- 2023.07.12 Wednesday -
スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
Category : -
calendarprofileselected entries
categories
archives
recommendlinkssearch this site.sponsored linksothersmobilepowered |
聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
日曜日の朝に今朝、東京は薄雲の中から弱い陽が差しています。台風一過のスッキリした青空とはいえません。雨がないのは幸いです。これから外出する方も多いでしょう。ぜひ今日も教会へ行きませんか。 この世の物差しや自分自身の価値観で生きてきて、ちょっと失望を感じることはありませんか。こんなはずではなかったと、人知れず臍をかむ思いをしていませんか。イエス・キリストは逆転勝利の道です。新しい真理が輝いています。 マタイの福音書7章13節〜14節 『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。 そして、そこから入って行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです』
Category : 日曜日の朝に
聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その2聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その2 説教集第1章 《主の御顔を避けて》から(抜粋あるいは要旨) 『しかしヨナは、主の御顔を避けて、タルシシュへ逃れようとして 立って、ヨッパに下った』 (9月4日アップの、その1の続きです。日が経ってしまいましたのでご面倒でも参照してくだされば幸いです) ヨナは神の御心を承知しながら、《主の御顔を避けて》タルシシュへ逃れようとしています。しかし神の御心を知っているので、どんなに場所を変えようが後ろめたさがついて回ります。船底にもぐりこんでも、神に背中を見られている感覚を振り切ることはできません。 『御顔を避けて』という表現は聖書の最初、創世記にも出てきます。神様の命に背いて木の実を食べてしまったアダムとエバが、同じ態度を取りました。『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した』 ヨナは意図的に自分から逃げたのです。それは神との交わりが絶たれた事を意味します。聖書は、個人の救いとともに、神との交わりと言うことを大切にします。交わりとは単に祈りをすることだけではありません。信頼して、愛を持って、自分の根本的な問題を知ってもらい、心を通わす交わりこそ本当の交わりであって、神が私たちに求めているのは、そうした親しい交わりです。 ヨナはなぜ逃げたのでしょうか。それはヨナ自身の持つ正義感がそうさせたように思います。ヨナは極端にいえば「あの人たちは悪い人たちなのだから、紙の裁きを受けて滅びでしまえばいい」と考えたのです。それなのに神は救おうとしている。神はあまりに寛容すぎるとヨナは思うのです。 ヨナ書の目的はここにあるのです。ヨナが妬むほどに神は寛容なお方であることを、示そうとしているのです。永遠の愛、これがヨナ書の大切なテーマなのです。 ヨナは神の命ずるニネベと反対の方向タルシシュ行きの船に乗り、船底へ降りてぐっすりと寝込んだのです。意図的な神への反抗です。しかし、神はそのヨナに係わり続けようとします。神はヨナを追いかけます。試練に遭うとき、神の愛のお取り扱いを受けていると確認することです。自分のこだわりを捨てて、御顔を避ける不幸な歩みから解放され、神との親しい交わりの中を歩む者でありたいと思います。(続く)
Category : 聖書そぞろ歩き
日曜日の朝に日曜日の朝に 今朝、多くの教会では敬老感謝の礼拝をすることでしょう。高齢者の教会員を互いに喜び合い、プレゼントをし、ともにご馳走をいただきます。どこの教会でも、新来者を歓迎します。ぜひ、お出かけください。 聖書には老いや、老人に関して示唆に富む記述があります。 レビ記19章32節 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 ヨシュア記13章1節 ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。 箴言17章6節 孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父である。 使徒2章17節 神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 詩篇71篇18節 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。 箴言23章22節 あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。
