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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2010.04.30 Friday - 10:34

細川ガラシャ その生と死 その4

 

その年秀吉はキリスト教禁止令を出し宣教師たちを追放します。

 さて、玉子の受洗を知った忠興は激怒しますが、どんなに迫害されてもそこだけはガラシャは譲りません。文字通り死を覚悟してのことでした。

 秀吉のキリシタン迫害はさらに激しくなり、長崎で二十六人のキリシタンを処刑します。キリシタン大名で有名な高山右近などは領地を奪われ一介の武士に成り果てましたが信仰を貫きました。当時右近のような大名たちが少なからずおり、また信徒も増え続けたそうです。

 

その間にも世は激しく移り変わり、さしもの秀吉も死んで行きます(63歳)。さあ、天下を治めるものがいなくなると、その座を目指してまた天下取りの激しい戦いが始まります。この機を長年待ちこがれていたのはご存知徳川家康です。豊臣と徳川の最後の戦いが迫っていました。

 

細川家ですが、今度は家康側につこうとしています。生き延びて家を守り今以上に家名を高めていくために細川家はいつも時代の流れを素早く読みとり、その時の権力者についていくのです。

 天下を分ける関ヶ原の戦いが迫っていました。豊臣の総大将は石田三成です。そしてこの戦いこそガラシャの運命をも決定する一大戦いとなりました。

 

ところで、細川ガラシャと言えば、信仰を守り通して自ら死を選んだ、いわば殉教に等しい最期を遂げた人として、その壮烈で潔い最後の故に今に至るまで語り継がれている人ですから、このあたりは歴史の状況を絡ませて少し詳しく見ていきます。

 1600年6月、天下を関ヶ原の戦いへと導く導火線とも言える戦いが始まろうとしていました。家康が会津の上杉を討伐しようとして兵を挙げます。細川家に出陣が要請されてきます。そうなれば必ず豊臣側すなわち石田三成が後を追ってくるのは明白です。その際、三成は徳川方についた武将たちの妻を人質に取ることは言わずもがなでした。家康さえ側室を大阪城に差しだしています。

 出陣前夜、忠興は愛する妻ガラシャを大阪の屋敷に残していく苦悩を語ります。ガラシャを十八年前のようにどこかに隠したいがこのたびはそれが許される状況ではない。かといって人質に差しだしたら徳川へ言い訳が立たず不利な立場に追い込まれる。だから家のために何があっても屋敷にとどまってほしい、つまり死んでくれと言わんばかりです。言われるまでもなくガラシャは覚悟を決めました。逃げも隠れもしない、もちろん人質にはならない。夫の意見に従いましょう、つまりは立派に最期を遂げましょうと言うのです。なんと残酷なことでしょうか。

 

忠興が家康に従って出陣したことを知った三成は早速ガラシャを差しだすように命令してきます。それを拒否したため、石田方から兵が出されます。ガラシャはかねて言い含めておいたように信頼する家臣の手に掛かって命を絶ちます。その後家臣たちは火薬をまいて火を放ち、全員切腹して果てます。細川の屋敷は轟音を挙げて火を噴き焼け落ちるのです。その時ガラシャ38歳。慶長5年、1600年7月17日、まさに関ヶ原の前夜の出来事でした。 

 

以上がざっとですが歴史にもまた三浦綾子の一冊にも残る細川ガラシャの一生です。現代では想像も出来ない特種な時代の中で特殊な人生を送った人とは言え、なんと心揺さぶられる生涯でしょうか。

 これを土台にしてさらに四つの出来事的を絞りガラシャの生き方、死に方を探っていきたいと思います。その四つとは

*父光秀の謀反とそれによる味土野への幽閉、

*夫が側室を作ったこと、

*キリストの信仰を持ったこと、

*壮烈な死、が挙げられると思います。

                       (つづく

 

 

  • 2010.04.25 Sunday - 20:41

細川ガラシャ その生と死 その3

山の花 


 玉子は一時人目に付かないところに隠されることになりました。幽閉です。そこは丹後半島の中程にある味土野という山中でした。玉子はわずか数名の従者をつけられただけで幽閉されることになりました。
それがなんと二年におよびました。この隔離幽閉は玉子の精神生活に大きな影響を与えます。

 

玉子が味土野にいるあいだに天下は秀吉の世に移っています。秀吉は大阪に壮大な城を築き、今も名所になっている大阪城です、城の周辺に大名屋敷を造らせて妻子を住まわせる政策を採ります。細川家も玉造に屋敷を造ります。秀吉の許しがあって幽閉を解かれた玉子はこの新しい屋敷に入ります。

