- 2023.07.12 Wednesday -
スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
Category : -
calendarprofileselected entries
categories
archives
recommendlinkssearch this site.sponsored linksothersmobilepowered |
聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
日曜日の朝に日曜日の朝に 8月最後の日が日曜日と重なりました。夏の締めくくりにふさわしい一日です。一夏を思い起こし、守られたことを感謝し、今日も教会へ行きましょう。 日本列島はゲリラ豪雨という新手の無法者に翻弄されています。聖書の創世記にノアの洪水の記事があります。地球温暖化、異常気象では片付けられない大きな問題が潜んでいることを思います。 創世記6章から 『さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。 そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。 主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。
Category : 日曜日の朝に
日曜日の朝に今日の東京は最低気温が20度を下回りました。最高気温26度と予報され一日雨模様です。ひんやりとして寒いと言いたいほどです。季節は移っていきます。世の中も、人も、特に人の心は移ろいやすいものです。変らないもの、永遠に変らないものがほしいではありませんか。 聖書の神は永遠です。永遠の愛です。永遠のいのちです。 キリストの教会では今朝も不滅の神をたたえて礼拝が行なわれます。そこで、この神について説教がなされるはずです。それは聞く者を平安と喜びで満たします。 秋の入り口の今朝、教会へでかけませんか。 ペテロの手紙第一 一章24節 『人はみな草のようで その栄えは、みな草の花のようだ。 草はしおれ、 花は散る。 しかし、主のことばは とこしえに変ることがない』
Category : 日曜日の朝に
詩篇を愛して その15 詩篇26篇詩篇26篇 主こそ私の弁護者 私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。 あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。 私は、不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません。 私は、悪を行なう者の集まりを憎み、悪者とともにすわりません。 主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。 主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。 感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。 時に思ってみないような誤解と曲解と批判を受けることがある。身に覚えのない時、大きな動揺に襲われる。悔しい思いをし、言訳したい衝動に駆られる。しかし渦中に飛び込んでいけばいよいよ状況は悪化するだろう。火に油を注ぐような結果になりかねない。 詩人がどんな苦境にいるのか知らないが、その憤懣を抱えながら、主の前に出て行き、主よわたしを弁護してくださいと膝を折ることができるのは、なんと幸いであろう。 神さまはすべてを見ておられ、すべてを知っておられ、すべてに正しい決着をつけられるお方だと信じればこそ、そう言えるのだと思う。 詩人は、自分には全く落ち度がなく100%正しいと主張しているのではない。ただ神様の前だけは精一杯、誠実に歩み、信頼しました、その点だけはまちがいありません、調べてくださっても結構ですと、神さまの愛の瞳にすがりついているのだ。 『あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました』 神さまが恵み深いお方であり、恵みで覆ってくださるから、不利になっても悪と肩を並べることはできないと詩人は悪を憎み、きよい道を選び取ります。そして『主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します』と大胆な愛の告白に行き着きます。 わたしの目の前にあふれている神さまの恵みによって、誠実に歩み、神さまのおられるところに居させていただくことをこの上ない慕い求める日々でありたい。
Category : 詩篇を愛して
詩篇を愛して その14 詩篇25篇詩篇25篇1節から5節 神の真理の小道を求めて 主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。 わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。 まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。 主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。 あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです 突如として降りかかってくる思いがけない厄災や、どう考えても理不尽としか思えないことに遭遇したとき、真っ直ぐに主を仰ぎ、主に信頼できたら、ことの半分はすでに解決したようなものだ。頭ではその原理が分かっている。でも、そうできないで、いたずらにうろたえ騒ぎ、結局はから周りしてしまう。そんな愚かなことが多い。 詩人のように、一日中主を待ち望み、主に祈り通せたら、なんと幸いだろう。 『主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください』と祈って主の方法で、神の真理で、問題に当たることができたら、どんなにいいだろう。 『あなたの道』『あなたの小道』とは美しい表現ではないか。この小道はどこにあるのだろう。遠くにあるのではないだろう。茂みに隠れているかも知れないが、よくみれば、もしかしたら、すぐ足元にあるのかも知れない。それは『狭い門』から入る道であろう。 恨んだりつらんだり、すねたりふくれたり、時にかっかと怒ったり、悲嘆の谷に沈んだりを、やめて、一日中主を待ち望み、信頼の瞳にしか映らない『あなたの小道』を見いだして、歩みたいものである。きっと、イエス・キリストが門を開け、だれがいなくてもともに歩んでくださるだろう。
