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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2009.10.27 Tuesday - 18:37

無名の賢女たち その11『スロ・フェニキヤの女性』


 *娘の病に苦しんで

 もう一人は『カナン人の女』あるいは『スロ・フェニキヤの女』と記されている女性を取りあげ、長血の女性と同列に並べて、共通点や相違点を比較してみます。

 

この女性の名も聖書にはありません。生まれた場所からスロ・フェニキヤの女、また民族の名でカナン人の女と呼ばれているだけです。この女性はユダヤ人ではなく、外国人だと言うことです。この女性のせっぱ詰まった問題は娘の病です。病気の子を持つ母親の苦しみほど大きいものはありません。自分の病気よりよほど、よほど辛いものです。

 

当時、イエス様は身の危険を感じて、イスラエル領内の北西部、地中海沿いのツロとシドンの地の、とある家に身を隠していました。ところがどこで知ったのかイエス様がおられると知って一人の女性が大声をあげて『娘がひどく悪霊に取りつかれているのです』と飛び込んできます。イエス様は、ご自分の最大の仕事である十字架が迫ってきているので、そっとしていたい時でした。弟子達はそれを聞いていますから、女性を黙らせ、帰してしまいたいのです。さしずめペテロは説得にかかったのではないでしょうか。

 

でも女性はそんなことでは一歩も引き下がりません。この女性の娘の病は『ひどく悪霊に憑かれている』と表現されています。現代の医学から見たら何という病気なのでしょうか。心の病の一種と言ったらいいのでしょうか。ひどい錯乱状態になることがたびたびあったのでしょう。長血の女性の病のようにどうしても直らなかったのでしょう。

 

  *イエス様に体当たり

母親はどこかでイエス様の噂を耳にしたのです。イエス様の噂は風に乗って僻地まで聞こえてきたのでしょう。母親は娘の病を直せるのはこの人しかいないと信じたのです。この点は長血の女性の決心より強かったとおもいます。そのぶん、イエス様へのアプローチも烈しいのです。そっと人混みに紛れてイエス様に近づいたのではなく、大声を上げ、叫び声を挙げ、髪振り乱し、息せき切って訴えます。助けを願っているのが全身にあふれていました。イエス様に体当たりするような勢いでした、後ろからそっとお着物のすそにさわるとは正反対です。イエス様に飛びついて、イエス様のお着物が破れるほど引っ張って、しがみついても願いを叶えていただきたい、そんが一途さがあふれています。非常に積極的です。

 

イエス様はどうなさったでしょう。

こんなにまで頼み込まれては、イエス様でなくても、できることはなんでもしてあげたくなりませんか。おもわず手を差し伸べてしまいそうな状況です。

 ところが意外や意外、あのやさしいイエス様がどうしたことでしょう、冷たく、突き放すのです。びっくりです。

 『わたしはイスラエルの家の失われた羊以外には遣わされていない』とおっしゃるのです。つまり外国人のあなたを助けるのは私の仕事ではないと言うのです。この辺りを詳しく考えるのは今回は控えます。とにかく拒否します。

 

ところが、この母親はそんなことではひるみません。さらにイエス様に近づきひれ伏して『わたしをお助けください』と懇願します。ところがイエス様は

 『子どもたちのパンを取りあげて、子犬に投げてやるのはよくないことです』といっそうひどくつれないことを言われます。犬に分けてやる餌はないと言うことです。

何とひどい言葉でしょう。侮辱ではないでしょうか。どうしてイエス様はこんな対応をなさるのでしょうか。とてもワンダフルカウンセラーのイエス様とは思えません。

 

 ところがこの母親、このたびも負けません。母は強しと言いますが、この女性をここまで強くしているのはやはり母親だからでしょう。長血の女性を絹糸とすればこの母親は荒縄、ロープのようです。

 そしてイエス様に言い返すのです。

 『主よ、そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます』なんと機知に富んだ、ユーモアさえ漂う、それでいてくさびを打ち込むような説得力のある言い分でしょう。

 

