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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
神との友情――あなたを変える祈りーーその12神との友情――あなたを変える祈りーーその12 ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。 第四部 神の共同体における祈り 第十章 パウロの祈りの生活と友情 あなたの祈りを言葉の羅列に終わらせてはならない。 むしろあなたの生活全体を、神への祈りとしなさい。 イリアのイサク 私たちには二種類の友情が必要です。神との友情と同時に、人間同士の友情です。 十四世紀イギリスのリチャード・ロールはいいます。 聖別された友情は確かに神から来ている。私たちがこの地上での寄留生活の惨めさのただ中で、みもとに召されるまでは、友からの励ましによって慰めを受けることができるようにと、神が備えられたものである。 人間同士の友情は、神との友情の架け橋となり得ます。しかし、真の友を見出すことは非常に困難です。孤独に悩む現代人のためにカウンセリングという形で有料で友情を提供する業界が今日すでに存在しています。巷にあふれるカウンセラーは「職業的友人」、「友人業者」と言われます。 友情と祈りの関連は使徒パウロの生涯に顕著です。パウロの血の通った温かい友情は、彼とともに生きた人々をより深い祈りの生活へと促し、私たちをも励ましてくれます。 パウロの友情 パウロはパリサイ派に属し、初代教会のキリスト者の凶暴な迫害者になり、彼らを逮捕するためにダマスコへ向かう途中で、復活のキリストに出会い、劇的回心をして、キリスト者の最前線に立つようになります。その後の彼の働きと友情はすべて祈りによって貫かれていました。 パウロは自分が導いた人たちを深く心に掛け、福音に生きるためにやさしい思いやりと同時に厳格な権威をもって手紙をしたためました。パウロは生涯を通して祈りと教理を分けて考えることはなく、テサロニケの人々には『絶えず祈りなさい』とすすめ、エペソ教会には『……どんなときにも御霊によって祈りなさい』と書き送っています。人のとりなしにも心を傾けて祈っています。他者のために祈る一方で、自分の個人的な苦しみ『肉体のとげ』を神が取り去ってくださるようにとくり返し祈っています。しかし神の真意を知った時、この祈りを止めてみこころに従いました。彼はもはや自分の生来の気質から来る衝動や、生来の性格からくる反射的行動によって物事を進めませんでした。 ★祈りを伴うあいさつ パウロは多くの手紙を『恵みと平安があなたがたにあるように』というあいさつで始めています。 手紙が、彼の働きの中で中心的な役目を果たすことができたのは、手紙を運ぶ近しい同伴者、友の存在があったればこそです。このようにして友情とキリスト教の使信の広がりとは、一体となって進展してゆきました。 ★パウロの感謝の姿勢 パウロの手紙の書き出しはいつも神への感謝にあふれています。彼らの生活を大きく造り変えた神のみわざを喜びにあふれて語るうちに、神への賛美に変わってしまっています。自分自身はあらゆる苦難の中にいながら、弱い時にこそ強くされることを、苦難を通して体得したので、感謝にあふれることができたのです。 ★確信をもって願い求める 『高さも、深さも、そのほかのどんな被造物からも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません』ローマ8・39。パウロの力強い奉仕の秘訣は、祈りを通して与えられる、父、子、聖霊なる神との交わりにありました。 ★祈りと融合された神学 パウロは神学(神に関する教え)と祈りとをみごとに融合させることに秀でた人でした。信仰の成熟は、知的な神理解と神体験の両方によって初めて可能になることを彼は認識していました。エペソ人への手紙は祈りと神学との融合という点で、彼の書簡中の最高峰です。 ★神を「父」と呼ぶ体験 パウロの祈りは、神を「父」として体験することがどのようなことかを教えています。パウロは、神が『御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように』と祈ります。ダイナミックな力を受けることで、祈りの生活、神への愛、神を現実に知る知識が真に力あるものにされるというのです。