 

再び夫忠興との生活が始まります。夫忠興は玉子をいっそう大事にしてくれるのですが、味土野での孤独な二年間は玉子の心を以前とは違った世界へ導いていました。人生の牢獄、生き地獄と言ってもいいでしょう、そこに二年も閉じこめられた玉子は、表面的な安楽には満足することができない、夫に愛されてもそこに甘んずることができない、もっと次元と質の違ったもの、揺るがない真実を求めるようになっていました。

味土野まで玉子に従って玉子を守る忠実な侍女清原佳代からキリシタンの教えを説かれることもありました。その時は信仰を持つには到らなかったけれど、神への求道が始まっていました。

 もうひとつ事件がさらに玉子の内面を導きます。夫忠興に側室がいたことでした。味土野で夫を思い子どもを恋い涙している中で、夫は側室をおいていたのかと思うと、自分と夫の間には埋めようもない隔たりを知るのです。また夫さえ頼むに足りないと、むなしさの極みをさまようのです。玉子の魂は急速に明確に神に近づきます。

 

ついに玉子は忠興の留守に教会へ行く決意をします。忠興は玉子を決して外出させません。人目に触れさせることを極端に恐れ、閉じこめていました。ひとつには大名の妻に平気で手を出す秀吉の悪癖から妻を守る手段だったと言われます。当時の男性にしては本気で妻を愛していたのかもしれません。 

 

教会は玉造とは城を挟んで反対にありました。玉子は夫の命に背いて教会に行き、宣教師に会い、キリスト教の教えを直に聞くことができました。以来玉子の信仰は深いところに導かれついに洗礼を受けます。もちろん教会には行けませんから、宣教師の指導を受けた清原マリヤが授けました。洗礼名をガラシャと命名します。ガラシャとはグレイス、つまり神の恩寵、恵みという意味です。味土野から三年、玉子25歳のことでしたた。(つづく)

 

 

 

  • 2010.04.23 Friday - 08:00

細川ガラシャ その生と死 その2

 

玉子は十六歳になると、同い年の細川忠興の妻として細川家へ嫁いでいきます。ですから玉子は細川忠興の妻ガラシャとも呼ばれます。この縁談は主君信長の鶴の一声によるものでした。もっとも犠牲の色濃い政略結婚ではありません。明智光秀と細川忠興の父藤孝とは信頼しあった盟友で、ともに信長の家臣として戦場をかける間柄でした。

 

細川家当主の藤孝の母が公家清原家の人であったので細川家の日常は公家の生活様式や習慣が色濃く、いわゆる公家風でした。武家育ちの玉子のために公家出身の清原佳代と言う女性が侍女としてつかえます。この佳代こそ玉子をキリストに導くキリシタンでした。洗礼名をマリヤと言いまして、清原マリアと呼ばれることもあります。 

 

夫になる忠興は勇猛な戦いぶりで信長の信任を得た戦国大名にふさわしい武将です。父藤孝は信長に仕える前は室町将軍義昭の家臣でした。「細川家は文の家でもある」と彼自身が言っているように風雅のたしなみも深く古今集などにも通じた人でした。藤孝は世の中の動きを読みとるのに長けた人で、世渡りの名人です。信長、秀吉、家康と移り変わる権力をよく見極め、策を練って生きのび細川家を守っていきます。かつて総理大臣になった細川護煕もこの家の末裔だそうです。今に至るまで連綿としてお家が続いているわけです。ガラシャの生き死がそれに大きな一役を買っていることは確かです。

 

さて、細川家に嫁して四年、玉子に取っては戦乱の世にしては穏やかな年月が過ぎて行きます。ところがそれもつかの間で、忠興玉子夫妻二十歳の年(二人とも同い年、)、玉子の境遇を一変させてあまりある一大事件が起こります。世に言う本能寺の変です。玉子の父明智光秀が主君信長に謀反を起こし京都本能寺に宿泊する信長を襲うのです。信長はその時並ぶのもなき天下人になっていましたから、彼を倒した光秀が天下を取ったことになります。光秀がなぜ主君に背いたのか、謀反を企てたのか、そのあたりの事情は小説に戯曲に語られております。また今はそれを縷々と物語る場ではございませんので割愛いたしますが、光秀は主君に背く逆臣としてとして悪役を振り当てられていますが、光秀にももっともな理由があったようです。

 

