私の西郷隆盛の原風景は上野公園の銅像である。西郷隆盛は「西郷どん」、「せごどん」と呼ばれるが、私には子どものころから「西郷さん」の記憶がある。東京ではそう呼んでいたのではないか。そこには親しみが込められているように思う。
西郷さんは維新のシンボル、太陽のようだ。この人の前にはあらゆる偉人も小星にみえてしまう。西郷さんは明治維新という巨大な大荷物を両肩に乗せて、はるばる鹿児島からのし歩き、京都を経て江戸のど真ん中に放り込んだ巨人である。西郷さんは偉業だけではなく体躯もお相撲さんのようだった。身長は一八〇センチ、一一〇キロとか。江戸時代、男性の平均身長は一五五センチほどだったというからずば抜けた巨体であった。肥満体でもあった。
私の机上にあるのは中公新書「西郷隆盛」(井上清)上・下巻と、西郷さんと同郷の海音寺潮五郎の「西郷と大久保」(新潮文庫)である。それをくり返し読んでみている。研究を尽くした著者の井上清氏は「はしがき」に『西郷隆盛は矛盾に満ちた英雄である』と言う。私などは盲人が象のしっぽの一部を触ったに過ぎないから何も言えない。
西郷さんは一八二七年一二月七日、薩摩藩七七万石の鹿児島城下に生まれた。父は藩士であるが、下級武士であり貧乏暮らしであった。維新三傑の一人大久保利通は竹馬の友であり同じような身分であった。西郷さんは一八歳でいわば社会人デビューした。薩摩藩の社員と言えよう。仕事は郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)と言い、仕事先は年貢取り立ての最前線の現場である。そこで一〇年忠勤し、農村農民の実態を肌で見聞した。この体験が西郷さんの政治思想の基礎となった。そのころ、薩摩藩は揺れに揺れていた。「お由良騒動」と呼ばれるお家騒動が起きていた。血みどろの党争の末にようやく斉興の長男斉彬(なりあきら)が晴れて薩摩藩第一一代藩主になった。時に一八五一年、西郷さんは二五歳である。
藩主斉彬は当然江戸で生まれ江戸で育った。各藩の妻子は江戸屋敷に住まなければならないからだ。二七歳まで自国薩摩に行ったことはなく薩摩弁もネイティブではない。しかし斉彬の名声は日本中にあまねく知れ渡り、三百余藩随一の英明と言われたお殿様であった。もちろん開国派である。幕府の重鎮たちや有力諸侯とも親密に繋がっていた。西郷さんは待望の新藩主斉彬の下で職務に精を出すとともに、斉彬の進める学問にも熱中し、下級の者であっても意見書を提出する門戸が開かれたので、農政に関する文書を頻繁に送った。それが、斉彬の目に留まった。これこそ、西郷さんが政治の中枢に出ていくきっかけなのだ。チャンスはどこにあるかわからない。しかし、その道はまことにまことに長く細かったが。
斉彬が最初の参勤交代で江戸へ向かう日が来た。薩摩藩七七万石の大藩主として江戸の表舞台に立つのである。行列の一行になんと西郷さんは加えられたのであった。時は安政元年(一八五四年)、ペリーが再び浦賀に着いた直後であった。斉彬は外国に強い幕府の体制を作るために有力諸侯と策を練る。西郷さんは斉彬のお庭方に召され、斉彬の手足となって東奔西走した。秘密の秘書役と言えようか。斉彬は西郷さんの人品を信用し、西郷さんも斉彬を敬慕した。その熱烈さは仕事の域をはるかに超えていた。西郷さんは理屈を越えて情味あふれる人であった。生来「敬天愛人」の人であった。
政情は激しい暗闘の末、次期将軍を徳川慶喜に推す斉彬一派は破れ、紀州の慶福が一四代将軍に就き、大老井伊直弼の天下になった。まもなく安政の大獄である。そのさなか、安政五年8月(一八五八年)斉彬は鹿児島で急死してしまう。毒殺説もある。西郷さんの嘆きは殉死寸前であった。懇意な清水寺の僧侶月照上人に懇々と諭され思いとどまったが、以後西郷さんは斉彬の思想に徹し、新しい日本国建設のために命を賭けて驀進するようになる。ところが、西郷さんの苦難はこれからが本番であった。
その「月照」が大獄の網に引っかかった。西郷さんは何としても助けようと鹿児島に連れて帰ろうとするが、追い詰められた。西郷さんはなんと「月照」を抱いて錦江湾から海に飛び込み心中するのである。ところが、月照だけが亡くなってしまった。西郷さんの悲嘆はいかばかりだったろう。西郷さんは公には死んだものとしてお墓まで建てられ、名前を変えて監視付きで大島に流された。厳しい罪人扱いではなかったが、あるじを失い、心中までした友を失い、遠く大海の小島で生きねばならないのである。時折聞こえてくる世の現場にどんなに駆けつけたくても手も足も出ない。悔し涙にくれ歯ぎしりし身もだえしながらも、耐えるしかなかった。しかしこの艱難の中で西郷さんは大物になっていくのである。
また、時が走った。
島に来てちょうど丸三年が過ぎた文久二年正月二〇日(一八六二年)、西郷さんは藩命により鹿児島に戻ったのである。大久保利通らの働きかけが大きかった。ところで、新藩主の父、事実上のトップである久光は、兄斉彬から絶大な信頼を得て全国的に有名人になっている西郷さんが嫌いなのである。周囲の状況からしぶしぶ許可したのである。西郷さんも久光をよく思っていない。あろうことか蔑んでもいる。殿は田舎者だからと、堂々と言ってしまう始末である。両者は主従の関係を越えて不仲であった。それが次の大きな災いの元になった。
久光は参勤交代で江戸に行く予定だが、その前に兵を引き連れて京都に入り、幕府改革の勅命を出させる計画を立てていた。大久保利通も絡んだ綿密な策であったが、西郷さんは頭ごなしに猛烈に反対した。西郷さんは熱すぎるのである。しかし大久保ほかに説得され、藩主に先立って出発し下関で合流することになった。ところが西郷さんは独断で京都に向かっていた。そのあたりが西郷さんの弱点でもある。
久光は自分の命に従わない西郷さんに激怒した。自分を差し置いてトップ然としていると。積もり積もった感情が大爆発した。大久保の嘆願に耳も貸さず、即刻大阪に護送され、今度は正式の罪人として「徳之島へ遣わさる」の一言で島流しにされた。大島から帰還してわずか四カ月のことだった。むごいことである。罪名もなく裁判もなく権力者の一言で人の命さえ奪える時代なのだ。もっとも今もそれのできる国もあるが。