これは私たちのパーソナリティーの中核において起こります。それゆえ、生まれながらの気質は、祈りの内に完全な成熟に変えられてゆくことが可能です。人格的変化をもたらすことができるのです。「父」として神を体験することから生まれるものの最後は『神のご自身の満ち満ちたさまにまで……満たされ』ることです。これこそが、すべての祈りのクライマクスです。祈りとは神に自分の願いの集中砲火を浴びせかけることではありません。私たちの歩みがいつの間にか自分自身からそれて、神の意志の方向へと向かい始めたときに初めて、ほんとうの祈りは始まるのです。ひたすら神の思いと願いに心を向け、集中しているなら、大胆に神に近づくことができるのです。 ★賛美―――祈りの結論 全ての祈りが最終的に行きつくところは賛美です。真の神の友とは、自分の内に絶えずあふれている神への賛美を包み隠せないことを、パウロの祈りは教えてくれます。そのような讃美でパウロの祈りは終わります。神の側には私たちに代わってことをなす、あるいは私たちのために骨折ってくださる準備が整っているのです。神の無限の可能性は『私たちの内に働く力によって』エペソ3・20.現実のものとなるのです。『……私たちの内に働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、また、キリスト・イエスにより、栄光が、世々に渡って、とこしえまでもありますように。アーメン』(エペソ3・14〜21)
Category : 神との友情
神との友情――あなたを変える祈りーーその11神との友情――あなたを変える祈りーーその11 ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。 第三部 神のふところに入る 第九章 聖三位一体の内にある友情 最後の晩餐の席上でイエスは弟子たちをこれからは友と呼ぶと言われました。この友情の絆は、ただキリストのうちに隠されていることで満足し、幸せを感ずる交わりです。神の友はひとり荒野に住むことも辞さないのです。他の対象に対する愛が神への愛を曇らせてしまうかもしれないからです。では、この神との友情とはどんなものでしょう。 ★みせかけのない友情 神との友情は、この世の拍手喝采をもとめず、受けることもありません。神との人格的な交わりに入ることは、自分の惨めさに気づかされ、自分を神のあわれみの御手に投げ出すことを意味します。実に恥ずかしい経験です。しかしそこを通ることで、正直で、見せかけのない友情が育つのです。 ★友を造り変える信頼 神は私のことを、私自身よりもずっとよく知っておられ、しかもはるかに細やかな愛情をもって知っておられるという安心感が、私の生を根底から造り変える力となります。御霊により、キリストにあって、神を観想すること、これが神と私たちのと友情の核心です。 ★観想とは、キリストの内にとどまること 実を結ぶために枝がブドウの木にとどまらなければならないように、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもほしいものを求めなさい。あなたがたが多くの実を結び、私の弟子となることにって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」とイエスは言われます。その実とは神ご自身の本質を表すものです。パウロもこの実を御霊の実と言い、愛喜び……柔和、自制です。キリストが御父の中に留まっているように、キリストの内にどどまるという協調は、ヨハネの福音書全体に一貫しています。イエスが御父にどのように祈っていたかヨハネ17章を注視します。 ★御子を通して、御父の声を聴く・ヨハネ17章 この祈りは教会史上いろいろな名称で呼ばれてきました。「大祭司の祈り」、「救い主の告別の祈り」等々。旧約の族長たちも告別の祈りをしました。ヤコブは死の直前、12人の息子をそばに呼んで祝福を祈り、モーセも死の直前に12部族を祝福しました。イエスも弟子たちを集めて、祈りの中でご自分の父がどのようなお方か、どんな目的を持っておられるかを明らかにしました。イエスは、御父と御子がともに持っておられた、親密な永遠の愛の交わりに大勢の息子、娘を迎え入れるために祈ります。 ★なぜ弟子たちのために祈られるのか 弟子たちは、御父から御子への大切な贈り物でした。