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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2009.05.29 Friday - 10:55

ルツ記の賢女たち ダビデ王妃アビガイル その9(最終回)

 

*後日物語*

 聡明で美人の女性を妻としたナバルは、得難い妻をしあわせにすることもできず、愚か者のまま神に打たれて死んでしまいます。

 

ダビデはまもなく知ったでしょうが、あの時自分が手を下さなくてよかったとつくづくと思ったでしょう。むだな犯罪を免れさせてくださった神をほめたたえるとともに、アビガイルの機転をありがたいと思い、あらためてアビガイルを思い出したことでしょう。そして、なんと賢い女性だろうと評価するうちに、それが次第に膨らんで好意に変わっていったのではないでしょうか。無理からぬことです。

 

ダビデは、おそらく喪の明けるのを待ちかねるように結婚の申し込みをします。アビガイルにも拒む理由などありません。よろこんで承諾します。もしかしたらアビガイルは少々ダビデより年上だったかも知れません。

 

ダビデはその後も複数の妻と結婚しその他にもそばめたちがいました。当然多くのこどもたちもいました。アビガイルとの子どもはキルアブといいます。ダビデの子こどもたちには問題児たちもいました。謀反を起こすアブシャロムのようなとんでもない王子様もいて、ダビデを悩ませますが、キルアブについては聖書はなにも記していません。と言うことは早世したかあるいは順調に成人したと言うことでしょう。子育てには母親の影響が大きいことは古代でも例外ではないとすれば、アビガイルはその面でも聡明さを発揮したと考えてもいいでしょう。

 

アビガイルは確かに多方面において聡明な女性でした。中でも人間関係の巧みさはみごとです。まず雇い人たちに信頼されていました。おそらく夫ナバルとも険悪な関係ではなかったでしょう。

 ダビデとは人間関係の中でも最高の、結婚に至る関係を築きました。想像ですが子どもとの親子関係にも成功者であったと言えます。そしてなによりも神様と安定したすばらしい関係を結んでいたと確信をもって言い添えます。

 

賢い女性は人間関係の達人です。女性の賢さの一つは、よい人間関係を築けることが挙げられるでしょう。これがアビガイルを通して得た結論です。

 

*人間関係に成功する*

 女性はかつて家庭とその地域、親類縁者などわりに狭い範囲の人間関係の中で生きていました。しかし今や女性の行動範囲は拡大し、複雑に絡み合ういくつものエリヤで係わりを持つようになりました。立場や利害関係の異なる人々の間でよい人間関係を築くのは並大抵ではありません。誰ともトラブルを起こさず、自分のうちにもストレスを貯めずに済むことは不可能です。現代人の悩みの多くは人間関係が原因でしょう。よい関係にいたいと思いつつも思うようにならないのが現実です。古代に生きたアビガイルが巧みによい関係を築き、それも信頼される関係を保ち、この面では人生の成功者であったことは学ぶに価するものです。

 

人間関係成功の鍵は何かと言えば『二者の中にもう一人のお方、見えないけれど神がいます時、それが可能になる』とある精神医学者が論じています。うべなるかなではありませんか。

アビガイルの生き方から『神と人との前に好意と聡明を得』、賢さの一つ『人間関係に成功』する女性を目指そうではありませんか。もちろん女性だけの問題ではありませんが。

人間関係の成功は自分の人生を豊かに潤すだけではありません。それは砂漠化している世界に緑を育む貴重な慈雨となることでしょう。                                                                                                        おわり

白い花 

 


『ルツ記の賢女たち』として、ナオミ、ルツ、アビガイルの3人の賢女たちを取り上げました。この一冊は今回で終了します。ご訪問ありがとうございました。

賢女の物語はまだまだ続きます。これからも掲載に励みます。時々お訪ねいただければたいへん幸せです。

ついでながら、もう一つのブログ『希望の風』にもお立ち寄りくださいませ。

 

 


  • 2009.05.24 Sunday - 16:49

ルツ記の賢女たち ダビデ王妃アビガイル その8

 

*事後処理*

 一件落着ですが、アビガイルは晴れ晴れできません。事後処理がまっていました。夫に報告せねばなりません。隠しておくつもりもありません。すぐにでも打ち明けようと思っています。しかし、帰ってみればまだまだ宴は続いており、夫は酔い興じていてとてもまともな話のできる状態ではありません。この一大事を話すにはあまりに不適当です。正常なときでさえ不安や恐れなしには話せないのですから。アビガイルはしかたなく一夜をおき、せめてふだんの夫に戻ってくれるのを待ちます。

