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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2009.01.28 Wednesday - 15:31

ルツ記の賢女たち ナオミの選択 その5


*ナオミの帰郷願望*

ある日、ナオミは我に返ります。
 我に返ったとき、最初に見えたものはなんでしょうか。自分自身の姿、真相です。かの放蕩息子は『私はここで飢え死にしそうだ』『私は飢えて死のうとしている』と叫びます。それは自分の再発見です。泥沼にはまっている自分を発見したときの驚きの叫びではないでしょうか。悲鳴ではないでしょうか。魂の発したSOSです。
 ナオミもまた、私はたった一人になってしまった。こんな老女になって他国にいる。私のそばにいるのは他国の女たちではないか。まるで悪夢を見ているような、取り返しのつかない大失敗をしてしまったような、身の置き所のない、居ても立ってもいられない、せっぱ詰まった思いに捕らえられてしまったのです。
 
帰ろう、帰ろう、ふるさとへ。帰りたい、帰りたい、ベツレヘムへ。懐かしいベツレヘム、私の死に場所はモアブではなくてベツレへムだ。ベツレヘムへ帰って、そこで死のう。そうした思いに奮い立つのです。
 
聖書には、ナオミに帰郷の決意をさせたきっかけは、故郷ベツレヘムの飢饉が終わって『神がパンをくださった』とあります。つまり自分たちが逃げ出してきた原因が解決したというニュースを耳にしたからでした。
 
ところで、考えたいことがあります。飢饉は終わったというニュースのことですが、ナオミははたして初めて聞いたのでしょうか。この点に少しばかりこだわってみたいと思います。聖書はナオミがモアブにいた年月を十年と記しています。『彼らは約十年の間そこに住んでいた』。
 
この十年と言う言葉は息子たちが亡くなる前の箇所で出てきます。彼らとありますので家族で暮らした年月と考えられます。それから二人の息子が亡くなってナオミがベツレヘムヘ帰ろうと思い立つまでの時を加えるならば十年以上になります。最低でも十年です。
 
飢饉とは十年も続くものでしょうか。今年も次の年も不作続きで日照り続きで飢饉になったとしても、十年も続くことはないでしょう。ちなみに聖書の飢饉を拾ってみますと、一番有名なのが出エジプト記のエジプト一帯の飢饉です。未曾有の飢饉がやってくることを、神様はエジプトの王パロに夢の中で知らせますが、それは七年間の飢饉でした。夢の解き明かしに活躍したのがかのヨセフであることは言うまでもないことです。これは長い飢饉でめったにないことでしょう。
エリヤの時代にも大きな飢饉がありました。『イスラエルにはここ、二、三年の間は雨も露も降らないであろう』と神のお告げがありまして、エリヤはサマリヤへ逃れていき、ひとりのやもめに養われます(列王記一七・一)。その飢饉は三年半ほどでした(ルカ四・二五)。ですから十年もずっと飢饉だったとは考えられません。

思いますに、これは推察と言いますか、想像なのですが、飢饉はすでに終わっていてベツレヘムは以前のように平穏になったことをナオミは以前からチラチラと耳にしていたのではないか、しかしそのニュースはナオミの心の核心に届いてなかったのではないかと。

『人は自分の見たいようにしか見ない』とは、かのローマの英雄ジュリアス・シーザーの有名な言葉ですが、その言葉を借りますと『人は自分が聞きたいようにしか聞かない』と言えないでしょうか。ある事実を聞いても、関心のないことは心に留まりませんし、また心に留めたとしても自分流に聞いてしまいます。都合のよいように無意識のうちに脚色して自分の理解としてしまう、そんな作用を私たちの心はしてしまうのです。二人の人が同時に同じことを見たり聞いたとしましょう。ところが受け取り方は同じではありません。どうしてこんなに違うのかと驚くことがよくあります。それほどに人は自分の見たいように見、聞きたいようしか聞かないのです。

ナオミはある時、飢饉は終わったというニュースを確かに耳にした、でも聞き流していたことがあったのではないかと。ああ、そうだったのと言うくらいで、それが直接に自分の帰国願望、ましてや帰国決意には至らなかったとおもわれます。

