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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
神との友情――あなたを変える祈りーーその15神との友情――あなたを変える祈りーーその15 ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。 第四部 神の共同体における祈り 第十三章 共に祈るために ひとこと 長く厳しい読書の旅でしたが、いよいよ最終回です。ピックアップも要約も片寄りがあり不十分ですが、これをきっかけに本書それ自体に挑戦し、じかにフーストンを理解し、さらに神様との豊かな人格的交わりの中で広大深遠愉悦に満ちた祈りの世界に導かれることを切望します。 祈り深く生きるとは、本質的に神に心を開いて生きることです。そうすることは、人間同士の友情をも造り変えるのです。神の人格性を体験することは、私たちのパーソナリティーを豊かに養うことにつながり、神との友情ばかりか、人間同士の友情がどれほど大切かということも教えてくれます。しかし魂の友との交わりが目指すものは、人間的なつきあいを楽しむことではありません。神への愛と人間との愛は、肩を並べていっしょに育っていくものです。 ★神は交わりなり 私たちの新しいいのちは御父と御子と聖霊の御名においてバプテスマにあずかった時に始まりました。私たちの霊的な交わりは、御父を通し、御霊によって御父に祈ることによって維持されています。そして私たちに行きつくところは、一つにして三人格の神の臨在のうちに永遠に住まうことです。 三位一体とは神の生ける神秘です。私たちはこの三位一体なる神との深い霊的交わりに入る時にのみ、初めて完全に自分自身を理解できるようになるのです。父、子、御霊の愛の共同体に引き寄せられるとき、初めてどのように他者に近づくべきかを教えられるのです。 私たち人間は、神によって神のかたちに神に似たものとして創造されました。それは、私たちが互いに深い交わりを持ち、また同時に、神との深い交わりに生きるためでした。神は愛であるゆえに、私たちをも愛に生きる者とするために、贖いだそうとされました。実にこのためにキリストは苦しみを受けて死に、勝利の内に復活して私たちを神から阻害するあらゆるものを征服し、人の魂が神の愛の啓示を受け入れることができるようにしてくださったのです。 ★祈りの友 何にも増して必要なのは祈りにおいて個人的に支え合い励まし合える、そして相談し合える友です。 大切なのは聖書を瞑想することです。祈り深いみことばの学びは、どの時代の神の民にも特徴的な習慣でした。祈りを通してはぐくまれる友情は「みことば優先」の鉄則を妨げるものによくよく警戒しなければなりません。 祈りの生活と人格の孤立は両立しません。あらゆるキリスト者から孤立してただ一人で祈ることは、共同体の交わりを成り立たせておられる、一にして三なる神との交わりに適切ではありません。 パウロがエペソの教会に書き送った通りです。 こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。エペソ3章14〜21節 (おわり) 聖霊に励まされて一冊をまとめ終えました。 忍耐強く読み続けてくださった皆様に篤く感謝申し上げます。
Category : 神との友情
神との友情――あなたを変える祈りーーその14昨年の11月から始めました本書の概観もあと一回を残すのみとなりました。思わぬ長期にわたってしまいましたが、読むだけでもさらっとは進めない本です。まして、ピックアップや要約は、時に立ち往生してしまい、私にとっては困難の多い作業でした。しかし、中途止めは無責任すぎます。挫けそうになると、こんな記事をも読んでくださる方々がおられる、そのことが励ましになりました。さいごの第十五回を早く迎えたいと願います。 神との友情――あなたを変える祈りーーその14 ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。 第四部 神の共同体における祈り 第十二章 祈りの共同体 神との友情、親しい交わりは、よそよそしいものではなく、兄弟や母子の間にある親しさよりもはるかに親密で確かなものである。それが、霊的なものだからである。 フランシスコ・デ・オスナ 本書が強調する祈りと友情の相互関係は、言い換えるなら、神を愛し隣人を愛せという、あの黄金律にほかなりません。今日、多くの人が祈りに心を向けつつあるのは喜ばしいことです。