さらに「沖永良部島」へ流された。船旅も船牢に閉じ込められ、上陸後は代官所の近くに設けられた牢に入った。わずか二坪。豚小屋に等しかった。西郷さんはそこで端然として耐えた。先の大島流しで鍛えられ悟った経験がものを言った。心胆は鍛えに鍛えられた。西郷さんの品格に打たれた役人たちは藩命を最大解釈して、新しい牢を建設し、身辺の世話も気を利かせた。なによりも西郷さんは生涯の友を得た。流罪人で川口雪蓬という。この人は身柄拘束ではなく島内なら出歩きは自由であった。西郷さんの家の囲い越しに内と外で時を忘れて語り続けたという。またこの時期、西郷さんは有り余る時間を読書と思索に使った。牢獄は西郷さんの書斎であり学校になった。
その間にも歴史は動き歴史は走り、薩摩藩は西郷さんがいなければ難局を乗り越えることはできなくなっていた。遂に久光は前回よりもいっそうしぶしぶ赦免に及んだ。二年に近い牢獄生活で西郷さんの足はすっかり弱くなっていた。駕籠で鹿児島へ入ったという。島流しの厳しさがわかる。時に一八六四年(元治元年)二月二八日、西郷さんは三八歳、まさに男盛りであった。西郷さんは思索の中で創造主の存在に導かれたそうだが、創造主なる神様は西郷さんを苦節の歳月を通して偉大な器に仕立て上げた。いよいよ本領発揮の時が来た。
鹿児島からすぐに久光の滞在する京都へ入り、謁見する。軍賦役に任ぜられた。藩の政治・軍事の代表になったことになる。維新をけん引する歴史の力は以後、鳥羽・伏見の戦いを起点として江戸城明け渡しまで四年間、かつて日本が経験したことのない超高速で走り出す。西郷さんはその中心で、実際に歴史の車輪を回す筆頭者になるのである。西郷さんのそばには命を分け合うほどに信頼し合い心を一つにした大久保利通がぴたりと寄り添っていた。そのころの大久保は嘘偽りなく本心から三つ違いの西郷さんが大好きだったのだ。
攘夷か開国か、勤皇か佐幕か、公武合体か、討幕かと、いくつもの運動が次第にリンクし収れんされていって、ついに錦の御旗を掲げる薩長を中心とした官軍と、旧幕府軍の二つのグループになり、日本中を真っ二つに分け、合い対峙することになった。およそ三百年を経た、天下分け目の関ヶ原の合戦の再来と言えようか。奇しくも徳川幕府の、その誕生と終焉を見ることになるのだ。徳川は賊軍という悲しき立場である。最後の将軍徳川慶喜はすでに大政を奉還しひたすら恭順の意を示し、江戸城を出て上野に蟄居している。官軍を率いて江戸に迫るのは西郷さんである。武力討伐一色である。迎えるは勝海舟。武器を振りかざすのは何としても避けたいとの強い一念がある。それは西郷さんの心中奥深くにもある。時は慶応四年(一八六七年)になっていた。
東海道を進む西郷さんの部隊が駿府まできた時、海舟からの一書を携えて山岡鉄舟が訪ねてきた。鉄舟の交渉に西郷さんは少なからず心を動かされる。西郷さんはやわらかな心を持った人だ。まずは海舟と会うことになった。両雄が単独で会見するである。この様子は「本」に映像に活写され尽くされていて、いまさら私ごときが突っつくまでもない。
西郷さんは勇猛果敢な薩摩隼人である。自分のいのちを投げ出して、いつも死ぬ気で武力第一で敵陣に突進した。だが殺戮だけを目的にしたのではない。敵の心を読み、心を寄せ、状況次第ではいつでも刀を納める事が出来た。最後さんは勝海舟の心を知って受け入れたのである。やがていくつかの条件が成立し、西郷さんは猛り狂う全軍の武器を納めさせ、静かに江戸城に入った。
「江戸開城」の作者海音寺潮五郎氏は言う。「西郷と言う千両役者、勝と言う千両役者によってはじめて演出された、最も見事な歴史場面だった」と。 間もなく西郷さんは自分の仕事は終わったとばかり鹿児島へ帰ってしまう。しかし新政府は難題が起きるたびに西郷さんを引っ張り出す。が、用が済むと帰藩してしまう。
西郷さんはブルドーザーのように未踏の荒野を切り開く人だった。それが彼の得意技だった。心優しい西郷さんは見捨てられない同志とともに西南戦争で果てた。
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ここまで、岩倉具視、徳川慶喜、勝海舟と三人を綴ってきた。
明治維新で活躍した人たちは維新三傑、維新十傑を始め、驚くほど多くの偉人、賢人がいる。明治維新は英雄一人の偉業ではない。有名人から無名の人までの合作である。勝利者、敗者、あるいは官軍、賊軍と色分けするが、日本中が最後には二つのグループに分かれて、二六〇余年の超長期政権徳川幕府の独裁支配を終息させた。一大革命であった。
これまでの強い鎖国政治は通用しないと気付いた直接のきっかけは、一八五三年、ペリーが巨大な軍艦を率いて浦賀に乗り込んできたことである。それ以後、開国だ、攘夷だ、公武合体だ、王政復古だと、煮えたぎったお鍋をひっくり返すような騒動が始まった。一応の収束は一八六八年三月一四日、江戸城明け渡しの約束が成立した時であろう。その間約一五年。一朝一夕のことではなかったのだ。
ついでながら、いよいよ明治と元号が変わったとはいえ、その日から日本中が何から何まで新しくなったのではない。全員がちょんまげを切り靴を履いて洋服を着たのではない。武士たちがあの二本の刀を捨てたのではない。各藩の大名たちはどうなったのか。藩校や寺子屋に行っていた子供たちが一斉に学校に行くようになったのではない。すぐに総理大臣など内閣が誕生したのではない。明治維新の一区切りは、明治十年、西南戦争で西郷隆盛が死んだことによると言われる。数えれば、四半世紀が経っている。その間、血みどろの戦があったのだ。
前述の三偉人は畳の上で亡くなった。意図して選んだのではない。今、気が付いたところである。死に方を問題にしているのはない。しかし、三傑と言われる西郷、大久保、木戸のうち、病死したのは木戸孝允のみ、西郷は自害、大久保は暗殺されている。十傑と呼ばれた英雄たちの七人が暗殺や刑死している。この中には入らないが、国民的人気志士坂本龍馬も暗殺された。このように、命を捨てて働いてくれた彼らがいたからこそ、新しい日本がスタートしたのだ。
三人について書き残したことがたくさんあり、心が残る。
岩倉具視は新政府ができて早々に欧米の視察旅行に出かけた。この旅で具視は欧米文化の根底にキリスト教があることを見逃すはずはなかったと思う。決して悪くは取らなかっただろう。その証拠に、薩摩藩から英国に留学し、さらにアメリカにわたってキリストを基にしたコロニーで生活した森有礼に娘寛子を嫁がせている。有礼は一部からはキリスト者とみなされていた。具視や有礼のキリスト教の影響について手元の本はほとんど触れていない。もっともはわずかなものしか読んでいないが。
