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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2009.02.24 Tuesday - 21:31

ルツ記の賢女たち ルツの主婦力 その3

 

  *ナオミのこころ変わり*


 ところがです、出発していくらも行かないうちに姑ナオミが思いがけない言動に出ます。心変わりです。

 ナオミはあることにハッと気がつきます。黙々と自分に従ってくるこの嫁たちはまだまだ若い。将来のある嫁たちを見も知らぬ土地へ連れて行っていいものだろうか。もっと彼女たちの幸せを考えてやるべきだ。ベツレヘム行きは彼女たちの幸せにはならない。ナオミは強烈にそう思います。

 

そうだ、帰そう、二人を、今のうちに。

 ナオミはピタリと足を止め、二人に向かって実家に帰るようきっぱりと言います。『あなたがたはそれぞれ自分の母の家に帰りなさい。…あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように』(ルツ記一・八)

 ナオミの説得は真実にあふれています。二人には幸せになってもらいたいという思いがふつふつとたぎっているのがわかります。それは固い決意から出てきた言葉です。

 私のことなら大丈夫。ひとりで帰り、ひとりで暮らせます。きっと、そうできます。

 
  ナオミの主張はこうした決意があるからです。

 ところが二人の返事は同じではありませんでした。正反対でした。弟嫁オルパは受け入れて、もと来た道を戻っていきます。

ルツはどうしても帰ろうとしませんでした。

                                つづく

 


  • 2009.02.21 Saturday - 16:25

ルツ記の賢女たち ルツの主婦力 その2

 

 

*姑の故国へ旅立つルツ*


 やもめ三人の仲良し暮らしが淡々と続いたある日、突然、鏡のように静まりかえった湖水の面を震わせる一陣の風が走ります。ナオミの帰郷宣言です。

 

ベツレヘムに神がパンを賜ったそうだから、帰ることにします。いいわね。

 ナオミは急にそう決心したように見えますが、そうでしょうか。決してそうではないと言いたいのです。数年の、いや十年に渡る長い長い思い巡らしの中で、なんどもなんども考え、思い直し、また考え、ある時は忘れ、また思い出す、そうした心の揺れの中で煮詰まった決心ではないでしょうか。それもナオミ自身すらはっきり意識しなかった、無意識下での積み重ねがあったのでしょう。しかしある時、ベツレヘムの飢饉は終わったと言うニュースに、ナオミは敢然と行動を起こします。ニュースはナオミの心の壺に落ち、それが真一文字に決心、決断、決行へと進展していきました。このくだりはナオミの章ですでにお話したとおりです。

 

 あわただしく身辺整理をして、三人は一路ベツレヘムを目ざしてモアブを後にします。二人の嫁ルツとオルパが両側からナオミを支えるように同行します。この光景をどのように考えましょうか。当時の社会では当然のことだったのでしょうか。老いた姑を両脇から支えて故国を去るのは、まだまだ若き女性たちです。未亡人とはいえ二人の姿はいじらしく、すがすがしく、思わず涙を誘います。これこそ一枚の理想の絵のようです。しかしこの絵は額縁の中に静かに収まることはありませんでした。三人は神様のご介入で、いいえ、それぞれの意志で、額縁から、絵の中から飛び出すのです。

 

三人は長年の生活のすべてを廃棄整理して、隣近所に挨拶し、ルツとオルパは自分たちの実家にも十分な了解を得、涙の別れをして出発しました。おそらく生きて再び故国に帰ることはあるまいと、悲壮な覚悟をしたことでしょう。

 

つづく

 


  • 2009.02.18 Wednesday - 15:49

ルツ記の賢女たち ルツの主婦力 その1

 

 

*三人のやもめたち・ルツとナオミとオルパの生活

 

 『ルツ記』は何と言ってもルツあっての『ルツ記』です。この度はルツに心おきなく表舞台に立ってヒロインとして活躍してもらいましょう。

神様がルツを選んだみこころを追いつつ、そこから『女性の賢さ』を探っていきます。ルツ記の内容はすでにナオミの章でご紹介しました。

 

