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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
日曜日の朝に日曜日の朝に 東京は小雨がぱらぱらして、道行く人たちの雨傘姿が目につきます。 世の中では世界同時不況などとまたまた新語がとびだし、大きな渦がとぐろを巻始めました。近年にない物価の、それも食料品の上昇には、株価の乱高下には無関係な持たざる者の幸いも、吹き飛ばされそうです。 キリスト教会では、秋は特別の行事が行なわれます。有名講師による特別集会や講演会、またコンサートなど、一般の方々に呼びかけています。ここ休まるひとときが準備されています。お気に入りの傘を差しておでかけになりませんか。 ピリピ人への手紙4章6,7節 『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に聞いていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスに守ってくれます』
Category : 日曜日の朝に
聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その7 最終回《主の御顔を避けて》から 遠藤嘉信著・いのちのことば社 説教集第6章 神の主権と恩寵(本文抜粋、あるいは要旨) 『……あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか』 聖書はヨナ書4章5節〜11節 『ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」 すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」』 本文から ヨナは怒りました。不正なものがさばかれずに、単純に赦されることがあるのか。それなら正しい人間はどうなるのか。正しくても悪くても結末が同じであるならば、正しく生きてきた人間は、どこで報われるのか。そういう怒りです。それで彼は神に向かって言います。「今どうぞ私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだ方がましですから」。 人の命も死も支配しておられるのは神ではないでしょうか。それらのいっさいに主権を行使するのは、それらをお造りになった私たちの主ではないでしょうか。彼は神の主権の座に座ろうと座ろうとしています。ニネベの人々は神のものです。神が、ニネベの人々を生かし、彼らを育て、ここまで導いてこられたはずです。 とにかく彼は、宣教の働きの後、しばらくニネベにとどまることにしました。町の東の方にすわり、そこに自分で仮小屋を作って様子をうかがいます。依然ニネベへの裁きを期待しています。神が心を変えるようにと考えています。 でも、変らなければならないのは、ヨナ自身ではなかったでしょうか。私たちも困難や痛みの原因を自分以外のところに求めます。自分は正しいと思います。まず、自分に問題があると考える必要があるかも知れません。 神は、一つのおもしろい出来事を通してヨナを扱い始めます。神は一本の「とうごま」と呼ばれる植物を生えさせました。これが生えてきて日影となり、思いがけない恵みとなりました。ヨナはこのとうごまを非常に喜びました。 ところが、喜びも束の間、虫が噛んだためとうごまはアッという間に枯れてしまいます。さらに悪いことに、中近東独特の東風が吹いてきました。乾燥した非常に熱い風です。 ヨナはまさに環境の奴隷です。自分の幸せがすべて自分の周りの環境に支配されてしまっているのです。私たちは意外にこの問題に気づいていないのです。ヨナのとうごまは人間の愚かさの象徴です。 私たちの生涯にはわからないことがたくさんあります。不平等とも不公平とも思える多くの痛みや悲しみがあります。でも、わからないことと同居することも大切です。なぜそういえるのかと言いますと、主権を握る神は、私たちをも惜しんで、どうあっても私たちを滅びから救って、恵みをもたらそうとされるお方だからです。そのお方への信頼が求められています。そしてそれこそが信仰です。 神は私たちに問いかけて迫ります。「あなたには、わたしの愛がわかりますか。わたしは、あなたとあなたの隣人を惜しむほどに愛している。この愛がわかりますか」 神の「永遠の愛(ヘセド)」を決して疑うことがありませんように。アーメン。 お詫びと感謝 もっと頻繁にアップする予定でしたが、準備より時間のスピードのほうがはるかに速く過ぎ去り、もがくのみでした。それでも訪れてくださる皆様の忍耐と寛容に心から感謝します。今後も継続の意を強くしていますので、時々覗いてみてください
Category : 聖書そぞろ歩き
聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その6ロゴス氏より 《主の御顔を避けて》から 遠藤嘉信著・いのちのことば社 説教集第5章 ヨナの怒り(本文抜粋、あるいは要旨) 『ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた…』 このこととは、ニネベの人々が神の裁きによって滅ぼされることなく、救われてしまったことです。そもそもヨナが神に逆らって逃亡したのも、敵国ニネベへ行って神のメッセージを伝えることが嫌だったからです。ヨナは本心ではニネベが滅べばいいと思っていたのです。それが救われてしまったのですから、不愉快でたまらないのです。 本文より 神のやさしさ、神の寛容さが許せない。ここにヨナの不幸があります。神がニネベに対してあまりにも寛容であまりにやさしすぎるからです。神が、自分の側にではなく、ニネベの側に立つように思えるのが辛いのです。自分と同じ気持になって、ニネベを憎み、ニネベを滅ぼす神であれば、ヨナは平安を得られるのです。神がいつも私とともにおられ、私の味方であると感じられれば幸いです。しかし神のニネベに対する寛容さが、ヨナにとっては、神に無視されたような疎外感をもたらしたのです。問題は神にではなく、ヨナ自身にあるのです。 ヨナは自分に注がれる神の愛を十分に信じていなかったのだと思います。ヨナは神に対して不信の思いを募らせていました。そして、ニネベへの神のあわれみが示されたとき、ねたみの思いが彼を支配したのだと思います。心が貧しいのです。愛され、温かく包まれる恵みを知らないとき、人はバランスを崩してしまいます。そして、他の人を愛することも、他の人が愛されることを喜ぶこともできないのです。 キリスト者であるということは、祈りを始めるとき、見えない神が、父なる神として私たちの拙い祈りに耳を傾け、側でじっとお聞きになられて、親しく臨んでおられることを心から信じることができると言うことでもあります。それは、キリスト者に与えられる恵みの特権です。 神を信じられない人にとっては自己満足と思われるかも知れません。でも、神はおられます。人が信じようが信じまいが神は存在されて、人間にかかわりを求めておられます。そして、私たちが神に応答する以前から、神はわたしたちを愛してくださっています。神の永遠のご計画の中に私たちを置いてくださっているのです。私たちは、自分に注がれている神の尊い愛と恵みをもっと喜ぶ必要があります。 確認したいと思います。私たちの信じる神は、私たちにとって本当に情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直される神でしょうか。そういう神を心から信じ受け入れておられるでしょうか。神の存在だけでなく、その神の愛に信頼しておられるでしょうか。ヨナにかかわろうとされる神の姿を、今このとき私たちにかかわってくださる神の姿と重ねて見ていただきたいと思います。
Category : 聖書そぞろ歩き
聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その5《主の御顔を避けて》遠藤嘉信著・いのちのことば社(抜粋あるいは要旨) 説教集第4章 思い直される神(本文抜粋、あるいは要旨) ヨナ書3章10節 『再びヨナに次のような主のことばがあった。……神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなった』 大きな魚の腹の中で三日三晩を過ごしたヨナは、助けられた感謝の祈りをささげます。吐き出されたヨナは不思議にもニネベの海辺に打ち上げられるのです。ヨナは町に入って、神様から託された警告を語り伝えます。ところがヨナのメッセージを聞いたニネベの人々は王様から初めて民全員が神の前に激しく悔い改めます。それで、上記のみことばのように、神はさばきをやめてニネベを救ってしまいます。それはヨナの気に入りませんでした。 本文より 私たちには、その時々の弱さがあります。しかし、神は、私たちが成長することに期待して、その弱さをそのまま受けとめてくださいます。私たちが完全でないことは当然なのです。けれども、私たちの側で、他人を、また自分をすら、なかなか受けとめられないと言う問題があります。 失敗して、二度とチャンスが巡ってこないということは悲しいことです。しかし神はその人の弱さを受けとめ、受け入れ、再び同じ使命に招くのです。神は、その人の人格を尊重し、その人をそのままで受けとめ、その人への信頼を失わないのです。 神は私たち一人一人に特別なご計画をお持ちです。今を生きる私たちは、この神の備えていてくださる御心の行程の中にあると、自信を持って言えるかどうかを考えてみたいと思います。それが最高の生涯です。そして、神はその行程に私たちを立たせようと何度も招いてくださる。道を外しても、また神は引き戻してくださるのです。 神は私たちの内面を扱われます。そして、私たちの内にたましいの変革をもたらします。それが聖書の語る救いということです。神はニネベの人々が悪の道から立ち返るために努力しているのをご覧になられ、裁きを思い直された。 神は思い直される神です。何度も何度も忍耐を持って思い直されるお方です。あなたの神は、何度あなたのために思い直し、忍耐してこられたと思いますか。あなたは、そうした神の忍耐とあわれみを知らないのですか。知らずに他人を責めるのですか。 聖書は、そのように矛盾に満ちた私たちに、優しく問いかけるのです。(続く)