しかし、ある時、心の芯で聞くのです。心のど真ん中で聞くのです。聞こえてきたというのではない、自分の意志でしっかり聞き、しっかり受け止め、それが一直線に帰郷願望を刺激するのです。もしかしたら、帰りたい、帰らねばと時々考えるようになったその矢先に、飢饉は終わった、が、聞こえてきた、飛び込んできたと言えないこともありません。ある時のナオミの心理状態がニュースを聞かせたのです。         (つづく)

  • 2009.01.24 Saturday - 09:12

ルツ記の賢女たち ナオミの選択 その4

キャベツ畑

*ナオミの異郷暮らし*
 ところで、モアブの地で、ナオミ家族はどのような生活をしていたのでしょうか。ベツレヘムを出たときに抱いていた願いはかなったのでしょうか。すでにご紹介したようにその結果は惨憺たるものでした。もちろん当初は心配していた飢餓からは救われたでしょう。ほっとして、ああ、自分たちの選択はまちがっていなかった、正解だった、移住してきてよかったと胸を撫でて安堵したことでしょう。

しかししばらくして夫が死んでしまいます。こんなことはナオミの人生設計には絶対に入っていなかったことです。大きな設計ミスです。幸福プランのキーパーソンが亡くなってしまったのですから。ナオミの衝撃がどんなに大きかったか想像に難くありません。その時、息子たちが何歳くらいであったか定かではありませんが、おそらくナオミは三人暮らしのために必死に働かねばならなかったでしょう。今日一日を生きるために無我夢中だったでしょう。ふるさとへ帰るなどという思いは跡形もなく消えて、いや、思い出す余裕もなかったことでしょう。働きに働いて、死ぬほど働いて、息子たちをどうにか一人前に成人させたことでしょう。
 

結婚適齢期を迎えた二人は、知人の勧めによったのか、あるいは自分たちで選んだのか、ともかくも相次いで結婚します。相手はもちろんユダヤ人ではなくモアブの女性です。モアブとは隣国同志で、ルーツは民族的にも一つですけれど、れっきとした外国です。おそらく文化にも習慣にもちがいがあったでしょうし、特に宗教がちがいます。ナオミたちはそうした異文化の中で長年生活していました。息子たちはモアブでの暮らしの方が長いでしょうから、かなりモアブ化していたでしょう。
 
ところで、ユダヤ人と言えば世界のどこに住んでいようと、自分たちだけの共同体を作って他国の文化や宗教を受け入れず、民族の純粋性を固く守ることにアイデンティティーを持つ民族として有名ですが、すべての人がそうであったわけではないようです。現にナオミの生きた『士師記』の時代の特徴は『そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた』でした。自分の目に正しいと見えることを行っていたとは、自己中心、自分勝手にと言い換えることができます。そうした人生観に立って人々は自分の生き方を選択していました。もっともそれは士師記の時代だけに限ったことではなく、現代はその最たるものでしょう。

 そもそもナオミ夫婦が外国に行くこと自体が自己判断、自己中心の選択です。本来神様はカナンの原住民やモアブなどの周辺民族とは交わってはならないと命じておられました。ナオミの信仰ですが、イスラエルの神、聖書の神様を一筋に信じていたようです。後にナオミに従うルツが、ナオミの神を自分の神と告白しているところから、ナオミには信仰があり、それなりの信仰の生活があったと察します。しかし、モアブの地でのナオミの信仰は徹底したものではなかった、もしかしたらベツレヘム時代もそうだったのかも知れないのです。ナオミがまことの信仰に目覚め、生きた神様と出会い、その信仰に積極的に生きるようになったのは、モアブで、夫や息子を失い、失意のどん底につき落とされた以後ではないかと考えます。ここは後ほどまた触れていきます。
 
モアブでのナオミは、二人の息子がそろって現地の女性と結婚するのを黙認しました。信仰のかけらが、これはいけない、神様のみこころではないと叫んでも、現実の勢いに流されてしまうことがよくあります。かすかな神のささやきや小さな真理を見分けることは容易ではありません。しっかりした信仰者といえども大半は聞き流してしまい、小さな選択をまちがってしまうことが多いものです。まちがったことすら気がつかない場合が多いのです。厳密に測れば、ナオミ夫婦がモアブ行きを選択したのも、ナオミが息子の嫁にモアブの女性を選んだのも、神様のみこころではなかったと言えます。聖書は、つまり神様は、この書で直接にナオミを非難してはいませんが、この時代全体の風潮である『めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた』と言う一文を敢えて挿入することによって、神様不在の身勝手な生き方をたしなめておられるように思えます。神様の嘆きの声が聞こえてくるようです。