徳川慶喜がなぜ政権を放棄したのか、書き終えた今も納得できていない。「家康の再来」と言われた優れた人だったそうだ。家康のように辛抱強く生き抜いて家系を繋げていくことに真に価値を見出したのだろうか。現に今も徳川家は歴然として存在する。
海舟は東京の氷川で悠々自適の晩年を送った。維新の生き証人として多くを語った。「氷川清話」は名高い。しかし伝記作家はほらと自慢話が多いとして事実とは区別している。海舟が江戸城無血明け渡しの前夜、もし西郷が武力攻撃を決めたらその時は自らの手で江戸を火の海にすると決断していたことを知って、モスクワを焦土としたクトーゾフ将軍を思い出した。ナポレオンは敗軍の将になった。海舟と慶喜の違いは何だろうか。
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「勝海舟」この人こそ維新のクライマックスを作り、そこで名演技をした幕府側のヒーローではないか。しかし、軍隊を率いて戦いの先頭に立ち、巷を悲惨な戦場にしたわけではない。むしろ、それを避け、天下の江戸市中を戦乱から守るために、自ら矢面に立った人である。それが、私の中にいつの間にか形作られていた海舟の人物像であった。徳川慶喜と同じようにモノトーンの不鮮明な像はいつもそう語っていた。
一八六八年(明治元年)四月、西郷隆盛率いる討幕軍が江戸めがけて進軍し、いつ戦闘の火ぶたが切られるかわからない一刻を争うぎりぎりの時、日本を二分する代表の二人が薩摩藩江戸屋敷で会見するのである。一対一の会見、まるで優勝を賭けた東西両横綱の対戦の様である。
勝海舟は一八二三年、維新に先立つこと四五年前に、江戸本所亀沢町に生まれた。生粋の江戸っ子であり、幕臣である。維新革命を推進した討幕派からは敵に当たる 日本を太平の眠りから目覚めさせたペリー黒船到来の一八五三年(嘉永六年)は三一歳の時のことである。この時討幕軍の総大将薩摩藩士西郷隆盛は二七歳。前章の徳川慶喜は一七歳、かの明治の元勲岩倉具視は一九歳であった。この年齢一覧は、私が机上左に開く「勝海舟」(松浦 玲)にあった。興味深く見入ったので記した。
勝海舟は、海舟と改名するまでは、勝麟太郎と言った。旗本勝左衛門太郎小吉の長男として生まれた。旗本と言っても禄高は四〇俵、下級・微禄であり、暮らしは極貧、正月のお餅さえ用意できなかったという。天下の旗本の家でこの有様である。父勝子吉の仕事は小普請組といったが、無役、つまり仕事はなかった。時々お城の屋根瓦や崩れた塀を修理する程度だった。臨時の土木修理人である。これで武士なのだろうか。
海舟は三〇歳になるまでに主に剣術と蘭学の修行に励んだ。この二つの力が後年の海舟の土台となり基礎力となるのだ。剣術は、幕末の三剣士と言われた島田虎之介の塾へ寄宿して超人的な厳しい訓練に挑戦した。そのおかげで、寒さ暑さなどどんなことかわからないほど鉄のような強靭な体力と胆力を得た。後年、勝海舟は述懐している。「修行の効は、瓦解(幕府が倒れる時)の前後に表われて、あんな艱難辛苦に堪え得て、少しもひるまなかった」と。
二〇歳過ぎには免許を得ると、各藩の江戸屋敷を巡回して教授した。剣術のほかに力を入れたのは蘭学である。いわば文武両道に渾身を注いだのだ。その学びぶりもまた徹底していた。思うに、勝海舟には天性のエネルギーが心身ともにあふれていたのだ。スポーツに勉学に体当たりする青春の生命力爆発といったところか。海舟はそれを剣術と蘭学に集中させた。
蘭学の師は、最終的に永井青崖と言い、赤坂溜池の筑前藩黒田家の屋敷内に住んでいた。海舟は住まいを同じ赤坂の田町に引っ越した。蘭学に打ち込む強い思いだったのだろう。蘭学修行で、海舟らしい有名なエピソードがある 語学を学ぶに辞書は必需品だが、それがない。ある時、あるオランダ医者が日蘭辞書「ヅーフハルマ」五八巻を持っているのを知って、一年間一〇両で借りることにした。時価六〇両もする。海舟は昼夜となくこの辞書を筆写した。しかも二組作って、一組を売ってようやく借料を支払ったという。恐ろしいほどの執念ではないか。しかし辞書を二組も書きつつしたことで、海舟の蘭学の力は格段についたのではないだろうか。
海舟の蘭学は西洋兵学が専門であった。二八歳ごろには蘭学もいわば免許皆伝になり、私塾を開いて教えるようになった。嘉永三年、ペリーが浦賀に黒船でやってくる三年前であり、歴史は走り、幕府としても日本全体としても、洋式兵学へ大きく開眼する時期であった。勝海舟はまさに歴史が必要とし備えられた器であったにちがいない。
海舟の名は次第に広まり、勝塾に藩士を送る大名が多くなり、大砲や小銃の設計、製作を依頼してくる藩も出てきた。海舟が幕府に用いられるようになるのは銃砲の製作がきっかけであった。いよいよ勝海舟は維新の表舞台へ登場するのである。しかしたぶん本人は自分の先に何が待っているのか、自分がどんな役割をするのか、露ほども知らなかったであろう。自分の前にできた道を一歩一歩進むだけであったろう。
幕府の海防掛目付の大久保忠寛(一翁)から声がかかった。海舟は三三歳、安政二年のことである。下田取締掛手付という役職で蘭書翻訳に携わることになった。時の必要が勝海舟を迎えに来たのだ。以後時流は海舟を激しい勢いで維新舞台の中央に押し出していく。
勝海舟の大活躍の一つに「咸臨丸」で太平洋を横断した出来事がある。これは私の子ども時代から記憶にこびりついている。まるでコロンブスの冒険のような気がしていた。
幕府の大老に井伊直弼が座り、やがて安政の大獄が日本中を吹き荒れ、開国派が弾圧された忌まわしい時期、海舟は幸運にも長崎の海軍伝習に派遣された。伝習所の教官はオランダ人、伝習生には諸藩から希望者が集まった。薩摩も肥後、肥前、筑前、長州他が参加した。外国人による集団訓練の最初だった。海舟は実際に幕府の船で近海を航行して航海を体験し、実力をつけて行った。嵐に遭って命を落とすような経験もしたらしい。海舟は足掛け五年も長崎にいた。
