- 2023.07.12 Wednesday -
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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
みことばと対峙して その4ピりピ人への手紙4章6節、7節 『何事も思い煩らわないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます』 心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます またこのみことばの前に立ち返り、しばし立ち尽くしています。 そのときは、思い煩いの中で悶々としたわけではありませんでした。むしろ、一つのことが順調に進んだので主に感謝しつつ喜んでいた矢先でした。達成感を覚えながら晴れ晴れとした思いにさえ浸っていたのです。足をすくわれるとはこのことです。突然の雷雨のように、思ってもみなかった強烈な悪意の雨に見舞われてしまいました。うそでしょう、あなたもいっしょに力を合わせ、ともに感謝したではありませんか。あれはなんだったのでしょう。ただのポーズだったのですか。まさか、まさかーーー。とたんに心と思いがかき乱されてしまいました。自分の言動を振り返る暇もありません。冷静になる前に、ショックや怒りの大波にのみこまれそうでした。 それでも、多少、心の余裕があったのでしょう、その波の真ん中に突っ立って、このピりピのみことば、心と思いを守ってくれますのフレーズに集中しました。祈りになりました。イエス様、私の心と思いを守ってくださいと。 悪い思いに引きずり込まれてはならないと強く強く願いながら祈り続けました。心と思いが神の平安に守られるのは容易なことではありません。怒ったり恨んだりつらんだりの滅びの波は何度でもしつこく襲来します。 次第に、自己正当化が弱まり、自己憐憫は消え、敵愾心も退き、サタンの仕業だと見破る力も与えられ、みことばの真実に信頼して、心と思いを守っていただきたいとのみ嘆願できるようになってきました。心と思いが守られるとは、そこにイエス・キリストの平安があることです。平安の内に心と思い戸が守られるところには、主の御霊がおられます。主がおられるのです。それが100%の解決です。 外側はかまびすしくとも、聖霊の正しい導きの内に心と思いが守られることこそ、世に打ち勝った力でしょう。今では自分自身の姿も冷静に判断しています。心と思いが守られていると信じ、感謝しています。
Category : みことばと対峙して
みことばと対峙して その3ピりピ人への手紙 4章6節、7節『何事も思い煩らわないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます』 何事も思い煩らわいで およそ人間にとっていちばんの難題は、思い煩うなということではないでしょうか。不可能に近いことかもしれません。大方の人は何事も悲観的に考えやすいし心配性という性質まであります。楽観主義者は正常人間扱いされませんし、プラス思考論はいつも書店の目立つところにあふれています。困難な思考だからでしょう。 自分の立ち位置より低い方へ体も心も向けるほうが、頭をあげ両手を挙げ背伸びし、心を大空や前方に持ちあげるよりは楽なことは確かです。しかし、まかり通っている悲観論、マイナス思考は、思い煩いという非生産的な重い陰鬱な精神作用となって人の心を蝕んでいきます。 イエス様は、明日のことは思い煩うなと言われました。パウロは何事も思いわずらわないでと、明日をも含めて、今現在も、もちろん過ぎ去って手出しのできない過去も、思い煩うなと命じます。もちろんイエス様もパウロも理由もなしに思い煩うなと一方的に命じているわけではありません。その背景には思い煩わなくてもいいための必要十分な理由を力強く説いています。その説くところは後日に譲るとして、『何事も思い煩らわいで』のワンフレーズだけでも大きな説得力があります。 イエス様が思い煩うなと言っておられる、あのパウロがまごころから何事も思い煩うなと語りかけている、ただ事ではないのだと真正面から受け止める気が起きます。 あるとき、居ても立ってもいられないような思いにとらわれ、気持ちが落ち着かず、心が破裂しそうになりました。しかし持って行く場がありません。人に言うわけにもいきません。私だけの葛藤なのです。正論としては、そんなことで思い煩うなんてーーーと一笑に付されてしまうことかもしれないのです。しかし、そのとき私の心は騒いだりふさいだりしてちぢに乱れていました。 もちろんすぐに祈りました。夢中になって訴え調の祈りに没頭しましたが、こんな祈り方はよくないと感じました。そのとき、ピリピのこのみことばが浮かびました。『何事も思いわずらわないで』です。また、『あらゆる場合に感謝を持ってささげる祈りと願いとによって』でした。 私は思い直して、『思い煩わないで』の一句を片隅に置きながら、現状を祈り続けました。すると『思い煩わないで』と思うたびに心がしっかりしてきました。落ち着いてきました。 しばらくして私は、ああ、このことはすでに主が知っておられることだと気が付きました。それで十分ではないかと思った時、波が収まり、穏やかな気持ちになれました。さらに、主は必ず事態を好転させてくださるとの確信まで生まれました。 ほどなく私は祈りの場から離れました。心の重さを計ってみたいほど軽くなっていました。居ても立ってもいられなかったのに、何も手につかなかったのに、嵐が去った後のように平静心に戻って日常に向かっていました。 その後、あれほど切羽詰まった天下の一大事のように感じたことが、小さく見え、取り乱した自分がおかしくさえ思えました。鳥越苦労をし、よけいな思い煩いをしていたのです。さらにその後、私が願ったように、状況がよくなったのです。この体験は、私にとって、奥行きの深い信仰生活へ導かれるための重要なレッスンだったと思います。このタイミングや呼吸を忘れれはならないと自分に向かって強く言い聞かせたことです。
Category : みことばと対峙して
みことばと対峙して その2
『何事も思い煩らわないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます』 人のすべての考えにまさる神の平安 今、一人の愛する姉妹が、まもなく最期の時を迎えようとしています。姉妹は60代半ば。姉妹が神様の御国へ帰って行けるのはとっくに保証済みで、だれも疑ってはいません。姉妹もその希望をもって、苦しい闘病の日々を送っています。だからと言ってそれですべて解決するというわけにはいきません。なによりもこの長寿時代では早すぎると思います。 姉妹はここ数年最新の医学で治療を受け、副作用にも耐えてきましたが、その限界が見えてきました。さらにさらに高度な高額な治療を勧められましたが、それにも限界があることを知ってからは、なによりもQOLを大切にしたいと一大決心をして、すべて治療を断念し、在宅で普通の生活を続けています。 そんな姉妹を見続ける周囲の思いは複雑です。人それぞれに様々な考えがあります。姉妹の選択に異議を唱える人たちもいます。ハラハラしながらもそっと見守る人もいます。ああしたらいい、こうしたらいいと、愛と善意からアドバイスする人もいます。 そんな中で刻一刻と病状は進行していきます。姉妹が大切にしていたQOLも維持できなくなっています。医療を選択するのは姉妹の思いひとつです。周辺はどうすることもできません。 そうした中で、『人のすべての考えにまさる神の平安』が姉妹に与えられ、満たされ、それにのみより頼むようにと祈ることこそ、最善で最高の方法だと確信するに至りました。 人のすべての考えに勝る神様の平安に包まれるなら、越えられないものはないと思います。 神の平安こそ、あらゆる試練や苦難に立ち向かい打ち勝つ最強の武器でしょう。 イエス様は、十字架に架かる前夜に愛する弟子たちに『私はあなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます』(ヨハネ14章27節)と言われました。 これはイエス様の遺言であり、イエス様の残された遺産です。姉妹がこの絶大な遺産を相続し、平安に過ごすことを、姉妹への愛をこめて祈り続けます。
Category : みことばと対峙して
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