ルツはベツレヘムから飢饉を逃れて移住してきたエリメレク家の長男マフロンと結婚します。弟キルヨンは同じくモアブの女性オルパと結婚します。ところがこのエリメレク家は幸せを求めたモアブの地で大きな不幸に見舞われます。家長のエリメレクが死んだと思ったら後を追いかけるように長男も次男も死んでしまいます。なんという不幸でしょう。残された三人の涙の三重唱がしめやかに聞こえるだけの家になってしまいました。

 

同じ悲しみを共有するやもめ三人の暮らしはどんなものだったでしょうか。

 わびしさの一言に尽きるとおもいます。女だけの気楽な暮らしだったなどとは軽率すぎてとても言えません。

 その暮らしがどのくらい続いたのでしょうか。そのあたりを示唆する数字として、聖書は十年を示していますが、十年の始まりと終わりがはっきりしません。ともかく三人はしばらくともに暮らしていたようです。

 

三人はどのような思いで、また何をして生活していたのでしょうか。生計はどのように立てていたのでしょうか。ともに暮らしながらも、三人はそれぞれに自分なりに来し方行く末を思い巡らしたことでしょう。特に将来のことを考えたでしょう。しかしだれもあらためて表面切って口にすることはなかったようです。ルツもオルパも素直に、従順に、当然のように、ナオミのそばで暮らしていました。

 

人は、その時代や地域の習慣、文化に強く影響され、拘束されながら生きていくものです。ルツたちの時代から三千年以上を経た二十一世紀の今、私たちが当たり前と思っている常識や価値観や行動のパターンを、当時を測る物差しにすることはできません。私たちの国でさえも、ほんの五、六十年前の、戦前の考え方、特に女性の様子は、今とでは雲泥の差があります。それを思いますと、やもめ三人がじっとひとつになって暮らしていたのは当時としてはちっとも不思議でなかったかもしれません。また変えようとしても出来ない状況にあったとも考えられます。

 

と言っても、昔々のことだからと、一言で片づけてしまうと歴史から学ぶ意味が消えてしまいます。両者のせめぎ合うところを巧みに探して視点を据えるところに歴史を学ぶあるいは歴史から学ぶ意味合いが生じると思います。

 

そもそも神様が人間を創造なさったその時の、人間の特質、本質は、時代がどのように変わっても変わらないのではないか、その当たりにひとつの力点を置いてみます。具体的に言いますと、人が喜怒哀楽を感じる心や愛憎の思い、幸せへの希求などは、アダムとイブ以来変わってはいないでしょう。それを手だてに想像してみますと、やもめ三人の暮らしは表面的には波風もなく、むしろうるわしくさえ見えますが、心の中では三様にいくつもの思いが複雑に絡み合っていたことでしょう。

 

なかでも弟の妻オルパは同じ嫁と言えどもルツとは一つも二つも違った思いがあったでしょう。老いた姑ナオミを看取るのは嫂のルツ一人で十分ではないかと、苦い思いや利己心からではなく、自然にそう思うこともあったでしょう。それは無理からぬこと。しかしオルパは言葉を荒げて口にしたり、行動に移すことは極力控え、三人暮らしを受け入れ、仲良く暮らし続けていたとおもわれます

                    つづく


  • 2009.02.13 Friday - 16:53

ルツ記の賢女たち ナオミの選択 その8


*ナオミを自立させたもの・インマヌエルの神*
 なぜ、ナオミは賢い選択ができたのでしょうか。ひとりでも大丈夫、やっていけると腰に力を入れて立ち上がることができたのでしょうか。答えは自分のかたわらを歩んでくださる神様がわかったからです。インマヌエルの主、イエス・キリストなる神様が見えたからです。この答えは重要です。

ナオミがいつ、そばにおられる主、神様の臨在を知ったか、それは魂の崖っぷちに立ったときだったにちがいありません。おそらくナオミは持っていた信仰をありったけ用いて、奮いたたせて、祈ったのです。その祈りは、密室に入って正座し、手を組んで、目を閉じて、一言一言はっきりとした言語にのせて祈ったというものではなかったとおもいます。形においては不完全であったかもしれないけれど、神のそばににじり寄り、すがりつくようにして祈った、魂の祈りをした時であったろうと推察します。

