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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2012.03.25 Sunday - 18:09

ロイド氏は説く その7 祈りの回廊

カテドラル





ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 祈りの回廊


テキスト要旨

ある種のキリスト者たちは、あらゆる問題に効く万能の回答を持っている。問題が何であれ関係なく「そのことについては祈りなさい」という。それは多くの場合薄っぺらな誤った忠告である。祈りは駆け込み式にいつでもできると思うのは何よりも愚鈍なことである。

 

歴史上もっとも偉大な祈りの人、ジョージ・ミューラーはこう告げている。

彼はある時まで長年にわたり毎朝まず最初に祈ることにしてきた。だがそれは最善の仕方ではないと悟った。

 

正しく霊的に祈るためには、自分が御霊ご自身のうちにいなければならない、自分自身をまず整えなくてはならない。そのためには、常に聖書の、またなにか霊想的な書物の、一節を読んでから始めて祈りだすことである。つまり、まず自分自身と自分の霊の誤った考えを正さないかぎり、神に正しく祈ることはできない。祈りだす前に神の臨在を悟るべきでる。神の家から、神のことばへ、そして神への祈り、神との交わりという段階を踏むことが正しいことである。

 

祈りを、自分の願いをかなえてくれる便利な機械のように、あるいは自己実現のための手段のように考えていないかと真正面から問われれば、たいていのキリスト者はとんでもないと否定するでしょう。しかし、主の前にひざまずけば、開口から嘆願の祈りから始まってしまいます。それは深く反省すべきでしょう。主はどんな祈りも忍耐を以て受け止めてくださっているでしょうが、人格を持つお方としてもっともっと礼を尽くして近づき、親しい交わりの中に入れていいただくことが先決でしょう。そのためにはこちら側が霊的に整えられるべきなのでしょう。

 

霊的に整えられるとは、ミューラー氏が悟ったように、ロイド氏が引用するように、みことばや霊の高嶺を歩んだ先達のことばで装うことだと思います。実行してみます。祈りこそ、神様がくださった究極の賜物であり、喜びの時なのですから。

 

  • 2012.03.18 Sunday - 14:19

ロイド氏は説く その6 将来を抵当に入れてはならない

ステンドグラス 3


ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

テキスト要約

イエスは、あなたはなぜ将来についての心配にふけっているのかと尋ねておられる。『明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります』もし、現在が今のままで十分悪いとしたら、なぜ将来を迎えに行くのか。将来について心配するのは精力の浪費である。いかに心配しようと将来はどうしようもないのである。迫りくると思われる疫災は想像上のものである。全く起こらないこともありうる。将来のことを現在心配することによって将来を抵当に入れているのである。心配する結果、現在の力は失われ、今日について最大限の力で当たれない。

 

人間は労苦しなければならず、種々の試練と苦難に出会わなければならないのである。人生の一日一日には、種々の問題や困難の割り当てがあるのである。毎日起こることもあれば起こらないこともある。なすべきことは、一日一日をそれそのものとして、生きることだと悟るべきである。今日のための割り当てがある。それに向き合い応じるのである。主は私たちがいかにそうすべきかを告げておられるのである。

 

明日への思い煩いがいかに愚かなことかは、たいていの会話の落ち、あるいは結び言葉として、聞かれない日はないくらい、頻発する話題ではないでしょうか。クリスチャンなら「神様におゆだねすることね」「神様は何もかもご存知だから」と締めくくることが多のではないでしょうか。みんなわかっているのです、頭では。でも心はそうはいかないのです。人前ではそう言い切っていても、一人になるとあれこれ考えはじめ、思いは明日へ明日へ、それも不安や心配の方に流れて行くのです。明日を考えてウキウキするのは遠足の前日の子どもたち、あるいは結婚式前日の花嫁花婿、第一志望校の合格通知を手にした若者だけかもしれません。しかし彼らとていつまでも希望の風の中にいられるとは限りません。

 

明日を思い煩うのはある意味で人間の特性かもしれません。そしてその源泉を訪ねれば、人間の罪性から発しているとも考えられます。自己中心や自己欲の仕業かもしれません。要するに今日より幸せになりたいのです。物心両面で安心したいのです。自己防衛本能かもしれません。

 

イエス様はあなた方に必要なものはすべてご存じだと言われます。だからこそまず第一に『神の国とその義を求めよ』といわれ、そうすれば願っていること欲していることはすべて与えると約束されました。ロイド氏はそのことを説いておられるのでしょう。強調しておられるのでしょう。将来を抵当に入れてはならないとは核心をついた名言です。

 

  • 2012.03.08 Thursday - 17:54

ロイド氏は説く その5 祈りの手本

 

