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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
賢女ベタニヤのマリヤ その7
理由は何であれ、イエス様はマリヤの涙を見、人々の泣く声に合わせるように涙を流されたのです。つまりマリヤの涙は神の涙を誘ったと言えます。イエス様を泣かせた女性マリヤ、と言って彼女の大手柄のひとつに数えてもいいほどです。これは決して冗談ではありません。 死にたいする深い深い悲しみと嘆きが村全体を覆ったのです。この時、イエス様は最高に死への憤りに満たされ、感情があふれています。死はもともと神様の天地創造リストの品目にはなかったものです。人間の罪が生んだ、罪の落とし子です。罪を嫌う神さまは当然死をも憎んでおられます。人類の最大の的が死です。そもそも神さまは死を滅ぼすためにイエス様をこの世に送られたのです。今、イエス様はラザロの死を通して、死と対決しようとしているのです。そのきっかけ、起爆剤ともなったのかマリヤの涙といえます。 イエス様はこのとき死をも滅ぼすご自身のお働きを、その予告編とも言うべきものをラザロの死を通して行おうと計画しておられたのです。しかしイエス様は決して魔術師でもなく手品師でもありません。おまじないを唱えれば奇蹟を起こせるという漫画のような神さまではありません。周囲の信仰がなくてはイエス様といえども奇跡おこなうことはできませんし、なさいません。 マリヤの悲しみに満ち満ちた涙、村人たちの純朴な同情心からの涙、そうした美しい真実がイエス様を力づけ、死と対決し、ラザロをよみがえらせることができたのです。
ではなぜマリヤの涙が用いられたかと言えば、マリヤの心の使い方です。マリヤは人生の根元的なこと、死の悲しみを徹底して味わいました。死の悲しみに全存在を傾けました。その純粋な悲しみの深さが人々の心にも及び、清い涙を誘い、イエス様をも泣かせたのです。マリヤは表面的なこと儀礼的なこと、習慣的なことに心を遣いませんでした。生きることの本質の部分に集中したのです。こういう生き方は外から見ると決してスマートではありません。マルタの生き方の方が世間受けするものです。 マリヤは一見不器用で鈍くあまり賢そうには見えません。しかしよくよく見れば、ほんとうの意味で人間味あふれる生き方なのです。喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣けと聖書の他の個所にありますが、そのみことばを百%行ったのがマリヤではないでしょうか。マリヤは使うべく所に十分に心を使うことができたのです。そこに女性の真の賢さを見ます。これがマリヤの第二番目の賢さです。 つづく
Category : 賢女ベタニヤのマリヤ
賢女ベタニヤのマリヤ その6
死は悲しいものですから、なみだはつきものですが、正直言って身内以外の者たちが心の底から張り裂けるような悲しみに浸ることはまずないでしょう。またできないでしょう。お葬式は特に形式だけになりがちです。もちろん天国の信仰と希望をもつクリスチャンたちの死にたいする態度は別です。世間一般のお式を思い浮かべますとよくわかります。 当時はイエス様がまだ復活していません。ですからイエス様を信じている人たちであっても明確な復活信仰はありません。マルタもマリヤもおなじです。ですからたったひとりの兄弟ラザロの突然の死は耐え難い大きなショックと深い悲しみであったのです。 マリヤは葬儀の雑事にかかわらないだけ深い悲しみに沈みます。マリヤのほうがたくさん悲しんで、マルタはそうでもなかったなどとは言えませんでしょう。マルタもラザロへの情愛においてはマリヤと同質であったと思います。ただ、マルタはその性質や立場から手放しで何時までも泣いているような人ではなかったと思います。しかしマリヤはひたすら泣いていた。 その涙が実に不思議な働きをするのです。周辺の人たちがもらい泣きをしたのはわかりますが、なんとイエス様も泣いたのです。『イエスは涙を流された』という聖書の一文は、聖書の中でもいちばん短い文章として有名です。 イエス様が泣くというのはなんと意外なことでしょう。イエス様が愛のお方であることは私たちはよくよく知っています。でもそうだからと言って、イエス様が弟子の一人の死を前にして涙を流して泣くというのはすんなりと理解できない、受け入れがたい違和感を感じませんか。イエス様だったら泣くより他にもっとすることがあるではないか、そんなことを考えませんか。たとえば泣いている人たちを慰め励ますとか、あるいは涙の原因である不幸なことそのものが起こらないように奇蹟を行ってくださるとかなんとか。 つづく
Category : 賢女ベタニヤのマリヤ
賢女ベタニヤのマリヤ その5