Category : 聖書そぞろ歩き
聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その4《主の御顔を避けて》遠藤嘉信著・いのちのことば社(抜粋あるいは要旨) 説教集第3章 ヨナの祈りから(本文抜粋、あるいは要旨) 『ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って…』 ヨナは、嵐の海に投げこまれました。それで嵐は静まり、彼らが乗っていた船は難を逃れました。また神は、海の真只中に放り出されたヨナを、大きな魚を備えてのみこませます。そうした奇想天外な方法でヨナを溺死から救われるのです。 ヨナは死の脅威と苦しみから救われて感謝しています。しかし、御顔を避けて、御心に従おうとしない態度そのものを悔い改めてはいません。悔い改めることは容易ではありません。必ずしも試練を通過すればすぐに神に立ち返るというわけではありません。人間の心の複雑さ、しぶとさ、強情さがヨナ書にはみごとに描かれています。 ヨナは『もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです』と祈ります。彼は、神との交わりを回復したいと願っているのです。神の方を向いたと言うことです。ここからすべてが始まります。 問題は私たち一人一人が神に向かおうとしているかどうかということだと思います。神の方を向くならやがてその人には救いの確信が与えられるでしょう。神に受け入れられ、神との交わりの中で、その人は変えられていくのです。まず、祈りの中で神に向き合うことが求められています。 ヨナはまだ完全ではありません。しかし神はそのときのヨナを受け入れ、将来の成長を期待して受容されたのです。 私たちを愛してくださる神は、不完全な私たちを同じように扱われます。私たちの成長と成熟を忍耐を持って待ってくださる神とその永遠の愛に感謝したいと思います。
Category : 聖書そぞろ歩き
聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その3(日が空いてしまいましたが続けますので、お訪ねください) 《主の御顔を避けて》遠藤嘉信著・いのちのことば社(抜粋あるいは要旨) 説教集第2章 神の御業と摂理から(本文抜粋、あるいは要旨) 『さて、主は大風を海に吹きつけられた。それで、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった』 私たちは様々な緊張を強いられて生きています。自分思い通りにいかないこと、複雑な問題に直面しながら、どこに向かって進んでいったらよいのわからないことがたくさんあります。すべてのプレッシャーから解放され、束縛のない自分に人生、主体的な生き方をしたいと感じています。でも実際にはどこへ行っても安らぐことはできません。 人は神から失われているとき、本当の自由と平安を求めてさまよっているのです。満たされないたましいを何かで満たそうとさまようのです。 聖書によれば、神は人間にどこまでもかかわり続けようとされる方であるというのです。聖書の神は遠く宇宙の果てに存在していて人間に関心を寄せないお方ではありません。愚かしさ、弱さ、無知から来る逃避を続ける人間に対して執拗にかかわり続けようとされます。 『さて、主は大風を海に吹きつけられた』とあります。 この世界で確実に神の不思議な御業がなされているという主張です。聖書では、大風や暴風は、しばしば、神の裁きの道具として用いられます。全体的には恵みの手段でもあるのです。 ヨナを乗せた船は難破しそうになります。水夫たちはパニックになります。船の積荷を捨てたということからその激しさと人々の恐怖がわかります。最後は神頼みという状態です。 ヨナはこの嵐の原因が自分にあることがわかりました。そこで『私を捕らえて、海に投げこみなさい』というのです。このヨナを、水夫たちはついに海に投げこみます。『すると、海は激しい怒りをやめて静かになった』のです。 主は大きな魚を備えてヨナを呑み込ませました。荒れ狂う海に投げこまれたヨナは、そのまま当然死ぬことになったはずでず。しかし、ここに、神の守りがあったのです。大きな広い海にあって、ヨナを呑み込むことのできる一匹の魚がそこにいたということ自体、確率的にも奇跡です。だから聖書は『主は大きな魚を備えて』と語ります。 ヨナへの神様のお取り扱いはまだまだ続きます。ほんとうの意味で悔い改めまで、神はヨナを執拗に追いかけるのです。 私たちが神の摂理のすばらしさとご計画の最善を確信することができるようにと願います。 ますます神に愛されていることを信じて、御こころに生きることを喜ぶものとされたいと思います。(続く)
Category : 聖書そぞろ歩き
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