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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2010.09.23 Thursday - 08:33

初代教会の熱女 プリスキラ その10

プリスキラの人生はコリントで終わりではありません。パウロがこの地を去って次の土地エペソへ行くことになった時、なんとプリスキラ夫婦はパウロと同行するのです。プリスキラ夫婦のパウロへの強い思い入れがよくわかります。パウロの伝道を助け支えようとする心意気に燃えています。さらにパウロはエペソの伝道から次の新しい地を目指して前進しますが、このときはプリスキラたちはエペソにとどまります。パウロは二人にエペソ伝道を託したものと思われます。そのころになるとプリスキラ夫婦は一人前に伝道の働きができるようになっていたのでしょう。福音の奥義も十分自分のものとして、だれにでも解き明かすことができ、伝えることができたのでしょう。その証拠があります。

 

ある時アポロという伝道者がエペソに来ますが、彼の伝えている福音には欠けたところがありました。それを知ったプリスキラ夫婦はアポロを呼び入れて滞在させながら、パウロから学んだ福音をじっくりと教え導いたのです。プリスキラは人を育て教育する人になっています。プリスキラの家庭は信仰を教える塾です。寺小屋式神学校と名付けてもいいでしょう。さしずめプリスキラは女性教師、女性教育者です。人を教え育てるとはこれもまた女性特有の尊い働きです。たいていの女性は母になって子を教え育てます。教育は女性に適した働き、女性にとって天性の仕事です。女性の賢さのひとつはプリスキラのように人を支え教育することにあると信じます。賢い女性は広い心で人を支えることのできる人、またやさしく育てることのできる人といえます。

 

皆様、人を支えたり育てたりする働きをぜひともしようではありませんか。この働きは若い人よりもむしろ年を経てきた人に適しています。自分はもうその働きに直接かかわることはできなくなったという場合でも、その働きをする人を支えることならできます。たとえば宣教師や伝道者などを支援することはそれは自分では直接海外へ出かけて働くことはできない、またプロの伝道者になって奉仕することはできないけれど、支援することによってその働きに参加し、あるいは一端を果たしているのと同じことになるのです。働きを共有しているのです。これはなんと人生を豊かにすることでしょうか。

 

またクリスチャンなら祈りのサポート、祈りのスポンサーになることができますし、実はそれが最も大切です。神様も喜ばれるでしょう。とりなしの祈りに専念しておられる方はたくさんおられるでしょう。祈っていることを相手が知らない場合もあります。黙って祈ることも大切でしょうが、親しい人や近くの人なら、約束をかわし合って祈るのもいいものです。

 

皆様は緊急の時、祈りを依頼できる祈りのスポンサーをお持ちですか。また祈りのサポートを依頼されることがありますか。祈りの友がおられますか。

支えたり支えられたりの関係の場合、わたし、支える人、あなた、支えられる人とはっきり区別する必要はないでしょう。ある場合は支える人になり、ある場合は支えられる人になる、ある時は祈る人になり、ある時は祈られる人になる、こんな楽しいまた美しい交流はありません。

 

近年、私の耳に不快感を持って飛び込んでくるのは崩壊とか破壊という言葉です。家庭崩壊とは随分前から言われました。価格破壊はいいとしても人格破壊はいただけません。学級破壊という背筋が寒くなるような言葉もよく聞こえてきます。そのような砂漠化した世界の中で、たとえ小さくても家庭の扉を開くことによって、また祈り合うことによって、支えたり支えられたりする人間関係をひとつでもふたつでも増やすことができたらと願います。その灯火は小さくとも、きっと、社会という闇夜に生きる人々の心の目印となることでしょう。

 

イエス様はキリスト者を『あなたがたは世界の光です。』と定義されました。キリスト者である私たちには『世界の光』というラベルが貼られているのです。神様が自信を持って貼ってくださったラベルです。私たちは神様お薦めの商品なのです。造り主のお心にかなうように用いられたいと願いませんか。

 

最後の最後に、プリスキラとアクラ夫婦のその後をご紹介します。伝説によればこの麗しい夫婦は迫害によって殉教したそうです。ローマ・カトリック教会の殉教者の歴史によりますと、七月八日が二人の記念日になっているそうです。この意味でもプリスキラを七月の女性と名付けたのは無意味ではなさそうです。ローマにある最も古いカタコンベにはプリスキラの名があり、またローマの七つの丘のひとつアベンティーノにある教会にもプリスキラの名があるそうです。しかしそこにはアクラの名がありません。

プリスキラは文字通り、自分の生き方にいのちを賭けたのでした。その一途さ、徹底してスリムに生きて激しく死んだ、七月の女性プリスキラを見習いたいと思います。

(おわり)

 

 
Category : プリスキラ

  • 2010.09.13 Monday - 09:07

初代教会の熱女 プリスキラ その9

 

一人の人を支えるための具体的な方法としてプリスキラは家庭を解放しました。日常の世話をしたのです。「ひとつの釜の飯を食う」とは、得がたい関係を作るためになくてならない条件です。ところが少し触れましたが、今の私たちの周りから家庭を解放するという光景が影を薄くしています。私は昨今痛切にそのことを示され、考えさせられています。

 

