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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
みことばは教える パート2 その5 愛は生涯を通して完全になっていくもの。
第一コリント13章4〜7節 【愛の章から】前回の続きです。 テキスト要旨 ≪自分の利益を求めず≫ 愛は賞賛と名誉と利益を求めない。自分の利益に固執せず、他の人の権利を擁護することを喜びとする。究極の喜びは与えることによって得る喜びである。けしって自己満足せず、他の人に要求しない。 ≪怒らず≫愛は温厚であり怒らない。人を怒らせない。短気でなく激昂しない。感情を爆発させたり不機嫌にならない。 ≪人のした悪を思わず≫受けた悪をいつまでも考え続けない。赦すだけでなく忘れる。 ≪不正を喜ばずに真理を喜びます≫愛は他人の罪や過ちをほくそ笑むように眺めない。他人の良くない話を聞くことを喜ばない。真理が明らかにされることを喜ぶ。 パウロの愛の賛辞は積極的で確信に満ちたクライマックスに向かう。 ≪すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます≫ これらの愛の部分にキリストと入れると、違和感なくマッチする。ところがそこへ自分の名を入れるとどれも基準に達しない。キリストと私はーーーとしたら希望があるだろうか。 前回と合わせてパウロは本当の愛を15の具体的な事柄で表しました。しかし15のうちのどれかひとつでも、胸を張って、それはできます、それは私の内にありますと言えるものがあるでしょうか。ない自分を恥じつつですが、これらのほんとうの愛に強いあこがれと同時にそうした愛の所有者になりたいという欲求だけはあります。また、事が起こるたびに思い出しては、はみ出し、飛び出し、暴走しがちな自己を抑えとどめる役目をしてもらっています。何度も何度も口ずさみ、思い巡らし、胸をなでおろすうちに、やがて祈りへと導かれます。自分を写す鏡として、成長のテキストとして、身近に置きたいものです。
Category : みことばは教える
みことばは教える パート2 その4 愛の定義は難しいが、あるかどうか区別は簡単【新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(Daybreak John T.Seamands)ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団 第一コリント13章4〜7節 【愛の章から】 テキスト要旨 パウロは愛を描写する。愛は定義したり分析もしない。どのように行動に表れ、人の生き方と生涯を変貌させるかを15を具体的に描いている。愛は七の七十倍まで赦す。 ≪愛は寛容であり≫ どのような状況にあっても寛容であること、そんがいも甘んじて受け止める。苦い思いや怒りをいつまでもしまっておかない。 ≪愛は親切です≫寛容とは自分の表現を控えることに関係があり、親切は自分を表現することと関係がある。愛は他の人に積極的によいことをすること。 ≪人をねたみません≫人の賜物や持ち物や立場をうらやまない。人の成功に嫉妬しない。 ≪愛は自慢せず、高慢になりません≫有頂天になったり虚栄や見せびらかし、気取り、ひけらかし、威張りをしない。 ≪礼儀に反することをせず≫人を傷つけない、苦しめたり困らせたりしない。なににでもしゃしゃり出て職権を振り回すようなことをしない。他の人に配慮する。(6個) 聖書の中で、およそこの箇所ほど自己の現実と遠く感じられるところはないでしょう。パウロは、ほんとうの愛を15個も普段ばきの平易な的確な言葉で表しました。具体的であるだけにまともに直できません。後ずさりするか、背を向けて遠くに離れたいほどです。それほどに15の鏡はありありと被写体の実相を浮き彫りにします。 寛容ですって、そんなものありません。親切ですって、ああ、私は冷たいです。ねたみは、心の奥底に確かに潜んでいます。自慢、高慢ですって。きっと知らず知らずのうちに自慢し、高慢になっているのです。クリスチャンだというこの身分さえ、自慢の種にし、高慢な思いになっています。礼儀に反することをせず、ですか。私は不作法ものです。 悔い改めの祈りしか出てきません。しかし、せめてパウロのかざす15の鏡の前に、勇気を出して立ちたいと思います。映し出されるお粗末な自分を知って、できることから一つでも二つでも挑戦したいと思います。
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みことばは教える パート2 その3 神様はすべてを知っておられる唯一のお方【新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(Daybreak John T.Seamands)ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団 第一コリント4章1〜5節 『私をさばく方は主です』4節 テキスト要旨 人は三種類の判断を受けている。第一に他人の判断、第二に自分の判断、第三に神様の判断。他人の判断は多くの場合正確であるが時に的外れなこともある。外見で結論を下してしまうから。こんな話がある。ある人が航海をしていた。同室の客の外見が気になり、その理由を告げて貴重品をパーサーに預けた。パーサーは彼から貴重品を受け取りながら、 その同室者も同じように心配だからといって貴重品を預けに来たと告げた。笑い話のようだが、人は外見を判断の基準にするものだ。自分の判断は自分には甘く、自分の欠点や失敗に盲目である。神様は究極の本当の裁判官である。神様は私たちの隠れた秘密をすべて知っておられる。動機も完全に知っておられる。行動の背後にある意図もご覧になっている。人間の心を完全に知っておられる唯一の方は神様である。人の判断も大切だが、神様の判断に最大の関心を払わねばならない。 神様だけがすべてを御存知ですとは、クリスチャンがよく言うセリフです。そこに平安を得ようとしてよく使います。自分の分が悪い時も、不安でいっぱいの時も、隠れ蓑や開き直りの道具のように言います。そこには多少の真理はあります。しかし、人は人の評価、判断がひどく気になるものです。神様はわかっておられると最終的は信じていても、人からの判断にこだわってしまいます。神様の前よりもむしろ、人の前でいい恰好したいのです。この滑稽で哀れな性向から完全に自由になるにはどうしたらいいのでしょうか。 ひとことでまとめれば、私をご覧になる神様の視線を常に第一に意識することではないでしょうか。その視線とは、私を丸ごと愛しゆるし受け入れる神様の愛です。この愛の視線のもとで、身を低くして全幅の信頼を持って主を見上げることではないでしょうか。