それゆえ御子は彼らに御父がどのようなお方であるか明らかにされたのです。彼らが三位一体の神から流れ出る交わりのいのちに触れることができるためでした。 ★神の友たちの交わりの広がり ぶどうの木のたとえで、イエスは幹につながる枝のみならず、枝が結ぶ実についても話されました。 イエスは祈りの範囲をさらに広げ、やがて福音を聞いて信じる人をも取り込んでゆかれます。神を信じようとしないこの世に福音を信用させるものがあるとすれば、主を信じる者同士が神ご自身との公同の交わりに生きるときに初めてもたらされてゆくものです。 ★神を恐れ、神と響き合う歩み 私たちの歩みの焦点が神に合わされるとき、きよい畏れと驚きの念が私たちを神礼拝へと向かせます。神へのきよい恐れは心の内に働き、私たちを内から造り変える神の力へ至る道を備えます。 神の威光と尊厳、その近寄りがたさと親しみやすさ、祈りの中でこの両方を体験します。キリストにある神のいのちの調和が、私自身の内なる調和の秘訣です。それによって私は他の人に同情でき、友と平和に仲よく暮らせ、喜びと幸いに溢れる者とされるのです。 ★自己を放棄する歩み 自己放棄の生涯こそ、キリストにある人格となることの意味するところです。神を畏れる生き方を真剣に求め、神との調和を味わう幸いを心から願うなら、自分自身から解き放たれる必要があります。御前に静まりひたすら御声に聴く姿勢を身につける必要があります。日々の様々な騒音にもかかわらず、常に静けさと沈黙都の中で主を深く思うことは、生きる上で必要不可欠です。これた私たちに与えられた最も尊い賜物、召命です。
Category : 神との友情
神との友情――あなたを変える祈りーーその10 ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。神との友情――あなたを変える祈りーーその10 ジェームズ・フーストン(監修 坂野慧吉 いのちのことば社)から。以下は本文のピックアップあるいは要約です。 第三部 神のふところに入る 第八章 父と子の友情を深める 祈りというテーマはあまりに広大で、 御父がそれを啓示し、 御父の長子である「ことば」なる神がそれを教え、 御霊なる神がそれについて正しく考え語る力を人間に与えることが 求められるほどである。 オリゲネス いかなる場合も、キリスト者が正しく「しゅの祈り」を祈るなら、 その祈りは十分以上であると、私は確信する。マルティン・ルター 神の父性は、今日ますます数を増すフェミニズム神学者の攻撃の的になっています。女性解放の神学を唱えるキリスト者たちは、教会に「我らの父よ」と祈ることを止めることを求めています。 逆に、この問題を全く無視して「父なる神」に祈りを続ける人たちもいます。過激なフェミニズムと無関心な保守主義とのあいだで、祈りそのものがなおざりにされています。私たちの知的活動にも改革が必要です。 ★父親不在の社会における父なる神 新約聖書は神の父性を積極的に捕えています。イエスは常に父なる神について語っています。 ★父親不在の傷 イエスと父なる神との間には競争はなく、イエスはご自分の父が自分に望まれたことに従われました。御父と御子の間にあるのは十全で満ち足りた関係です。 ★分裂症を病む社会に生きる 子どもにとって親とは、砂漠の大岩にも似ています。親なしでは、砂のように絶えず移り変わる私たちの感情は落ち着くところを知らず、多くのものにいのちを与える愛の豊かさを知ることは決してないのです。「あなたはわが父、我が神、我が救いの岩」とたたえられる神こそ、定点、砂漠にある緑地です。 ★神の父性 イエス・キリストのもたらした福音とは、私たちが疎外された社会の絶望から目を移し、神を自らの父として見いだすことが可能になったという知らせです。神は、留守がちな人間の父親とは違い、常にご自分の民とともにおられ、彼等を救い出すために機敏に動いてくださいます。神はご自分の民をエジプトの奴隷生活から連れ出し、新約聖書では、罪と自己中心の奴隷となっている私たちを救出するためにご自分のひとり子を遣わされました。 ★父へと続く新しい祈りの場 イエスは、ご自分と御父との間のダイナミックな交わりを、弟子たちも共有できると明言されます。イエスの父は弟子たちの父でもあると言われるのです。これこそイエスが私たちに下さった祈りという贈り物の意味です。