calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< March 2009 >>

profile

selected entries

categories

archives

recommend

links

search this site.

sponsored links

others

mobile

qrcode

powered

みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

Category : -

  • 2009.03.29 Sunday - 09:01

ルツ記の賢女たち ルツの主婦力 その9

 

自分を捨てて人を愛すること、この言葉は私たちの記憶に深く留まっているものであり、記憶だけでなく、霊の血液の中にとうとうと流れているものです。そうです、イエス・キリストの愛が浮かび上がってきます。私たちの幸せを願ってご自分のいのちを惜しみなく与えられたイエス・キリストの姿です。ナオミへのルツの愛はキリストの愛の似姿です。

 

思い浮かぶみことばがあります。

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持ってはいません』ヨハネ十五・十三。パウロも言っています。

『わたしはユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。弱い人々には弱い者になりました。すべての人にすべてのものになりました。私は福音のためにすべてのことをしています。わたしも福音の恵みをともに受ける者となるためです』第一コリント九・二十〜二三。

 

ルツのナオミへの愛、主婦力は、十字架の愛イエス・キリストの予告編です。

旧約聖書にはイエス・キリストを予告している箇所が数多くあると言われます。また旧約は新約の光であるイエス・キリスト、十字架の贖いの愛を通してみるとよく理解できるとも聞きます。ルツの愛にイエス様の愛を見出します。

隠れたところにおられる神様はルツの愛を通してイエス様の愛を示されました。神様の愛は決して遠いものではなく実に具体的で実際的です。

 

ルツにここまで切々と訴えられ決意の芯を見せられて、さすがのナオミももう帰って行きなさいとは言えません。

『ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと固く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった』と聖書は説明しています。

ナオミはルツの心の底の底まで、どこもかしこもあますところなく見せられたのです。そして納得したのです。ルツの言葉や態度はナオミを十分に満足させたのでした。ナオミはそっと涙をこぼし、こぼれた涙をそっと拭って、ルツの申し出をありがたく

受け入れたのでした。心からの感謝の祈りをしたことでしょう。

 

ナオミの章でお話ししましたが、この時ナオミは自立しようと立ち上がったところでした。では、ルツの同行はナオミの自立をくじいてしまったでしょうか。しっかり者のルツがいっしょということから、独り立ちの覚悟を取り消したでしょうか。

 そんなことはないでしょう。あるわけがありません。この物語の進展とともに明らかになることですが、ナオミはルツを結婚させようと知恵を絞るのです。もしルツに甘えてずっとそばにいて欲しいと思ったらとてもできないことです。

 

ナオミはルツを思い、ルツはナオミを思います。自立した二人、精神的に成熟し大人になりきった二人がいて、初めて均衡のとれたすばらしい人間関係が成立するのではないでしょうか。このようにして結ばれた心は完全に一つになれます。

つづく

 

 

 

  • 2009.03.25 Wednesday - 10:15

ルツ記の賢女たち ルツの主婦力 その8

 

 さらにルツは言います。

 『あなたの神は私の神』と。ここは一般に、ルツの信仰告白であり、イスラエルの神に対する信仰が明確に示されているとして重要視されてきました。その通りですが少し角度を変えて検討してみます。

 

 

ルツはモアブの女性です。ユダヤ人ではありません。生まれた時からモアブの宗教に馴染んできました。モアブにはモアブの国家宗教があります。拝んでいる対象があります。古代はどの民族も自分の民族や国だけの神を持っていました。民族はその神を中心に、その神への信仰を絆に一つになっていました。生活と宗教が、政治と宗教が、現代では想像もできないほど強く密着していました。どの宗教を選ぼうか、どの神を信じようかなど、宗教選択の自由はありません。生まれた時から当然のように一つの神を拝み、宗教行事に参加し、宗教とともに生きた時代でした。

 