そのナオミを神様は待ち受けて素早く受け止め、抱き寄せて、ご自身を顕してくださったのです。魂の生き死の淵におられる神様の導きによって、ナオミは帰郷の選択をし、かつ、二人の嫁とも別れる選択をしたのです。

 賢い女性は選択上手と言えます。女性の賢さのひとつをまた発見することができました。ナオミの上手な選択は彼女自身を自立させたばかりでなく、愛する嫁ルツの人生をも神の恵みの座に押し上げました。これによってヒロインの座はルツになり、ナオミは静かな脇役に退きました。

若い人になるべく早く主役の座を渡すこともまた、成熟自立した本物の大人の巧みな生き方ではないでしょうか。
 

次回からはヒロインであるルツの賢さを探ります。
 

  • 2009.02.06 Friday - 09:33

ルツ記の賢女たち ナオミの選択 その7

*自立するナオミ・嫁離れを選択*

ベツレヘムへ帰る決心をしたナオミは、もう迷うことなく行動の人になります。
早速二人の嫁に意志を伝えたのでしょう。ナオミは嫁たち、オルパとルツを伴って、いざ出発です。女三人、やもめ三人の旅立ちです。

二人はもともとモアブの女性です。ユダヤ人の家に嫁いだとはいえ、夫といっしょならいざ知らず、死んでしまった夫の母、姑の言いなりにベツレヘムヘ行くべきなのでしょうか。聖書には『そこで、彼女は嫁たちと連れだって、モアブの地から帰ろうとした』(六節)『そこで、彼女は二人の嫁といっしょに、今まで住んでいたところを出て、ユダの地へ戻るために帰途についた』(七節)とあります。ナオミはオルパとルツを同行していくことにはなんの迷いもないようです。当然のことのようです。当時の常識だったのかも知れません。  
 
ところが次の節では『そのうちに、ナオミは二人の嫁に、あなたがたはそれぞれ自分の母の家に帰りなさい』と言い出します。
 おそらくナオミは道々考えたのでしょう。
最初のうちは故郷に帰ることだけで頭がいっぱいで、それ以外のことは考えられなかったのでしょう。いままでなんでも三人でしてきたので自分イコール三人であって一人ひとりという区別がなかったのでしょう。しかし旅がはじまって、ふと、嫁たちのことに気がついたのではないでしょうか。まず、嫁たちにとってベツレヘムはふるさとでもなんでもない、異国なのだという基本的なことに気がついたのです。さらに、嫁たちと自分とは別の人間なのだ、別の人間とは同国人ではないとか、人種が違うとかの外側のことではなく、ひとり、ひとりだ、それぞれに人生があり、生きる道があるのだ、生きる方法があるのだという理解です。

これは家族関係にとって大切な認識です。特に親にとっては大切です。血肉を分けたとはいえ子どもと親とは一心同体ではない、一口に言えば子離れすることの大切さです。
ナオミにとっては嫁離れが問われているのです。ベツレヘムに帰るに際してナオミが当てにしているのはパンと嫁たちでした。ところがナオミはこれから先の人生は嫁たちに頼るべきではないと思い当たったのです。年を取ってひとりになるのは何としても心細い、若い者たちが世話をしてくれて当然と思うのはまちがいではないでしょう。しかしナオミは二人を自由にしてあげよう、二人を縛るのはよくない、私はひとりで生きていこう、ひとりで故郷に帰るのだと心を決めるのです。
これはナオミの自立です。
ナオミは生涯で初めて、老年になって初めて、自立しようとしているのです。