Category : みことばは教える
みことばは教える パート2 その2 セリで神様より高値を付けられるものはない
第一コリント1章5節 『すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです』 テキスト要旨 クリスチャンは貧しくなるのではなく豊かな者になるのである。 第一に『恵みに豊かである』 恵みは罪に対して、あらゆる危険に対して、恵みは十分である。 第二に『信仰において豊かである』 神様はこの世の貧しい者を選んで信仰に富む者とされた。 第三に『源において豊かである』 キリストにある栄光の富をもってすべての必要を満たしてくださるから、私たちは物質的、霊的、感情的にすべての祝福を引き出すことができる。 第四に『希望において豊かである』 私たちの内におられるキリストこそ栄光の望みである。 イエス・キリストに救われて、神の子としての身分をいただき、永遠の命まで約束されているのに、なぜ、私たちは自分を貧弱で、貧相で、貧乏で、無力だと思い、悲観し、卑下し希望を失くしてしまうのでしょう。実質を越えた見栄や空威張りは論外ですが、実質以下に見積もるのは大きな問題です。しかしどうしてそうなってしまうのでしょうか。 ひとつには、豊かさに対する考え方がときどき間違ってしまうからでしょう。仮にもクリスチャンですから、この世の価値観ですべてを計ろうとはしないはずですが、この世に生きている限り、この世の説く豊かさに惹かれ染まることも多々あります。この世の価値観というカラーのついた眼鏡をかけてしまうのです。 もう一つは、恵みの源であるイエス様から目をそらしてしまうからでしょう。一心にイエス様を見つめていれば、イエス様から流れあふれる恵みで満たされるはずです。大きな浴槽に全身を浸しているようにどこもかしこも恵みでずぶ濡れになるはずです。この世に対して、胸を張り明るい笑顔を向け、みんながへこたれてもエネルギッシュに物事に取り組み、クリスチャンとしての存在を証しできるのではないでしょうか。私にとっての十分な恵みを主はくださっているのです。主から問われていることはどこまで信ずるか、でしょうか。
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みことばは教える パート2 その1 奉仕は100m競争ではなく、リレーである。
これは《みことばに聴く》というより、すでに、みことばの方から立ち上がって近づき、真理を語っている、そんな状況を表わしました。私が能動的にみことばに近づき、耳を傾ける前に、すでにみことばが動き出し、私に近づき、語りかけ、教えてくださるので、主体はみことばです。そんな霊的体験をお持ちでしょう。思いますに『ことばは神であった』のです。ですから、みことばが教えるのは当然なのです。 取り上げるみことばは、【新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(Daybreak John T.Seaman。ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団)からです。 ローマ人への手紙16章17〜27節 『私の同労者テモテが、あなたがたによろしくと言っています』21節 テキスト要旨 パウロはここで28名の名をあげて挨拶を送り、いっしょに挨拶を送りたい8名の名をあげている。リストの人たちはパウロの友人、支持者、同労者である。女性が8名いる。 キリスト教界にはすばらしい伝道者、宣教師、リーダーが何人もいるが、ほどんど一人で奉仕している。チームで奉仕することも、他の人を訓練し後継者を育てようとしない。パウロはチームの人であった。使徒の働きからは、バルナバ、シラス、ルカ、ヨハネ・マルコ、テモテ、アポロとチームを作っていたことがわかる。書簡からは、テキコ、アリスタルコ、テトス、ユスト、エパフラス、デマス、エラストをあげている。彼らの奉仕と協力に何度も感謝している。 パウロは今の私たちに大切な模範を残してくれた。牧師であれ、伝道者であれ、信徒であれ、キリストを証しする者は一人で仕事をしようとしてはいけない。一人で宣教大命令を成し遂げることはできない。互いに協力し、祈り、それぞれが他の人の奉仕を助けるために賜物を用い、自分の後に奉仕する人を訓練するチームを作らねばならない。 神様は、私たちを神様のパートナーとなるために召された。それはまた他の人のパートナーとなるためでもある。 キリスト教界だけでなく、どこの世界もそうかもしれませんが、自分だけがトップになりたがり、ずっとトップに留まり続けたがり、近くにいる有能な二番手を排除したがります。確かにその人は超有能で、主のためなら命をも惜しまないほどの情熱を持っています。しかし一匹狼のように思えます。ですから、せっかく始めたよい働きが、年月とともに翳っていきます。人を寄せ付けないからです。これはいったいどういうことでしょうか。さびしい限りですし、いやけを感じます。 力のある人は、人を立てても、一歩下がっても、決して彼自身の名声は消えも減りもしません。人を立てたら、自分の立場が奪われると思うのでしょうか。気の小さいこと! もちろん、仲間のすべてが自分の思うように働いてくれる保証はありません。人と関係を作れば必ず摩擦が起こります。ストレスもあります。むしろ、自分一人の方が働きやすいと思うことだってあります。裏切られることさえあります。イエス様もそうでした。 しかし敢えて、仲間づくりをし、ともに意見を交わし合い、何よりも祈りあって、主の働きを進めるのが大切だと思います。チームを作り、同労者と呼ぶ関係を築いたパウロの苦労は並大抵ではなかったでしょうが、彼は敢えてそうしたのでしょう。だからこそ、パウロを慕って近づく人もいたのでしょう。ともに奉仕するチーム作りを優先したいと強く教えられました。
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