ところがルツは体の一部のように身につけ、浸ってきた宗教生活に終止符を打つというのです。縁を切り、関係を絶ち、信仰を捨てると言うのです。そしてナオミの神を信じ、ナオミの神の宗教生活をする、すなわちナオミの国の民になると宣言しているのです。これは容易ならざる決心です。ナオミとともに生きることは単に自分の国を出て行くことだけではなく、自分の親族も友も国も宗教も捨てることでした。それは過去の自分に死ぬことです。今までの自分を捨てて新しい自分になることです。自分の利益、自分の幸福など顧みる余地はありません。ひたすら相手のことを考え、相手を生かすことを目指します。相手を守り、支えることに集中しています。他者の利益を優先すれば当然自分は二の次ぎ、三の次ぎにならざるをえません。自己を後ろに後ろにと押しやることです。自己消去、自己放棄、自己否定です。

 

ルツの愛に主婦力という名をつけました。また海流という躍動する流れを含む大海にも例えました。海流を前進させる巨大なエネルギーが自己放棄、自己否定に至らせるのです。これが主婦力を発動させるエンジンです。これが主婦力の原動力です。ルツの愛の実相です。


  • 2009.03.21 Saturday - 21:38

ルツ記の賢女たち ルツの主婦力 その7

 

 ルツの選択 つづき

 

さらにもう少し幅を広げて考えてみます。

 愛は大海のようだと例えられます。限りなく広く深く豊かで、どんなものも包み込んでしまうおおらかな愛を意味しています。しかし主婦力は単に大海のような愛ではありません。海の中には暖流と寒流という二種類の流れがあって、川のように一定の速度で流れています。日本列島付近には北から親潮、南から黒潮が流れています。その海流に乗って魚の大群が移動するそうです。魚が群をなして群がる、いのちに満ち満ちた流れが海流です。

 

主婦力とは真ん中に海流を抱く大海です。主婦力にはさしずめ幼いいのち、年老いたいのち、体や心に病を抱えた弱いいのちなどをはぐくみ、守り、癒す責任感や使命感に立つ海流が勢いよく流れています。そうした実際的、具体的な力を含む愛、それが主婦力です。

 

 ルツはさらに言葉を強めます。

『あなたの行かれるところに私も行き、あなたの住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です』

少し砕いて言い換えますと、

私はあなたの国の人間になります、あなたの神様だって信じますよ、あなたといっしょにあなたの国に暮らしてもおかしくない人間になります。だからいっしょに行かせてください、帰れなどと言わないでください。こういうことではないでしょうか。それほどにルツはナオミを自分のふところに抱きかかえて最期まで看取ろうと決心しているのです。

 

それだけではありません。ルツはさらに勢いづき、熱を込めて言います。

『あなたの死なれるところで私も死に、そこに葬られたいのです』

つまり、あなたのお墓に私も入ります。死んだあともずっとごいっしょですよと念を押し、保証の上書きをしているのです。あなたの死ぬまで、死を見届け、葬りまできちんとしますよ、ではないのです。死んだ後のことにまで言い及んでいるのです。なんと行き届いた心くばりでしょうか。単なる配慮ではありません。これがルツの本心なのです。愛なのです。主婦力なのです。

 

しかもちっとも押しつけがましいところがありません。言い方にどれほど気を使っていることでしょう。老いたとはいえ、目上の姑に対する礼儀を十分わきまえ、一段も二段下がっての物言いです。これだけのケアー内容を含んでいながら、どうぞ連れて行ってください、追い返さないでください、あなたといっしょでなければ生きていけないのですと言わんばかりです。ナオミのプライドを傷つけないように細やかな注意を払っているのです。つづく

 

 


  • 2009.03.16 Monday - 19:51

ルツ記の賢女たち ルツの主婦力 その6

ルツの選択 つづき

 

ルツの思いは一言でいえばナオミへの愛です。

 愛と、一言でいってしまうと言葉だけが上滑りしていくのを禁じ得ません。近年、愛という言葉はあまりに使われすぎてこの言葉の持つ世にもすばらしい内容が伴っていない感じがします。愛と言う言葉の使われ方に不満をおぼえます。特にイエス・キリストの愛を知ってしまったキリスト者には、世に流布している用い方に違和感を抱きます。あまりに手軽に使われすぎています。浪費されすぎて疲弊し、本来の輝きを失っているようにおもえてなりません。どこにでも顔を出すアイドルのように、とりあえず使っておけば気の済む万能薬のように、手軽に重宝に使われすぎています。