二番目の場面を見てみます。 ヨハネによる福音書十一章、ラザロのよみがえりでたいへん有名な個所です。 三人きょうだいの一人であるラザロが病気になり、容態がよくないのです。そこでマリヤ、マルタはイエス様のもとに使いを出します。 『あなたの愛する者が病気です』と知らせます。二人はこの知らせを聞いたらイエス様のことだからなにを置いても飛んできてくださるだろう。そしてイエス様がおいてくださればただちに病を癒してくださるだろうと固く信じています。イエス様を十分信頼しているのです。しかしイエス様は『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです』となぞめいたことを言われただけで、まるでラザロが死ぬのを待っているかのようにベタニヤには行こうとしません。そのあいだになんということでしょうかラザロが死んでしまうのです。 イエス様の一行がベタニヤについたのは死後四日のことで、葬儀はすっかり終わりラザロは埋葬されてしまいました。これは一大事件です。マルタ、マリヤにとってはそれこそ人生の一大事、自分たちも生きた心地すらなかったでしょう。どうして、こんなことが、どうしてこんなことがと叫び続けたことでしょう。神さまはなにをしておられるの、ああ、イエス様はどうしたのでしょう。あの愛のお方がこんな時になんの役にも立ってくださらないなんて、とすべての悲しみや怒りがイエス様に向かって集中したことでしょう。事実、マルタはイエス様一行がおいでになることを知るとおおぜいの弔問客をそのままに迎えに走ります。イエス様をお迎えするためと言うより、爆発しそうな思いを抱えて飛んでいったのではないでしょうか。いかにもマルタらしいやり方です。一方マリヤはどうしたかと言いますと『マリヤは家ですわっていた』と一言だけが記されています。これもまたマリヤらしい態度です。 マルタはイエス様のお顔をみるなりぶつけるように『主よ、ここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』と恨みがましく言ってしまいます。無理からぬことでしょう。それに対してイエス様は『あなたの兄弟はよみがえります』といいます。ここから始まるイエス様とマルタのやりとりは復活という聖書のなかでももっとも重要な奇蹟を予告する大切な個所ですが、本日は復活のメッセージを伝える場ではありませんので省します。 マルタはイエス様より一足先に家に戻り、マリヤにイエス様ところに行きなさいと促します。そこでマリヤはたちあがってイエス様にお会いするのです。マリヤもイエス様を見ると姉と同じことばをくり返します。『もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』そして激しく泣くのです。その前にも記述されていますが、ラザロが死んだことで、恐らくマリヤは泣くことしかできなかったと思われます。マルタは一家の主婦的な立場の人ですから葬儀の手配などあらゆることに気を配り、泣くにも泣けない、ゆっくり泣いている暇もない、そんな状況だったことでしょう。マルタという女性は世間的なことを巧みにそつなくすることに長けた人だったのでしょう。 つづく
Category : 賢女ベタニヤのマリヤ
賢女ベタニヤのマリヤ その4
マリヤたちはそうたびたびイエス様とお会いする機会はありませんでした。定期集会が毎週のように持たれていると言うことではないでしょう。イエス様の伝道なさった期間はわずか三年半に過ぎません。その短期間のエルサレム活動です、マリヤたちはほんのわずかしかイエス様とお交わりをしていないことになります。今回を逃したら次回はいつになるのかわからないのです。それらを考え合わせると、マリヤはもう矢も楯もたまらず、イエスさまのおそばへ座り込んでしまったと言うことではないでしょうか。そんなマリヤのこころの深みを知っておられたイエス様は『どうしても必要なことはわずかです。いや、ひとつだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれをとりあげてはいけません』とはっきりとたしなめられたのです。 イエス様はこのことばをマリヤに直接言ったのではありません。マルタをはじめ弟子たちのいるところでマリヤに向かって『マリヤ、あなたは良いほうを選びましたね』ほめているのではありません。たいした違いはないかも知れませんが、ここにもイエスさまの深い配慮がにじみ出ているのです。 マルタに向かって言われたのは私たちへ直接語られたと解釈していいでしょう。イエス様はマリヤの選択、マリヤの方法をよいサンプルとして、私たちにもまねしてごらんと提供されたのです。イエス様はその時のマルタを注意しただけではないのです。この状況下をひとつの例として、永遠の真理、人生の生き方のひとつを現物教育されたのです。 イエス様はしばしばそうした教育方法を採られます。野外で説教するときは、足元の野の花を例に、空に飛び交う小鳥を例にしてわかりやすく真理を説明なさいます。この場もその類です。すなわち『人生に雑事は付きもの、あれもこれもと頭を悩ますこと、気を使うこと、心配することは山のようにあるものです。しかし、どうしても必要なことはわずかしかないものです。