この事件は天下の一大事以上に娘である玉子に取っては一大事でした。それはまた細川家にとってもお家の存亡に係わる一大事件でした。申し上げていますように玉子の舅細川藤孝は光秀とは親友と言っても言い間柄です。こんな時真っ先に光秀を応援するべく立ち上がるのが友情というものです。光秀も心から藤孝を信頼し協力してくれると願っていました。直接に何度も使者を送って兵を挙げてくれるように要請しています。しかしです、藤孝は御輿を挙げません。光秀がそのまま天下を取れるかどうか様子を窺い、一方ですばやく集めた情報から光秀に勝ち目がないことを判断します。

 

秀吉が光秀討伐に向かうことを知ると彼はすぐさま頭を丸めて出家しその名も幽斎と名乗り、忠興も、もとどりを切って光秀側には組みしないことを天下に示すのです。細川家の巧みな生き方、世渡りのうまさが躍如として見られるところです。ところで細川家としては玉子の扱い方もまた迂闊にはできないことです。

 

光秀の妻も子どもたちも全員城とともに命を落としました。玉子だけが残っていました。秀吉が光秀を討てばその光秀の娘と縁を結んでいる細川家は立場がありません。玉子は迷惑な存在です。迷惑どころかいてもらっては困るのです。場合によっては亡き者にして証を立てなければなりません。残酷なことですが戦国の世ではざらにある例でした。しかしさすがに幽斎も忠興もそこまでは考えなかったようです。 (つづく)

 

 

 

  • 2010.04.18 Sunday - 08:44

細川ガラシャ・その生と死 その1

 
マーガレット 

ブランクが続いてしまいましたが、また、続けます。
ご愛読いただければ幸いです。


はじめに

 今回は聖書を離れて、日本の歴史の中から、キリシタンと呼ばれたカトリックの信仰者細川ガラシャを取り上げ、その生き様、死に様を含めて彼女の生き方から女性の賢さを探りたいと思います。

 
 私くらいの年代になりますと、正式に年齢を公表するのをためらうほど微妙な年齢であるわけですが、お子さまをお持ちの方は結婚や出産があり、一方で親たちが文字通り高齢になり、あるいは天に帰っていく、正に生と死を直面する立場に立たされています。そして気がつくと自分自身も一年ごとに年を加えて行く、逃げることの出来ない現実に直面しているわけです。そして生きること、そして死ぬことを他人事ではなく自分自身の大きな出来事、あるいは問題として取り組まざるを得ない、そうした渦中の人となっているのです。

 でも、考えてみますと、これは年を取った者たちだけの問題ではなく、およそこの世に生きている者はみな生と死に真剣の向き合わなければならないと言うことだと思います。そして真剣に向き合った者だけが真に生きることが出来るのでしょうし、あるいは本当の死を死ぬことが出来ると言えましょう。

 
 その意味で、細川ガラシャはその生と死においてまたとないサンプルを見せてくれる女性です。生き方から死に方から大いに学ぶことが出来ます。ガラシャの人生を生き方、死に方に焦点を当てて追いかけてみます。

 

みことばを挙げてみます。

    ピリピ二・2021 

    生きるにしても、死ぬにしても、わたしの身によってキリストのすばらしさが現されること。

    私にとっては、生きるはキリスト、死ぬこともまた益です。

  伝道の書3・1〜2 

 天の下では、何事にも定まった時があり、すべての営みには時が有る。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。

 私たちの国籍は天にあります。ピリピ3・20

  彼らはさらに優れた故郷、すなわち、天の故郷にあこがれていたからです。

ヘブル11・16

 

 
 今回主に参考にしました書物は、三浦綾子の歴史小説『細川ガラシャ夫人』と、もう一つは永井路子と言う女流小説家の『朱なる十字架』です。

 

 私はガラシャについては以前からたいへん興味を抱いておりました。大名の妻でありながらキリシタンであることにまず驚きました。また彼女が本能寺の変で天下の信長に反旗を翻した明智光秀の娘だと言うことで、戦国時代の女性の中では特に関心がありました。 私もいつの日か、ガラシャをヒロインにした小説を書きたいという夢もあります。またガラシャは敵方の手に落ちるのを拒んで自ら命を絶ったと聞いていましたから、クリスチャンが自殺してもいいのだろうかとの疑問も抱いておりました。

 
 イスラエルにもガラシャがいたのです。

 ナザレの聖誕教会だったでしょうか、世界各国を代表する女性たちが赤ちゃんを抱いている絵が掲げられていました。マリヤとイエス様の聖母子像をなぞらえたのでしょう、その中に垂髪、いわゆるおすべらかしに立派な打ち掛け姿の女性が赤ちゃんを抱いているのが日本の代表という形で有りました。その女性はガラシャだと言うことでした。世界のキリスト教会では、特にカトリックでは、ガラシャは信仰者の模範として高く評価されていると言えます。