この一言はイエス様のハートを快い音で打ったと言えましょう。イエス様はもしかしたらこの一言を待っておられたのかもしれません。母親の心底を見届けようとして、それこそ漁師が餌をまいて魚が食いついてくるのを待っているように、一見冷たそうなことばの餌を投げて、反応をみられたのではないでしょうか。イエス様が知ろうとしていることは『ほんとうにそうしてほしいのか』という問いへの答えです。(つづく)

 

 

  • 2009.10.17 Saturday - 09:46

無名の賢女たち その10『長血を患った女性』


問われる信仰


これだけの奇跡を、しかも大群衆のただ中で受けて、この女性は一躍有名人になったはずなのに、その名が町中に、近隣に広まったはずなのに、聖書には一言も本名がありません。おそらくその当座は十二年も長血を患った○○さんは、イエス様にすっかり直してもらったんだよと、きっと名前入りで騒がれ、伝えられたのでしょう、しかしいつの間にか時が経つに連れて噂が広がるに連れて名前が消えて、その事実だけが広がっていったのでしょう。また、当時の父系家族の習慣として女性の名は公には出されず、誰々の娘とか妻としか呼ばれないということも関係していたかもしれません。そして聖書記者達が記録を書くときに、聖霊はあえて名を記させなかったとも考えられます。すっかり癒されたとは言え、忌み嫌われていた病にかかった前歴を、名を記さないでそっと包み込んだのは神様の愛の配慮ではなかったでしょうか。

 

聖書は単に昔のできごとをそのまま伝えるドキュメンタリーではありません。ノン・フィクションの書物ではありません。神様は、いつの時代でも、聖書を手にする人が自分の生き方に当てはめる、適用することを目的とされました。そのことを考えますと、無名の女性の箇所に私の、そしてあなたの名前を書き込んでもいいのではないでしょうか。

 

十二年も、いやそれ以上の長い長い年月、長血の病気と同じような、どうしても治らない病、解決のしようのない問題、だれに見てもらっても、どんなに努力しても、だれに相談しても、ほんとうの解決が得られないで、半分諦めている諸問題をかかえている、私、そしてあなたに、この女性と同じような方法がありますよ、この女性と同じようにしたらきっと解決しますよ、『あなたの信仰が直したのです』とほめてあげますよ、やってごらんなさいとイエス様は催促しておられるのです。

 

この女性のように、これしかないと背水の陣に立つ思いでイエス様に信頼しているか、いつもいつも祈っているが、ほんとうにイエス様に答えていただきたくて祈っているのかと問われました。

 

私たちは結構格好のいい祈りをしています。もし、できますなら、もしみこころならばと。それは半分逃げているのです。期待していないのです。神様だってこのことだけはできない、これは私の負わなければならない十字架で、イエス様がむしろ恵みとしてあたえられた病だ、苦難だ、だから祈ってもだめだろう、などと。神様でもないのに勝手に判断していることが多いのです。不信仰という情けない実体を、委ねるとか十字架だとが口当たりのよい言葉にすり替えているだけなのです。

 

てんかんの病の子どもを持つ父親がイエス様にお願いに来たとき『もし、おできになりますなら』といいました。その時イエス様は叱りつけるように『できるものならというのか。信じる者にはどんなことでもできる』と言われました。父親はあわてて『信じます。不信仰な私をお助けください』と謝罪しています。イエス様は父親の信仰を確認してから、すぐにてんかんの病をいやしました。

 

またあるところでは癒しを求めてきた人に『ほんとうに直りたいのか』と念を押しておられます。『何をしてほしいのか』と質問しておられるところもあります。

 

私もイエス様に実現していただきたい願いがあります。いつも祈ってはいます。終わっていない祈り、成就していない祈りがあります。だからこそ祈っているわけですが。でも、そこで、はたと、問われました。忍耐深く祈り続けるのもいいが、ほんとうに信じて祈っているのかと。ほんとうにそうしてほしいのかと。長血の女性のように、イエス様のおられるところまで出かけて、手を伸ばして着物のふさにさわったかと。

 

自分ではかなり熱心に祈っているつもりです、ですからいつになってもかなえられないとこの祈りはみこころではないのかもしれない、神様の側にも時というものがある、今はその時ではないのだろう、すっかりおゆだねしますというおもいがあります。でも、もし、ほんとうにみこころがわかって委ねきったのなら、もうその祈りはしなくてもいいのです。それがゆだねるということです。しかし委ねたと言ってるにもかかわらず思い出しては雨だれのようにとぎれとぎれに祈っていることがあります。雨だれの祈りだから答えてはいただけないのです。