 ナオミは息子たちの結婚を心ならずも黙認してしまったとは言え、大きな目で見守り、若く美しい嫁たちと華やいだひとときを迎えたことでしょう。仲睦まじい若夫婦たちの様子に目を細めてほほえみ、時には夫との在りし日をそっと重ね合わせて涙ぐんだりしながらも、母としての大任を終えた満足感に浸ったことでしょう。
 このまま私の人生は終わるのかも知れない。それでもいい、ここで死んでもいい、ふるさとへ帰らなくてもいい、この地には夫も眠っているのだから、と贅沢を言わなければそれなりに居心地のよい初老期を迎えたとおもいます。
 ところがそうはいかなかった、のです。人生の天気図ほど予測のつかないものはありません。哀れなやもめの小さな幸せの青空もつかの間で、二人の息子が相次いでなくなってしまうと言う暴風雨が襲来するのです。なんと無常でしょうか。これほどの不幸があるでしょうか。これほどの悲しみはないでしょう。自分が死んだ方がはるかにましだとどんなに思ったことでしょう。嫁たちの嘆きにもましてナオミの悲嘆は大きく深く、暗いものでした。嫁たちと手を取り合い、抱き合って何日も泣き明かし、何ヶ月も泣き続け、何年も悲しみの日々を重ねたことでしょう。(つづく)
  

  • 2009.01.18 Sunday - 17:18

ルツ記の賢女たち ナオミの選択 その3

ナオミと放蕩息子

ふるさとの思い出し方に彼の場合は特徴があります。たいていの場合はかすかに思い出すのです。ふるさとはよかったなあ、父の家は楽しかったなあ、おふくろに会いたいなあと。しかしこの息子はありありと実にリアルに思い出すのです。そしてつぶやきます。「父のところにはパンのありあまっている雇い人がおおぜいいるではないか。それなのに私はここで飢え死にしそうだ」。

この次男坊は今でこそ雇い人などと言っていますが、かつて父の家にいた頃は、雇い人の存在にすら目もくれず気もしなかったような苦労知らずのお坊ちゃんだったことでしょう。ところが自分の惨めな状況を通して初めてふるさとの実体が見えてきたのです。悲惨な現状はふるさとを写し出す鏡です。紙くずのように思えたわが家が、軽んじていたふる さとが天国のように思えたのです。次ぎにこう思います。「立って父のところに行ってこう言おう。『お父さん、私は天に対して罪を犯し、またあなたの前にも罪を犯しました。私はもうあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』」。
 
故郷を軽蔑し、父を悲しませたわがまま次男坊とは別人のようです。彼は天に対しても父に対しても罪を犯したとはっきりと自分の非を認め、悔い改め、父の足もとに土下座する覚悟で帰っていきました。
 
ナオミが、旧約版放蕩息子に思えてなりません。
 一見しただけでは似ても似つかぬ二人ですが、二人の精神の底を流れるものに共通点を感じます。
 
まず、ふるさとを出ていくところです。ナオミはふるさとの飢饉に悩まされ、そこから逃れるために出ていきます。家族が食べていけるか否か、それは死活問題ですから、なんとか方策を講じるのは当然のことです。しかしです、飢饉の中にいるベツレヘムの人々が全員出て行ったのではありません。と言うことはモアブへの移住はあくまでもナオミ夫婦の選択です。

こんなところにいたら早晩餓死してしまうだろう。だから出ていこう。もう少し安心でき、もう少しましな暮らしをしたいということでしょうか。しかし心の底の方では、ずっと行ったきりになるのではない、いつか帰ってくる、ここにいたときより良くなって、ふるさとの人々にも大きな顔ができるようになって、幸せになって帰ってくる、きっとそうなると信じたことでしょう。
 
聖書はナオミ夫婦の選択を悪いこととはしていません。神様のみこころに反することではないようです。聖書には飢饉を逃れて外国に行く話がよく出てきます。信仰の父と呼ばれるアブラハムもエジプトへ行きましたし、ヤコブは一族郎党を引き連れて行きました。それがかの出エジプトへ繋がっていきました。飢饉を逃れて移住することは当時の習慣でもあったようです。今も地方の人々が都会に就職しますが、それを悪いことと言う人はいません。どこに行って働こうが住もうがその人の自由選択です。ナオミ夫婦がモアブに移住したのもそうした範囲のことでした。ただ、心理的にはやはりふるさとにいたたまれなくて、出ていったのです。
 