時は進んで、幕府は江戸に軍艦教授所を作ってさらに大規模な訓練を始めた。海舟はそこに勤務を命ぜられた。幕府は日米修好通商条約批准のためにアメリカへ使節団を派遣することになった。万延元年(一八六〇年)の「遣米使節団」である。船はアメリカのポーハタン号を使うことにした。しかしこの船にもしものことがあったら使命は達成できない。そこで護衛として日本の軍艦を出すことにした。これが「咸臨丸」であった。海舟は艦長として乗船することになった。海舟はかねてより外国へ行きたくてたまらなかった。ついにその夢が叶うのである。この時の大老は悪名高き井伊直弼である。海舟は安政の大獄の網にもかからず、かえって時代の華をいただくのである。と言ってもこの航海は命がけであった。一行には福沢諭吉も加わっており、一行は九〇人であった。
この二つの航行紀行文には興味深い文献がある。使節団副使の村垣淡路守範正の「遣米使日記」と咸臨丸の方では軍艦奉行木村摂津守喜毅の「奉使米利堅(めりけん)紀行」である。この二つを、ドナルド・キーンが「百代の過客」(講談社学術文庫)に紹介している。私の読書ジャンルにはなかった分野であるがのめりこんで読んだ。文庫本でありながら七八五ページにも及ぶ大著である。しかし飽きなかった。二度も読み、さらに時々めくっている。
咸臨丸は一月一三日、品川を出帆し、二月二六日にサンフランシスコに到着した。使節団のポーハタン号より一二日早かった。ここに「咸臨丸」は太平洋を横断した日本初の船として輝かしい旗を翻した。海舟の名が揚がったのはもちろんである。福沢諭吉が同乗していたとは全く知らなかった。私の中では咸臨丸イコール勝海舟だったのである。
サンフランシスコでは大歓迎を受けた。日本から来た最初の船であり、ペリーがその原因を作ったということで気分を良くしたのだろうとは、福沢諭吉の弁である。一行の宿泊所も用意してくれ、船も修理してくれた。費用はアメリカ持ちだった。
海舟も諭吉も一番驚いたのは社会制度であった。四年に一度、国民が国の指導者を選ぶ民主主義の政治はさすがの彼らにも理解の域を越えていた。しかしその新鮮な風は彼らの肌から浸みこんだに違いない。
勝海舟が「咸臨丸」で偉業を成し遂げて以来、時代の激流はさらに強く海舟を巻き込んで走り出した。万延元年(一八六〇年)から明治改元(一八六八年)、明治維新が成るまで、日本中を吹き荒れた、日本史始まって以来の大規模な改革、革命の濁流については、私ごときが舌足らずに物語るまでもない。
最後に、勝海舟の働きの中でも、また維新物語の中でもトップと言える江戸城無血開城を記したい。海舟でなければ、また西郷隆盛でなければできなかった快挙だと確信する。
維新の大団円は鳥羽・伏見の戦いから始まった。一八六八年一月三日から六日までの短い戦いだった。朝廷からのお墨付きを手に入れた(倒幕の密勅)薩長を中心とした新政府軍は錦の御旗を掲げて、徳川慶喜を中心とする幕府軍を武力によって倒そうとします。慶喜は直ぐに大政奉還を決めるが政権は天皇に返しても徳川家を存続させたいのである。両軍の戦いは鳥羽街道、そして伏見でも始まった。ところが慶喜はその戦いのさなかにこっそりと船で江戸へ逃げ帰ってしまうのである。トップリーダーがいなくては戦にならない。
慶喜は武力衝突を避けたかったのかもしれない。理由はいつくも挙げられるが、慶喜の心中の奥深いところは憶測するばかりである。こうして鳥羽伏見の戦いは惨敗した。勢いづいたのは新政府軍である。慶喜を追って、幕府の中心である江戸、そして慶喜の潜んでいる江戸城を目がけたのは自然の成り行きであろう。総大将は西郷隆盛であった。迎える幕府軍の総責任者は勝海舟である。海舟はそのとき陸軍総裁である、つまり幕閣の最高幹部なのだ。海舟は長崎に行って以後、薩摩や長州などの革命家たち大勢と接触した。西郷とも会っている。特に坂本龍馬は海舟の門人と言っていい。思想も心も理解し合って仲である。それが、今、敵同士になって一大戦争の真正面でにらみ合うのだ。海舟は何と言っても旧徳川幕府の代表である。そして、今や天皇に歯向かう賊軍なのである。
ついに官軍は品川まで驀進してきた。幕府方も漫然としていたのではない。あらゆる武力を総動員して迎撃するつもりでいる。しかし海舟は江戸を戦火にすることだけは断じて避けたかった。もし、それか叶わないったら、いち早く自らの手で江戸を炎上させるつもりで、その工作も万全に手配した。そのうえで、ぎりぎりの場で西郷と会うのである。とっくに命は捨てている。会談は三月一三、四日の二日間にわたった。場所は田町の薩摩藩江戸屋敷であった。この場面はあまりにも有名である。合意に至らなかった初日、海舟は愛宕山に西郷を連れ出した。遥かに見える江戸市中を見せて、ここを戦禍にするつもりか迫った。翌日会談は成功。官軍は一滴の血も流さずに江戸城に入った。ここに明治維新は誕生したのである。海舟は賢かった。西郷も偉大であった。二人とも心底から日本人なのだ。
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岩倉具視を綴っているうちに私の前に躍り出たのは徳川慶喜であった。徳川幕府第一五代・最後の将軍である。この人の評価も先の岩倉具視に似て、分かれている。そのせいか、具視が次はこの人だよと名指して連れてきたのだ。私はそう思っている。
なぜなら、ずっと慶喜にはマイナスの思いを抱いており、いまさら彼の伝記物を読むために精力を注ぐ思いになれなかったからだ。極言すれは好きになれない人物だった。だからいつの間にか出来上がった私自身の慶喜像に不足を感じないできた。しかし今思うに、私が描いた慶喜は鉛筆で走り書きした単線、単色のぼやけた像だったのだ。
慶喜は薩長など維新推進派に迫られるとあっさりと大政奉還し、時に三一歳、京都から江戸へ逃げ帰り、征夷大将軍の座を捨て、鎌倉幕府以来の武家政治を終わらせてしまった。
江戸城明け渡しが決まると上野で蟄居、謝罪書を出して故郷の水戸へ退去、その後は静岡で六一歳まで暮らし、やがて上京して七七歳で死去している。維新革命の中心の立場にいながら、明治の世を越えて大正二年に畳の上で死んでいる。
武士の一分があったら、江戸城と運命を共にしたらよかったのにと、はがゆいのだ。維新三傑は早々に果てている。維新十傑では七人までが自害、暗殺で落命、残る三人は早々に病死している。どうして慶喜だけがおめおめと長生きしたのか、机上ながら血が沸き立ち、私は切歯扼腕するのである。
