- 2023.07.12 Wednesday -
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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
聖書そぞろ歩き・一年の終わりに
私たち一人一人にとっても、一言で言い括ることのできない多種多様な現実があり、それを解く考え方があります。高見から見下ろすような観念的な杓子定規を振り回されれば、とても受け入れることはできず、かえって嘲笑したくなります。と言って、刹那的な俗説をにはついていけません。そこには生きる力がないからです。 一年を振り返り、自分を照らす鏡になるのは聖書のみことばだけではないでしょうか。
幸いなことよ。 悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、 あざける者の座に着かなかった、その人。 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、 昼も夜もそのおしえを口ずさむ。 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。 その人は、何をしても栄える。 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、 罪人は、正しい者のつどいに立てない。 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。 しかし、悪者の道は滅びうせる。 自分を吟味するとき、神のみ前に正しい者と評価されるでしょうか。悪者でしかないでしょうか。聖書という鏡の前で、しっかり自分を写してみたいと思います。はたして、逃げ出さないで凝視できるでしょうか。もし、わだかまることがあれば、逃れの道はただ一つ、悔い改めてイエス様の血で清めていただくことです。
Category : 聖書そぞろ歩き
クリスマスの朝に今年は25日が日曜日になり、クリスマスらしい日取りになりました。 今日はどこの教会でも一日中クリスマスらしいプログラムが組まれているはずです。お出かけになりませんか。 小さな集いでお話ししたクリスマス向けのメッセージを紹介します。 クリスマスの中身・『飼葉おけに寝ておられるキリスト』 聖書・ルカの福音書2章8節〜16節 日本中の繁華街はどこもかしこもクリスマスの装飾一色です。あるところでは、ヨーロッパのクリスマスマーケットを再現したそうです。一人の女性が「日本にいながら本場のクリスマスを味わうことができて最高です」などとコメントしていました。 でも、本場のクリスマスってなんのことでしょう。いつも思うのですが、日本人の理解しているクリスマスとはなんだろうかと。美しい電飾のツリーやクリスマスグッズ、あるいはチキンやターキーやケーキ、それがクリスマスなのでしょうか。 クリスマスの中心は教会であり、その中心はイエス・キリストであることが、ちっとも言われないのです。教会はどこでもそれなりに宣伝しているのですが、その声は弱くて小さくて、メディアの巨大な声に飲み込まれ、消されてしまって、ちっとも届かないようです。 つまり、私たちの国の人たちは、クリスマスの外側だけを見ていて、その中身を知らないのです。きれいに包装された箱だけを持って、箱だけを楽しんでいている、中は空っぽなのです。中抜きの箱、空っぽの箱を抱えて喜んでいるようなものです。滑稽ではありませんか。箱より箱の中身が重要なのはわかりきったことですのに。 クリスマスの中身は、飼い葉おけに寝ておられるみどりごです。聖書がそう言ったように、イエス・キリストなのです。このイエス様を見つけて、出会うことがクリスマスです。 では、イエス様と出会うとはどういう事でしょうか。 この飼い葉おけに寝ておられるみどり子こそ、私たちを罪から救うお方だと知ることです。 ところで、私たちはイエス様を、自分にとってどのようなお方であるか、知っているでしょうか。個人的によく知っているでしょうか。イエス様の何を知ることが、ほんとうにイエス様を知ることなのでしょうか。 イエス様は、いつもともにいてくださって、どんなときも変らない愛で愛してくださるやさしく忍耐深いお方だ、私がどんな人間であろうと、何をしても怒らないで赦してくださる、と知っていますね。頼りがいのあるお方だと知っています。もちろんそのとおりです。お母さんのように、お父さんのようなお方です。 でも、その前に私たちが知らなければならないことは、イエス様は罪人を救うために来られたと言うことです。飼い葉おけに寝ておられるみどりごは、私たちを罪から救うためにこられたのです。これは一番大事なことです。神は愛だからこそ、私たちを罪から救えるのです。神の愛は、罪からの救いです。別の言い方をすると、罪を赦してくださることです。その証拠として、代価としてご自分を犠牲になさったのです。 罪の支払う報酬は死です。ですからイエス様は自分のいのちで支払いをしてくださったのです。このことを私たちは一番に覚えておかなければならないと思うのです。