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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
日曜日の朝に日曜日の朝に 上半期最後の月6月を迎え、今朝は爽やかに晴れ上がりました。初日1日が日曜日、主の日であるのはクリスチャンにとってはうれしいことです。今日も、イエス・キリストの教会へ行き神様に礼拝を捧げましょう。あなたの心を暗くする心配ことや悩み事へのまことの解決方法があるかもしれません。 ペテロの手紙第一5章7節 『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです』
Category : 日曜日の朝に
聖書ウオーキング ユダの手紙ユダの手紙は小さな小さな書物である。膨大な旧新約聖書のなかでは目立たず、教会でもめったに開かれない。他の書はたいていほどよくいくつかの章に区切られ、章の中にさらに節がある。ところがユダ書には章がない。節が打たれているのみである。 ユダ書の筆者はユダである。初代教会のリーダー格であったユダが、各地にいる信徒たちを心配して、親か老教師のような心境で書き送ったのではないかと思える。文面にはそうした雰囲気が漂っている。 ユダは、イエス・キリストの肉親(この言葉は厳密には適切でない)の兄弟であるといわれる。兄弟と言えば、ヤコブ書のヤコブもそうである。イエス様の兄弟から2人もクリスチャンが出て、しかも彼らはイエス・キリスト亡きあと、教会に属し、立派な信仰に生きた。 イエス様が宣教に立ち上がった当初、家族は協力的ではなかった。むしろ冷ややかであり、後ろ向きであった。おそらく、肉親という厄介なアイマスクに魂の両眼を遮蔽されて、救い主としてのイエス様を見ることができなかったのだろう。 ユダはどのようにして兄弟イエスを救い主イエスとして理解し信じるようになったのだろうか。その転換点に興味が沸いてくる。ユダはこの書の中でなんども、主イエス・キリストと記している。イエスを主と呼べるのは並のことではできない。これこそが神秘の世界、聖霊のお働きであることは瞭然としている。 イエス・キリストを歴史上の偉人、聖人としてではなく、私の救い主として受け入れ崇める人が多く起こされることをひたすら祈り願う。 20節から21節 『しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい』
Category : 聖書ウオーキング
聖書ウオーキング ヨハネの手紙第一、第二、第三ヨハネの手紙第一(5章)第二,第三 神は愛なり ヨハネの手紙を読んでいると、ふとヨハネの福音書の雰囲気を感ずる。神秘的ですらあり、霊の深みに引き入れられていく。ヨハネは晩年エペソにいたようだ。この手紙を書いたころには、いっしょにイエス様に従ったペテロも兄弟ヤコブも、あのパウロさえとっくに迫害の刃に倒れてしまった。彼だけはたいへんな長寿を全うしたようだ。すべては神さまのみ心であろう。 この書簡にはキリスト教を代表する一句『神は愛なり』がある。ほかにも、信仰生活を 支え養う滋味豊かなことばが満ち満ちている。ところどころを丸ごと暗誦している人も多い。よく引用もされる。 罪に悩み苦しみ、なんとかして清くなりたいともだえる時、すっと差し出される一句は溺れる寸前に投げられた救命具のようだ。 『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます』第一ヨハネ1章9節 またこの書簡からはヨハネのイエス・キリストへの愛が水量豊かな泉のようにあふれ出ている。その愛がこちらの胸にまでしみ込んでくる。そして連鎖反応のように、貧しい者のうちにもイエス・キリストへの愛がたぎってくる。少し長いがこの文を掲げずしてどうして先へ行けよう。 第一ヨハネ4章8節〜11節 『愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです』 神は愛なりこそ、究極の希望の風である。
Category : 日曜日の朝に
聖書ウオーキング ペテロの手紙第一、第二 その3ペテロの手紙第一、第二 その3 偉大な使徒になったペテロ イエス・キリストの愛によって、聖霊の力によって、神さまのみこころによって、弱さや不信仰や絶望や自己嫌悪などのあらゆるマイナス状況から、真の悔い改めに導かれたペテロは、新しい人にされて、伝道の第一線に立った。その名のように岩になって。 この手紙は現在のトルコ中央部から北部に散在していた信者たちに宛てたもので、その時ペテロはローマにいた。AD63年ごろらしい。64年以降にローマではあの悪名高い暴君ネロの迫害がはじまり、ペテロは悔しくも殉教したのだ。 この手紙は、異教社会に吹き荒れる試練の嵐の中にいる信者たちを励ますために書かれた。ペテロはイエス・キリストの苦難を通して励ましを与えた。 