Category : 日曜日の朝に
日曜日の朝に日曜日の朝に 突然、正に突然、一国の総理が責任ある大役を投げ出しました。 一瞬だれもが大きな驚きを隠せませんでした。ゲリラ豪雨にもじって、ゲリラ辞任と言いたいほどです。予測が付かない、驚かす、被害をもたらす?ということにおいて。 しかし、ちょっと考えてみると、これが世の中なのでしょう。変転極まりないのが世の常なのでしょう。朝生きていても、夕べには白骨となる、との図式通りなのです。 世の中に、人間に、変らないこと、ずっと安定して頼れるものなどないのです。 でも、それだからといって世の中に、まして自分の人生に諦めたり、やる気や、元気をなくしてしまうのは賢明ではないでしょう。もっと手応えのあるもの、もっと真実なもの、信頼していいものを探求すればいいのです。我が手中に得るまで。 マタイの福音書7章7節 『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます』 イエス・キリストはあなたにそれを与えると約束しておられます。 今日も教会へ行きましょう。
Category : 日曜日の朝に
聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その1旧約聖書に『ヨナ書』という書巻があります。膨大な旧約39巻のなかでは、世界の国々でいえば小国とも言える小さくてマイナーな書です。軽んじられているわけではありませんが、創世記や詩篇のようにいつもいつも熱い視線を浴びているとはいえません。つまり、礼拝の説教や聖書研究会では登場の頻度が少ないのです。 今から2500年も前に書かれた、わずか4章からなる小書です 2001年にヨナ書の講解説教集『主の御顔を避けて』が出版されました。著者は牧師で旧約学の学者であった遠藤嘉信先生です。先生は昨年2007年6月に48歳という若さで天に帰ってしまいました。 この書はわずか126頁の小著ですが、読みっぱなしで書棚に積んでおくにはあまりに内容が豊かで教えられるところが多々ありますので、再度、頁を繰りながら、ところどころを抜粋あるいは引用して紹介したいと思います。 まずはヨナ書1章の内容です。 主人公のヨナは、神様から預かったおことばを伝える人、預言者です。もちろんイスラエル人です。あるとき神様はヨナに、こともあろうに憎むべき敵国ニネベへ行って神の言葉(救いのメッセージ)を伝えよと命じます。ヨナはいくら神様の命令とはいえ、憎んでもあまりある敵国へなど絶対に行きたくないのです。 そこでヨナは神様に背を向けて《主の御顔を避けて》ニネベとは逆のタルシシュ行きの船に乗り込みます。ところが海は荒れに荒れて船は沈没しそうになります。 乗船者たちは、神の怒りにちがいないと、犯人探しを始め、当時の習慣で全員がくじを引いたところ、それがヨナに当たるのです。ヨナこそ張本人と詰め寄られた時、ヨナは自分の罪を白状し、荒海に投げこむように指示します。ヨナが海に放り込まれたとたん嵐は止みますが、ヨナは海中深く沈んでいくのです。 ところが神様は大魚を送り、ヨナをのみ込ませます。 ヨナは三日三晩を大魚の腹の中で過ごします。 説教集第1章 《主の御顔を避けて》から(抜粋あるいは要旨) 『しかしヨナは、主の御顔を避けて、タルシシュへ逃れようとして 立って、ヨッパに下った』 人間は絶えず快適な生活を求め、自分の興味と関心を追求します。自分が賛成できないことをするのは苦痛以外の何ものでもありません。しかし、したくないことから全く逃れて生活することはできません。自分の望むことだけをしていたら、社会生活はできなくなるし、他者のために生きるという次元の高い生活も、自分自身の成長もなくなってしまうでしょう。また自分の思いのままにすることがいつも正しいはずはありません。 ヨナは預言者でした。特別な使命のために選ばれました。ある意味で特権です。しかしヨナは逃げました。ヨナは神様の御心を知っていましたが、それができなくなる場所へ逃れようとしました。《主の御顔を避けて》しまいました。 私たちも日常の中で、あるいは人生という大きな歩み中で、正しい洗濯や判断をしなければならないことを知っています。神の細い語りかけを感じます。わがままな自分がわかっている場合もあります。そして、ある時、平安を失っている自分に気づきます。(続く)
Category : 聖書そぞろ歩き
|