イエスが教えられた祈りは今日「主の祈り」として知られるものです。「主の祈り」は私たちが、主イエス・キリストを通して御父と交わる中で、神の子どもとしてどう生きるかを学んでいく過程を象徴的に表しています。 ★父との親密さ 「天にいます私たちの父よ」マタイ6・9 この冒頭の祈りは祈る者に御父の親しさを教えています。真の祈りには必ず親しさが伴います。 神との親しい交わりは、天のいのちに近いものです。御父のおられる天に心を向けることになります。「天にいます私たちの父よ」と祈り始めると、実際この地上で寄留者となるのです。 ★「御名があがめられますように」マタイ6・9 御父の聖さが私たちの祈りの霊的な調子を決定します。しかしどうすれば神の「御名をあがめ」ることができるのでしょう。私たちはイエスが捧げられたいけにえを通してこの聖なる神に近づくことが許されているのです。 ★「御国が来ますように」マタイ6・10 この祈りは神が私たちを支配されるのを受け入れることです。この祈りは私たちの人格の隅々にまで御父の支配を染みわたらせるものです。イエスがそうであったように御父の支配に全く服するのです。 ★父のみこころ 「みこころが天で行われるように地でも行われますように」マタイ6・10 神の御国が私たちの心に深く根を下ろすと、神のみこころ以外は何も求めなくなります。地上で見られる神の支配と、やがて来るその日の有様とを比べれば、小さなせせらぎと大海原ほどの違いがあります。それゆえ祈りとは、地にある様々な人間の矛盾を神が残らず取り除いてくださる日を待ち望むことでもあります。 ★与え主である父 「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」マタイ6・11 この祈りを弟子たちに教えられた主は、明日のことを思い煩うなとも言われました。神の国に属するとは、もう数えきれないほどの心配をしなくてもよい、ということです。食糧庫が空っぽなら、日々の糧のために実際に祈るべきでしょう。もしいっぱいなら、荒野でイエスが石をパンにすることを拒まれたことを思い出すべきでしょう。私たちの心を支配するのは祈りであり、私たちの腹を支配する食べ物ではないことを覚えるべきです。 ★父の赦し 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」マタイ6・12 この祈りから、神の赦しを受けることと、人が自分になしたことを赦すことの間には深いつながりがあることが分かり、神の助けなしには他者を赦せないことに気づきます。誰かを赦そうとして赦せない自分の姿を知ると、神に赦されなければならないのはむしろ自分だと、いやおうなく痛感させられます。そして自分がどれほど深く神から赦され愛されかに目が開かれるとき、他者を赦そうとする気持ちが与えられます。他者を赦したくないなら、神が私を赦してくださることは期待できません。私たちが他者に与える赦しは、私たち自身をも癒します。赦しを拒むことは、究極的に自分の人間性喪失につながります。 ★父が与える救出と祈り 「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」マタイ6・13 私たちが肉体を持ち、交わりのために人格的存在であることは、道徳的に非常に誘惑に陥りやすいことを意味しています。イエスは「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい」と言われました。神との友情が深まれば深まるほど、悪の力の実在と自分の身に及ぶその力に対して敏感になります。サタンは私たちを破滅させようとして誘惑してきます。御父は試練をお与えになります。神からの試練は、私たちが苦しみと誘惑を乗り越えて成長する助けです。この主の誘惑は私たちに成熟を与えるために神が用いる手段です。誘惑はイエスがそうであったように、勝利するために私たちがどうしても通らなければならない経験です。 「御国はあなたのものです」 イエスの生涯と死を通して、御国はすでに地上に到来しています。敵の敗北は目に見えています。最終的な勝利をはるかに望み見て、今から喜びにあふれています。その日、天と地は完全に神の御国になるからです。
Category : 神との友情
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