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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2012.10.21 Sunday - 17:41

みことばのしずく ハガル・荒野のもう一つの民族の母  その6(最終回)

 

「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません」』

サラが夫アブラハムに向かって投げつけたヒステリックな叫び声は、ハガルにも聞こえただろう。サラははっきりと、イシュマエルをはしための子、イサクを私の子と呼んで区別した。区別ではなく差別した。いや蔑視したのだ。

 

サラはイサクが生まれるまでは、イシュマエルを私の子と呼んでいたのだ。ハガルの子などとは一言も言ったことがなかった。それが今や、荒々しくもはしための子と呼び捨てるのだ。ハガルは身の凍る思いで聞いた。そして、もうここには自分と息子イシュマエルの明日はないと直感したのではないだろうか。アブラハムがどのように対処するか、そこに一縷の望みを繋ぐ以外になかったろう。

 

翌朝、まだ暗いうちにアブラハムはハガル母子を呼んだ。アブラハムは沈痛な面持ちでパンの入った袋と水の入った革袋をハガルの肩にかけた。ここを去って行けというのである。どんなに考えてもそれしか方法がないことをハガルはすでに悟っていた。今度こそエジプトに帰ろうと思ったかどうか、想像するばかりだが、この子といっしょならきっと生きていけると思ったにちがいない。

 

ベエル・シェバの荒野をさまよっているうちに、とうとう革袋の水が無くなってしまった。一草一木さえない果てしない荒野の真ん中である。このままでは命も尽きることは明らかだった。若いイシュマエルが先に衰弱してしまった。ハガルは恐ろしさのあまり息子のそばにいることができなかった。イシュマエルは荒い息をして悶えていた。ハガルは天を仰いで振り絞るような声で泣いた。

 

神が呼びかけられた。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行って少年を起し、力づけなさい。私はあの子を大いなる国民とするからだ」

それは、かつて身重のハガルがシュルへの泉のほとりで出会った神だった。神はピンチのど真ん中で再び鮮やかに声をかけられ、するべきことを指示された。

 

ハガルがハッとして我に返ったとき、神の声の代わりに水の音が聞こえた。目を見開くと、なんと井戸があるではないか。すぐ手の届くところになみなみと水をたたえた井戸があったのだ。絶望と恐怖でパニックに陥っていたときは見えなかったが、心に平静が戻ったとき、気がついたのであろうか。

 

ハガルは空っぽの革袋に水をいっぱいにして、息子のそばに駆けよった。少年イシュマエルがまたたく間に元気を取り戻したことは言うまでもないだろう。

 

ハガル母子は、この時から荒野に住み着いた。もう、かつてのようにアブラハムのところに帰ることはなかった。イシュマエルはたくましく成長していった。

後年、エジプトから妻を迎え、神様の約束通りイシュマエルからもう一つの荒野の民族が誕生した。現在のアラブ人の祖である。後に彼らはイスラム教国を作り出し、今も、世界を大きく二分する。ユダヤ人とアラブ人が一人の父を持つのは神様の摂理、歴史の不思議であろう。

 

サラによるイサクを愛した神様は、ハガルのイシュマエルをも祝福なさった。神様には愛の不公平はない。敵も味方もない。ユダヤ人もアラブ人もない。何よりも世界の平和を願っておられるにちがいない。   (終わります)

 


  • 2012.10.16 Tuesday - 19:57

みことばのしずく ハガル・荒野のもう一つの民族の母 その5

 

ハガルの産んだイシュマエルは、サラの膝の上で、アブラハムの慈愛に満ちたまなざしの中で、すくすくと成長したことだろう。実際にはハガルが乳を与えたのだろう。しかし表面的には「イシュマエル様」と呼ばねばならなかったかも知れない。

ハガルの毎日が苦渋と忍耐そのものだったことは想像に難くない。しかしハガルは負けなかった。あの、シュルへの泉のほとりで出会ったエル・ロイの神様が、いつもいつも自分を見ておられる、その信仰力があったからだ。あの時「彼女のもとで身を低くしなさい」と言われた神のことばを心に刻みつけて、サラのそばで仕えたに違いない。

 

13年が過ぎようとしていた。イシュマエルはアブラハムとサラ夫婦、そして一族にとっては大切な跡取りある。押しも押されぬ後継者だ。ハガルも自分の立場をわきまえ賢く振る舞えたのではないか。手の届くところに我が子がいる、成長していく姿をま近に見ることができるのは、すべての苦労を忘れさせる何にもまさる喜びでありまた密かな誇りでもあったろう。

 

ところが驚天動地、だれも想像しなかったことが起こった。90歳のサラが子を産んだのだ。アブラハムはなんと100歳であった。神様の約束は実にサラによる世継ぎであったのだ。この意外な出来事はアブラハム夫婦にも大きな驚きであったが、いちばんショックを受けたのは言わずもがなハガルであろう。ハガルの心中の混乱ぶりはいかばかりであったか。お世継ぎ様イシュマエルは一転して邪魔者になるやもしれない。自分たち親子は追い出されるかも知れないと恐怖さえ覚えたことだろう。

 

サラの産んだ正統な世継ぎはイサクといった。いままでイシュマエル一人に注がれていたアブラハムとサラの愛情が手のひらを返すようにイサク一辺倒になったのは当然のことかも知れない。さらに一族郎党下男下女に至るまで、すべての視線はおさな子イサクに向けられてしまった。少年イシュマエルがその状況をどこまで感じていたか、それは測りかねるが、ハガルは気の狂うほど苦しんだに違いない。

 

イサクの乳離れの宴が盛大に催された。乳離れの年齢は聖書には確かな数字では記されていないが歳か3歳だろうか。イサクとイシュマエルは13違いである。イサクが2歳ならイシュマエルは15歳の立派な少年である。席上で一つの事件が起った。聖書は語る。

『そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません」』

 

それまでもサラは強い女主人であったが、自分の子を産んでからはいっそう強くなり、ハガルには傲然たる態度だったろう。サラはイサクが生まれた時点で即刻二人を追い出したかったに違いない。が、アブラハムはそうしなかった。ハガルの子イシュマエルをも愛したのだ。確かに自分の子なのだから。憐れみもあったろう。自責の念もあったろう。

サラは十数年間、煮えくりかえる怒りを抑えてきた。それが宴席でついに爆発したのだ。二人を追い出してくださいとアブラハムに詰め寄るのである。

 

世に三角関係のもつれは珍しくないが、理由はなんであれ、敗者には哀れを感じてしまう。

板挟みで悩むのはアブラハム、ああ悩める人アブラハムよ。後年、信仰の父と仰がれる偉人もこの時ばかりは見る影もない。(あと一回続きます)

 

 

 
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