ところが、私の慶喜観は坂本龍馬の一言で一変した。竜馬である。維新物の一連の読書の中に、竜馬が入っていることは当然のことだ、まして、私の好きな英雄であるから。竜馬については一文を物するつもりでいる。
司馬遼太郎の「最後の将軍」にこんなくだりがあった。慶喜が大政奉還の意志を在京四〇藩の代表者六、七〇名を二条城に集めて宣言したその夜、その知らせが竜馬のもとに届いたときであった。
「竜馬は、後藤からの飛報が届くと、それを披見し、披見しつつこみあげてくる感動をおさえかね、横倒れに倒れ、この多年の風雪をしのいできた討幕家・・・将軍今日の御心、さこそと察し奉る、よくも断じ給えるものかな、よくも断じ給えるものかな、予は誓ってこの公のために一命を捨てん、と声をあげた」
大政奉還の案を立てたのは竜馬自身なのである。(異論もあるが)もし否決されたら、流血倒幕あるのみと仲間にも宣言し、覚悟した矢先であった。イチかバチかの大きな賭けであった。立案が受諾されることを願いつつも、事があまりにも大きいだけに、水泡に帰すことだってあると、いや、そのほうが現実的だとの思いはあったのだ。それが、それが、である。慶喜はあっさりとその宝刀を畳の上に放り出したのだ。竜馬は慶喜の心中を察しつつ、歓喜の絶叫をあげて彼をたたえた。
ほめる竜馬もさすが大物であるが、俄然、私もまた慶喜はえらいと思った。その時から、慶喜に対する浅薄な先入観を投げ捨てたのだ。一気にファンになったのではない。自分の考えをいったん白紙にして、慶喜という方を見つめなおそうと思った。と言って、二、三の本を読むにすぎないのだが。 徳川慶喜の生い立ちを二冊の本から辿ってみる。中公新書「徳川慶喜」と前述した司馬遼太郎「最後の将軍」である。
徳川慶喜は前将軍の直系ではない。徳川家は開祖の家康以後秀忠、家光、家綱までは直系だがその後は徳川の他家から将軍が出ている。 慶喜は将軍になる前は一橋(ひとつばし)慶喜と言った。もともとは御三家の水戸徳川家の人であったが、徳川御三卿のひとつ、一橋家の養子になった。一橋家からは将軍が出ているので慶喜の父斉昭は胸中奥深くでその可能性に賭けたといえる。「息子が将軍になれば、わしももっと天下国家のために なれるかもしれない」と、名前ばかりの天下の副将軍、水戸家のあるじはそう思って心たぎったにちがいない。
話は広がるが、江戸時代には奇妙な規則があった。参勤交代制である。各地の大名は二年に一度江戸へ行かねばならない。それも一年間滞在する。江戸には江戸屋敷と言って大名自身だけでなく大勢の家臣たちが暮らしていけるだけの設備が必要である。本社と支社のようなものだろうか。その上、妻子は江戸に終生暮らさねばならない。ていのいい人質である。いや、れっきとした人質だろう。日本中の大名の正室と世継ぎは江戸暮らし、江戸育ちなのだ。大名は、自分の本来の領地にはいわば単身帰国することになる。世界にこんな制度があっただろうか。
慶喜も当然江戸で生まれた。小石川上屋敷である。父の斉昭は慣例で江戸詰切り、つまり水戸へ帰らず、ずっと江戸にいてもいいのである。ところが斉昭は自分の藩を改革するために水戸へ帰ることを願い出て許可された。その前に、斉昭は子供たちが江戸で育つのを嫌った。江戸の風で軟弱になると危惧したのだ。慶喜は生まれて間もなく父母と離れて水戸で家臣たちに厳しく養育された。そこへ父親斉昭が帰国して、さらに厳しい教育が始まった。衣食住すべてがどんな難局にも耐えられるための帝王教育であった。
例えば三度の食事は一汁一菜であったという。衣服も絹物は許されず、木綿、麻のものを着せられた。武芸に学問にと、今風に言えば厳しいカリキュラムのもとに教育された。 一一歳で一橋家を相続し、一九歳で公家一条家の姫と結婚する。政治の舞台にも登場するようなる。そのころ、太平の夢を破る一大事件が起きた。いわゆる黒船来航である。日本中がひっくり返る大騒ぎになった。アメリカは鎖国日本に開港を迫り、条約締結の期限を突き出した。うろたえた幕府は天皇の許可も得ず独断で調印してしまった。
さあ、大変!朝廷、諸大名は強硬に反対した。水戸の斉昭は反対派の筆頭だった。
二二歳の慶喜も直接城中に乗り込んで時の大老井伊直弼他を詰問した。ところが、である。幕府も負けてはいなかった。俄然攻勢に出た。いやとんでもないことになった。世にいう「安政ノ大獄」の大風が水戸藩だけでなく全国に吹き荒れた。ひとえに大老井伊直弼独裁の大なたである。日本史上で例のない残忍な弾圧であった。
慶喜は、登城差し止め、次に一橋家当主を隠居させられた。隠居謹慎である。
屋敷の表門も裏門もすべての門は閉ざされ、家来たちの出入りも厳禁であった。まるで牢屋敷である。慶喜は雨戸の閉まった一室に謹慎した。抵抗しなかった。部屋にはわずかな隙間から日の光を感じるだけである。長髪を命じられ、浪人のようになった。外部との接触はおろか、家来たちとあいさつする事さえ禁じられた。慶喜はたった一人で居る。慶喜のすることは読書だけになった。この大獄では多くの偉人たちの命が奪われた。西郷隆盛は国元に逃れ、無関係な「吉田松陰」まで刑場に消された。
謹慎が一年半続いた。元号が万延に変わった三月三日、日本中を震撼させる一大事件が起こった。水戸脱藩者一七名、薩摩脱藩一名が、行列を作って登城途中、大老井伊直弼を襲撃し暗殺したのである。折しも、季節外れの大雪の朝であった。「桜田門外の変」である。直弼の弾圧は世にもむごいものだったが、時を経ずに彼は武士の面目も立たない無残な死体を衆人の前に晒した。鮮やかな天の法というほかはない。 日本中の心ある人たちはどんなにホッとしたことだろう。 しかし大獄のあるじが亡くなったからと言って、閉じ込められていた人たちがすぐに外に出られたわけではなかった。慶喜の隠忍はなお二年続いた。
その間にも歴史は猛スピードで進んでいた。ようやく一八六二年、二六歳の慶喜は登城を許され、将軍家茂と面会し、なんと将軍後見職を命じられ、京都に行き、翌年には光孝天皇に会うのである。さらに禁裏守衛総督ににんじられ、六四年の禁門の変では御所防衛軍を指揮して会津藩等とともに長州との戦いの先頭を切った。