放蕩息子は莫大な財産を懐中に、意気揚々と出ていきましたが、そこに至るまでの彼は精神的には飢餓状態にあったわけです。家にいるのが苦痛で、家から、ふるさとから離れたら、きっと自分を満足させてくれるすばらしい世界があると思いこんだのです。こう考えますと、ナオミと放蕩息子とは似たもの同士と言えます。 つづく

  • 2009.01.15 Thursday - 10:04

ルツ記の賢女たち ナオミの選択 その2

*ナオミは旧約版放蕩息子?*
 
まず、ナオミがベツレヘムへ帰ろうと思い立ち、二人の嫁を伴って旅立つあたりから考えてみます。
 そもそもナオミがふるさとを捨てるようにしてモアブに来たのは飢饉のためのやむを得ない選択でした。事態が好転したらじきに帰ろう、きっと帰ろうと思ったことでしょう。

地方から都会へ出ていく人たち、また国外へ移住する人たちのことを例に考えると想像がつきます。(ナオミ一家の移住は非常時に流出する難民のたぐいではないと思います。)人々は、いつかは立派になって帰るのだ、『故郷に錦を飾る』とあるように、成功者になって、幸せになって、出世して帰るのだと決意することでしょう。 
 
『桃太郎』というむかし話がありますが、あれは故郷へ錦を飾った人の典型で、おおかたの人の心にある帰国、あるいは帰郷願望、帰郷スピリットの象徴と言えましょう。ですから、出てきた時より悪い状況になった場合は故郷へは帰りづらいのです。帰りたいとの『望郷の念禁じがたし』ではあっても『どの面下げて帰れようか』との葛藤の中でついに他国の土となるケースも多いとおもいます。
 こもごも考えるとき、あの有名な詩、室生犀星の『ふるさと』が浮かんできます。

  ふるさとは 遠きにありて 思うもの そして悲しく うたうもの
  たとえ 異土の乞食になるとても 帰るところにあるまじや

 故郷は遠きにあって思うもので、帰るところではないというのが詩人の理論ですし、日本人の一般的な通念であったとおもいます。これも昨今は覆されて、Uターン現象という新しいふるさと観が推奨されたり賞賛されたりするようになりましたが。

 故郷に帰って幸せになった人で有名なのは新約聖書にあります『放蕩息子』です。イエス様のたとえ話の人物です。
 
彼は典型的ないわゆる次男坊で、いつかは自分のものになるだろう父親の財産を、いまのうちにもらいたいと勝手な理由で父親に迫り、強引に分割してもらって、家を、故郷を後にします。こんな田舎にいられるか、都会へ行くのだ、これだけの財産があれば楽しい暮らしができるだろうし、自分の才能も存分に伸ばせる、大成功して名をなしてみせるとばかり勇んで出ていきます。しかしそうは問屋が下ろしませんで、お定まりの転落コースをたどり、気がついたときは財も使い果たして無一物、乞食同然になり果てていました。寝食にも事欠くどん底で、彼はふるさとを思い出すのです。(つづく)

 

  • 2009.01.12 Monday - 11:49

ルツ記の賢女たち ナオミの選択 その1

しばらくお休みしましたが、再開します。どうぞよろしく。

前回までは、聖書の女性シリーズから『クリスマスの賢女たち』を掲載しましたが、今回から『ルツ記の賢女たち』をスタートします。
これは、講演をまとめたものですので、語り口調になったいると思います。
お楽しみいただけたら幸いです。
  

*ルツ記のあらすじ*
 
『ルツ記』のヒロインは言うまでもなくルツです。ですが、ヒロインはあとから登場してもらうことにして、まずは姑ナオミから始めます。けっしてナオミを脇役として軽んじているわけではありません。むしろ年長者に礼を尽くして上座を用意したつもりです。
 
実のところは、ルツに接近すればするほど、ナオミが大きく見えてきたからです。ルツは若いやもめ、ナオミは老いたやもめです。私の年齢がナオミにより近いせいかもしれませんが、ナオミの生き方から具体的で切実なメッセージが聞こえてくるのです。しかしそれは老いたやもめだけに必要な事柄ではありません。およそ賢い生き方を探る女性なら、年齢に関係なく見過ごしにはできない人生の必携品と言えますし、少しでも早く知っておいたほうが得策だと思えるからです。
まずはナオミを追いつつ、探っていきます。
 