人は見な心の奥底では神との友情を求め、神をあがめたいと切望しているのです。人間は実にそのように造られているからです。 アウグスティヌスは言います。 あなたは、私たちをあなたご自身に向けて造られたがゆえに、わたしたちの心は、あなたの内に憩うまで安らぐことがないのです。 ★アマチュア精神の必要性 人間は決して祈りのエキスパートには成り得ない、いつも祈りの初心者であると自覚すべきです。聖職者と信徒はプロとアマではない、専門家と素人の区別は誤りです。司祭や牧師の祈りの方が私たちの祈りより上等なのでしょうか。聞かれる祈りなのでしょうか。今日世界はその道の専門家になることに躍起になっています。キリスト者は適当なアマテュア精神を維持することが不可欠です。 ★心の癒しと祈り わたしたちには神を喜ばせたい、神に仕えたいという熱い思いが与えられていますが、その一方で古い自分のパーソナリティーは、願っているはずの急激な変化に頑固に抵抗してきます。どうすればよいのでしょうか。祈りにおいて神のみもとに行く以外にありません。祈りは視野を広げて、みこころが自分の意志よりもはるかに重要であることを分らせてくれます。祈りは私たちをささいなつまらないことから引き離し、物事を神の視点から見ることができるようにしてくれます。まず最初に私たちは自分自身を神の目から見るようになります。 すると、自分の生活が自分の大切の思った者によって限定されてしまったことに気づきます。私たちは自分の大事にしているものを最優先させます。それによって時間とエネルギーの使い方が決まります。祈りはこの私たちの愛を変容させ、今まで見えなかったものを見せることで、私たちの生活を造り変えるのです。神の愛にさらに目覚めるにつれて、内側の大きな変化に、自分だけでなく、周囲の人々も気づくようになります。心の癒しを求めることは極めて重要です。 ★霊的指導と祈り 祈りの生活に前進するためには、真の信仰の友、または信仰の先輩との友情が不可欠です。その友の模範や助言、友情が、私たちの霊的な旅路の道しるべとなります。このような「霊的指導」をうけるために、福音を生きる生き方を身をもって示してくれる、霊的に成熟したキリスト者との交わりを育てる必要があります。 魂の友とは私の信仰の浅薄さ、自分でもどうにもならない依存症的行動、うわべの生活のずっと底に隠れているものが何であれ、それを安心して話し合い、一緒に分析できる相手です。魂の導き手、霊的友人とは何をする人でしょう。まず私が真に生きるために、真に祈れるよう、導き励ましてくれます。さらに魂の友は、私に生活のバランスを欠いている部分を指摘し、そうすれば情緒的で私がもっと大人になれるかを指し示してくれます。生活はあらゆる面でバランスが取れいるのが理想です。身近な人とつきあうと同時に頻繁に接する機会のない人々ともつきあうと具合に、バランスよく様々な人間関係を享受すべきです。自分を惜しみなく与え、他者を助けることができることを感謝する一方で、謙遜に他者からの助けを喜んで受け入れるべきです。 最後に、魂の友は私がその人から目を離し、神ご自身を礼拝するようにと指示します。結局私たちに必要なのは、神ご自身です。ですから私が神との友情に誠実であり続けることができるように助け励ましてくれる友こそ真の友といえます。 ★生命共同体の祈り 祈りにはそれが単独行為であるとともに、別の面、神の民が共同体である事実の発露でもあります。現代の教会は共同体としての祈りを再発見し、それを共同体の中心に据える必要があります。霊的な友だちとの交わりによってはぐくまれる祈りだけが、信仰生活に成長と豊かな実りをもたらすのです。キリスト者の共同体とは何を指すのでしょう。それは、例えば霊的な励ましが必要な友に手紙を書くこと、また、意気消沈している人、親しい人を亡くした人、心傷ついている人を見舞うことです。真の共同体の成長は、依然として組織によるものではなく、有機的なつながりによるものです。友情とグループの交わりが祈りによって造り変えられるとき初めて、共同体は成長するのです。
Category : 神との友情