あれもこれもしなければと右往左往することはないのです。必要なことはわずかなのですから。わずかどころかたったひとつしかない。それは神のことばを求め、神とともに過ごし、神に従うこと、魂の救いを獲得することです。そこに集中することが人生というものです。これが生きることの中心です。そのために時間も才能も財産も使い尽くすのです。マリヤはそれを知っており、そうしたのです。マリヤのしたことを止めたり、変えようとしたり、批判してはいけません。むしろあなたがたもそうしなさい』と。 この真理を私たちはよくよく覚えておきましょう。教会ではよくきかされていますから十分に知っているはずです。聞くたびにそうだ、そうだとうなずき反省します。でもまたいつの間にか反省材料を積んでしまいます。 マリヤはそうはしなかったのです。マリヤには過去に苦い経験があるのかも知れません。どうでもいいことに大切な人生の一時期を浪費してしまった、あるいはどんなに悔やんでも取り返しのつかない愚かなことに人生を使ってしまったという経験があったのかも知れません。そうした悲しいあるいは苦い体験が教訓となって、もう二度と愚かな選択はしまいと心の底に固い決意ができ、徹底してその生き方を貫いていたと思われます。マリヤは今なにを優先させたらいいのか、なにに時を、自分の人生を使ったらいいのか、必要なことはわずかです、いやひとつですとイエス様が言われたその必要なことのたったひとつのことに時を使うことができたのです。それがマリヤの賢さのひとつではないでしょうか。くり返しますと、たったひとつの大切なことに時を用いることができたのです。イエス・キリストのそばに居続けること、キリストのことばに耳を傾けこと、キリストを愛することを 第一にした人であった。そこにマリヤの賢さがあるのではないでしょうか。 つづく
Category : 賢女ベタニヤのマリヤ
賢女ベタニヤのマリヤ その3
マルタはイエス様にたしなめられたときどう思ったのでしょうか。イエス様に対してどんな態度をしたのでしょうか。不満がいっそう募ったか、それともはっと気がついたか、聖書はマルタの反応には微塵も言い及んでいません。また、イエス様からかばっていただき、100%受け入れられた、いわば思わぬおほめにあずかったマリヤですが、マリヤの反応も記述されていません。イエス様がマルタに言ったことばだけがくっきりと記されているのみで、その後についてもなにもありません。 聖書には時に不親切だ、もう少し書き込んでくれればよくわかるのにと注文を付けたいような個所が無数にあります。この個所もそのひとつです。でも聖書は無駄は言わないけれど必要なことはきっちりと語っています、ですからここではイエス様のことばに集中すればいいのです。 ところでイエス様にたしなめられるマルタはまるで私たち自身のようです。私たちはあまりにもマルタそっくりです。ここを読むたびに自分に言われているようで赤面し、冷や汗が出てきて、穴があったら入りたいような気がしてきます。 イエス様にほめられたマリヤを考えてみましょう。 マリヤは姉の手伝いを無視したり軽んじたりしたわけではないでしょう。それも大切なことだ、今しなければならないことだ、私もしなければと思ったことでしょう。マルタのいらいらを知らないわけではなかったでしょう。多少の心の動揺や焦りや迷いがあったと思います。 しかしマリヤの足は姉のいるお台所へは向かわなかったのです、イエス様のおられる部屋へ動いてしまったのです。その時のマリヤの心境はどんなものであったか、さまざまなことが想像できるでしょうが、ひとつのことを考えてみます。マリヤには激しい心の欲求、渇きがあったのはないでしょうか。 マリヤがそれまでどのような人生を送ってきて、今どののような状況あるのか知るすべもありませんが、マリヤは過去のどこかでイエス様とお会いし、イエス様を知ることによって、それまでの生き方を変えられた人、つまり、魂の救いをいただき、それ故に、魂の激しい渇きを持っていたと考えます。イエスさまの話を一回でもよけいに聞きたい、イエス様のおそばに一時間でもよけいにいたい、その思いはなににもまさって強かったのです。最初はマルタのいるところへ急いだのかも知れません。ところがそこへイエス様のお声が聞こえてきてしまった。とたんにマリヤはマルタのことが頭から消え、気にならなくなり、イエス様のおられるところに突進してしまったのです。
Category : 賢女ベタニヤのマリヤ
