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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2012.02.18 Saturday - 18:15

ロイド氏は説く その3  祈り

 

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

祈り―――人間の魂が行う最高の活動

 

テキスト要旨

人が神に語りかけているとき、その人は自分の頂点に達している。それは人間の魂が行う最高の活動である。同時にそれは真の霊的試金石である。キリスト者としての生活のいかなるものも祈りに比べれば容易である。

施しをすることも、自己訓練をすることも、説教するさえも祈りに比べれば格段に容易である。神に語りかけるよりは人に語りかけるほうがはるかに容易である。神と二人きりでいる時こそ、自分の真の霊的状態を発見する。

私たちは一人でいるときのほうが、人々とともにいる時より神に語ることが少ない。しばしばそうなるがそうあるべきではない。神と二人きりになった時こそ、自分の本当の霊的立場がわかる。祈りは自分の霊的状態を計る究極的な試金石である。

 

イエス様は『絶えず祈りに励みなさい』と言われました。また『目を覚まして祈っていなさい』とも言われました。思えば、祈りほど教会で、せよと、ストレートに勧められることは他にありません。礼拝に来ることも、聖書を読むことも、奉仕をすることも、献金することも、祈りほどはしばしばダイレクトには言われません。それでいて、一番軽んじられているとよく聞きます。祈りの世界は奥が深いためかもしれません。

 

イエス様の勧められる祈りの中で忘れてならないのは『あなたは祈るときには、自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸を閉めて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい』(マタイ6・6)ではないでしょうか。

ある本で読みましたが、奥まった部屋とは、窓がなく、入ると真っ暗で自分自身さえ見えないところであると。祈っている姿を自分にさえ見せないで祈るのだと思います。そんな祈りをしたいし、イエス様と二人きりになるのが、何にも勝って慕わしいし楽しいと言えなくてどうしましょう。

さらに、イエス様と二人きりになる時、自分が饒舌になることもさりながら、イエス様のお声に耳を傾け、聴き取れるほどの豊かな交わりのできる霊的状態をいただきたいものです。

 

 


  • 2012.02.02 Thursday - 10:24

ロイド氏は説く その2 兄弟ろば


ジュネーブ カルバン


ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より
(渡部謙一訳 いのちのことば社)


兄弟ろば

テキスト要旨

「霊的抑うつ」のひとつは体調である。体調はすべてのことにそれなりの役目をはたす。

ある種の身体的不調は抑うつを助長しがちだ。ロンドンで四十年近くも宣教に携わった、かの偉大な説教者チャールズ・ハットン・スポルジョンは、史上最大の説教者の一人であるが、しばしば霊的抑うつに陥った。その理由は彼が痛風を患っていたからと言える。それは彼の命取りとなった。

 

霊的抑うつの主な原因は、疲労、過度の緊張、病気である。霊的な部分を肉体的な部分から切り離すことはできない。私たちはからだと精神と霊だからだ。キリスト者の中で最も偉大で素晴らしい人々は、肉体的に弱くなるとき、他のいかなる時にもまして霊的抑うつの攻撃を受けやすくなる。このことは聖書の中にふんだんに例証されている。

 

一方で、サタンは、根本的には肉体的なものを、あたかも霊的なものであるかのように思わせる。これは彼の罠である。引っかかってはならない。注しいて区別しなければならない。自分の体調に屈してしまうと、霊的な意味で罪を犯すことになる。

 

肉体的なものが部分的には自分の霊的状態を左右することがありえると悟る時、またそれを見越しておくとき、霊的部分をよりよく扱えるようになる。

 

ロイド氏は非常に微妙な問題を論じている。しばらく前から、キリスト教界でも、肉体と信仰を区別して判断するようになったが、かつては、病気は不信仰のせいだ、罪を犯したからだと一言のもとに断罪する風潮があったことは否めない。健康な人、病気一つしない人が、信仰の強いで、正しい人に思われていた。だから、身体的に弱い人は小さくなっていた。特に心の病は軽視され、蔑視、差別されていたと思える。

 


ロイド氏は身体的不調が、信仰面に大きな影響を与えると言っておられるのだ。たしかにそう思う。簡単なことだが、体が極度に疲労するとやる気が失せ、教会にも行く元気が出ないし、奉仕もしたくない。考え方も消極的で、希望を失う。そうした人たちを、不信仰だ、怠惰だとかたづけることはできない。それがよく理解されてきた。弱者に光が当てられたということだろう。

 

自分自身でも、今、私が霊的精神的にこのようなマイナス状態なのは、疲れすぎているのだ、しばらくして、ここから抜け出せれば、きっと元気になる。主を心から賛美し、みことばへの意欲もまし、奉仕も積極的にすることができる。そのように自己診断ができるといい。いつまでも抑うつ状態にいるのはよくない。

 

一方でロイド氏は、すべてを肉体的な理由に結びついて、体調に負けてしまうことは罪であると言っている。むりろ、こちらを強調していると思う。さしずめ、スポルジョンが、痛風に負けていたら、あれほどの働きはできなかったろう。痛風に耐えながら、死に物狂いで主にすがったからこそ、偉業をなしとげることができたのではないか。イエス・キリストには「霊的抑うつ」を癒す力があり、肉体的病気を抱えつつも、超越させる、永遠のいのちがあると信じる。

タイトルの兄弟ろばとは・アッシジのフランチェスコの言葉
彼は自分のからだを兄弟ろばと呼んだ。ろばは有用で頑丈だが、強情で怠け者で絶えずきちんと制御していなくてはならない。肉体はこの
ろばのようだというのである。


 

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