『ルツ記』のストーリーをかいつまんで記します。旧約聖書の中でもわずか四章からなるこの書は、その小ささから言っても特異な存在です。タイトルが女性名であることも大きな特色の一つです。また、直接神が登場しないことから言えば、聖書に座を占めるのが不思議な書です。
  
物語の舞台となる地はイスラエルはユダヤの地ベツレヘム。時は今からざっと三一〇〇年ほど昔のことです。イエス・キリストがこの地で降誕する一一〇〇年ほど前です。 
 ベツレヘムに住んでいたある家族が飢饉の難を逃れて隣国モアブに移住します。在住の他の人々はどうしたのか、その情報を聖書から得ることはできませんが、この家族は移住の決断をしたのでした。家長エリメレクの鶴の一声であったのか、妻ナオミの説得だったのか、そのあたりもさだかではありません。
 夫婦と息子二人の家族四人は、なにやら現代日本の家族構成に似ていますが、モアブの地で三度の食事には事欠くことなく、落ち着いた暮らしを始めたようです。
 
しかしそれも長くは続きませんでした。この家族はこの地では幸福を得ることはできなかったのです。まず、大黒柱である家長のエリメレクが死んでしまいます。死因は記されていません。病死なのかあるいは不慮の死なのか、とにかく、家族にとっては思ってもみなかったことであり、彼らの人生設計図にはおよそ書き込まれていなかった不幸中の不幸でした。
 
やもめになったナオミは二人の子どもを懸命に育てました。異国の地で女ひとりが子育てをすることがどんなに過酷なことか、想像にあまりあることです。なりふり構わず、髪振り乱しての生活だったことでしょう。

苦労の甲斐あって二人は無事に成人します。チャンスがあって、二人はそれぞれ現地モアブの女性を妻に迎え、しばらくはそれなりに落ち着いた生活をしたとおもわれます。ナオミもどんなにか安堵したことでしょう。頭には積年の苦労のしるしである白髪が目立ってきていたことでしょう。
 
ところがそれもつかの間、今度は頼みの綱である息子が、それも何と言うことでしょう、二人とも相次いで亡くなってしまいます。一人の子どもを残すこともなく。この出来事は先の夫の死以上に大きなショックでした。その打撃は計り知れないものでした。恐らくナオミは落胆のあまり生きる希望を失い、いっそ夫や息子たちのところへ行ってしまいたいと激しく願ったことでしょう。

 ふと、ナオミの耳に一つのニュースが聞こえてきます。故郷ベツレヘムの飢饉が終って暮らしやすくなったという風聞です。そこでナオミは一大決心して、ふるさとへ帰っていくのです。未亡人になった二人の嫁たちとともに。でも、途中で嫁同行の帰郷は彼女たちにとってほんとうの幸せにはならないと気づき、親許へ帰るように勧めます。説得されて一人は帰っていきますが、もう一人の嫁はなんとしても同行を願い、涙を流して哀願します。ナオミの再三再四の拒否にもひるまず、ついにベツレヘムにやってきたのが、この書のヒロイン、ルツその人です。
 
ルツはナオミとの生活のために、落ち穂拾いをして働きます。ルツが入った畑が、ナオミの夫エリメレクの遠縁に当たるボアズ、彼は町きっての有力者でした、ナオミはイスラエルの習慣である買い戻しの権利を思い出し、このあたりは後ほど説明しますが、なんとかしてルツをボアズと結婚させたいと思い立って策を練り、ついに二人を結ばせるのに成功します。

モアブの女性であるルツは奇しくもベツレヘムの名士と再婚するのです。このハッピーな終幕は私たちを明るく楽しい思いに満たし、希望を与えてくれます。物語の最後では、不幸の代名詞であったようなナオミが、孫を抱いてほほえんでいる姿が想像でき、それがまた例えようもない豊かさを残してくれます。まだ続きがありまして、ナオミの孫の三代目は、なんとイスラエル最大の王であるダビデであり、それから一千年余を経て、その家系からイエス・キリストが誕生しています。ストーリーはこのくらいにしてナオミに接近していきます。
 (つづく)


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