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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2009.09.25 Friday - 16:48

無名の賢女たち その6『長血を患った女性』

 

出ていくイエスの力

 

 『私から力が出ていくのを感じました』との意味を見ていきましょう。これはよくよく掘り下げる必要があるとおもいます。

力が出ていくのを感じたとはどういうことでしょうか。まるでイエス様の意志とは無関係に、自動的に蓋が開いて、勝手に出ていくような言い方です。

 

今は便利な世の中になりまして、軽く小さなボタンを押すだけで、さわるだけで、ガスがついたり、水が出たりします。手を近づけるだけで水が出る蛇口もあります。意識してさわらなくても、まちがってさわっても火はつきますし、水は出てしまいます。それに似ていると解釈していいのでしょうか。

 

イエス様の力はあの蛇口の水のように敏感に即座に時間差もなく流出するでしょうが、決して機械的、自動的、無意味ではないでしょう。しかし『私の力が出ていくのを感じた』とイエス様は言われます。これはただごとではないお言葉です。ここに、イエス様の愛の本質が見える気がします。

 

イエス様はいつも与えよう与えようとしておられるということです。イエス様の愛は器一杯にあふれんばかりに満ち満ちていて、惜しみなく与えられるのです。

ただし無条件ではない、イエス様の愛は無償ですが、無条件ではありません。

えっ、それって、変ではありませんか、イエス様は無条件でどんな人をも受け入れ、ゆるし、愛し、恵みをふんだんに与えてくださるのではないのですか、条件付きの愛だなんてきいたことがありませんと反論なさいますか。大いに反論して、そして考えてみましょう。

 

たしかにそのとおりです、でもその場合の無条件とはなにを指すのでしょう。

イエス様の愛はもちろん無料、無代価です。イエス様は投げ売りでもするように、在庫整理のバーゲン品のように道ばたに山のように愛を積み上げて、どなたでもご自由に必要なだけ持って行きなさいと立て札を立て、声をからして叫んでおられるのです。来る人をじっと辛抱強く待っていてくださいます。また、ある時は一軒一軒訪問して、愛の配達に出かけます。愛の宅配です。すでに代価を支払ったから、ただでいいのだよと言われます。どんな人にもそれこそ無条件で無代価で与えようとしておられます。

 

でも、たったひとつ、イエス様が要求なさることがあるのです。何でしょう。ここがまちがいやすい、考え違いをしやすい微妙なところだと思います。

イエス様がたった一つ要求なさること、それは、ほしいのです、ぜひくださいとの意志表示です。差しだされる手です、心です、魂です。ほんとうにほしいのでぜひくださいとハッキリと意志を表明するのを待っておられるのです。いらない人にまでくださらないです。むりやりに持たせるようなことはなさいません。丈夫な人に医者はいらないのです。価値のわからない人にも不要です。豚に真珠は与えないのです。そのかわり求める者に、探す人に、見つけようと訪ねる人なら、だれにでも無条件、無償でくださるのです。

 

ここを決してまちがってはいけないと思います。イエス様の愛はいつも全開しています。さわるかさわらないうちに水を出すあの蛇口にも似て、与えよう与えようと、イエス様のお体はそうした構造になっているのです。与える愛そのものがイエス様です。信仰の手を伸ばしてタッチすれば、惜しみなく与えられるのです。いちいち面接して、内容や状況を説明しなくても、ほとんど即座に一番必要なものが水のように流れ出るのです。『私の力が出ていった』と言う一言からそんなことが考えられないでしょうか。

 つづく


  • 2009.09.20 Sunday - 16:06

無名の賢女たち その6『長血を患った女性』

 

女性は背後から近づくと、イエス様の足元にぬかづき、おそるおそるほんの一瞬さわったのではないでしょうか。夢中でさわって、触れるか触れないか程度に、それでもさわって、恐ろしくなって後ずさったのではないでしょうか。もしも敏感なイエス様に感づかれたらどうしよう、できることなら一目散に駆けだして姿をかくしてしまいたいと思ったに違いありません。

 