一八六六年はまさに天地がひっくり返る出来事が続いた。七月に、将軍家茂が二一歳で急死する。将軍になるのは慶喜しかいないではないか。本意か不本意か慶喜の心中は推し量るすべもないが、歴史は彼を征夷大将軍に据えたのである。徳川幕府に一五代将軍が誕生した。が、まもなく孝徳天皇が崩御した。あまりにも急な死であった。毒殺説は今も完全に否定されてはいない。
慶喜はその後大政奉還まで彼なりに死に物狂いで奮闘する。ところで、慶喜は開祖家康に次ぐ賢人と評判が高かった。彼に対する期待は幕府のみならず、敵方の諸侯、諸藩、志士にも高かった。理論が立ち、実行力に富み、リーダーシップも抜群であると。一方、ただの批評家で、所詮は軟弱な深奥育ち、危機には弱いと見る向きもあった。
一八六七年(慶応三年)は徳川幕府最後の年である。次はあの明治と改元されるのだ。日本の歴史上何度もない一大政変である。単なる政変ではなく革命だという人もいる。私もそういう思いに至ったところである。
慶喜は将軍になっても居城である江戸城に入らず京都にいる。そんな将軍がいただろうか。先走るが、慶喜はあまりにも短いほんの一年ばかりの在位中、ついに江戸城には入らずじまいであった。思えば悲劇の将軍である。明治元年一月、鳥羽伏見の戦いの敗報を受けると、会津藩の松平容保とともに夜陰に乗じて脱兎のごとく海路江戸へ逃げかえるのである。慶喜は大政奉還を皮切りに、将軍職の辞職を請い、領地返納も諾々と飲んだ。倒幕側(いつの間にか官軍と称せられる)の言いなりになった。謝罪書を提出し上野東叡山大慈院に蟄居、やがて水戸へ退去、駿府で謹慎するのである。歯がゆい気もするし哀れで涙もにじむ。
なぜ、一戦も交えず、また武士らしく自害もせずに、まるで物言えぬ人形のように、今風に言えばロボットのように無抵抗を貫いたのか。ひたすら己の命が惜しかったのか、それともいたずらに江戸の民を戦禍に巻き込むのを避けたのか、すでに歴史家が見るとおり、慶喜の心中は不可解である。得体のしれないお人とだれか言ったとか。
司馬遼太郎「最後の将軍」の解説で、向井敏氏は言う。「徳川慶喜は幕政三百年の幕を引くために、特異な才幹と感情を付与されて、天によって登場させられた人物であったらしい」と。至言だとしきりに思う。
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初めてと言っていいだろう、政治の舞台袖で大仕事をする。時の関白九条尚忠の佐幕案を力でつぶすのである。八八人の公家たちが一致団結して言わばデモ行進して迫り、ついに佐幕案を改作させるのだ。具視はこの列参運動の主役の一人として活躍した。多分フットワークよろしく公家たちの間を走り廻って熱く説き、同志を集めたのだ。この成功を通して具視の名と存在はひとまわりもふたまわりも大きくなった。
次の大仕事は天皇の娘和宮の降嫁を実現させたことだろう。これは彼でなければできなかったことだった。独特の深謀遠慮が駆使された。時流は朝廷と幕府が一つになって日本の政治を進めて行こういう公武合体論が勢いを増してきていた。その象徴が和宮降嫁であろう。孝明天皇の妹和宮が十四代将軍徳川家茂に嫁いでいくのである。和宮は身を落として京の都から関東へ下るのである。人質が連想される。この場合、徳川が命運をかけて半ば強引に宮廷に迫ったのであるが。当初は天皇も、特に本人の和宮は命を懸けて拒否した。和宮には許嫁がいた。相愛の中だったという。
和宮はそれこそ説得されて、泣く泣く関東に下るのである。この出来事はそのドラマチック性に刺激されて、有名作家たちが小説に戯曲に腕を振るっている。具視は中心になって活動し、輿入れの行列には使者として付き添っている。文久元年(一八六一年)三七歳のことである。その前年には桜田門外で大老井伊直弼が暗殺されている。安政の大獄の反動であった。
しかしこのころから、政情が変わって具視は窮地に陥る。攘夷派から、幕府寄りの佐幕派と見なされ、辞官、出家を迫られ京の都から追放、いのちを狙われる羽目に陥る。具視は京の郊外を転々と落ち延び、やがて洛北の岩倉村に隠棲することになった。日記には「無念切歯に絶えず」、「無念の次第やるかたなし」「今度の事件、実に夢とも現とも申し難き次第、如何なる宿縁のしからしむるところか、毛頭合点がまいらず」と悔しさをつづり続けている。
慶応三年一一月に帰参を許されるまで実に五年も政界から離れねばならなかった。しかし命を落とさなかっただけでも幸いであった。この忍従の五年間がどれほどの苦しみであったか、想像を絶するものがある。五年とは長すぎる。時代は一年が一〇年にも匹敵する猛烈なスピードで多重的に急進している。一日だって惜しくてたまらないのだ。ところが、維新の総代表ともいえる西郷隆盛もこの時期相前後して役職を追われ、島流しにされ、それは二度までも重なった。もしかしたら、挫折や追放は、真の英雄を生み出す「母の胎」と言えるかもしれない。
具視は絶えず命の危険に脅かされながらも、無為に時を過ごしていたのではなかった。信頼できる従者を通して同志たちと連絡を取り合い、中央の情報を収集し、伝言を発した。そもそも具視の最高ともいえる能力は策を練り、文書化する事だった。意見書や提言書の類をどれほど作成し、提出した事か。具視は直接出向くことはできなかったが、今風に言えば在宅ワークをしていたのだ。テレワークの元祖ではないか。
しばらくすると隠宅を様々な人が訪れるようになった。最初は同じ公家仲間であった。中央の政治事情が直接耳に入るようになった。具視の在宅ワークは多忙を極めた。慶応三年(一八六七年・幕府最後の年)には維新の千両役者たちの坂本龍馬、中岡慎太郎の訪問があり、さらに大久保利通、品川弥二郎も来訪している。政情は目まぐるしく回転し、薩長連合、薩摩土佐の同盟も整い、大政奉還運動が始まった。
一一月にはついに洛中帰還を許され、ついで勅勘赦免となり、参与の地位を与えられた。ここに満五年の忍従の鎖は解かれた。直ちに政局の真っただ中に飛び込み、倒幕密勅を手にし、王政復古の大号令を先導した。徳川最後の十五代将軍慶喜は大政を奉還し、ここに二六〇年余にわたって日本を統治した徳川時代は幕を下ろした。よくぞ慶喜は手放したと思う。私でさえ感傷的な思いになる。彼もまた英雄だったのだろう。
早々に明治と改元された。さあ、これからが日本中ひっくり返る騒動になる。一般民衆が巻き込まれていく。江戸城は無血開城となったけれど、武力が使われなかったわけではない。鳥羽伏見の戦いから始まって函館戦争まで幾多の戦禍が重なるのだ。
