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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2010.05.24 Monday - 10:55

細川ガラシャ その生と死 その7

 

わずか二十歳の、しかも一国一城の武将の奥方であるガラシャがそんな環境で二年あまりも置き去りにされたとはなんとむごいことだろう、おそらく生きたまま地獄にいるような気がしたのではなかったかと、ガラシャの心情が切々と伝わってくるような気がしました。味土野への旅は私にとってはかなりの冒険でしたが、行ってほんとうに良かったとつくづく思いました。

 

ガラシャはそんなところに、いわば捨てられたも同様なのに、ひたすらに夫の愛を信じ夫からの便りを待ちこがれるのです。しかしいくら待っても家来一人訪れません。ガラシャの心はしだいに揺れていきます。しだいに待つことにむなしさを覚え、それが夫への不信となり、憤りとなり、深い悲しみとなっていきます。

 

味土野には供のものはわずか数人でしたが、その中にキリシタンの清原マリヤがおりました。マリヤはどこまでもガラシャに付き従い、仕えていきます。そのマリヤが味土野でのガラシャの精神生活に多大な影響を与えます。マリヤはガラシャの苦しみをじっと温かく見守り、一人祈り続けながら、折に触れ時に触れて神のことを話題にします。こうした会話がガラシャの心にすこしづつしみ込んでいきます。

 

ガラシャの心はすぐには開かれず神を信じ受け入れるには到りません。しかし山中での二年におよぶ孤独な生活は確かにガラシャの心をこの世から引き離すのに大きな影響を与えました。それはガラシャがまことに神様を信じるに到るためにはなくてならない道筋でした。信仰を持つと言うことは飽食暖衣の中からはなかなか生まれません。環境の厳しさが心や魂をハングリーにします。この飢え渇きそこが人を神様に近づける重要な近道の一つなのです。時代が変わってもそれは変わらない真理ではないでしょうか。

 

さていよいよ秀吉のゆるしが出てガラシャが味土野を後にする日がやってきました。その喜びはたとえようもなく、ともに苦労した者たちと手を取り合って喜ぶのです。が、ガラシャの喜びはじきに去ってしまいます。ガラシャは心の底から喜べないのです。味土野で一度人生の地獄を見てしまったのです。大阪の玉造に作られたという新居で、夢にまで見た夫や子供たちと以前のように生活できる、手放しで喜ぶことが出来ません。その幸せがいつまで続くのかそれを信じ切ることが出来ません。いつまた苦難が訪れるかもしれない、それを考えると不安やおそれが先に立ち、心底から今の幸せを喜ぶことは出来ないのです。

 

真の幸福とはこんなに崩れやすいものではないはずだ、不安や恐れに脅かされることのない不動のものがあるにちがいない、その変わらざるものを、真理を、ぜひ得たいと思うようになります。

キリシタン佳代は神を信ずることこそ真の幸せであることをこんこんと解き明かします。その時初めてガラシャは自分から神を信じてみようという思いにたどり着きます。ようやく魂の扉が開かれたのです。   

 

大阪の新屋敷に入ったガラシャは夫や子供たちと再会し以前にも勝る豊かな生活が始まります。それもつかの間、夫忠興に側室がいたことを知ります。これはガラシャの心をまたまた新しい悩み苦しみに突き落とすことになりました。自分があの山中で死ぬ思いで夫を待ちこがれ、苦しみ抜いていたその間に夫は側室を置き、しかもまもなく子供まで生まれるというのです。ガラシャは自分の愛と夫の愛との間には越えられない隔たりが出来てしまったと愕然とするのです。さらにはこの隔たり、距離は今急に出来たのではなく、最初からあったのだ、自分がそれに気づいていなかっただけかも知れないと思います。それはいい知れない淋しさでした。味土野の淋しさとは異質の淋しさであり誰にも慰めを求めることのできないものでした。

 

淋しさやはてしない孤独感とは、別の言葉で言い換えれば、自分は愛されていないのだ、一人の人間として受け入れられ、理解されていないのだ、拒絶、否定されているのだなどの事実を突きつけられた時の、心の闇から来る現象でしょう。