 

『あなたを捨て…ない』に込められたルツのナオミへの思いを、光沢をなくし古着のようになってしまったひと言で片づけたくないのです。もちろん本来の意味なら、愛でいいのです。少々言葉の使い方にこだわりすぎたでしょうか。しかし敢えてこだわってみたい心境です。

 『あなたを捨て…ない』に込められているルツの思い、ルツの愛は、特に女性が強く持っている力です、生来、神様から与えられているケアー・スピリットとも名づけたい特別な力です。

 それを『主婦力』と表現したいと思います。女性だけに備えられた愛の力です。

 

主婦という言葉から何が連想できるでしょう。家庭内のありとあらゆる家事を巧みにこなし、まず夫から始まって子どもたちや老いた親たちの世話をする愛と力にあふれた、たくましい女性が浮かんできます。肝っ玉母さんと言うイメージで代表される女性像です。肝っ玉母さんの愛は単にやさしく美しい愛ではありません。主婦力とは具体的に主婦の働きを含む力ある愛と理解していただけたらいいと思います。

 

主婦力と言いましたが、文字通りの主婦だけが持っているものではありません。立場としての主婦ではありません。独身であろうがやもめであろうが、若かろうが老いていようが、女性の持てる力です。

 

                                 つづく

  • 2009.03.11 Wednesday - 21:22

ルツ記の賢女たち ルツの主婦力 その5

  *ルツの選択*


 さて、ルツです。

 ナオミの強硬な帰国命令に対して『ルツはすがりついて離れなかった』とあります。

ここからルツの心情や意志を読みとることができます。ルツはどんなに説得されても理由を並べられてもナオミから離れる気はありません。初めから固い決意で従ってきたのです。姑の最期を看取るのが長男の嫁である自分の当然の義務だと考えていたのでしょう。なによりもナオミが自分たちを心の支えにしていることが痛いほどわかっていたのです。

 

ところがナオミの様子が出発当初と変わってきた、どうしたことか急にしゃきっとし別人のようにきびきびとして、実家に戻れ、再婚して幸せになれと、有無を言わせぬ強さで断固宣言するのです。それを妙に納得して、オルパがすんなりと帰ってしまいます。

 

ことの意外な成り行きにルツはしばらく呆然としたことでしょう。ナオミとオルパの言動は全く予想外のことでした。特にオルパの選択には納得できません。同じ嫁の立場から、二人はこれまでも心を通わせ、相談し、話し合ってきたことでしょう。特にこの度のベツレヘム行きについては、二人だけでどれほど話しを重ねたことでしょう。いっしょに行きましょうね。いっしょならどこへ行っても大丈夫ねと合意したにちがいありません。

 

それが、なんの相談もなしにあっさりと裾を翻して戻っていってしまったのですから、戸惑うというよりも裏切られたような気がしたことでしょう。引き留めることさえ忘れて、ただただ見送るしかなかったとおもわれます。

 はっとして気がついて自分を見るとき、オルパのように戻る気持にはなれない、再び帰れなどと言われたらたいへんとばかり、ルツは夢中でナオミにしがみついたのではないでしょうか。

 

ナオミはオルパの後ろ姿をしばらく見つめながら、これでいいのだわ、さあ、今度はあなたの番よとばかり、『ごらんなさい、あなたの弟嫁は自分の民とその神のところへ、かえっていきました。さあ、あなたも弟嫁にならって帰りなさい』と強く勧めます。ルツはどんな思いで聞いたでしょう。畳みかけるような言葉にはたじたじとしたでしょうが、ナオミの衣服をつかむようにして切り出します。『あなたを捨て、あなたから別れて帰るように私にし向けないでください』と。

 

 『あなたを捨て……ない』に注目します。

 ルツはナオミと別れることは彼女を捨てることだ、見捨てることだと考えます。これから先のルツの行動はすべてここに原点があるとおもいます。

 先に戻って行ったオルパは、ナオミの説得を自分自身の問題として捕え、自分の今後を考えのです。それに対してルツは真っ先にナオミのことを考えたのです。自分のことよりナオミの明日を考えたのです。自分が戻ってしまったらナオミはどうなるのだろう、それはナオミを捨てるだと思うのです。