 

長血を癒していただいき、その上『あなたの信仰がなおしたのです。安心していきなさい』と最高の保障と励ましをいただいたこの女性にむかって、いいわね、うらやましいわとため息を漏らしたくなります。しかし、その後ろから、あなたもそうしなさい、無名の欄はあなたの専用指定席ですよと言われるイエス様のお声がきこえるような気がします。

ガーデン

 

この幸運な女性をもういちどみつめて、女性の賢さ考えてみます。

この女性は、お着物のふさにでもさわればきっと直ると、自分にできるいちばんしやすいこと、他の人から見たら簡単すぎてばかばかしいようなことを真心込めて実行しました。手を伸ばすだけの小さな簡単な行動でイエス様の力を引き出したのです。なんと効率のよい方法でしょう。これなら私にもそしてあなたにもできないことはありません。イエス様は私たちに難しいこと、ウルトラC的業をせよとはおっしゃってはいないのです。いとも小さき簡単なことでいいから全身全霊を注ぎ込んでする、その心を見ておられるのです。イエス様は行為の奥にある心、意志、信念、言い換えれば信仰をみたいと願っておられるのです。『小さなことでもけんめいに』それが賢い女性の生き方の一つではないでしょうか。   (おわり)

  

 

 

  • 2009.10.10 Saturday - 22:10

無名の賢女たち その9『長血を患った女性』

 

イエスの宣言

 さて、なおしていただいたこの女性は黙っているわけにはいきませんでした。自分を探すイエス様を前にして、隠れていることができませんでした。もちろん、すぐに名乗り出るほど行動力が強くなってはいません。周囲の目を恐れ、イエス様を恐れる思いが一気に消えてしまったとは言い難いのです。しかし、ついについに、女性は自分自身を明らかにするのです。

 

 『あなたにさわったのはほかならぬこの私です。あなたから力をいただいたのはこの私です。お着物にそっとさわればきっと直ると思ったからです』と。そして今までの経緯をすっかりお話しします。イエス様にですが、それはとりもなおさず群衆にも話したことになりました。『御前にひれ伏し、すべての民の前で』と聖書は語ります。この女性が直ったことはイエス様や側近の弟子たちだけでなく、町のおおぜいの人の知るところとなりました。

 

 町の人々と言えば、病の女性を白い目で見、ささやき、あるいは罵り、村八分にした、いわば加害者です。その人たちの前でということです。長血の女という身体中にこびりついていたレッテルが、その場で剥がされ、取り払われ、無用のものとして廃棄処分されたのです。その代わりに、イエス様に直していただいたという目映い大きな勲章が胸元を飾るのです。これは動かしがたい解放宣言です。これほど明確な事実を突きつけられてはもうだれも後ろ指を指すことはできないでしょう。イエス様は長い間失われていた女性の社会的立場、権利、存在そのものを回復なさなったのです。この女性に、新しく大手を振って歩む道を与えられたのです。なんという完全な癒しでしょうか。そして女性に向かって言うのです。

『娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい』と。そのお声はしっかりとして大きくだれの耳にも聞こえたことでしょう。おごそかで力強いお声ではなかったでしょうか。

 

『あなたの信仰があなたを直したのです』

このお言葉にも万言を費やしても言い尽くせない豊かな意味があるでしょう。

私があなたを直したのではない、あなたが直りたいと思って、私のもとに自分から来たのです、そして自分の手を伸ばして私の着物にさわったのです、私にさわったのはあなたです、あなたが私の力を引き出したのです。これは簡単なようですがめったにできることではありません。よく、よくできましたね。

 

 そう言ってほめているのです。おそるおそるしたことが肯定され、賛成され、それだけでなくほめられたのです。こうまではっきり言われると自分に自信が出てきます。勇気が湧いてきます。自分で自分を肯定し、自分自身を受け入れることができます。それはその人を自立に導くことになります。そうです、イエス様はこの女性を自立させようとしておられるのです。イエス様はイザヤ書にはワンダフルカウンセラーと紹介されていますが、まさに人を自立させ真の人生に歩ませる名カウンセラーではないでしょうか。単にほめたり、受容するだけではありません。その人の中から自信を引き出し、自信を持たせ、その人の内側から生きるいのちを掘り起こしているのです。これこそが最高の救いではないでしょうか。