 ガラシャはその持って行き場のない深い深い、悲しみ、淋しさ、むなしさのはてについに、神にたどり着くのです。

 

神の話を聞きたい。どうしたら神に救われのかと真剣に考え、自分から佳代に問いかけるようになります。佳代はここぞとばかりに説き聞かせるキリスト教の神髄、『何かをすれば救われるというのではなく、ただキリスト様を救い主と信ずれば、それだけで十分」と説いていきます。



 永井路子の『朱の十字架』を見ますと、
(文庫206ページ)

*お玉はしだいにキリシタンへ心を傾けていった。これをただちにキリスト教と仏教の本質的な優劣と見たり、お玉の仏教理解の浅さのせいだとしたりすることは、見当はずれである。ここで目を留めるべきは、お玉のような性格で、お玉のような環境におかれた女性が、十六世紀の後半、わずかな間だけ日本に伝えられた西欧の宗教にふれたとき、それに捉えられずにはおられなかったという事実である。

 ザビエルの一行が日本の地を踏んでから、このときまで、まだ半世紀とは経っていない。そして、それからまもなくキリスト教は厳しい弾圧を受け、宣教師たちの渡航は途絶えてしまう。いわばお玉の生きたのは、厚い雲の間から、つかの間「西欧」と言う日の差した希有な時間であった。これがお玉という、当時の女性としては珍しく何者にも曇らされない眼と、鋭い感覚と、本格的につきつめていく思考力を持った希有な女性とがむすびついたことに、歴史のふしぎさはあるといっていいもいいのだろう。*

 


 永井路子はガラシャがキリシタンになったのは歴史のふしぎであると解釈しています。ここがキリスト者の眼と全く違うところです。三浦綾子ならこのような特殊な歴史の中に置かれることに神様のご計画、みこころを確認し、それこそが恵み、すなわち恩寵だと言い切るでしょう。歴史のふしぎと一言でかたづけてしまうところがキリスト者としては何とも物足りません。(つづく)

 

 


  • 2010.05.17 Monday - 08:11

細川ガラシャ その生と死 その6

 

細川ガラシャ その生と死 その6

 

今回、ガラシャを取り上げるにつき、ふたたび味土野へ行きたいという思いが再燃しました。地図で何度も何度も確認しました。味土野は現在の地図上にもはっきりとその名が記されています。京都府に属しています。でもいわゆる京都ではなく若狭湾の西側を作り、日本海に突き出ている丹後半島のほぼ中央の山中にその地名があるのです。

しかし、交通機関となると鉄道はおろかバスさえ通いません。マイカーかタクシーで行く他はありません。そして京都までは新幹線で三時間ほどで行けるのですが、その後山陰本線で福知山と言うところを通り、さらに近畿タンゴ鉄道で宮津、天橋立を通って峰山という駅からタクシーに乗ることになるのです。

 

とても一日の旅では無理なので、まずガラシャの嫁いだ細川のお城があった宮津という小さな町に宿泊することにしました。そして翌朝、峰山駅まで宮津から40分電車に乗り、予約して置いたタクシーに乗って山中に入りました。40分、だんだん細くなる山道を進みました。道は舗装はしてあるものの、しだいに細くなり車一台やっと通れるような山道をたどりました。恐いようです。運転手さんが初老の方で良かったのですが、いまでも半年に一人ぐらいしか訪れる人はないそうです。でもその町では町おこしにガラシャを使おうとしたようで、道路の所々に<ガラシャ隠棲の地>という標識が立っていました。

 

ようやく到着したところは建物一つあるわけではなく、跡地という目印の立て札が立っているだけ。また観光用に作ったのでしょう、とってつけたようにお墓が立っていました。そして道はもそこで行き止まりになっていましてそれ以上続く道はないのでした。ガラシャのためにかろうじて道を残し多あるいは作ったと思われます。まわりに集落もなく、向かいの山間に二軒ほどおそらく山に関係のある仕事をするような家がありました。ガラシャの頃はそれでもまだ十軒くらいの小さな村があったようです。

