った』のである。 それにしても、ハガルの胎内に宿る小さな命について、三人の親たちはどう考えていたのだろう。神様のご計画を実現するために信仰を持ってサラの申し出を受け入れたアブラハムは正真正銘の父親ではないか。また、言い出しっぺの張本人サラは、一時の激情に駆られてハガル母子を追い出してどうするつもりなのか。そして、ハガルは身重の体を抱えてどこへ行こうというのか。 ハガルは荒野へ逃げていったのである。心の荒野を抱えて、はてしなく広がる荒野をさまよったのだ。ハガルの心中を行き来するものはなんであったか。あたりはまったくの荒野、身を寄せる一本の樹木すらない。出身地エジプトへ向かう隊商路シュルの道らしきものはあっても人影はない。色濃く覆うのは空恐ろしいほどの静寂のみ。 ハガルを駆り立てて荒野へ追いやった当初のパニックは、多少は落ち着いてきただろうか。足は故郷に向かっていても、身重の女が一人で行けるわけがない。心はむしろ出てきたところに向いていたのではないか。 アブラハムもサラも私をこのままほって置くわけがない。じきに使いの者が迎えにくるにちがいないと、そんな期待を抱かなかったろうか。 いや、だれに頼まれても帰らない。あんな辛い思いは二度としたくない。 そうだ、このまま死んでもいい、この子といっしょに死んでもいい…… だが、実際にはそんなに簡単に死ねるものではない。それどころか行く手に広がる荒野を見ていると不安や恐怖すら感ずる。このまま夜になったらどうするのか、などと。 泉のほとりに来ていた。ふいに、何か気配がした。動くものを感じた。風ではなかった。ぬくもりがあった。声が聞こえた。 「サラの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」 ハガルは、夢中で、しかし即座に答えた。 「私の女主人サラのところから逃げているのです」 この返答は確かに偽らざる現状を示している。しかし、質問の半分でしかない。「どこへいくのか」との問には答えていないのだ。ハガルは答えられないのだ。自分でもわかっていないのだから。 どこへ行くのか、ですか。どこへ、どこへ。ハガルは改めて自分に問うてみたと思う。ほんとうに、私はどこへ行くつもりなのか……。どこへ行ったらいいのだろう……。 そんなハガルを見透かすように再び声がした。 『あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで、身を低くしなさい』 はっとしてハガルは辺りを見回した。この荒野に人がいるはずはない。 ハガルはとっさに理解したはずだ。それが神の声であることを。 あなたは神様ですね。ご主人さまの神様ですね。ですから、私とは無縁のお方だと思ってきました。エジプトの奴隷など相手になさらないと思っていました。とても悲しく思っていました。そして、あなたは一度も私には現れてはくださいませんでした。 でも、今、私に近づいてくださいました。あなたは私のすべてを見ておられたのですね。私はひとりぼっちではないのですね。私の《エル・ロイ(ご覧になる神)》なのですね! ハガルは夢から覚めたよう思いであったろう。 そうか、戻るのか。戻ればいいのだ。サラさまのもとに帰ればいいのだ。お詫びして置いていただくのだ。そしてこの子を産むのだ。育てていただくのだ。この子にとってはそれがいちばんの幸せに違いない。 なおも声が続いた。 「その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。その子は野生のろばのような人になり…」 ハガルは身を翻して振りかえった。今来た道がくっきりと映る。凍てついた心が溶けて、温かさが戻ってきた。 こうしてハガルは再びサラのもとに帰り、無事に出産するのである。ハガルは荒野で出会ったエル・ロイの神を我が神として、イシュマエルを育てていったことだろう。 しかし、ハガルは再び苦難に追いやられることになる。 ハガルの産んだイシュマエルは、サラの膝の上で、アブラハムの笑みの中で、すくすくと成長したことだろう。実際にはハガルが乳を与えたのだろう。しかし表面的には「イシュマエル様」と呼ばねばならなかったかも知れない。 ハガルの毎日が苦渋と忍耐そのものだったことは想像に難くない。しかしハガルは負けなかった。あの、シュルへの泉のほとりで出会ったエル・ロイの神様が、いつもいつも自分を見ておられる、その信仰があったからだ。あの時「彼女のもとで身を低くしなさい」と言われた神のことばを心に刻みつけて、サラのそばで仕えたに違いない。 一三年が過ぎようとしていた。イシュマエルはアブラハムとサラ夫婦、そして一族にとっては大切な跡取り、お世継様である。ハガルも自分の立場をわきまえ賢く振る舞えたのではないか。手の届くところに我が子がいる、その成長を日々刻々ま近に見ることができるのだ。それは、すべての苦労を忘れさせる何にもまさる喜びでありまた密かな誇りでもあったろう。 ところが驚天動地、だれも想像しなかったことが起こった。九十歳のサラが子を産んだのだ。アブラハムはなんと百歳であった。神様の約束は実にサラによる世継ぎであったのだ。この意外な出来事はアブラハム夫婦にも大きな驚きであったが、いちばんショックを受けたのは言わずもがなハガルであろう。ハガルの心中の混乱ぶりはいかばかりであったか。