Category : 詩篇を愛して
日曜日の朝に日曜日の朝に 8月は、日本にとって忘れられない大きな痛みの経験があります。広島と長崎の原爆体験です。この悲劇を通して、私たちは何を思うべきでしょうか。言うまでもなく恐ろしい戦争のないこと、それ以上に本当の平和が実現することではないでしょうか。 真の平和はどこにあるのでしょうか。どこかにあるものを運んでくればいいのでしょうか。そうではなく、平和はつくり出されるべきものです。ひとり一人がつくるものではないでしょうか。しかし、はたして、人間がつくり出せるものなのでしょうか。 夏期休暇で日本中が沸き立っています。北京ではオリンピックが開かれています。人々の心と目がおちつきなく外に向けられているときも、イエス・キリスト教会は、一心に神をみつめて礼拝を捧げています。あなたもその一人になりませんか。どこの教会も歓迎してくれるでしょう。 マタイの福音書5章3節〜10節 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
Category : 日曜日の朝に
詩篇を愛して その13 詩篇24篇ロゴス氏より拝借 詩篇を愛して その13 詩篇24篇 主の山に上り、聖なる所に立てる人とは? ダビデの賛歌 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。 まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。 だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。 神様のおられるところ、聖なる所に、立てる人がいるだろうか。自分の生き方や心持ちを隅から隅まで点検して、大丈夫だと胸を張って出て行ける人がいるだろうか。神と互角になれる人がいるだろうか。そんなこと不可能だってことくらい分かり切っていると開き直っても、神様が出てきなさいと言われたらどうするだろう。 手がきよく、心のきよらかな者、その魂をむなしいことに向けず…とある。 自分を見れば手がきよいなんて言えたものではない、まして、心は薄汚いと自覚する。 《その魂をむなしいことに向けず》なら、多少なりとも努力できるのではないか。 若い日にこのフレーズに捕らえられた。さんざんむなしいことに向けて、むなしさを知ったあとだったが。 以後、ことあるごとに自重するようになった。うまい話、得する話、持ち上げてもらえそうなチャンスなどが、首一つ縦に振ればいいのだと迫ってくるが、いや、いや、乗るまい、乗ってはならないと戒めてきた。その魂をむなしいことに向けず、ではないかと。 神様は、人一倍自制心が弱く、おいしい話にすぐ負けてしまう私を、守り助けるために、このみことばを守り刀のように懐に入れてくださったのだ。危ういとき、必ずこのみことばの刃がきらりと光る。危ない、危ない、魂をむなしいことに向けず、ではないか。 生まれつきの姿で神さまの前に立てる人は一人もいない。自分の義で神さまと争える人はいない。神様と人間との間には越えがたい罪の淵がある。罪が解消されない限り、自力では義にはなれない。 イエス・キリストの十字架だけが、罪の淵を埋め、神様の前に立てる道を設けてくださる。 明日は日曜日。思い切って教会へ行きましょう。いつの日か神様の前に引きずり出されるとき、恐れなく、喜んで、イエス様にお目にかかれるために。 『門よ。おまえたちの頭をあげよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の主が入ってこられる』
Category : 詩篇を愛して
日曜日の朝に日曜日の朝に 朝から強い陽が照りつけています。今日も猛烈な暑さが予報されています。今朝も、多くの人々が涼や享楽を求めて海に山に繰り出していくことでしょう。しかしこの朝を、病院のベッドで迎える方もいます。術後の痛みに苦しむ方もいます。せっかくの治療の効果もなく、無念の涙にくれる人もいます。今日、愛する方の告別式に臨む方もいます。 朝のひととき、教会へ行って、神様のみまえにひざまずき、心から礼拝を捧げましょう。 多くの問題の解決が見いだせるかも知れません。心に平安が与えられることは確実なことです。教会は朝だけでなく、午後も、夕方も、集会をしています。教会の門は大きく開かれ、一人でも多くの人を待ち受けています. 哀歌3章31〜33節 『主は、いつまでも見放してはおられない。 たとい悩みを受けても、 主は、その豊かな恵みによって、 あわれんでくださる。 主は、人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは 思っておられない』
Category : 日曜日の朝に
詩篇を愛して その12 詩篇23篇 死の陰の谷も恐ろしくはない2008年8月2日 アップ 詩篇23篇 死の陰の谷も恐ろしくはない 詩篇23編 ダビデの賛歌 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 たとい、、私はわざわいを恐れません。 あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 詩篇の中でいちばん有名で、いちばん愛されているのがこの23篇。みんなこれだけは暗誦する。せずにはいられない魅力がある。5歳の孫娘Mちゃんも時々大きな声で口ずさんでいる。 この詩からは、かのダビデ王がまだ一介の羊飼いの少年であった頃、豊かな牧草地で羊たちを遊ばせながら、竪琴をかき鳴らしている姿が浮かんでくる。確かに、ダビデにはそうした美しい思い出があったろう。しかし、ダビデの生涯のほとんどは、戦いの連続であり、いつもいのちの危険と隣り合わせであった。 ダビデは危機迫る中で、つまり、《死の陰の谷を歩》き、《私の敵の前》なのに、主がともにいてくださるので、そこは《緑の牧場》であり《いこいの水のほとり》なのだと、高らかに吟ずるのである。 この詩を貧困の中にいる友に、病苦の中にいる友に、愛を喪失した友に、誤解や中傷に苦しむ友に、送ることがある。また、送られることがある。どんな人をも慰め励まし勇気づける、いのちあふれる詩である。インマヌエル(神我らとともにいます)の主のそばにいることほど幸いなことはない。そこはまさに緑の牧場である。 希望の風がそよいでいることは言うまでもない。
Category : 詩篇を愛して
|