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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
みことばのしずく《さあ、天を見上げなさい》その3・ その4みことばのしずく《さあ、天を見上げなさい》その3 満天の星とは重宝なことばである。そう言えばだれでも自分の記憶にある星空を思い浮かべる。山で、海辺で、南国で、北国で見た夜空、あるいは幼い日のふるさとの星空を思う。間違っても東京には満天の星空はないが。しかし今、3500年前にアブラハムが見た星空をだれが見ることができるだろう。想像すらできないのではないか。 だが、アブラハムにとっては特別の景観ではなかったはずだ。むしろ、毎晩のように眼にしていたもの、見慣れたものだったにちがいない。また、神様が《外に連れ出した》ところは、遠隔の地ではなかったろう。住まいの入り口からほんの少しのところだったように思う。つまり、アブラハムはいつもの場所からいつもの夜空を眺めたのだと思う。変わりばえしない日常のただ中のことに違いない。 神様が私たちにお声をかけ、恵みを示してくださるのは、なにも特別に取り分けた時間や場所ではない、もちろん、そうしたこともあるだろう。しかし神様はたいてい私たちの日々の真ん中に御自ら体を動かし足を運んで手を差し伸べられる。《外に連れ出して》《さあ、天を見上げなさい》と容易な方法をお使いになる。ちょっと場所と視点を変えさせるだけなのだ。ハガルが荒野で見つけた《そこにある泉》と本質的に同じだと思う。 アブラハムは、神様に手を引かれるようにして戸口の外へ出た。神様に頬をつつかれるようにして空を見上げた。暗い夜空を、ふんだんに金粒や銀砂をまき散らしたような星空を。 すると、星たちの瞬きが生き物のように見えた。小さな生き物たちが息をしているように思えた。いつもの見慣れた星空とはまるで違っていた。新しいものを見た気がした。いままで星空がこんなにも美しいとは気がつかなかった。アブラハムの心に大きな感動の波が押しよせてきた。 耳元に神様の声が聞こえた。『星を数えることができるなら、それを数えなさい』 そんなこと、無理ですよ…どうやって数えるのですか、こんなにたくさんですから…。 神様は返事を期待してはおられなかった。追いかけるように『あなたの子孫はこのようになる』と言われた。 突然、十年以上も半信半疑だったこと、つい先ほどまで受け入れがたかったことが、すっとお腹に入った。ああ、ほんとうに、わたしの身から出る者がこのようになるのですね。信じます!感謝します!そのとき、アブラハムの全身は体感できるほどあたたかい神の愛の包まれていたと想像する。(続きます)20日に掲載 みことばのしずく《さあ、天を見上げなさい》その4 神様に『外に連れ』だされ『さあ、天を見上げなさい』と促され、『あなたの子孫はこのようになる』と、わかりやすい例をみせられたアブラハムは、心底納得した。 その時の状況を聖書は明快に『アブラハムは主を信じた。神はそれを彼の義と認められた』と短く記している。 神様はこの時をじっと待っておられたのだと思う。神様はアブラハムのこの心が見たかったのだ。神様のおことばへの信頼、つまり不動の信仰が生まれるのをじっと待っておられたのだ。神様も待っておられただろうが、アブラハムも待ち続けた。『神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました』(ローマ4章21節)と、後世、使徒パウロは説明する。アブラハムは信仰の旅路の必携品として忍耐という杖を片時も手放さなかったにちいがいない。そして、ついに神様はその信仰を見て、我が意をえたりとばかり即座にアブラハムを義と認めたのである。 この出来事は以後キリスト教の歴史を貫く一大真理となった。 信仰による義を用いて、神様は人間救済の事業を完成させた。これは律法と福音を分ける唯一の真理である。 使徒パウロはこの真理を駆使してローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙を書き、マルチン・ルターは宗教改革を推進し、私たちの信仰はこの上に立って初めて健全なのだ。これ以外にクリスチャンの信仰の足場はない。自分の信仰を吟味する、なくてならぬ物差しでもある。 それにしても、一大真理の原型が、まだ、モーセの律法ができるはるか昔に、一人の流浪の老人と神様の間に生まれたのはじつに愉快なことではないか。神様の真理や啓示は決して大所高所から居丈高に下されるものではないのだ。どこにでもいるような一介の老人の、かそけき小さな信仰を嘉して、義人という冠を与え、信仰の父という太鼓判を押されたのだ。あふれ出る神様の愛が実に楽しい。深遠な場面なのだが、ユーモアさえ感じるのは私の偏よった読み込みであろうか。 