ところが、女性はハッとしました。身体の変化に気がつきます。今の今まで、一瞬前までの十二年間、来る日も来る日も止むことのなかった出血がピタリと止まってしまったのです。女性は一瞬にして理解しました。その癒しは実にハッキリとしたものでした。鮮やかなものでした。みごとなものでした。女性は黙って立ち去るわけにはいかなかったのです。

 

そのとき、声が聞こえました。

 『私にさわったのはだれですか』とのイエス様のお声が。

 女性はどんなに驚いたことでしょう。すぐには返事などできません。ただ震えていたのではないでしょうか。自分がとんでもない悪いことをしてしまった、犯人のように思えたことでしょう。その一方で、直ってしまったことを思うとうれしくてうれしくて、心がぐんぐん強くなっていったでしょう。さわったのは私ですと言わなければならない、そう思いながらも、現実にはまだ言葉に出せません。

 

その時すぐそばから大きな太い男の声がしました。

 「先生。こんなに大ぜいの人たちが、ひしめき合って押しているのです」その声はペテロです。だれがさわったなどと言う方がおかしい、さわって当たり前というところでしょう。言わずにはおれない本音です。ペテロは焦っていたのでしょう。ヤイロが青い顔をしてそばにいるのです。一刻も早く行かなければ娘が死んでしまうと訴えているのです。押し寄せる群衆に遮られて思うように進めないので、いい加減腹立たしく思っている最中です。

 だれかが私にさわったとイエス様が歩みをとめて周辺を見回しておられる。こんなことでよけいな時間はとりたくない。イエス様ものんきすぎるのではないかなどと、ペテロの思考を辿ると、彼の思いも気持にも共感してしまいます。

 

ところがイエス様は意外なことを言われます。

『だれかがわたしにさわったのです。わたしから力が出ていくのを感じたのだから』

 これはどういう意味でしょう。イエス様の感覚は人間の何百倍も敏感だから、こんなことを感じたのでしょうか。そんな物理的なことだけではないでしょう。イエス様はこう言いたいのです。

 混雑のせいでさわったのだったら、無意識のさわりかたであったのなら、私の力は出ていかないのだ。ところが力が出ていくようなさわり方をした者がいる。私だと知って、私にさわりたくて、意識を持って、さわろうとして、さわった者がいる。願いを込めて、欲求を持って、祈りを持って、力を求めてさわった者がいると言うことではないでしょうか。イエス様はさわった人に関心があるのです。さわった人の心境やその境遇、つまりその人の人生に、生き方に、心を寄せておられるのです。

 もちろんイエス様はとっくにだれがさわったのか、何にためにさわったのか、どんな境遇にいた人なのかご存じのはずです。

 

サマリヤの井戸端でイエス様と水問答をした女性のことを思い出します。イエス様はあのサマリヤの女性とは、そのときほんの行きずりに出会っただけですが、女性の過去、現在をすべて知っておられました。そのようにイエス様は調べる先からすべてご存じのはずです。ではなぜあえて探したのでしょうか、そのことはひとまず置いておきまして、次ぎにもうひとつ考えたいことがあります。(つづく)

 

 

 


  • 2009.09.14 Monday - 20:22

無名の賢女たち その5『長血を患った女性』

 

 

 イエスの着物にふれて

 その時イエス様は群衆に進路を阻まれながらも、ヤイロの家に向かっていました。

 ヤイロは会堂つかさ、会堂管理者と記されています。会堂とはシナゴーグと呼ばれユダヤの各町々に置かれた集会場、いわば公民館のような役割をした場所だったようです。その中心的な活動は宗教行事で、安息日や祭りの日に律法を朗読し、祈りを捧げ、メッセージが語られたところです。後の教会とも言える場所です。

 

ヤイロはその場所を管理していたのですから、村の上層に位置する人、一般の人からは一目置かれる立場のある人と考えられます。イエス様もよく会堂に入って律法の書、トーラーを朗読し、メッセージをなさっています。ここはカペナウムの町ですから、ヤイロとは面識があったのかも知れません。会堂管理者の中にはイエス様に反対する人もいましたが、ヤイロはそうではなかったようです。信頼していたからこそ、娘の病の癒しのために祈りを依頼してきたのでしょう。イエス様もその申し出を快く承諾したようです。娘は危篤状態でした。イエス様はそのこともすでにご承知だったのです。ヤイロが必死になっているのも知っておられました。