 

 ガラシャとは洗礼名です。グレイスすなわち恵み、恩寵を表す言葉です。本名は玉と言います。西暦1653年、信長が桶狭間に今川義元を破って三年後、そんな時代に生まれます。父は明智光秀、後に信長の家臣になります。信長と光秀との関係などの詳しい説明は省きます。が、後に光秀は信長に反逆します。信長が光秀を非常に忌み嫌い、過酷な扱いをしたことは歴史がはっきりと語るところです。

 

ガラシャは当時の女性としては珍しく自分というものをしっかりと持っていた女性、また思ったことをはっきり言葉にする女性のようでした。それは父光秀と母熙子の自由な愛の中ではぐくまれたしるしです。綾子はそこにも言及しています。永井路子の小説では天真爛漫、好奇心が強く、一時もじっとしていない少女、陽気で、屈託がなく、苦労知らずの武家の娘だと十六歳のお玉を描いています。さらに咲くことだけ知って、風雨に打たれて落ちることを知らない稚い梅の花と形容しています。またガラシャはまれにみる美人と語り継がれていますが、容貌の美しきことたぐいなく、楊貴妃桜を見るようなあでやかな美貌と記録に残っているそうです。

 

三浦綾子はその美しさを「七歳にして早くも人の目を集めた。豊かな黒髪はひときわ黒くつややかで、色白のふくよかなほお、賢そうに見開いた切れ長な目、描いたような唇、玉子のいるところは、光りをさすようなまばゆさがあった」と記しています。二人の女流文学者が口をそろえて言うところはガラシャは聡明で美人であったと言うことです。さしずめ聖書の女性の中にガラシャによく似た女性を捜してみますと、高貴な地位にいた女性としてはダビデの妻アビガイルやペルシャの王妃となったエステルを思い出します。

 

ガラシャがあまりにも美しかったので夫忠興はガラシャを屋敷の奥深くにかくまい、外出は厳禁、身近な家臣でも男性は御簾を通してでなければ会わせなかったそうです。忠興は嫉妬深い男として世間の物笑いになったそうですが、それほどに美しい女性であったようです。(つづく)

 


  • 2010.04.06 Tuesday - 22:18

モーセを救ったパロの娘 その8


 パロの娘は旧約版よきサマリヤ人ではないでしょうか。

パロの娘の賢さはいのちを大切にし、いのちを育てたことと、結論したいと思います。三千年ももっと前の時代に、積極的に社会的弱者に近づき、助け、育てたのです。自分の持っている力を惜しみなく注いで、勇敢に立ち向かったのです。私たちが見習いたいお手本ではないでしょうか。

 

歴史の上でもこうした愛の人はたくさんいます。

孤児院を建てて三千人もの孤児を養ったジョージ・ミューラーのことはよく知っています。また、近年ではマザー・テレサがいます。マザーは路上やゴミ捨て場に捨てられている半分死んだような子どもたちを抱えてきて育てました。初めはたった一人の子を助けるところから始ったのす。

 

これは世界のことですが、私たち日本にも孤児たちのために命をかけた人たちはたくさんいます。岡山の石井十次という方をご存じでしょうか。また戦後まもなく、沢田美紀さんがエリサベツ・サンダース・ホームを建てて多くの孤児たちを養ったことはまだまだ記録に新しいことですし、大磯に記念館があるそうです。

 またかの細川ガラシャ夫人は、戦国時代の大名の奥様でありながらキリストの信仰を持った人です、この勇敢な女性は、お城の中に施設を設けて、野山に捨てられている子どもを養ったそうです。キリシタンになった次女たちが捨て子を拾ってきたそうです。

 歴史上には実に多くの有名無名のパロの娘がいるのです。これはすばらしことです。子どもをいじめるパロやイエス様時代のヘロデ王のような恐ろしい人もいますが、パロの娘たちの末裔もまた大勢います。

 

パロの娘を愛の行動に駆り立てたのはいのちを愛する思いです。自分一人では生きていけない弱い、弱いモーセへの厚い愛情、かわいそうにと思う情愛です。だれにでも神様が備えてくださった本能とも言える性向です。私たちの内にも備わっており、あふれているものです。それを使おうではありませんか。どのように使ったらいいのか、それはおひとりひとり神様に祈って教えていただいてください。一人でできなかったら、二、三人でグループになるのもいいでしょう。そうして、弱者たち、特に子どもたちへの愛の働きかけをしていけたら、何と幸いな生き方となることでしょう。(おわり)




 

 

 

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