 

その夜は、アビガイルにとって人生で何番目かの辛い長い夜となったことでしょう。事実を知った時の夫の反応が手に取るようにわかります。どのように切り出して、どのように説明しようか、事態が醜悪になったときどうしようかと、理詰めで策を立てたかと思うと、急に感情が高まってあふれる涙に暮れ、英雄ダビデとの出会いをいくどもいくども思い出して、瞼の閉じる時がなかったことでしょう。しかしこの苦しい一夜は後のアビガイルにとって必要で貴重な神様の備えられた時でした。

 

朝を迎えて、いよいよアビガイルは夫と対峙します。恐らく揺れていた心もほぼ落ち着いていつものように穏やかな表情が保持できたことでしょう。

 ことの一部始終を話します。

 すると思いがけないことが起こりました。じっと聞いていたのでしょう、ナバルは『気を失って石のようになった』のです。おそらくそのまま『十日ほどして主がナバルを打たれたので彼は死んだ』と聖書は事実を淡々と伝えます。

 

気を失って石のようになったとは外見的な身体の症状でしょうか。たとえば脳出血、あるいは心筋梗塞で意識不明に陥ったということでしょうか。なぜ、話を聞いて突然気を失ったのか、また十日後に死んだ死因はなにか、です。妻の話がナバルの心身に激しいショックを与えたことは確かです。妻が自分の知らない間に勝手なことをした、なによりも自分の持ち物を大量にダビデに与えてしまった、そのことが激しい驚きと怒りを引き起こしたのでしょう。そして、妻の裏切りを受け止める力がなかったのです。

 

自分の思い通りに妻も使用人も従えてきた、万事自分の手の内にあり、支配できないものは何もないと思ってきたことが、ひっくり返ってしまったのです。それに耐えられなかったのです。自分は完全に蚊帳の外に置かれ、無視され、否定されてしまったのですから。その衝撃が彼の肉体を死に至らしめたのでしょう。肉体の前に心が死んでしまったとも言えます。ところが聖書は『主が彼を打たれたので死んだ』としています。アビガイルの責任でもダビデの責任でもなく、神様の裁きだと公言しているのがわかります。   つづく

 

 

 


  • 2009.05.17 Sunday - 14:15

ルツ記の賢女たち ダビデ王妃アビガイル その7

 

*アビガイルの聡明さの躍動*

 
アビガイルの訴えはさらに続きます。言葉の枝がダビデの現状から将来にまで広がります。ダビデがサウル王に追われている今の苦境は主の戦いをしているのであり、やがて長く続く家、ダビデ王朝を築くでしょう、イスラエルの君主になるお方がこんな小さなことで復讐し血を流すようなことをしたら、それはあなたの傷になるでしょうと。

 

アビガイルは、時の王サウルにはれっきとした世継ぎヨナタンがいること、またダビデが王の不興を買っていのちをねらわれ、危機的状況にいること十分承知した上で、次代の王位はダビデが継ぐのが神様のご計画だと信じていたようです。

 

アビガイルはイスラエル国家を導く神様を信じていたのです。信仰の目で社会の動向や将来を判断しています。表面には現れてこない歴史の奥に働く神様のみ業を日ごろから感じ取るセンスを持っており、精神活動があったればこそ、緊急時にこれだけの対応ができたと言うべきでしょう。信仰があると言うこと、それを働かせることができるのは、女性の聡明さの欠かせない条件と言えます。

 

*女ごころ*

 『主がご主人様をしあわせにされたら、このはしためを思い出してください』

 アビガイルは最後をこのように締めくくっています。余韻を含んだ極めつけの一言ではありませんか。こうした言葉がどんなに効果があるか、意識して使ったとは思いませんが、ダビデの心の琴線を振るわせ、感情をゆすぶるのに十分です。

 

あなたが王位についたとき私を思いだしてくださいとは、男性でも言えるでしょう。それは、あわよくば引き立ててもらいたいとの野心です。しかしあながたしあわせになったらとは女性にしか言えないことばではないでしょうか。そこからは利益の一端に預かりたいとの欲心は感じられません。

 

あなたがしあわせになった時も私は依然としてあなたもご存じの愚かな夫の愚かさに泣かされ、不幸な時を過ごしているでしょう。雲の上のあなたがもしも思い出してくださったらそれだけで私は慰められますと、思いがあふれて、ふっと口を突いて出てしまった哀しい女ごころではないでしょうか。それは感性豊かなダビデの心に深く沁みていったことでしょう。

 