かつてクリスチャンの間では家庭に呼び合うことがよく行われていたことでした。教会は率先してそれを行いました。牧師の家には青年たちが年中出入りして食事をし、宿泊したと話を聞きます。牧師の家の米びつが空っぽで奥さんが途方に暮れたという話もよく聞きます。また先輩のクリスチャンの家に青年たちがよく寝泊りし、夜を徹して話をしたということも聞きます。昨今はそんなことが少なくなりました。宿泊はともかくとしても、時に兄弟姉妹を招き合って交わることがどんなに互いの心を燃やすかもう一度思い直してみる必要があると思います。

 

対面や体裁をかなぐり捨ててもやるべきことのひとつかもしれません。プリスキラは家庭を開放してパウロたち伝道者を支えました。さらにプリスキラの家庭には信者になった人々も出入りして、集会が開かれていきました。聖書では『家の教会』と呼んでいます。今の家庭集会がそれにあたるのでしょうか。

 

キリスト教の初期はそこが教会になっていきました。家の教会はその家の主婦が影になり日向になってこまごまと準備をし、集会が開かれていったことでしょう。キリスト教は教会を母体として今日まで発展してきましたが、その大元のところで女性がすばらしい働きをしてきたといえます。そうした意味で、教会を生み出していったのは女性であると言えます。現在も家庭集会の多くは女性が中心になって開いています。

 

家庭集会の存在は大きいものがあります。単に伝道だけではなく、交わりの場、憩いの場としても有益です。食事をしながら、あるいはお茶をいただきながら、話をし、話を聞く、そんな交わりの中で、神様の真実を感じ、理解し、心が開かれていくのでしょう。家庭集会から教会へ行くようになり、イエス・キリストを信じたという方の例は数え切れないくらいです。皆様の中にも、もう長年、家庭集会を開いておられる方がおられるでしょう。そのご苦労は並大抵のものではないでしょう。しかしどうぞ、これからも心を強く持って続けてください。神様がどんなに喜んでくださっているかわからないと思います。祝福もまた大きい、大きいものがあるでしょう。そう固く信じます。

 

 

初代教会を飾る三人の女性のうちのルデヤはピリピの町の紫布の商人でしたが、救われると真っ先にパウロたちを自宅に招き『強いて泊まらせた』とあります。ルデヤもまた家庭を用いて神の人たちを支えました。そしてルデヤの家庭もまた『家の教会』になりました。それが『ピリピ教会』です。(つづく)

 

 

Category : プリスキラ

  • 2010.09.05 Sunday - 21:40

初代教会の熱女 プリスキラ その8

 

プリスキラがどんなにかいがいしく、支え、世話をしたかは聖書の記事のはしはしにはっきりと現れています。例をあげますと、夫婦の名を列記する時、普通なら夫を先に、妻を後にするものですが、ルカは最初は一節ではそうしていますが、一八節では当然のようにプリスキラを先にしています。パウロにしても、ローマ人への手紙一六節三節で『プリスカとアクラによろしく』といってプリスキラを先に記しています。

 

親しい仲にあるとはいえ、奥さんの名を先に出すのは礼儀を欠いていると思いますが、ルカもパウロも人並み以上の常識を備えていたはずです。礼儀もエチケットも十分承知のはずです。その上でなおプリスキラを先に思い出し、先に書かずにはいられない思いがあるのでしょう。彼らがいかにプリスキラから歓迎され、家族以上に世話をされて生活させてもらったかがよくわかります。

 

主婦プリスキラはさっそうとさわやかに不自由な旅を続ける伝道者たちの心身をくつろがせ、また支えたのです。プリスキラは年齢の関係はともかくとして、彼らの『暖ったかいおっ母さん』だったのです。さらにパウロは彼らを『私の同労者』とも呼んでいます。単に自分の働きを支えてくれたというのではなく、いっしょに同じ働きをしたというのです。これはパウロの愛の心から出た感謝の言葉だけなのか、本当にそうであったのか、ですが、おそらく実際に同労者と呼べる働きをしたのでしょう。『この人たちは自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです』と言っていますから、二人はパウロのいのちの恩人でもあるのです。

 

人を支える、支援する、とはまさに女性ならではの働きです。

 

とくに生活の面で、すなわち衣食住で支えるとは女性の独壇場です。女性ならば特別に気張らなくても背伸びしなくても、もとから自分の内にある力でできるのです。『支える』とは『助け手』の別名です。『助け手』として創造された女性の本領発揮の場といえます。それは当然ともいえる『女性の賢さ』のひとつではないでしょうか。

 

聖書の他の箇所にも伝道者を支えた女性がいます。

旧約聖書列王記には、シュネムという町に住む一人の裕福な家庭婦人が出てきます。当時エリシャという神の預言者がいましたが、この婦人は夫に頼んで自分の家の一角にエリシャのために一室を作らせます。エリシャが町に来た時は、いつでも自由に使い、宿泊して神の働きができるように支援したのです。裕福だったからできたのでしょうか。もちろんそれもあるでしょう。しかしそれ以前に、この女性は自分にできることをして一人の人を支えたのです。

 

もうひとつ同じ列王記に、エリヤという大預言者を養った貧しいやもめの話があります。そのころ激しい飢餓が続いて国中が餓死寸前になったとき、貧しきやもめの家ではついに食料が底をつき、幼い息子と最後の食事をとると、もう死を待つばかりという時でした。そこへエリヤが転がり込んでくるのです。やもめは二人分の食事を三人で分けます。それからも婦人は神様に助けられながらですが、どん底の中でエリヤを支え続けました。支えるという働きはありあまる中でしかできないのではないという証拠です。心があればできるのだと思います。つづく

 

Category : プリスキラ

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