 

そのような切迫した状況の時に、そんなこととは露ほども知らないこの女性は、ヤイロと同じように必死の思いで群衆の中に紛れ込み、ついについにイエス様のそば近くにまで忍び寄り、イエス様の着物、それも、すそについているふさにさわりました。いちばん差し障りの無い部分にそっとさわったのです。

 

なぜ、すそのふさなのでしょうか。この女性はイエス様にお願いしようと決心したものの、その方法まで考えたでしょうか。単純に考えれば、直接お会いして、自分の口から今までのいきさつをすべてお話しし、どうかお願いしますと頭を下げる、あるいはひれ伏して嘆願するという形が順当でしょう。でもこの女性はそうしなかった。イエス様の着物のすそにさわったのです。女性は『お着物にさわりさえすればきっとなおると思ったから、そうしました』と説明しています。

 

女性は最初は顔と顔を合わせてお願いしようと思ったに違いありません。しかし病が病です。この国では古くから血の病を持ったものは汚れていると言われて来たのです。女性も自分は汚れている、汚れていると、悲しいけれどそう思っていたでしょう。現在でも伝染性のある病気にかかった場合、法定伝染病でしたら隔離病棟に収容されます。インフルエンザでも警戒しますし、昨今は新型インフルエンザ世界中が神経を尖らせています。

 

病の人には近づきたくありませんが、病の人も、人にうつしたらたいへんと、用心します。そんな考え方を延長させますと、この女性は汚れた自分がイエス様の前にまともに出られるわけがないと考えたのでしょう。また、自分の汚れによってイエス様を汚してしまったらそれそこ申し訳ないと考えたのでしょう。そして考えに考えた末、そうだ、たとえお言葉をいただかなくとも、祈っていただかなくても、触れていただかなくとも、おそばに近づいて着物のいちばんすそ、ふさの部分にさわらせていただくだけできっと直るだろう、そうさせていただこうと決めたのではないでしょうか。

 そしてそのとおりにしたのです。(つづく)

 


  • 2009.09.09 Wednesday - 21:40

無名の賢女たち その4『長血を患った女性』

 

その女性の耳に、イエス様の噂が聞こえてきました。

 カペナウム界隈でイエス様のなさった事柄をあげると、らい病人を癒したこと、ローマの百人隊長のしもべを癒したこと、ペテロの姑の熱病を癒したこと、悪例に憑かれたおおぜいの人の癒し、ガリラヤ湖の嵐を鎮めたこと、中風の人の癒しなどがあり、それらが人の口から耳へ、耳から口へと伝えられていきました。この女性の耳にも届いたことは容易に想像できます。この女性は何も問題のない人とは比較にならないほど特別な思いでイエス様の噂を聞いたことでしょう。特に病気が癒された話には全身を耳にして聞き入ったことでしょう。

 

そして女性は思うのです。

 私の病気だって、そのイエスとやらなら直せないことはないはずだ。直せるにちがいない。ぜひ直してもらいたいものだ、そうだ、お願いしてみよう。会いに行ってお頼みしてみよう。 

 

しかし、ここまで決心するのにもすんなりとはいかなかったでしょう。なにしろ十二年間一度もいいことがなかったのす。すっかり希望をなくしてしまっていました。あきらきっていました。半分自暴自棄になっていたかもしれません。新しいことを試みようとすると今までの悲しい過去が一度に甦ってきます。診察を受けた医者たちや挑戦してみた治療法などがどっと思い出されます。あの時も駄目だった、あの時は遠くまで出かけたけれど、だめだった。あの時も、あの時もと。

 

そのたびに、出会った人達の顔が浮かび、苦い苦い経験が思い出されたことでしょう。何をしても駄目だった、だからおそらくイエスという人だってと、初めの何回かは耳を塞ぎ心を閉じて無視し、拒否したことでしょう。