そしてこの時からアブラハムと神様と間には大人同士の友情が生まれ、関係は深く親しくなっていく。『わたしはあなたがたを友と呼びました』(ヨハネ15章15節)とのイエス様のお声が重なってくる。 さて、その日神様は約束を更新する。それは以前のものよりずっと具体的であった。 「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。 15:19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、 15:20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、 15:21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」これが内容である。 もちろんこれもあくまで約束である。所有権を登記したというようなことではない。 18章になると神様は『わたしは全能の神である』とご自身について明かす。アブラハム99歳の時である。信仰のスタートをしてから25年の歳月が経っている。神様はアブラハムの信仰の成長に合わせて、徐々にご自身を表し、より深い理解と関係作りをなさったのだと思う。神様は計り知れないほど大きなお方である。一度に全容を見せられても、理解できないばかりか消化不良を起こしてしまうかも知れないから。 私たちにできることは、今日、今、『さあ、天を見上げない』とのおことばに従うことだと思う。私の小さな狭い星空でなく、神様が造られた星空を見上げることだ。神様の約束が示され、聞こえてくるのではないだろか。 『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは』(詩篇8・3〜4) 新約時代の夜空には、宵の明星、明けの明星であるイエス・キリストが一目でわかるように大きく明るくあたたかく輝いている。希望の風も勢いよく吹いている。 『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい』ヘブル12章2節 (おわり)
Category : みことばのしずく
みことばのしずく《さあ、天を見上げなさい》その2
13章ではアブラハムは甥のロト一族と別れることになる。ロトはあの悪徳の町ソドムとゴモラの近くの低地へ移動した。 14章では、カナンの王たちが二つに分れて戦争をし、ロトの家族がエラムの王ケドラルオメル等に連れ去られてしまった。報を得たアブラハムは自分の郎党318人を引き連れて追跡し、戦いの末、ロトを救出する壮烈な出来事が記されている。 15章《さあ、天を見上げなさい》はそれらの後のことである。 アブラハムの心の奥深くにとどまるのは神様の約束である。そもそもカナンへ信仰の旅路を始めるに当たって神様は『あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるにしよう』と明言なさったのだ。75歳の時だ。アブラハムは祝福だけを目当て神様に従ったのではないだろうが、神様が言われたことだから必ずそのようになっていくと信じていたに違いない。 15章《さあ、天を見上げなさい》までにどのくらいの年月が経ったのか正確には記されてはいない。しかし憶測できる資料がある。次の16章では86歳のアブラハムが妻サライの女奴隷ハガルに子どもを産ませていることから、15章のアブラハムは85歳ではなかったと思っている。約束を信じてスタートしてから10年経っていたと言える。 10年間、アブラハムは信仰的にも道徳的にも実に正しく生きてきた。甥のロトに対しては年長者としての当然の権利を捨てて彼の利益を優先させ、また命を投げ出すほど愛を注いだ。神様の約束を固く胸に秘めて黙々と従ってきた。でも、大いなる国民どころか、子ども一人持つことができないでいる。カナンに入ってもまだ一坪の所有地もない。しがない流浪の民に過ぎない。いつ周辺の部族に襲撃されて皆殺しに遭わないとも限らない。アブラハムの苦悩は深く、恐れは大きかったに違いない。 その心中を見透かすように神は声をかける。『アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である、あなたの受ける報いは非常に大きい』と。アブラハムはうれしかっただろうか。それとも、ああ、主よ、また約束手形ですか…。と言わなかっただろうか。聖書では、あなたは私に子どもをくださいません。私の跡継ぎは親類のものがなるのでしょうか。それとも家の奴隷の一人がなるのでしょうかと言っている。精一杯の抗議のようにも聞こえる。それは身を捩るほどの悲痛な叫びではなかったか。 神様はすぐに『それらの人があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者があなたの跡を継がなければならない』と断言する。