第一・2章22節〜24節 『キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。 それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです』 少し長い引用だが、ひと言も省くことはできない。読むたびに、涙があふれ出る。涙のなかに、自分の苦難が小さくしぼんで見えてくる。何度このみことばで立ち上がらせていただいたことか。 パウロの手紙のまえには黙さざるを得ないことばかりだが、ペテロのでは、むしろおしゃべりがしたくなるから不思議だ。ペテロの庶民性のゆえだろうか。肉親の兄のように思えてくる。 思えば、イエス様は人を見抜き、適材適所に人を使う達人である。いや、イエス様は人を生まれ変わらせて育てる魂の親であり教育者なのだ。
Category : 聖書ウオーキング
日曜日の朝に昨夜は激しい雨足が絶えませんでした。今朝も梅雨を思わせる曇天です。 今朝、思い切ってイエス・キリストの教会を訪ねてみませんか。あなたの魂に恵みの雨が降り注ぐことでしょう。 ヨハネの福音書7章37、38節 『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、 その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
Category : 日曜日の朝に
聖書ウオーキング ペテロの手紙第一,第二 その24つの福音書のペテロと、この手紙を書いたペテロとの間にもうひとつ、ペテロたびたび登場する文書がある。『使徒の働き』である。ここではイエスの弟子たちとパウロが活躍する。前半の部分、パウロの名が見えてくるまでは、ペテロが主人公である。 使徒の働き2章にはペテロの一大説教が記されている。危険極まる都エルサレムのど真ん中で、ペテロはイエス・キリストこそ待望のメシヤであると力説し、そのメシヤを殺したのは他でもないあなたたちユダヤ人だと糾弾する。そのペテロには一ヶ月前にイエスを裏切り、逃げ隠れした姿は微塵も見られない。死をも恐れない信仰の人、炎の人、偉大なペテロが燦然と屹立している。 立ち上がって説教を始めたペテロはその直前にあることを経験した。イエス・キリストの心ともいうべき聖霊が、弟子たち一人一人の上に降ったのである。彼らは祈っているときに一様に激しく魂を揺すり動かされ、その結果、不安や臆病心は雲散霧消し、新しく、平安と喜びと勇気に燃やされたのである。イエス・キリストへの愛が全身を貫いた。その霊の勢いと愛がペテロを初め弟子たちを別人にした。 ここに、人が変われる鍵があると信じる。イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの愛を知り、自らも愛し、ひたすらに彼の道を歩んでいるそのプロセスで、人は様変わりしていく。時に劇的に神(聖霊)にタッチされ、変身(心)することもあるときく。 理由がある。神は私たちを造られた作者だから、作品を修正したり補修できるのである。作品自身が自分を直すことなどできないではないか。 ペテロは偉大なリーダーになった。力ある説教をし、人々を指導し、教会を組織運営し、何よりも命がけでイエス・キリストを愛し、殉教した。十字架刑は、自ら申し出て逆さにはりつけられたという。キリスト教2000年の歴史で、偉人中の偉人になった。 神の愛と力がこれほどまでに具体的な働きをするのかと驚嘆する。その力、聖霊は今も変わりなく働いている。聖霊は希望の風そのものである。
Category : 聖書ウオーキング
聖書ウオーキング ペテロの手紙第一、第二 その1ペテロの手紙第一(5章)第二(3章)人は変われるのか その1 この2つの手紙を書いたペテロは4つの福音書によく登場するガリラヤ湖の漁師ペテロである。イエス・キリストの直弟子12人の筆頭に立つ人である。おそらく最年長でもあったのだろう。 福音書で見る限り、ペテロは人間としても、信仰の面でも、不完全を丸出しにしている。イエス・キリストの一大事のとき役に立たなかった。イエス・キリストがゲッセマネの園で血の汗を流して祈っていたとき、すぐそばで居眠りをしていたし、イエス・キリストが官憲に逮捕され、大祭司の屋敷に連れ込まれて尋問されていたとき、周囲の者たちに、イエスなど知らない、無関係だと三度も言い張った。イエスにもっと愛され信頼されていたのに裏切ってしまったのだ。故意でも計画的でもなくただ弱さのゆえに、である。そこにかすかな救いを感じるが、不始末の現実は重い。 そのペテロが、このりっぱな手紙の著者なのである。とても同一人物だとは思えない。人間ここまで変われるものなのか。手紙の内容を云々する前に、福音書のペテロと手紙のペテロを並べてとくと見ずにいられない。その変わり方にひどく興味をそそられる。 人はだれでも自分自身をもてあましている。自分ほど厄介な隣人はいない。若いころは、何とかして理想の人物像に仕立て上げたくて、もがいた。それなりの努力もしてみた。しかし、ものが見えて来るに従ってますますお粗末な自己の真相が見えてきた。分かったことは自力では不可能だということだった。 しかし、ペテロはみごとに変わった。いつ、どこで、なにによってか。聖書にはその答えがあるはずだ。