ダビデは率直な訴えと説得をじっと聞いていました。ほどなく燃えさかっていた怒りも鎮火し、振りかざした剣も収められたことでしょう。修羅場は去り、命の危険は消滅したのです。

 

箴言に『忍耐強く説けば首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く』とありますが、柔らかな舌は聡明さのもうひとつの要素でしょう。

 

ダビデの返答はさすがに爽やかです。

『今日、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。あなたの判断が、ほめたたえられるように。……、安心してあなたの家に上って行きなさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた』。

 

ダビデはアビガイルの贈り物を喜んで受け取り、アビガイルは極度の緊張から解放されて、二人はそれぞれの道へと戻っていくのです。その時の二人はこの後に続き物語があるなどとは想像もしなかったでしょう。しかし神様はすでに二人を繋ぐ太い線を描き始めておられました。 つづく

 


  • 2009.05.12 Tuesday - 22:38

ルツ記の賢女たち ダビデ王妃アビガイル その6

  

*命がけの直訴*

 アビガイルはすぐさま口を開きます。 

 『ご主人様、あの罪はこの私にあるのです。どうか、このはしためが、あなたにじかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばを聞いてください』

 

この一言はダビデの心を射たでしょう。謝りに来たのだ、それも夫の差し金でなく彼女自身の独断だと、真相が見えたでしょう。さらにアビガイルは、夫はどうしようもない愚か者ですから愚か者の言葉など気にしないでくださいと訴えます。半人前の子どもをとりなす親のようです。わきまえのない子どものしたことでそんなに怒らないでください、私の監督不行き届きなのですから、私に免じて許してくださいと言っているようです。

 

そう言いながらすぐに莫大な贈り物を目の前に差し出します。ここまで理を尽くし、実を見せられると、ダビデの怒りも半分以上は収まって理性が戻り、判断力が働き出したのではないでしょうか。

 

*夫の罪は妻の罪*

 ダビデの呼吸を見計らっているかのようにアビガイルはさらに続けます。『このはしためのそむきの罪をお赦しください』と。これは先の『あの罪はわたしにあるのです』とともに多くの真理を含んでいます。

 

まずアビガイルの夫婦観を窺い知ることができます。アビガイルは夫の罪を自分の罪と考えています。人の手前を繕うために一度は言えても、二度も言えるものではありません。日ごろから弁の立つ人であったのか、あるいはこの一大事が彼女を多弁にしたのか、アビガイルは、ダビデからもの申す暇を奪うようにして立て続けに思いの丈を話します。アビガイルの説得の口調や話のスピードはどうであったかと非常に興味をそそられる場面です。

 

アビガイルは訴えに訴え続けます。その真ん中に『このはしための罪をお赦しください』が入るのです。

夫の罪は自分の罪です、私が悪いのです。愚か者であってもナバルは私の夫、夫と私は偕老同穴、一心同体の夫婦です、恥ずかしく、悲しいけれど、事実なのです。

 

ここに浮かび上がってくるのはアビガイルの夫婦観です。それは美しいものです。滲み出る夫への情愛が哀しいほどです。アビガイルは決して不誠実な妻ではありません。この無断の決行は、夫の欠点を熟知していればこそであり、いわば内助の功です。

 

夫をかばい、夫の前面に立ちはだかって、罪は私にあり、すべては私の至らなさのゆえですと矢面に身を曝すアビガイルの姿から、ほの見えてくることがあります。人の罪を自分の罪として背負うイエス様です。贖罪の福音の光です。旧約聖書は新約の予表だとよく言われますが、ここもそのひとつではないでしょうか。

 

アビガイルの中にイエス・キリストの雛形が見えないでしょうか。イエス様は血筋によればダビデの家系です。そのダビデの妻にアビガイルがなっていくこのプロセスの中に神様の摂理の糸を見る思いがします。

 アビガイルの捨て身の真実は、ダビデをすっかり感動させ、怒りの火を消し、その結果、凄惨になるであろう血の嵐を未然に防ぐことになりました。

つづく

 

 


  • 2009.05.08 Friday - 08:05

ルツ記の賢女たち ダビデ王妃アビガイル その5

  

*夫に内緒で*

 
 ところでアビガイルは夫ナバルには何も告げずに決行しました。パン一個すら惜しむ夫のもとで莫大な食料を無断で持ち出すのです。忌み嫌うダビデに与えるためです。ところで、夫に一言の相談もせずにとは由々しきことです。ささいなことならいざ知らず、この一大事を、しかも夫がもし知ったら、絶対に承諾するはずのないことを無断でしてしまうアビガイルを、どう考えたらいいのでしょう。