自分からしたことなら、またできるのです。外側からしなさいと進められたことは、よいこととわかっていても、なかなかできるものではありません。

 

しかしです、じっとこの女性を見てきまして、この女性がイエス様にほめられるような『あなたの信仰が』と断言されるような、一級品の信仰を持っていたのかと、ふと、思ってしまいます。イエス様、ほめすぎではありませんか。甘すぎる評価ではありませんかと少々クレームを付けたくなりませんか。でも、完全無欠なイエス様の判断に間違いはないでしょう。

 

イエス様はたった一つ、この女性のしたこと、イエス様の着物のすそにさわったことを取りあげて、『あなたの信仰が』と世にも美しい言葉に置き換えて、そこに目をとめて、それをポイントとしてみわざをあらわし、この人に新しいほんとうの人生を与えました。

 

この女性はこの経験を通してこれからの生き方のヒント、知恵、方法を知ったことになります。これから先の人生がこのまま順調に進むという保証はありません。何が起こるかわからないのが人生です。そうした場合が来てもこの女性はきっとこの時を思い出して乗り越えていけるでしょう。イエス様は女性の将来まで見通して、確かな保証を与えられたのです。

 

女性のしたことはわずかなことです。着物のすそにさわっただけです。でもイエス様はそれを信仰として受け入れてくださいました。ここにいいしれぬ慰めを見出します。イエス様は小さな子どもが差しだした五つのパンと二匹の魚、わずかなわずかな食べ物を五千人の人が満腹するほどの食事に変えました。

 この女性は病気以外に何も持っていませんでした。女性イーコル長血の女でした。この女性のしたことは、弱々しい手を伸ばしてそっとそっとイエス様のお着物にさわっただけでした。 つづく

 

 

 

  • 2009.10.03 Saturday - 16:05

無名の賢女たち その8『長血を患った女性』

 

 

もう一言『だれかが私にさわった』の一言にも注目してみます。

 イエス様は、自分から力を引き出して病を癒した、そのだれかに関心があるのです。

 手を伸ばしてさわったたった一人のだれかに、無数の人がいても、その中のひとり、そのだれかにイエス様は関心があるのです。イエス様の口座から預金を、いわば勝手に引き出した人、信仰という専用のカード、または印鑑を使って、預金を引き出したその人を知りたがっておられるのです。

 

なぜでしょうか。なぜ探す必要があるのでしょうか。力が出ていってその人の必要が満たされる、つまり病が癒されたことはもう自明のことです。イエス様が単に病気を治し、健康体にし、ふつうの生活ができるようにすることだけを考え、そのことだけに力を用いておられるなら本人を探す必要はありません。まさか見つけだしてお礼を言わせるつもりでもありますまい。

 

病気を治すこと、あるいはその人のかかえている、または今その人を苦しめている大きな問題にイエス様が大きな同情を寄せ、あわれみを感じておられるのは確かです。だからこそイエス様の愛の力はいつもいつも満ちあふれていて、どんな医者も治療法も方策もなし得なかったことを即座になさる用意があるのです。

 

しかしイエス様の関心事はもうひとつあるのです。マルコには『イエスは、それをした人を知ろうとして見回しておられた』とあります。ここがいちばん肝心なところです。イエス様の最大の関心事はその人自身にあるのです。その人を知りたいのです。なぜでしょう。イエス様はその人を生かす源であるその人の意志、心、魂まで新しくしたいのです。人は肉体だけで生きているのではありません。体だけ元気になってもほんとうのしあわせにはなれないでしょう。『人の生くるはパンのみによるにあらず』。これがイエス様の掲げる大きな主題の一つです。旗印の一つです。イエス様は病の治った後のその人の生き方に目を注いでおられるのです。その人を丸ごと救いたいのです。心も体も健康にしたいのです。イエス様の愛はそれほどに完全なのです。

  つづく


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