 翻って考えてみますと、人間、男も女もですが、成人式を境に、あるいは就職して社会人となって初めて自立できたと評価されます。親元を離れて独立した生活をすればいっそう自立できたとします。しかしそれは生活スタイルからの判断です。親許を離れても精神的には依然として親とつながり親に依存する子もいます。結婚した場合はどうでしょうか。結婚は立派な自立の証拠です。しかしこの場合でも精神的に考えると様々な依存が見えます。夫は妻に、妻は夫に、子どもが与えられると子育てに熱中するあまり、いつのまにか子育てが自分の生き甲斐になり、子離れがむずかしくなります。子どものほうはたいていドンドン親から精神的に物理的に離れていきます。

その変化に耐えられない場合がよくあります。ようやく与えられた自由を晴れ晴れと喜び感謝できないのです。ひとりの(あるいは夫婦ふたりの)すばらしさを楽しむことができず、虚しくなったり、鬱になったり、こうじて神経症にかかったりするのです。私たちは多かれ少なかれそのような弱さ、悲しさを引きずっています。ほつれた裾の糸くずに絡まれるような、小さないらだちを抱えてしまいがちです。

ナオミは嫁離れを選択します。
これは第二の選択と言えます。この選択がナオミの自立です。これができたとき、自立したと言えます。

昨今、老いていくことを成熟へ向かうと表現することがあります。では成熟の意味するところはなんでしょうか。いろいろあるでしょうが、そのひとつに、精神的にきちんと自立することが考えられます。いうまでもなく人は支えあって生きていく者です。人と言う文字には右と左から支えあう意味があり、人間とは人の間と書くように家庭や社会に生きる者だと様々に説があります。一方、人という文字は二本足で立っている姿からできた象形文字です。これはひとりで生きる自立した姿を現していると考えられます。これこそ神様がお造りになったもともとの人間ではないでしょうか。もちろん神様は愛し合って生きよと女性を創造しましたが、依存したり、束縛したり、絡みついたりするためではありません。

しかし人間とは弱い者、悲しい者です、愛し合って生きよ、がなかなかできないのです。真の自立がなければ、真の愛の交わりは不可能でしょう。何十年と人間稼業をしながら真に自立することができないのです。もしかしたら、自立とは簡単にできるものではなく長い年月を必要とするもので、人生の最後の方でようやく到達できる山頂なのかもしれません。それもすべての人が必然的に到達できるとは限りません。人生の節目変わり目ごとに賢い選択をし続けた結果の芳醇な実ではないでしょうか。なぜならどんなに長く人生街道を旅したとしても、ところどころの標識を見まちがえて賢い選択をしないまま進んでしまうと、依存症にかかったり自己憐憫に陥ったりして、自立というスリムな変身を遂げることはできないでしょう。自立とは精神的、霊的ダイエットの賜物です。そしてそれは選択一つに係っているのです。

これはなにも老年に向かう人だけの課題ではありません。若い方々はそれだけ数多くの選択のチャンスがあります。そのたびごとに賢い選択をし続けていけばいいわけです。

ナオミは若いときにはそれができませんでした。夫に依存し、息子たちに依存し、最後は嫁たちにまで依存しようとしました。そのことが、魂の目の開かれた帰郷途上でわかったのです。ようやくの自立です。以後ナオミはこの賢い選択によって、模範的な成熟した女性になっていきます。そして思わぬ大きな幸いを手にすることになります。(つづく)


  • 2009.02.01 Sunday - 09:14

ルツ記の賢女たち ナオミの選択 その6


*ナオミの帰郷決意

それはどのような状況のときだったのでしょうか。
その時のナオミはかつて息子の妻たちであったモアブの国の女性たち、嫁と暮らしています。彼女たちに不満があったのではない、それなりに平穏な日々であったかもしれません。このまま黙っていたら穏やかに人生の終わりを迎えられるかもしれません。ナオミがもっともっと年を取り、やがて足腰が不自由になり、病を得て寝たきりになっても、二人の嫁は献身的に世話をしてくれる、そうした幸いな予測すら自然にできたかもしれません。