その時彼の脳裏を、75歳の老妻サライの皺深い顔が浮かんだか、それはわからないが、神様のおことばとは言え、受け入れがたいものがあったに違いない。 神様はまたもやそんなアブラハムの心中を手に取るようにご存じだったに違いない。アブラハムを外に連れ出したのである。《外に連れ出した》とは意味深い。視界の狭い家の中にいて、じっと考え込んでばかりいても、堂々巡りするばかりということがよくある。だからであろう、神様は外に連れ出したのである。時は夜。空には無数の星が瞬きいていた。 外に連れ出した神様は開口一番『さあ、天を見上げなさい』と言われた。アブラハムは物言う暇もなく言われたとおりにした。 アブラハムの物語はここが一つのクライマックスである。天を見上げる単純な行為が、その後、神様の大いなる真理を、後のことばで言えば福音の原点を生み出す糸口になるのだ。 『さあ、天を見上げなさい』と促す神様は一体なにを見せようとするのだろうか。アブラハムは何を見て、何を思ったのか。それを通して神様は私たちに何を語ろうとしておられるのだろうか。つづく
Category : みことばのしずく
みことばのしずく 《さあ、天を見上げなさい》その1
今まではある角度からしか見ていなかった。だが、一面だけでなく、横顔や、後ろ姿が見えてきた。彼への理解と親愛の情が以前より少しばかり深まってきたと思うのだ。深く研究したからではない。たくさんの本を読んだからでもない。名講義や名説教を聞いたからでもない。もちろんそうした外側からの影響もあるだろう。自力です、などと傲慢不遜なことを言うつもりはない。あるとすれば、一年ごとの加齢、登り行く老いの坂道が、語りかけてくることが大きな原因だと思う。 私は今、アブラハムのことを、《私のアブラハム》、《アブラハムを愛して》と表現したいとさえ思う。自分ながら興味深いことだと思っている。アブラハムは長い間私には近づきがたい偉人であったから。 振り返れば、アブラハムは私が教会へ行き始めた幼い日に、最初に出会った人物だった。教会の老牧師は、いつもいつもアブラハムを語った。おはこの説教だった。
『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。そうすればわたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるにしよう』 アブラハムは神に従って《行き先を知らずして》出ていった、信仰とは神に絶対服従することだと師は力説した。続いてアブラハムがひとり子イサクをささげる箇所が開かれた。ここでも問答無用、絶対服従が説かれた。そして老牧師はご自身の献身の顛末を語った。それは現代のアブラハムで物語であった。生まれ故郷を捨て、全財産を捨て、それまでの社会的な高位をかなぐり捨てての献身であった。 アブラハムも、先生も、私にとっては巨人であった。手の届かない雲の上の超人であった。すばらしい模範だった。彼らの後に従おうと懸命に信仰に励んだ。 若い日に、こうした教えと訓練を受けたことを、私は生涯の宝だと思って深く感謝している。しかし、アブラハムは依然として遠い人であった。 アブラハムは75歳で信仰を持ち、175歳で亡くなった。その間100年、神様に従い通した。何と長い歳月だろう。100年間も従順に信仰生活を継続したのだ。気の遠くなるような歳月ではないか。 しかし、最近になって気がついた。私も信仰生活が50年を過ぎたのだ。アブラハムの半分を行ったのだ。それがわかったとき、不敬虔かも知れないが「アブラハムさん」と親しみを込めて声をかけたくなった。「あなたの信仰のあかしを聞かせてください」とかたわらに座したくなった。 アブラハム物語は創世記12章から25章8節まで延々と続く。一つ一つの文章の主語は三人称のアブラハム(16章まではアブラム)である。第3者が語っているのだ。単純に正確にアブラハムの信仰生涯が語られている。それを読んでいくのであるが、ふと、アブラハム自身が顔を覗かせて、「そのときわしは…」「そこでわしは…」とか、「あの時の神は…」「神とわしは…」などと、語っているような気配を感じる。そうして読んでいると、物語がお腹の奥にまでじんじんとしみ込んでくる。アブラハムといっしょに現場にいるような気がしてくる。
Category : みことばのしずく
みことばのしずく《永遠に生きないように》ひとこと 前回までのカテゴリー【みことばと対峙して】は、みことばと膝詰め談判するような緊張感の中で、全身を差し出して導きを求め、待ち望む、私の魂の姿勢から名付けました。 今回からの【みことばのしずく】は、もう一つのブログ『希望の風・聖書の風から』に数年前にアップしたものですが、昨今、再読していて、私自身がもう一度、みことばから滴り落ちる天のしずくにうるおされましたので、ここに載せるように心が動きました。一度読んでくださった方も、お時間が許されるなら、立ち止まって覗いていただけたら幸いです。