この作文は明治維新という日本最大の革命の中の一人の人、岩倉具視だけにライトを当てている。彼だけが英雄ではない。しかし英雄でもあるのだ。その後の活動を、明治一六年に五九歳で死去するまで、大づかみにピックアップして追いかけてみたい。
明治政府で、具視はたちまちいくつもの重要ポストに就いた。具視には隠棲の五年間に練りに練った策が山のようにある。地下活動の中でも頻繁に発信しているが、それをすぐに実行に移す力がある。弁舌にも長け、説得力がある。何より体中が火を噴いている。しかし、惜しいことに体調が崩れ始めていた。まだ働き盛りの四十代半ばだというのに。それを抱えてであるが、明治四年には外務卿に任じられ、すぐに右大臣に任じられ、特命全権大使として欧米各国へ派遣されることになった。世にいう「岩倉使節団」である。
社会科の教科書にこの使節団の写真が載っていた。四名の洋服姿の真ん中に髷と和服でそっくり返っているのが具視である。日本文化に絶大な誇りを持っていたのだ。お公家様なのだ。しかし、息子に諭されてシカゴで断髪し洋装にチェンジしたという。固執しなかったところはさすがだと思う。
この使節団には現職の要人たちが多く参加した。副使の四人は木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳である。その他随員が一八名。ほかに、興味深いことに四八名の留学生がいた。この留学生の中に津田梅子ほか四名の女子が加わったのだ。彼女たちはまだ幼かった。津田梅子はわずかに八歳。こうして総勢一〇七名が海を渡ることになった。
旅の様子は多くの書物で知ることができるが、この使節団の正式な書記官としてえらばれた佐賀藩出身の久米邦武が『米欧回覧実記』を遺している。その要旨を、ドナルド・キーンが講談社学術文庫『百代の過客 続』にまとめており、短文ながら事情がよく分かって楽しく読めた。ついでながら、この使節団のアメリカはワシントンでの世話役を務めたのは森有礼代理公使である。有礼はその後、具視の息女寛子の夫になる人である。
使節団は明治四年一一月一二日(一八七一年)にアメリカの飛脚船アメリカ号で横浜港を出帆、サンフランシスコに向かった。帰国したのは二年余り過ぎた明治六年九月一三日である。だれでも思うだろう、できたばかりの明治政府の超重要人物たちが二年もその要職から離れて大丈夫なのだろうかと。たとえ西郷隆盛が留守番をしたとしても、それで政治が回ったのだろうかと。今のようなオンラインの片りんもない時代である。よくも出かけたものだと思う。
洋行した人たちと留守をした者との間には「百聞は一見に如かず」の宝刀がみごとに振るわれた。政府内は諸問題で紛糾、特に征韓論争で割れに割れた。西郷隆盛以下、留守政府の征韓派参議は政府を去った。世にいう「明治六年の政変」である。生まれたばかりの政府はまだか弱く危うい。
翌、明治七年一月一四日夕刻、具視は暴徒に襲われた。公務を終えて仮皇居を退出したところを、馬車が赤坂の喰違坂に差し掛かった時、襲撃されたのである。具視は、眉の下と腰に負傷はしたものの四谷濠に転落したことで辛うじて助かるのである。その時の様子を、具視の娘森寛子の孫にあたる関谷綾子が『一本の樫の木』のなかで、直接祖母から聞いた話として詳しく記している。襲撃者は間違えて馭者を切り捨てたという。馬だけが空の馬車を曳いて自宅の玄関に着いた。具視は濠から引き上げられて宮中に運ばれ手当てを受けた。暴徒は旧土佐藩士たち九名であった。
私は食違坂辺りを歩いてみた。人の往来は少なく、案内板の草むらから暴徒が飛び出してくるような雰囲気があった。覗き込むと、壕は深い緑色をたたえて澱んでいた。その後、病で息引き取る前にはすでに西郷も大久保も非業の死を遂げている。具視は明治一六年、五九歳で世を去った。日本で最初の国葬が執り行われた。
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2020年早々から始まった新型コロナウイルスによるパンデミックは、
恐怖とともに私のような小さな生活のスタイルまで一変させた。
感染予防策の一つに「自粛」が叫ばれた。
行動制限に従ってやむなくそれまでの活動を縮小あるいは中断して家に閉じこもることになった。
思いがけなく時間の余裕が生まれた。
私には神様からのスペシャルプレゼントに思えた。
まずは読書に使った。
読みたい本は書店に行かなくてもネットでいくらでも手に入れられる。
「読んでは書く、書いては読む」充実の日々が与えられた。
以下はコロナ禍の産物です。書き溜めたものをここに披露させていただきます。
はじめに 私の明治維新
この二、三年、維新に惹かれて、ひたすら維新物を読んでいる。人物伝が多い。
ひところはもっぱら戦国時代のファンだった。日本史の中でいちばんロマンとスリルに満ちていると思った。とりわけ政略結婚の犠牲になった女性たちに同情した。
悲劇の女性たちのトップは何と言っても「細川ガラシャ」だとばかり、ガラシャに思いを深め、秀吉の酷命によって幽閉された丹後半島の山奥、味土野にまで探訪の旅をしたこともあった。ガラシャから思いが広がって、プロテスタントの女性を知りたくなった。そこから明治維新前後に視線が飛んだ。
最初に、日本初の公認女医荻野吟子を調べた。そのつながりで、若松賤子に惹かれ、ゆかりの地を訪ね歩いた。吟子の時は、生誕の地である利根川べりの俵瀬や北海道後志川近くの瀬棚町へも足を延ばした。賤子では、会津若松の城址付近を歩いた。二人の女性はそれぞれ小さな一冊にまとめた。若松賤子には、日本初の小公子翻訳者と副題を付けた。信仰を貫き通したその生涯に多くの涙を流した。
二人の女性を調べる中で、魅力に満ちた何人かの女性たちに出会った。書いてみたいと心燃やされる女性たちもいた。しかし資料がなさ過ぎて書けない女性、反対に有名すぎて今さら私などが手出しできない方々もおられる。津田梅子や羽仁もと子はその最たる女性たちである。
荻野吟子を調べていた時、明治期の女性たちを扱った一冊に〈森寛子〉が収められていた。そのときついでに一読はしたが、私の思いはひたすら『荻野吟子』だったので、斜め読みしてしまい、彼女のことは深く記憶にはとどまらなかった。