 

しかしイエス様の噂はこれでもかこれでもかと、くり返しくり返し聞こえてくる、まるで噂の奇跡がぜんぶ自分をイエス様へ振り向かせるための招きのように感じられてくる。そして、まだ信じないのか、これだけの確かな証拠を聞いてもまだ信じられないのか、あなたもいくのです、信じて出かけるのです、さあ、さあ、いつまでぐずぐずしているのです、チャンスというものは、そうそう何度もあるものではありません。これを逃したら、永遠に、ほんとうに今度こそ望みはありませんよと、そんな声まで聞こえてくる。

 

こうなりますと、あとは自分との戦いだけです。心の問題です。長血の女性はそうした烈しい葛藤の末にようやく重い重い腰を上げたにちがいありません。

 この人に賭けてみよう、きっと直していただける。いや直していただくのだ。

 

イエス様、直してください。

 決心は願いになり、願いは懇願になり、さらに祈りに変わっていったのではないでしょうか。そうして、ようやく決心したものの、一歩外へ出れば、現実問題が飛び込んできます、世間の目です、自分との戦いに勝利しても、もうひとつの手強い敵、外側との戦いが待っています。世間の目というやっかいな敵がいるのです。この十二年の間、どれほどのはずかしめを受けたことでしょう。それらがまた恐怖となって襲ってきます。

 

火の柱と氷の柱を前に後ろにくくりつけたような思いで、女性はイエス様がおおぜいの群衆に囲まれてもみくちゃにされながらやってくるのを確かめると、さっとその波に紛れ込み、イエス様に近づきます。(つづく)

 

 


  • 2009.09.06 Sunday - 15:12

無名の賢女たち その3『長血を患った女性』

 

 

この女性について三福音書の記事を総合してみますと、

 十二年間もひとつの病気に取り憑かれ悩み苦しんでいました。長血という病気で、これは体に現れる症状からそのように呼ばれたのでしょう。出血が止まらないということでしょう。今の医学から判断しますと子宮筋腫など婦人科系の病のようです。今ならいろいろと治療の方法があり、なによりも病気についての知識があるはずです。

 

 ところが、この女性の苦しみは病がなおらないと言うだけのことではありませんでした。旧約の時代からですが、出血する女性は汚れていると社会的に烙印を押され、正常な社会生活ができませんでした、らい病ほどではなかったにしても、隔離状態で生きねばなりませんでした。この女性はあらゆる医者、方法を試みて直そうと努力したようです。そのために全財産を使い果たしてしまいました。それでも直らずかえってひどくなる一方でした。なんと惨めであわれでしょう。現代でも難病と呼ばれる病気が数多くあります。決定的な治療法がありません。医学者たちは日夜研究しているのでしょうが、まだその段階でない病気です。民間療法などでこれが良いと聞くと大金を使ってでも実行します。あれがよいと行くと飛んでいきます。日本にないと海外から取り寄せたり、外国に治療に行く人さえいます。不治と言われる病をかかえている方はほんとうにお気の毒です。

 

今は病に対する差別や偏見がずいぶん改善されましたが、それでも慢性病はなにかと苦しい立場に置かれます。そしてなによりもやっかいなことは、不治の病をかかえていると、その人自身の心が正常でなくなります。暗い気持になり、不安になります。自分の将来はどうなるのだろうと考え出すと明日への喜びや期待、希望など、持ちたくてもとても持てません。これは病の苦しみ以上に耐えがたい苦しみです。

 

この女性は十二年間苦しんできました。おそらく結婚適齢期と重なったことでしょう。このままでは一生結婚はできないのではないか、もちろん子どもも産めないだろう。このまま死ぬでもなく生きるでもなく、半分死んだような有様でいつまで生きていくのか、いっそ死んでしまいたいなどと、何年も何年も苦しみ続けたことでしょう。しかし一方で、どこかに希望の綱をつないで、なにか良い方法があり、直る日もあるだろうと、暗闇の中に一条の光を探すこともあったでしょう。(つづく)

 

 


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