イエス様は私の救い主とよく言いますが、何から救うのですか、病気から救ってくれるのですか、貧乏からでしょうか、その他の苦しみから救ってくださるから救い主なのですか。それもそうですが、されは二の次、三の次です、私たちの罪からの救い主なのです。 罪が許されるという実感はあまりないかも知れないのです。自分がそんなにひどい罪人などと思っていないのです。特に、周りを見て物事を判断する私たち日本人は罪意識がありません。人と比べてしまうからです。神様の前で自分を見る習慣のある国の人たちは罪がよくわかると思います。イスラムの人たちだってわかっています。 罪から救われるとは、イエス様の前で、赦してくださることを信じて、徹底的に謝ること、悔い改めをすることです。これが第一歩です。この部分が曖昧になっている、ぼやけている、軽視されていると私は思うのです。神様の御前で、いつもいつも悔い改めていないと、私たちはいつの間にか傲慢になります。神様の前での態度が大きくなります。神様を自分の都合のよいように使うようになります。神様を召使いにしてしまうのです。祈りも、願い事をするだけ、自分の欲望の一覧表を突きつけているのです。これは極端かも知れませんが。 ところで、箱の中身のイエス様は、はじめから箱の中にはおられないのです。
『見よ、私は戸の外に立って叩く。だれでも私の声を聞いて戸を開けるなら、私は彼の所に入って彼と食事をともにし、彼もまた私と食事をともにする』
これは悔い改めて救い主としてお迎えするということです。そのときイエス様はお入りになり、それ以後は、たとえ包装紙がぼろぼろになってもずっとずっととどまっていてくださる、もう、さよならといって出ていってしまうことはないのです。 『イエス・キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っている』と、パウロは言いました。
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2011年クリスマスによせてクリスマスシーズンですので、小さな読み物を書きました。本来ならもう一つのブログ【希望の風】に載せるのですが、手順が悪くあちらが開けません。 神なるイエスこそ/罪とがきよむる/きずなき小羊/救いの君なれ ルター家の居間から、賛美の声が聞こえてくる。子どもたちがルター夫妻を囲んでいる。時は一五三五年クリスマスの宵。入り口のそばにはリンゴとローソクで飾られた背の高いもみの木が置かれている。ルターが寄宿している学生たちと近くの森から抜いてきたものだ。ルターは子どもたち一人一人に笑顔を向けながら、言い聞かせるようにゆっくり話し始めた。 「今年は、みんなには、お金で買ったプレゼントはないんだよ。でもこころからのプレゼントがある。これから父さんと母さんが歌う歌だ。今年のプレゼントはこの歌だよ」 馬槽のそばにて/マリヤが歌える/み歌にあわせて/我らも主をほめん ルターとは、宗教改革の英雄マルティン・ルターのことである。妻の名はカタリーナ・フォン・ボラ。もっともルターはケーテと、愛を込めて呼んでいたが。彼らはヴィッテンベルグ城教会からほど近くに住んでいた。フリードリヒ賢明王が提供してくれたものだ。王は、改革の嵐の中からルターの身柄を守り続けた。ルターには神からの使者とも思える命の恩人である。ある時、命を狙われたルターは、変装してアイゼナハのワルトヴルグ城に逃げ込み、身を潜めていたこともあった。 歌い終わるとケーテが胸をぽんと叩きながらやさしく言った。 「みんなの大好物、お肉のお団子入りのスープが大鍋いっぱいに、できてますよ!」 子どもたちは歓声をあげた。
カタリーナは、没落貴族の娘だった。幼いとき母を亡くした。父は口減らしのため修道院に送ったという。当時はそうした方法がまかり通っていたのだろうか。修道女たちの生活は過酷を極めたようだ。 一五二三年、ルターは友人たちと十二人の修道女たちの脱走を手助けし、彼女たちを救出した。解放された女性たちを故郷へ帰したり、結婚相手を探して家庭を持たせたりした。 カタリーナはその中の一人だったが、ルターへの思慕を募らせていた。さすがの英雄も、結婚には悩んだらしい。修道僧としてのルターの人生辞書には、結婚という文字はどこにも見あたらなかった。しかし、ルターは強い決意をして結婚に踏み切った。一五二五年のことであった。この結婚には理解者もいたが、激しい非難と、嘲笑を浴びせる者たちもいた。
ルターは公言してはばからなかった。 このドイツをくれるといわれても、 私は、それよりも、やさしい妻がいる家庭を選ぶ。
マッチ売りの少女が雪の降りしきる寒空の窓越しに見たお金持ちの家の居間にはだれがいたのだろう。ノックしても開けてはくれなかったであろう。もしかしたら、《クリスマス・キャロル》の冷酷な守銭奴スクルージのような老人がひとりぼっちでいたのかもしれない。 マリヤとヨセフが迎えた初めてのクリスマスは、家畜小屋だった。しかし孤独ではなかった。羊飼いたちがどやどやと入ってきた。羊飼いから聞いた町の人たちも次々にやってきた。 遠く東の国から博士たちも訪れた。もちろん家畜たちもいた。
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