 夫婦間に内緒事があってはならないとの一般原則にのっとれば、アビガイルは不誠実な妻です。しかし、もしアビガイルが不実な妻なら、聖書は『聡明で美人』とはいわないでしょう。この場合、神は黙認されたのです。

 

アビガイルが死を覚悟してダビデをなだめにロバを走らせていくと、前方から火を吐くような勢いで手に手に剣をかざしたダビデ一行四〇〇人に出くわします。もっとも二〇〇人は荷物番をして留まっていたようですが。

 

いよいよ、アビガイルとダビデが対面します。劇的出会いの場面です。

 アビガイルはダビデを見るやロバから飛び降りて地面にひれ伏します。剣を振りかざし殺気みなぎるど真ん中に、素手の女性が身を投げ出してくるのです。ダビデとしてはいささか気勢をそがれ、剣を振り下ろすことにためらいがあったでしょう。アビガイルはそうした場合の呼吸を察知していたのかも知れません。賭けたのかもしれません。ただ単に、無我夢中だったと言うべきかも知れません。

 

しかしもし、ナバルが先にこのことを知っていたら、雇い人たちを引き連れて飛びだしたことでしょう。あるいは本人は居残って、使用人たちを手向かわせたことでしょう。そうなったら血を血で洗う惨事になることは明らかです。 つづく

 

 


  • 2009.05.04 Monday - 14:53

ルツ記の賢女たち ダビデ王妃アビガイル その4

 

*ナバルの愚行とアビガイルの賢行*

 
 羊の毛の刈り取りの宴たけなわ、ナバルが上機嫌、上得意のさなかに、ダビデの配下の若者十人が訪れます。ダビデの伝言として祝宴の分け前にあずかりたい旨を伝えます。ところがナバルは『私のパンと私の水、この肉をどこからきたかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか』とけんもほろろに追い返してしまいます。

 

ナバルはダビデとその一隊の存在を知らないはずはありません。使用人たちが日ごろ彼らの世話になっていたことは十分承知していたはずです。『この頃は主人のところを脱走する奴隷が多くなっている』と非難するところからは、ダビデがサウル王に追われていることから始まって一部始終をよく知っていたはずです。それにもかかわらず、ダビデを逃亡奴隷と口汚くののしるあたりに、ナバルの生来の頑迷さが如実に現れています。

 

ところが使用人の一人がいち早くアビガイルに事の次第を報告します。追い返されたダビデがこのまま引き下がるはずはない、隊を整えて仕返しに来るのは明らかだと告げます。そのとおり、すでに怒りに燃えたダビデは四百人を引き連れて飛びだしていました。

 

使用人の一人が女主人に報告したことは正解でした。おそらく彼は日ごろから主人の行状には困らされていたのでしょう。反対に、女主人の賢さに幾度も助けられ、支えられ、慰められてきたのでしょう。ご主人より奥さんの方が話が分かるというところでしょうか。事の次第を聞いたアビガイルはとっさにすべてを理解し、一刻も猶予できない緊迫した事態を察して間髪を入れず行動に移ります。その判断力と行動力はさすがに『聡明で美人』を立証するものです。

 

アビガイルはダビデの願い通り、種々の品々を取りそろえてでかけるつもりです。

 『パン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個をとってロバに載せ』ます。その行列に自分も付き添っていくのです。自分も同行することがアビガイルの聡明さの躍如たるところです。

 

もし品物を送り届けることだけだったらダビデの心は決して収まらなかったでしょう。事件はこんなにも鮮やかに解決しなかったでしょう。ダビデは言っています。

『もしあなたが急いで私に会いに来なかったなら、確かに明け方までにナバルにはこわっぱひとりも残らなかったであろう』と。それほどにダビデは激怒していました。ダビデは、あなたが会いに来なかったなら……と言い、贈り物が来たから思いとどまったとは言っていません。ダビデは心情には敏感な人です。物ではないのです。心と態度が人をなだめるのです。

 

しかし火のように怒り狂う群のさなかに飛び込んでいくとは、死と隣りあわせの危険を意味します。まかりまちがえば命はありません。アビガイルはそれも承知で、死を覚悟して出かけたのです。こんな大胆な行動力はだれにも真似のできることではありません。

『聡明』とは、口先や頭だけでなく実行を伴うこと、むしろ実行力に重きを置いた賢さと言えましょう。アビガイルはそうした得難い賢さを備えた女性でした。  つづく

 

 

 

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