 この人を捨てることはできない。ひとりで帰すわけにはいかない。生活力もないのに、どうして生きていけるだろう、生きていけるはずがない、私がいなくては、と思うのです。 つづく

 


  • 2009.03.04 Wednesday - 10:03

ルツ記の賢女たち ルツの主婦力 その4

 

戻るオルパ*

 
ナオミの勧めに対して相反する応答をしたオルパとルツについてしばらく考えてみます。

 

二人を比べますと直裁的に私たちはルツを高く評価し、オルパには厳しい点を付けます。ずっとそのように解釈され、聞かされてきた影響もあって、いとも簡単に善玉悪玉に色分けします。もちろん大筋ではルツは善女でオルパは悪女です。ルツは賢女でオルパは愚女です。ルツは尊敬の的でありオルパは非難軽視されます。しかし、なぜ二人がそのように極端な評価をされねばならないのか、自分なりの答えを出す思考のプロセスが必要だとおもいます。

 

一般に、ルツはオルパにまさって従順で信仰深かったから神様から恵みをいただいたのだと言われていますが、その論理はいかにも律法的ではないでしょうか。ルツその人の言動に恵みの基準を置くのは福音的ではありません。イエス・キリストの贖いのゆえに救われた私たち新約の民の、ものの見方の中に持ちこんではならない原理です。私たちは恵みにより、あわれみによって救われ、ただ神様の愛によって一方的に選ばれたのです、私たちになんの手柄があったわけではありません。ルツは神様のご計画の中で行われた恵みの選びの的になったのです。ルツは神様の御目に止まり、選び出されたのです。世にも幸いな女性と言うべきです。

 

でも、これは歴史上でルツひとりにだけに適用されたのではありません。キリストの贖いをいただいた私たちも実はルツなのです。『二十一世紀のルツ記』のヒロインはあなたであり、私です。その意味からルツの生き方を学ぶことはたいへん意義があります。私たちはルツと同じ生き方のできる条件をすでに与えられていることを確認しましょう。手の内にある輝く玉を見つめましょう。

 

そして、オルパに非難がましい言葉を浴びせるのをやめて、静かに歴史の闇に送りたいとおもいます。ルツがいただいた夢のような幸せをのがしてしまったオルパの悲運を悲しみたいとおもいます。そうした意味で私たちはルツになるのであって、決してオルパになってはならないのです。

 

オルパからもうひとつ考えてみたいことがあります。オルパ批判ではなく、オルパをテキストにした学びです。

 

ナオミの説得に対してまず弟嫁オルパは『別れの口づけをし』て、くるりと向きを変え、もと来た道を引き返していきました。戻っていったのです。涙を拭き拭きではあったでしょうが、戻っていったのです。戻るということはバックすることです。バックには後退の意味があります。

 

一般的に、前に向かって進むこと、前進には発展や進歩を感じます。行く先に希望を抱きます。反対に、後退には希望は見つけにくいのです。すでに歩いてきた道に満足できなかったからこそ、新しい何かを期待して前進するわけです。もとより前進がすぐ進歩や発展や成功に直結するわけではありません。前途になにが待っているかだれにもわかりません。希望的予想を裏切られるようなこともあるでしょう。こんなはずではなかったと唇を噛むようなことがあるかもしれません。にもかかわらず前進には明るさや積極性を感じます。

 

オルパはバックしました。この選択が彼女に真の幸福をもたらしたかどうかは神様しか知りません。私たちにわかることは、オルパはナオミとルツから別れて、もと来た道を戻ったその瞬間に聖書の舞台から消えてしまったことです。恵みの世界から遠ざかったのです。

 

私たちはこの先二度とオルパの名を聖書から聞くことはありません。少なくともこれが戻っていったことについてオルパが支払わされた代価です。ルツが手に入れたものと比較するとオルパの損失の大きさが歴然としてきます。

 つづく

 

 


| 1/1PAGES |