賢女ベタニヤのマリヤ その2この時もイエス様は弟子たちと滞在なさったようです。そしてイエス様がおられるところはすぐに集会が持たれるのです。イエス様がお話を始めれば、それはもう、最高の説教者がいるということですから、たとえ椅子や講壇がなくてもそこはすぐに立派な礼拝堂ですし、たくさんの聴衆がいなくても集会です。 イエス様がひとたび口を開けば、神の国の福音が聞こえてくるのです。この時は三人きょうだいの家ですから、お話を聞くのは弟子たちだけでしょう。少人数ですが、選ばれた側近の者たちだけですから、群衆の前とは又ちがった質の高い、内容の深い、すばらしいメッセージが語られたことでしょう。 イエス様の声が聞こえてくると、おちおちしていられないのがマリヤです。マリヤはエス様のお話が聞きたくて、聞きたくてたまらないのです。 マルタはお台所で食事の支度に汗を流しています。女性としてマリヤも当然マルタのそばで手伝わなくてはなりません。しかしマリヤはイエス様のそばにへばりつくようにして話しに聞き入ってしまいます。マルタがいらいらを爆発させてしまうのは至極当然と言えます。 イエス様に向かって「主よ、妹がわたくしだけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」訴えます。そんな場面です。実によくわかる日常の場面です。マルタの心情が手に取るように伝わってきます。そうだ、そうだとマルタを応援したくなるような気になります。そしてマリヤに、お姉さんのお手伝いをしなさいよ、あなたの大好きなイエス様に差し上げるお食事なのだから、あなたも十分お手伝いしなければと声をかけたくなるほどです。 ところがイエス様はマルタの訴えにも、又私たちが常識から引き出した答えともまったくちがった、意外なお答えをするのです。この場面の中心はイエス様がマルタに言われたことばが中心です。イエス様は単にマルタだけに言ったのではない。私たちに向かって語られたのであり、それは永遠の真理です。生きたかの重要なポイントを教えているのです。 イエス様はマルタにこう言います。 『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかしどうしても必要なことはわずかです。いや、ひとつだけです。マリヤはその良いほうをえらんだのです。彼女からそれを取りあげてはいけません』 イエス様の答えは人の意表をつく驚くべきものです。 マルタは恐らくイエス様がこう言うのを期待したでしょう。「マルタ、たいへんだね、私たちのためにありがとう。マリヤにすぐ手伝いに行くように言いますよ」と。 マルタはイエス様からねぎらいの言葉をかけられこそすれ、たしなめられるとは思っても見なかったでしょう。この意外性に注目しましょう。私たちはこうした意外性に案外気がつかないで過ごしてしまうことが多々あります。その結果せっかくの恵みを逃してしまうのです。
Category : 賢女ベタニヤのマリヤ
賢女ベタニヤのマリヤ その1
イエス様の母マリヤは新約・旧約を通して知名度ナンバー・ワンの女性です。これに異論を唱える人はいないでしょう。では、ナンバー・2はと問われたら、誰と答えましょう。マグダラのマリヤでしょうか。ベタニヤのマリヤでしょうか。あるいは、エリサベツでしょうか。いや、そんな評価はどうでもいいのです。 しばらく、ベタニヤのマリヤに目を留め、彼女の賢さを探ってみたいと思います。 マリヤが登場するその場面をピックアップして、そこからマリヤをじっと眺めてみます。マリヤは新約聖書のたいへん重要な場面に登場します。そしてよく観察しますとマリヤのそばにはいつもイエス様がいるのです。いいえ、マリヤが、いつもイエス様のそばにいるのです。これはマリヤを知る上で見逃すことのできない大切なポイントです。マリヤはいつも、いつも、イエス様のそば近くにいた人なのです。 まず第一の場面です。聖書はルカによる福音書十章三十八節からです。この場面をかんたんに説明します。 都エルサレムの近くにベタニヤという村があります。都から三キロほど南東に下った、かのオリーブ山の斜面にある村です。そこに三人きょうだいが住んでいました。マルタ、マリヤという女のきょうだいとラザロという男子の三人です。ラザロが一番下であったのか、それともマリヤが三番目であったのかわかりません。聖書に限らずアジア以外の地域ではきょうだいの順番をあまり気にしないようです。現に英語で男の兄弟を単にブラザーといい、シスターは女のきょうだいを指し、上だの下だのと明確には区別しないようです。 とにかく三人きょうだいがおりました。父や母の名は出てきません。聖書から推測するに、マルタはその家の主婦のようにイエス様や同行の弟子たちをもてなしてかいがいしく働いていますから、もしかしたら母のいない家庭だったのかもしれません。 イエス様はエルサレムに上ってくるときは彼らの家を定宿としていたようです。もちろんイエス様お一人で宿泊するのではなく、同行の弟子たちもいっしょです。 なぜこの家なのかといえば、ラザロがイエス様の弟子の一人であったようです。弟子と言ってもイエス様の直弟子である十二使徒ではなかったのですが、若いラザロは純粋な信仰でイエス様を慕い、一心に従っていました。 イエス様は北方のガリラヤ地方の方ですから、都エルサレムに上るとき、都に近いベタニヤに滞在できることはたいへん好都合であったでしょう。ラザロたち三人きょうだいもそれを心得ていて家を開放し、使っていただいたのでしょう。 つづく
Category : 賢女ベタニヤのマリヤ
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