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

祈りの手本

 

テキスト要旨

主の祈りは疑いもなく祈りの一つの手本である。これは原則という形ですべてを網羅している。主の祈りには何一つ付け足すことができない。何事も省かれてはならない。ただしそれは、祈るときに単に主の祈りを唱え、それでやめるべきだという意味ではない。主ご自身そうしてはおられなかった。何度も夜を徹して祈り、朝早く暗いうちから起きて何時間も祈っておられた。聖徒たちの伝記にもある、ウエスレーは常々、少なくとも毎日4時間は祈っていないキリスト者のことは大して評価しないと言っていたーーー。

 

主の祈りはあらゆる原則を含んでいる。ここにあるのは祈りの骨格である。いかに長い祈りを取り上げてもすべてはこうした原則に還元できる。私たちはそれを展開し、それに基づいて自分の一切の祈願をささげればよい。一切のことをほんの数行に還元されたこの手際は、この語り手が神の御子ご自身に他ならない事実を宣言するものである。

 

ロイド氏は実に的確に主の祈りの性格を説かれました。うなずくばかりです。主の祈りは、礼拝はもちろん祈祷会や集会で祈られますが、昨今、あまり用いられない気がします。個人の祈りの生活の中でも用いているでしょうか。ただ形式的に唱えるだけでは祈りではない、信仰ではないなどと思ってはいないでしょうか。もちろん、心のこもらない祈りは、主の祈りであろうと、自由な祈りであろうと主の前に届く前に空中分解してしまうでしょう。それは祈りではないでしょう。

 

時に万感の思いを込めて主の祈りだけを祈って立ち上がりたいと思います。もっと祈らなければ、あれもこれも祈らなければと焦燥感に駆られるとしたら、祈りの手本として教えてくださった主イエス様のお心に反してしまうのではないでしょうか。

 

私たちが祈る前にすでにすべてをご存じの神様のみ前に、すべてをおまかせして、心静かに主の祈りだけを祈って満足できる祈り手に時にはなりたいと思います。くどくどしく祈るなと言って教えてくださったスリムな主の祈りを感謝して祈れるものになりたいと思います。


  • 2012.03.01 Thursday - 12:40

ロイド氏は説く その4 祈りを楽しむ

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

きよきうれしき ひとときぞ

御座の前にて 過ごせるは

ひざつき祈り わが神と

われは語らん 友のごと  

(ファニー クロスビー作詞の讃美歌)

 

テキスト要旨

歴史上最も聖徒らしい生き方をしたすべての人々の際立った特徴は、単に密室の祈りに多くの時間を費やしていただけでなく、それを楽しんでいたことであった。神との会話に多くの時間を費やしていたのである。弟子たちは主がよく『夜明け前のまだ暗いうちに』起き出して祈るために山に行くこと、祈りながら夜を明かすことを知っていた。『主は何を語っておられるのだろう。何をしておられるのだろう』と自問しただろう。また『自分なら、ほんの数分も祈って入ると、言葉に窮してしまう。なぜ主はあれほど長く祈っていられるのだろう』と考えたかもしれない。だから彼らは『私たちに祈り方を教えてください』と質問したのである。

 

自分の祈りの生活に不満を感じ、真に祈るとはどういうことか、より深く知りたいと切望したことがあるだろうか。あるとしたらそれは有望なしるしである。

 

上述の賛美の歌詞に引かれました。よく見ると、ファニー・クロスビーのものでした。注に『I Am ThineO Lord』の第三節の言葉とありますので、日本語の讃美歌にはないのかもしれません。クロスビーの生涯を調べたことがあります。幼いころに盲目になり、多くの辛酸をなめつくし、死の影の谷、涙の乾く日のない歳月を生きた、通俗的な言葉で表現すれば、薄幸の女性です。しかし、試練は彼女を最高の信仰者に育てました。彼女の賛美の歌詞は魂の奥底にひたひたとしみこんで行き、魂にいのちと喜びを与えてくれます。

 

ロイド氏は、神との祈りを楽しむことを説くとき、クロスビーの詩を取り上げたのには、傲慢な言い方かもしれませんが、最高の例話だと深く感じ入り、感激したことです。

 

かの聖人、アッシジのフランチェスカが、一晩中祈っているといううわさを聞いて、隣室で聞き耳を立てていた不謹慎者がいたそうです。ところがちっとも祈りの声は聞こえてこず、時々「おお、主よ!」とだけ、だったそうです。フランチェスカは祈りの時を楽しみ、主とそれはそれは密なる語らいをしていたのです。これが祈りの奥義でしょう。

 

 

 

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