 

驚くばかりの深山の真ん中でした。ウグイスの声だけがしきりに聞こえてきましたが、それ以外はいっさいの物音がしませんでした。鳥以外の音と言といえば風くらいでしょうがその日は風もなかったので、都会ではどんなにがんばっても作ることの出来ない無音無人の世界でした。そこにせめて30分くらいは身を置いて見たかったのですが、タクシーを待たせての切ない旅ですからそうもいきません。あたりをさっと歩いたり一面の山々を眺めたりして、そそくさと車に乗り込んでしまいました。

4月のおわりでしたので、山々を飾る新緑の美しさ息をのむほどでした。山桜もところどころに咲いていて風景の見事さにはたとえようもなく、目の奥にしっかり焼き付けておきたいと必死になって見つめました。そして秋の風情は春以上だろうと、だが、秋の淋しさは春の比ではないだろう、まして冬はどんなに厳しいだろうと春夏秋冬にまで思いが広がりました。(つづく)

 

 

 


  • 2010.05.08 Saturday - 06:19

細川ガラシャ その生と死 その5

 
妙義山 

  
まず、父明智光秀の謀反です。自分の主君に反逆することは時代が戦国時代であっても世間を大きく揺るがす一大事件でした。その時の信長は文字通り天下に並ぶものなき勢力を誇っていました。誰も対抗できない天下人でした。その信長を、家臣である光秀が襲撃したのです。これは謀反であり反逆であり、裏切りでした。父を信頼していたガラシャのショックは並のものではなかったでしょう。さらに細川家の態度がガラシャにさらに大きなショックを与えます。

 

本来なら明智家と細川家はガラシャを帯に強い絆で結ばれているはずでした。それ以前から光秀と舅に当たる藤孝は親友関係にありました。いざというとき利害を超えて援助の手を延べる関係にありました。それを、舅は剃髪して幽斎と名乗り、夫はもとどりを切って信長の喪に服すという態度を現します。と言うことは光秀を援護せず、見捨てたと言うことです理由は光秀は決して天下を取ることは出来ない、早晩秀吉か徳川に討たれるだろうから味方しても無駄だ、味方したらそれこそ災いに遭うと判断下からです。

 

ガラシャは二重の衝撃を受けて深い傷を負います。

 三浦綾子の著書を借りますと、『乱世にあっては、強い者が弱い者を倒す。これが唯一の法則なのだ。玉子は心の底にぽっかりと穴があいたようなむなしさを覚えた。信長は父に数々の冷酷な仕打ちを加え、挙げ句の果てに領地まで取り上げた。追いつめられた父は、信長を討つよりいたし方がなかったのだ。その父に味方する武将はいないのか。玉子は納得できなかった。思うたびに、舅の幽斎と夫忠興への不満が、心の底に澱のようにたまっていく。夫に対して憎しみに似た感情さえ湧くのをどうすることもできなかった』 

 十六歳で嫁いだ世の中の汚れや醜さを知らない武将の娘ガラシャが、心に深い傷を負い、舅も夫も頼むに足らないことを痛切に知っていくのです。

 

さて、細川家としては秀吉につくことになった以上、 光秀の娘をそのままにしておくことはできません。忠誠心を疑われてしまいます。細川家としてはガラシャを何とかしなくてはなりません。実家に戻そうにも、明智家は全滅しています。お家大事の重臣の一人は即刻ガラシャのいのちを取るように主君である忠興に迫ります。しかし忠興は彼なりに妻を愛しており、なんとしてでも助けたい一心で激論の末、とうとうここならば誰の目にも付かないだろういう山中にかくまうことに決定します。こうしてガラシャは細川家の領地内にある味土野という深山に幽閉されることになります。

 

味土野とは味と土と野原の野の三文字を当てます。三浦綾子はみとの、永井路子はみどの、とわざわざルビを附っているのがおもいろいことです。どちらが本当なのか興味をそそられます。実は私は以前からこの地にとても惹かれるものがありました。いつか行ってこの目で見てきたい、そんな淡い思いを抱いていました。(つづく)

 


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