- 2023.07.12 Wednesday -
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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
女性の賢さを探る ダビデ王家の女性たち その3次ぎにミカルを見ていきます。ミカルは以後、ダビデの生涯でたびたび聖書に登場し興味深い話題を提供しています。
ところで、ある人物について聖書がほんの少ししか記していないときは、こちら側は想像するしかありません。小さな小さな穴から天を覗くようなものです。見えるところはわずかでもその上には広大な天空が広がっています。自由に想像の翼をかって駆けめぐることができます。でもそれは想像ですから、文字に表すとしたらフィクションの世界です。小説が生まれるでしょう。
その人についての資料がたくさんある場合は、それらを組み合わせ、考察して、資料の事実に則って人物像を描きます。あるいは一つの主題について考えることができます。 具体的に今、メラブとミカルを比較しますと、メラブに関してはわずかしか記述がないので、今追いかけています女性の賢さについては資料不足です。その点、ミカルはメラブより多いので手がかりがあるわけです、
ミカルは思い適ってダビデの妻になることができた、彼女は幸運です。しかし、ただ幸運とかたづけてしまっていいものでしょうか。先のメラブは不運だとしか言いようがありませんでしたが、ミカルはもう少し詳しくまた掘り下げて考えていきたいと思います。
まず、ミカルがダビデを愛しているのを父のサウル王が知るということについてです。聖書は『このことがサウルに知らされたとき』とあります。知らされたとはおそらくミカル本人が父に話したと言うより、周囲の人が告げたと思われます。ミカルは自分の思いを近くの人に話していたと言うことです。母に話をして、母から王の耳に入ったのか、あるいは侍女たちに話をしたのが王の側近たちが聞いて王に伝えたのか、その推測は当たらずとも遠からずではないかと思います。ということは、ミカルは恋ごころを一人胸に秘めておくタイプの女性ではないと言うことです。思っていることを人に言える、口に出せる性格です。開放的で積極的、外向的と言ったらいいでしょうか。 もしミカルがどんなにダビデを愛していてもだれにも知らせなかったら、王の耳にも入らず、結果としてダビデの妻にはなれなかったでしょう。また、もうひとつ考えられることがあります。ダビデはサウル王の命令どおりミカルの場合もペリシテ人をうち負かし、サウルの要求を満たしましたが、サウルは先のメラブの場合のように、裏切ることもできたはずです。王ですからどんな理不尽もできたでしょう。おそらくサウルは策略を巡らしたことでしょう。でもできなかったのです。
Category : ダビデ王家の女性たち
女性の賢さを探る ダビデ王家の女性たち その2
ところがいよいよ夢が実現するという絶頂の時に、王である父の一声で他の人との結婚を強いられます。不本意であっても、行きたくなくても、父に逆らうことはできなかったのでしょう。メラブは泣く泣く嫁いでいきます、父を恨み身の不運を嘆くばかりだったでしょう。メラブの人生はあまりに屈辱的です。人間としての意志は道ばたの雑草のように荒々しく踏みにじられたのです。しかも自分の親からです。メラブは不幸な女性だと言うしかありません。どうにかできなかったのか、もどかしくなりますが、おそらくどうにもならなかったのでしょう。周囲の人々もどうすることもできなかったのでしょう。ダビデですら唇を噛む他はなかったのですから。 ところでダビデはメラブを愛していたかと問うてみますと、これは問題です。ダビデはメラブがただサウル王の娘であるがゆえに、ただそのことのゆえに、妻に迎えていいと思っていたのでしょう。そこには打算があるだけです。よくある政略結婚の一種でしょうから。しかしメラブは乙女ごころをときめかしてダビデの妻になれる日を夢見たことでしょう。
メラブは個人の力ではどうにもならない残酷な環境の犠牲者です。こんな環境にいなかったら、サウル王の娘でなかったら、王女、プリンセスでなかったらもう少しましな人生があったでしょう。メラブは悲劇の王女です。心から彼女を気の毒に思い、同情したいと思います。メラブは親の絶対的な権力と支配の中で人形のように動かされ、心にも無い人と結婚させられるのです。 メラブはしあわせになれたか、自分の願った人生を歩けたか、その答えはどこにもありませんが、おそらくたいして幸福にはなれなかったと思います。いつも外側からの事情に流され続けていく人生ではなかったかと思えてなりません。メラブは環境の犠牲者ですが、生き方としては一流ではなかった、賢い生き方ではなかったと、気の毒ですがそう言わざるを得ません。 ダビデは王の婿になれるチャンスを失ってしまいます。サウル王にとってはダビデを亡き者にしようとした計画が失敗の終わったことになります。ダビデも王も不完全燃焼です。ところが王はもう一人の娘ミカルがダビデを愛していることを知ります。ミカルはのメラブの妹です。サウル王の娘たちはそろって父の憎むダビデに思いを寄せていたようです。娘たちだけでなく、息子のヨナタンがダビデをどんなに愛し、ダビデに味方したかは聖書に詳しく記されていますね、父に背いてまでダビデを危機から救います。二人の友情物語は聖書の中でも特に光るところです。
王は今度こそダビデを殺そうとまた新しい策略を立てます。今度はメラブの時よりさらに具体的な条件を出します。ペリシテ人を百人を殺してその証拠を持ってこい、そうしたらミカルと結婚させようと言うのです。ダビデも今度こそはと出かけていきます。ダビデは王の命令どおり条件もすべて満たして帰ってきます。王は前回のメラブのように約束を違えることはできません。ミカルは思いが適って晴れてダビデの妻になります。ダビデはついに王の婿になります。王座に登る道が近くなったのです。これほどの出世はありません。(つづく)