しかし、ナオミは心の底で満足していなかったのです。魂は飢えていたのです。渇いていたのです。ふとしたことで脳裏を走る様々なシーンは飢え渇きをますます募らせるのものばかりです。ベツレヘムで過ごした幼き日々、夫とともに暮らした明るい新婚時代、幼い子どもたちと過ごした光りあふれる家庭のことなどです。自分の命より愛した夫も、いとしい息子たちも他国の土に帰ってしまった、一番先に死んでもさしつかえない自分だけが生き残っている、しかも他国にいる……。

ナオミがこだわりだしたのはふるさとにいないということでしょう。そもそもモアブに来たのは永住するためではなかった、飢饉が終わるまでの暫定的、当座しのぎの手段ではなかったかと、スタート地点に戻って考え、反省し、やがて長居しすぎたと悔いるのです。必然的に帰りたい、帰ろう、帰るべきだとの思いが生まれます。その思いは夏の草木のように勢いよく心一面に繁茂していきます。

このままでもいいのではないか、いや、なんとみじめだろうと、ある時は自己弁護、自己憐憫、一方で自己批判、自己断罪など、激しい葛藤が展開します。自分対自分の極めて内面的な戦いです。こうした戦いこそ一番激しく厳しいものではないでしょうか。魂は光を失って、暗闇の真ん中でもがきにもがきます。ナオミの人生でこの時が最大の苦悩の時ではなかったでしょうか。そしてこの闇に人は長く留まるものです。その間、表面的にはいつもの日常が淡々過ぎていくのです。

ナオミがその生涯で覗いた深い深い魂の淵、その崖っぷちに立ったまま、どのくらいの時が過ぎていったのでしょうか。やがて、人そよぎの風が生まれ、それがしだいに力を増し、ふつふつと吹き上げ、たぎってきたのがベツレヘムへの帰郷願望です。それが帰郷決意へと拍車をかけます。

魂のどん底、ぎりぎりの淵でしか聞こえない声があります。そこでしか聞くことできないことばがあります。それこそが神の声、神のことばではないでしょうか。そのことばを聞き分け、そのことばを選択し、そのことばに従って立ち上がり、行動を始めるとき、初めて神の計画した人生、神の備えてくださった最高で最善の人生が始まるのです。不眠不休の魂の闇夜で神のささやきをきくことから、神の愛が設計した人生がスタートするのです。祝福の太陽はその時初めて神の国の色彩で輝き始めます。

ベツレヘムヘ帰ろう。私の死に場所はベツレヘム。
ナオミはしっかりと、きっちりと帰郷を選択し、決意します。
以後のルツ記のすばらしい物語はナオミがベツレヘムヘ帰るという選択をしたことから始まると言っていいでしょう。ルツがボアズの畑で落ち穂を拾い、それを契機として二人の間に美しい愛が芽生え、やがて結婚に至るハッピーな出来事は、そもそもナオミの選択に端を発しているのです。

ああ、神様は私たち一人ひとりの前に、私だけのルツ記、あなただけのルツ記を用意してくださっているのではないでしょうか。神のみ声を聞き分けて小さな選択をする時をじっと待っておられるのではないでしょうか。
放蕩息子はどうでしょう。彼もまた豚飼いにまでなり果てたそのどん底で我に返り、父の家に帰ろうという選択をするのです。こんなところで何をしているのだ、もう息子と呼ばれなくてもいい、雇い人のひとりでもいい、父のもとに帰って謝罪しようと決意し、恥もプライドもかなぐり捨てて、子どものように単純に、一途に、父のもとへ、故郷へ、魂のふるさとへ帰っていくのです。その後の物語は感動です。あの、至れり尽くせりの父の愛が待ち受けていたのです。父親は息子が出ていったその日から、帰る日を待ちわびて毎日毎夕、門の外に立って、見えない地平線に愛の視線を注いでいたのです。

私たちの平々凡々たる日常にも神様は選択の場を与えておられます。選択せよとささやいておられます。立ち上がって新しい道に歩み出すのも選択ならば、今居るところに決めようと、留まり直すのも選択です。同じ場所に座り直すとしても、腰を上げることは一仕事です。かけ声を発しなければ重い腰は上がりません。時々、人生の居間の空気を動かし、風を入れることは必要なことではないでしょうか。(つづく)   

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