お世継様イシュマエルは一転して邪魔者になるやもしれない。自分たち親子は追い出されるかも知れないと恐怖さえ覚えたことだろう。 サラの産んだ正統な世継ぎはイサクといった。いままでイシュマエル一人に注がれていたアブラハムとサラの愛情が手のひらを返すようにイサク一辺倒になったのは当然のことかも知れない。さらに一族郎党下男下女に至るまで、すべての視線はおさな子イサクに向けられてしまった。少年イシュマエルがその状況をどこまで感じていたか、それは測りかねるが、ハガルは気の狂うほど苦しんだに違いない。 イサクの乳離れの宴が盛大に催された。乳離れの年齢は聖書には確かな数字では記されていないが二歳か三歳だろうか。イサクとイシュマエルは一三歳違いである。イサクが二歳ならイシュマエルは一五歳の立派な少年である。 席上で一つの事件が起った。聖書は語る。 『そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません」』 それまでもサラは強い女主人であったが、自分の子を産んでからはいっそう強くなり、ハガルには傲然たる態度であったろう。サラはイサクが生まれた時点で即刻二人を追い出したかったに違いない。が、アブラハムはそうしなかった。ハガルの子イシュマエルをも愛したのだ。確かに自分の子なのだから。憐れみもあったろう。自責の念もあったろう。 サラは十数年間、煮えくりかえる怒りを抑えてきた。それが宴席でついに爆発したのだ。二人を追い出してくださいとアブラハムに詰め寄るのである。 世に三角関係のもつれは珍しくないが、理由はなんであれ、敗者には哀れを感じてしまう。板挟みで悩むのはアブラハム、ああ悩める人アブラハムよ。後年、信仰の父と仰がれる偉人もこの時ばかりは見る影もない。 『このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません』 サラが夫アブラハムに向かって投げつけたヒステリックな叫び声は、ハガルにも聞こえただろう。サラははっきりと、イシュマエルをはしための子、イサクを私の子と呼んで区別した。区別ではなく差別した。いや蔑視した。 サラはイサクが生まれるまでは、イシュマエルを私の子と呼んでいたのだ。ハガルの子などとは一言も言ったことがなかった。それが今や、荒々しくもはしための子と呼び捨てるのだ。ハガルは身の凍る思いで聞いた。そして、もうここには自分と息子イシュマエルの明日はないと直感したのではないだろうか。アブラハムがどのように対処するか、そこに一縷の望みを繋ぐ以外になかったろう。 翌朝、まだ暗いうちにアブラハムはハガル母子を呼んだ。アブラハムは沈痛な面持ちでパンの入った袋と水の入った革袋をハガルの肩にかけた。ここを去って行けというのである。どんなに考えてもそれしか方法がないとハガルはすでに悟っていた。今度こそエジプトに帰ろうと思ったかどうか。この子といっしょならきっと生きていけると思ったにちがいない。ベエル・シェバの荒野をさまよっているうちに、とうとう革袋の水が無くなってしまった。一草一木さえない果てしない荒野の真ん中である。このままでは命が尽きることは明らかだった。若いイシュマエルが先に衰弱してしまった。ハガルは恐ろしさのあまり息子のそばにいることができなかった。イシュマエルは荒い息をして悶えていた。ハガルは天を仰いで振り絞るような声で泣いた。 神が呼びかけられた。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行って少年を起し、力づけなさい。私はあの子を大いなる国民とするからだ」 かつて身重のハガルがシュルへの泉のほとりで出会った神だった。神はピンチのど真ん中で再び鮮やかに声をかけられ、するべきことを指示された。 ハガルが我に返ったとき、神の声の代わりに水の音が聞こえた。目を見開くと、なんと井戸があるではないか。すぐ手の届くところになみなみと水をたたえた井戸があったのだ。絶望と恐怖でパニックに陥っていたときは見えなかったのか、それとも全能の神が、地中から水を吹き上げさせたのだろか。 ハガルは空っぽの革袋に水をいっぱいにして、息子のそばに駆けよった。少年イシュマエルがまたたく間に元気を取り戻したことは言うまでもないだろう。 ハガル母子は、この時から荒野に住み着いた。もう、かつてのようにアブラハムのところに帰ることはなかった。イシュマエルはたくましく成長していった。 後年、エジプトから妻を迎えた。神様の約束通りイシュマエルからもう一つの荒野の民族が誕生した。現在のアラブ人の祖である。後に彼らはイスラム教国を作り出し、今も、世界を大きく二分する。 ユダヤ人とアラブ人が一人の父を持つのは神様の摂理、歴史の不思議であろう。 シュルの泉のほとりでハガルに話しかけた主は、二一世紀の大河のほとりで私に、世界に、何を語り給うのか。聞き逃してはいけない。 (おわり)
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風の置いた籠 ごあいさつごあいさつ
その理由は、本家と言えるブログ『希望の風』に記しましたように、二つを一つに統合します。
なお、このブログはこのまま残します。消去する方法もあるでしょうが、
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