神との友情――あなたを変える祈りーーその13神との友情――あなたを変える祈りーーその13 ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。 第四部 神の共同体における祈り 第十一章 神の友たちによる祈り 聖徒たちの生涯――これこそ福音の実証にほかならない。聖書のみことばと聖徒の生涯との差は、まるで、譜面上の曲と、それが生の声で歌われた時の違いだ。フランシス・デ・サレス 祈りとはいのちの表れである。生の深みから生まれ出るものである。その深みが祈りの質を決める。それゆえ、祈りそのものに費やす思いの十倍を、祈りの背後の生活に捧げるべきと言っても過言ではない。 E・ハーマン 祈りには内的側面と外的側面、個人性と社会性の両面があります。バランスのとれた生活を送るとは、友との交わりを豊かにするために神との個人的な交わりを大切にし、同時に神との交わりを深めるために共同体の生活を大切にすることです。人は共同体の中に生きていないなら、独りになることはできないし、独りになることなくして本当の共同体を持ちえないのです。 ★祈りの聖徒の交わり パウロは私たちが「すべての聖徒とともに」祈りにおいて真の自己探求をする者となるようにと祈りました。ですから、過去、現在の神の民とともに歩み、彼らが分かち合ってくれる経験から学ぶことが必要です。 祈りは神の御前における生活全体を表すものです。祈るとは、神に自分の生き方を変えていただくように願うことです。 「聖徒の交わり」とは、一つには、私たちより前に生きたキリスト者の歩みから学ぶことができます。二つ目には、過去のキリスト者たちが神との親しい交わりのなかで切り開いた歴史的伝統から、祈りを切り離すことはできない。彼らの信仰と献身の高い標準を知ることで、今日の文化が抱えている偏見や盲点から引き上げられ、私たちの文化に顕著な、祈りに関する自己満足を捨て、祈りをより真剣に捕えはじめるようにされます。 ★あらゆる祈りの領域を生きる。 *言葉による祈り(口頭の祈り) 聖書には口頭による祈りがたくさん出てきます。詩篇はありとあらゆる祈りを満載しています。 口頭の祈りの強調は歴史を経てキリスト者に受け継がれています。 *瞑想の祈り 瞑想の祈りとは、神との、また神の御前での会話の一つの形式であり、口頭の祈りよりもさらに内面的なものです。中世の修道院の伝統では、祈りと聖書朗読は常に一緒でした。短く簡潔な祈りに続いて、ながいゆったりした朗読があり、祈りと朗読の間に瞑想の時があり、朗読の後にそれを熟考し、記憶にとどめる時間がありました。キリスト教的瞑想は、神の臨在に私たちを導くイエスがなしてくださったみわざに依存しています。ほんとうの瞑想とは、聖書とイエス・キリストを通して、神の啓示された真理に焦点を合わせるものです。 *観想(黙想)の祈り 観想と黙想を取り違えたり両者を同一とするものがあるが、この二つはどのように違うのでしょうか。瞑想の祈りは言葉を使った象徴的なコミュニケーションを伴います。そこには知的活動があり、思考と感情の両方が働いています。観想の祈りは神の臨在が現実ものとして強烈かつ密接に迫って来るので、言葉や思考は必要が無くなります。それゆえ、観想の祈りとは、私たちとともにおられ、私たちの内におられる神の臨在を深く個人的に気づかせられることです。多く思索するよりも多く愛することが求められ、強さや力ではなく、愛と習慣が必要です。 *忘我的祈り 我を忘れるという状態は祈りにおける神との友情の一つの頂点です。きわめて個人的なもので、この旅のゴールはパウロが宣言したように言い尽くせない歓喜です。ところで、多くの人が神の霊をダイナミックに経験するために必要なのはこれだと真剣に信じて、口頭の祈りを後にして忘我的祈りという一種カリスマ的経験へと一気に飛躍してしまう傾向があります。しかし、魂の旅路においては、瞑想の祈りを求める歩みを通して、口頭の祈りから徐々に前に進むものです。さらに旅の次の段階は、神の臨在と愛を黙想する祈りの経験を受け入れることです。最後に忘我的祈りにおいて、自分の人生全体に変革をもたらす聖霊の実をみることでしょう。 ヘンリー・ナウエンがかつて祈ったように祈る必要があるのではないでしょうか。 「主よ。あなたについての思索にふけり、神学的観念や議論に熱中し、様々な霊性の歴史と伝統に興奮し、祈りと瞑想についての思想や観念に刺激を受ける……。これらすべては単に、放縦な貪欲、物欲、権力欲と同様、貪りの一種であるかもしれません。それゆえ、日々くり返し悟ります。あなただけが祈ることを私に教えることができ、あなただけが私をあなたの臨在に内に留まらせてくださることを。どんな本も、思想も、概念その他の何物も、あなたご自身が、これらの道具をあなたへの道となさらなければ、私をあなたに近づけることはありません」
Category : 神との友情
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