- 2023.07.12 Wednesday -
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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
ロイド氏は説く その10
赦しの精神
自分のもろもろの罪は神によって赦されていると考えていても、他の誰かを赦そうとしていないなとしたら、それは思い違いをしているのであって、決して赦されてはいないのである。自分がキリストの血によって赦されていることを知っているなら、他の人々を赦さずにはいられない。キリストを本当に自分の《救い主》として知るなら、心砕かれ、かたくななままではいられなくなる。主もそれを明らかにしておられる。『……人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません』(マタイ6・14〜15) このことは絶対的で避けられない。真の赦しは人を砕く。赦さざるを得なくなる。私たちの心の中に赦しが見みいだされない限り決して私たちの祈りは純粋なもの、真実なもの、有用なものでありえない。 ロイド氏は鋭く胸を突いてきます。私たちは心底自分を罪深いと思うし、その罪を赦されたいと祈り求めます。そして、悔い改めれば赦される(第一ヨハネ1章9節)とのみことばによって全く罪赦されてきよくされたと信じ、感謝する者です。しかし主は一方で、ロイド氏の説くごとく、人の罪を赦さないなら、赦されないと言われます。主の祈りにも明記されています。では、私たちの罪は、十字架の贖いを信じて、告白しても、人を赦さない限り赦されないのでしょうか。これは福音の真理を平面的並列的に考えているのでしょうか。立体的にとらえるべき事柄なのでしょうか。 ある出来事によって不快な思いにさせられたり、危害を加えられたり、傷つけられたりすると、怒りや憎しみが渦巻き、あるいはいつまでもわだかまり、すっきりしないことが多くあります。時には顔も見たくない、口も利きたくない、近づきたくない人もいます。それは赦していないという証拠でしょう。そうした場合、私もまた主に赦されていないということなのでしょうか。もちろん、人を憎んだり怒ったりするは罪であるとは承知していますからその罪の赦しも祈り求めます。しかし、苦い感情は一朝一夕には消えません。その事実を忘れることはできません。いつまでも残り、また時々思い出してはかつてのにがにがしい思いが湧き上がってきます。それは、赦していないことなのでしょうか。と同時に、私は赦されていないのでしょうか。 再び主の祈りを思い出します。 『我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ』 罪の赦しを乞う祈りの前提には、他者を赦す自分がいなければならないのです。他者を赦したという捧げ持物を携えて、祈りの祭壇に行くことです。そのように理解しました。実践し、真に主に赦され、愛される者となりたいと祈ります。
Category : ロイド氏は説く
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