神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
この箇所は、アダムとエバが楽園を追放されるときに、神が言われたことばである。アダムとエバは神との約束を破って善悪の知識の実を食べてしまった。人が犯した最初の罪である。それまで、人は罪を知らなかった、罪人ではなかったのだ。だが、罪を犯したので罪の結果の死を負う者になってしまった。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、あなたは必ず死ぬ』(2章16,17節)それを受けて新約では『罪からくる報酬は死です』 (ローマ6章23節)と断言されている。 罪を犯さなかった時、人は死を知らなかった。エデンの園には罪も死もなかった。人は園の中央にあるいのちの木から思いのままに取って食べていたと思われる。人はいのちの木の実を自由に食べて永遠のいのちを宿し、生き生きと朗らかに暮らしていたのだろう。 だが、罪を犯して死ぬべき者となったからには、いのちの木の実を食べることはできない。もし、そのまま園にいたら、きっといのちの木からも取って食べてしまうだろう。それは神様のルールでは許されないことだった。人は《それを取って食べるとき、必ず死ぬ》と宣言されて、有限な者になり下がってしまったのだ。もう罪なき死なきエデンの園にいることはできないのだ。神様は彼らを追放するしかなかった。永遠に生きないようにするためであった。永遠に生きないようにとは、創世の初めから人間に科せられた悲しい定めなのだ。 詩篇の箇所が忽然と浮かび上がってきた。 『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。 しかも、その誇りとするところは 労苦とわざわいです。 それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 だれが御怒りの力を知っているでしょう。 だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。 その恐れにふさわしく。 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。 そうして私たちに知恵の心を得させてください』 これはモーセの祈りである。モーセは3500年以上も昔の人だが彼のことばは時代を越えて現代にもそのまま通ずるではないか。こんなに科学文明が発達し、医学が進歩しても、病気知らずの人であっても70歳を越えればれっきとした老人だ。健やかであっても80年とは、まことに至言である。 現代の医学は延命を探求してやまない。生命そのものまでも作り出そうとしている。人がそれを願うからだろう。いつまでも元気で生きていたい。なんとかして一日でも長く生きたいのだ。いつ死んでもいいと言うかたわら、検査で病気の気配でも見つかったなら、そのままほっておく人はいないだろう。手術して、治療して、服薬して、生き延びようとする。本能なのだろう。いのちを大切にすることは人間として大切な役目の一つだとも思うが。 でも、限りがあるのだ。《永遠に生きないように》とされているのだ。人類はそれを忘れているような気がする。さらに、肉体だけがどんなに長く生きても、中身の心が、魂が、病み、痛んでいたら、本当に生きているとは言い難い。失望と寂しさに沈んだままでいいのだろうか。生きるとは愛と希望と喜びと感謝など精神活動の総称ではないか。たとえ苦難の中にあっても希望を持ち喜びがあるなら、真に生きているといえると思う。 聖書はそこに信仰を加える。信仰と希望と愛は永遠に続くという。有限とされた人間に永遠が近づいてくる。しかし、両者が一体となるには、人が永遠のいのちを持たねばならない。永遠に生きないように定められた人間だが、神様は人に、永遠に生きる道をもう一度備えられた。永遠のいのちであるイエス・キリストに贖われた者に永遠のいのちをくださる救いの道である。 あわれみ深い神様は人が滅びるのを見ておられなかったのだ。一度はエデンの園を追放したものの、神様はどこまでもどこまでも人を追いかけ探された。「あなたはどこにいるのか」と。 《永遠に生きないように》と厳しくエデンの園を閉じられた神様が、エデンの東に住むあわれな罪人たちに、独り子イエス・キリストを遣わして、信じる者に永遠のいのちを与えられた。しかもこんどは天の御国で神様ご自身とともに永遠に生きようとしてくださっている。計り知れない無限の愛に感謝せずにはいられない。 《永遠に生きないように》から《永遠のいのちを持つためである》の間を貫く神の愛に信じすがって、有限な地上の歩みを進めていきたいと切に願う。終わりを見据えつつ、終わりを越えた永遠の世界に喜びの視線を馳せながら。
Category : みことばのしずく
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