Category : 聖書ウオーキング
聖書ウオーキング ヤコブの手紙ヤコブの手紙(5章) 信仰か行いか このヤコブ、前回のペテロ、次のヨハネとユダの手紙をまとめて公同書簡と呼ぶ。宛先が特定の教会や個人ではなく、より広い教会を対象としているからである。 この手紙の差出人ヤコブはどうやらイエス・キリストと一つ屋根の下に暮らした家族、つまり実の弟である。もっとも、厳密に言えばイエス・キリストはマリヤが聖霊によって受胎した神の御子であるから、ヤコブとは血のつながりはない。 ヤコブはイエス・キリストご存命中は弟子たちの中にいなかったようだ。最も親しい兄 弟でありながら、イエス・キリストを救い主とは信じなかったのである。そしてそれは特別なことではない。ありがちなことである。イエス様はあるとき「預言者が尊敬されないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけです」と嘆いたが、神の御子でさえそうであった。 ヤコブがいつどのようなことから弟子たちの中に入っていったのか不明だが、初代のエルサレム教会ではトップリーダーになっていた。使徒の働き15章のエルサレム会議の様子から彼が重要なポストにいたことは明らかである。 ヤコブの手紙は信仰の実践面、つまり良い行いを強調している。行いのともなわない信仰は死んだものだと歯に衣着せずに断言する。口先だけの信仰が横行していたのだろう。それは今の世も変わらない。もちろんさも信仰深げな見せかけの行いは唾棄すべきものだ。 バランスの問題だろうが、ヤコブの辛口は時に小気味よい。そう言う私はどっちを重視しているのだろう。自己吟味の尺度として、ヤコブのはかりも使いたい。 1章22節 『みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません』
Category : 聖書ウオーキング
日曜日の朝に日曜日の朝に 今朝は初夏らしいすがすがしい朝です。 今日もキリスト教会は朝早くから入り口を広く開けて、礼拝に来る人々を待っています。一度出席なさってみませんか。朗読される聖書やみんなで歌う賛美歌、牧師のメッセージなどから、思いがけない収穫があるかも知れません。 ヨハネの福音書14章27節 『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません』
Category : 日曜日の朝に
聖書ウオーキング ヘブル人への手紙ヘブル人への手紙(13章)信仰者の視線の向けどころ 差出人も分からず宛先もはっきりしない文書を手紙と呼べるだろうか。本書はその点ではちょっとミステリアスな手紙である。それだけに人の好奇心や想像力を刺激してきたらしい。 差出人にはパウロを始め新約聖書に顔の見える多くの人が候補にあげられている。だが決め手はない。宛先はおよそパレスチナ以外のユダヤ人だと言われている。 内容もかなり難しい。とくに前のピレモンへの手紙の余韻が残っていると、とまどってしまう。しかし読み進むうちに、大祭司としてのイエス・キリストがはっきり見えてきて、厳粛な思いになる。神様の御前で取りなしのご労をとってくださるイエス様に非常な親しみを覚える。 ふと、ピレモンの文が思い出され、オネシモをとりなすパウロがこの手紙のイエス様と重なってくる。 また、この手紙から信仰とはなにかが鮮やかに見えてくる。 『信仰がなくては神に喜ばれることはできません』の一節には忘れられない思い出がある。日本が生んだ世界的な大伝道者本田弘慈師が、ことあるごとに叫ぶようにまた噛んで含めるように用いておられた。いまでも耳の底から先生の声が響いてくる。 特に11章、12章は信仰街道の頼もしいエンジンとなってくれる。弱くなったとき、疲れたとき、失意に陥ったとき、希望の風を感じなくなったとき、力になる箇所である。 『信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストから目を離さないでいなさい』を読むと、視線の向けどころが間違っているのに気付き、正される。 イエス様から目をそらすから、不満や不平や失望落胆に取り付かれてしまうのだ。イエス様だけを見ていたら、微笑むイエス様に微笑み返さずにはいられないではないか。ああ、信仰とはこのことなのだと、わかってくる。 難しいようでやさしいヘブル人への手紙が私はとても気に入っている。
Category : 聖書ウオーキング
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