Category : ダビデ王家の女性たち
女性の賢さを探る ダビデ王家の女性たち その1今日から『ダビデ王家の女性たち』を掲載します。
はじめに ダビデ・羊飼いから一国の王に ダビデ王家の女性たちを見ていくのに書かせない人物がいます。言うまでもなくダビデその人です。今回取りあげます女性たちはダビデの生涯と深い関わりがあります。いわばダビデが話の太い縦糸になります。ダビデを抜きにしては語れません。
一方ダビデは千人隊長に任じられ、軍人として戦いの先頭に立ちます。ダビデはどこへ戦いに行っても負けたことがありません。いつも大勝利です。それを見るとサウル王はますますダビデを恐れます。一方、国中の人々はますますダビデに心を寄せます。 ある時、サウル王は自分の一人娘メラブ、サウルには娘が二人おりまして、上の娘、長女を妻に与えるからペリシテ人と勇敢に戦って手柄を立ててこいと命じます。 実はそれは表向きのことで、ダビデを戦死させる策略です。王の婿になるのは、男性にとってまたとない出世です。こんなチャンスを逃す手はありません。ダビデもいつもよりいっそう振い立って戦ったことでしょう。戦死などするわけがありません。勝って帰ります。サウルは約束を実行しなければなりません。しかし、いざその時になって、サウルは娘を他の人に嫁がせてしまうのです。なんと卑怯なことでしょう。ダビデはどんなに悔しい思いをしたことでしょう。(つづく)
Category : ダビデ王家の女性たち
無名の賢女たち その12『スロ・フェニキヤの女性』 *イエスさまにほめられる 子犬と言われても腹を立てない、もちろんイエス様は野良犬とはおっしゃらなかった、子犬とは今風に言えばペットでしょう。家族の一員のようにかわいがられて家族と同居して養われている犬のことです。そこに母親はすばやくイエス様の愛を察知して、飛びついたのでしょう。 子犬なら、食卓から落ちるパンくずはいただいてもいいはずです、まさかそれまで嫌とは言いますまい、パンくずでいいのです、パンくずをください。それで十分娘の病は癒されるでしょう。 母親がパンくずを物乞いするのは、長血の女性がイエス様のお着物にさわりさえすればと言うのと全く同質です。そこに、イエス様は信仰という言う名を付けるでしょう、その真珠のような信仰が清い光を放っています。 そしてそのとおり、イエス様は即座に『ああ、あなたの信仰は立派です。その願どおりになるように』と母親を受け入れてくださいました。そのとき娘は直ったのです。 母親はイエス様の力を獲得しました。奪うようにして自分のものにしました。 この母親の場合は表面上はまことに烈しい戦いをして、死にものぐるいでイエス様の力を得たようにみえます。長血の女性の場合はイエス様ご自身が『私の力が出ていくのを感じた』と実に静かです。この対比もまた興味深いものがあり、考えさせられるところです。 イエス様はその人その人の事情や状況や、その人の個性や性質などを総合して、いちばんふさわしい仕方で、ご自身の力や愛を与えるのではないでしょうか。ある人には手の上に載せてあげるように、またある人には獲得させるようにして。でもいただいたものはおなじイエス様の愛です。この女性たちの場合はいちばん願っていた病の癒しでした。 ふたりのイエス様への表現の方法は天地ほどの差があるように思えますが、本質的には同じことです。長血の女性は『お着物にさわりさえすれば』と思い、母親は『食卓からこぼれ落ちるパンくずでもいただきます』なのです。そしてそれは非常に小さな簡単なことではないでしょうか。そっと手を伸ばすだけであり、あるいはテーブルの下にじっとすわって落ちてくるパンくずを食べることだけなのです。イエス様は二人のささやかな行為を信仰だと認めて、喜んで受け入れ、この母親の場合などは、あなたの信仰は立派ですと褒めちぎって喜び、大きな力を与えられました。 *イエス様に自分を表現しよう 私たち、特に日本人は信仰を頭で理解しようとする傾向にあるようです。キリスト教は難しい、頭がわるいからわからない、そう考える方が多いようです。 でもイエス様がほめる信仰の実体をよくよく見ますと、ちっとも難しくありません。だれでにでもすぐできそうな、いとも簡単なことです。身近なことで具体的に意思を表せばいいのです。そっと手を伸ばしてイエス様のお着物にさわる、あるいはイエス様の食卓の下に座って、こぼれてくるパンくずを食べることでいいのです。たいした知識も、頑張りもいりません。 二人の女性たちは自分にできる小さなことを、一途な思いを込めてしたのです。これが二人の女性の共通の賢さではないでしょうか。そして、イエス様にとっては着物のふさであろうが、パンくずであろうが、そっとでろうが、烈しくであろうが、行為の様相はたいして問題にはなさらないのです。その簡単な行為をする、その人の考え方、意志、すなわち一途な信仰をご覧になり、喜んでくださり、受け入れてくださるのです。 私を助け、生かすのはこのお方しかいない、このお方お一人しか私の人生を変えることはできないという、たったそれだけの信仰があればそれで十分なのです。イエス様はその人を救ってくださいます。 賢い女性は『意思表示が上手』と結論しましょう。 あなたは二人の女性のどちらのタイプでしょうか。 そっとうしろから近づく方ですか。 大声で叫びながらイエス様に体当たりするタイプですか。 人にはそれぞれ個性があります。その個性、つまり自然体でイエス様のもとににいけばいいのです。そのときイエス様は喜んで受け入れ、願いをかなえてくださいます。 おわり
Category : 無名の賢女たち
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