その後、久しぶりに同じ本のページを繰ってみた。島本久恵著『明治の女性たち』である。いきなり一文が飛び込んできた。「刀自は晩年クリスチャンであった。植村正久によって洗礼を受けた」。私は声を上げるほど衝撃を受けた。刀自とは「森寛子」のことである。一瞬で寛子の虜になった。寛子は激しく私の心に食い入ってきた。小文であったから瞬く間に読了した。その数奇な人生ドラマにますます引き込まれていった。この貴婦人のそばににじり寄って心に触れたいと思った。できるだけその生涯を調べよう。いつか私なりの〈森寛子〉を書きたいと、前述の二人に勝る熱い思いが生まれた。
取りあえず、実父の「岩倉具視」を読んでみよう。かの維新十傑のひとりであり、新政府樹立まもなく「岩倉使節団」の団長として欧米諸国を歴訪したことは教科書にも出ていたし、一行の中に当時八歳の津田梅子や一二歳の山川さき(後の大山捨松・鹿鳴館の花)がいたことに以前から心ときめかしていたから。
岩倉具視以後、維新の中枢で活動した革命家、政治家の一人一人を次々に知りたくなった。一人を読み終えると、まるで彼が次の人を手招きしているようで読まねばならない心持ちにさせられた。そうして私は簡単な人物伝を読み漁ることになった。それは今も続いている。なんと、女性ばかりを見つめ続けた私が、維新の表舞台に立つ男性英雄たちを次から次へと追うことになった。私の明治維新が始まった。
維新の人物エッセー第一章 岩倉具視(いわくら ともみ) その1
維新史の活動家の中でいちばん評価の分かれているのはこの人ではないだろうか。
「姦物」と言われ・・・と人物伝の紹介にある。姦物とは悪知恵にたけた人、腹黒い人の意味だ。二百数十年にわたり連綿と続いてきた徳川幕府の政治体制を改革するには、単に自分の一身なげうつ覚悟とともに、目的完遂のためには、少々どころかあらん限りの策略が必要だろう。「姦物」で当然と思う。彼だけでなくこの活動に本気で打ち込んだ人たちは多かれ少なかれ全員が「姦物」ではないか。
しかし岩倉具視の名の上に冠のようにあえて「姦物」が付くのにはそれなりの特別な理由があったのだろう。私の読んでいる人物伝はほとんどが中公新書である。岩倉具視の著者は大久保利謙氏である。氏は明治維新三傑の一人、薩摩藩士大久保利通の孫にあたる。
私は具視が「姦物」と評されることに不快感はない。むしろ彼の用いた奸計に興味をそそられる。そこには想像を超えた生き死にのドラマがあるはずだ。
本著の帯には「朝廷側からみた明治維新史ーその演出者が歩んだ苦難の道」とあり、続いて「明治維新の成就は薩長両藩が中心とみられ『三傑』もこの両藩士から選ばれている。しかし、朝廷政府の呼応がなかったら、明治政府の成立も容易ではなかったであろう。この朝廷側の立役者は岩倉具視である。下級の公家に生まれ、早く頭角を現し、「王政復古」を目標として、姦物といわれ幾度か挫折しつつも、ねばりつよく政治運動を行って成功した。明治政府では『三傑』の上に立って、明治日本の方向決定に重大な役割を演じた」とある。
私が維新の傑物たちの中でいの一番に岩倉具視を開いたのは、「はじめに」も述べたが、彼の娘、森寛子の引力による。また、彼と太平洋を渡った二人の少女、津田梅子と山川捨松に拠る。いわば、女性たちが維新の男たちへと私の視線を向かせたのである。
よけいなことだが、この二人の少女、梅子は下総国佐倉藩士津田仙の娘、津田仙は明治の世になってからクリスチャンになる。捨松は会津藩国家老の娘である。梅子も捨松も徳川方いわば賊軍の人たちである。それが敵に当たる明治政府の政策にいち早く呼応するとは、その姿勢には驚くとともに感嘆せざるを得ない。もちろん彼女たちの意志ではない。親たちがそうさせたのだが。ともあれ、私は女性たちが開いてくれた扉の中に恐る恐るおぼつかない一歩を踏み入れたのである。
ごくごく一般的には、維新といえば、江戸から遠い外様大名たちが幕府を倒して自分たちが政権を取り、天皇を表舞台に引き出して朝廷中心の政治に変えた革命だと解する。もう少し加えれば、薩・長・土・肥が、端的には薩・長が中心におり、一人を挙げよと言われれば西郷隆盛、幕府側では十五代将軍徳川慶喜、その一騎討の構図を描いてしまう。もちろんマンガではないから事はそこまで単純ではないとはわかる。
岩倉具視を論ずるに、大久保利兼氏は、朝廷側からみた明治維新史、朝廷側の立役者は岩倉具視であると断ずる。維新は薩長と幕府の二者ではなく、朝廷というもう一つの中心があったのだ。思えば、朝廷は幕府の権勢の影に隠れてはいたが、京都の御所で何百年と気位高く根を張っていたのだ。そこには一大公家集団が天皇を取り巻いていたのだ。
天皇が京都から東京、江戸城に住まいを変えるだけでもどれほどの出来事だろう。そこには天皇や公家たちを説得する大きな力、存在があったに違いない。そしてその中心は岩倉具視なのだろう。具視は「姦物」といわれ「幾度が挫折しつつ」も「粘り強くつよく政治運動を行って成功した」のだという。その「挫折」や「辛抱強く」に秘めたドラマを覗いてみたい。
岩倉具視は公家ではあるが下級の貧乏公家で、天皇に会えるどころか政治の現場にも近づけなかった。それが、維新の立役者になるのだから、そこへ行くまでにはどれほど峻険な坂道を上ったことだろう。
具視は生来ある種の能力にずば抜けていた。
「岩倉には知恵がある。才気がある。もっとも弁才がある。またすこぶる立派な文才がある。全く天品でしょう。見識にはオリジナリティーがある」との評がある。また、その物言いは京都人特有の婉曲型ではなく、「岩倉の切り口上」といわれ、ストレートな言語表示で、発声はだれもまして大きかった。これでおおよその人物像が描けるというものだ。
そもそも具視は一四歳の時、堀川周丸であったとき、学業のさなかにその才能を見込まれて岩倉家の養子にもらわれた。「その挙動は尋常ではない。麒麟児だ。必ず将来相当の人になるであろう」が通り言葉であった。岩倉具慶は大変喜んで彼を迎えたという。この地位は岩倉の直接的な策ではない。持って生まれた能力のおかげであろう。ところが、岩倉家は一五〇石の下級の公家で、生活は楽ではなかった。
具視は宮廷に勤務するようになると、時世の変化を見ようとせず学ぼうともせず旧態依然の公家社会の制度改革を痛感する。そこで、時の権力者鷹司政通に説いて実現させたいと願った。政通なら自分を理解してくれると見込んだのである。 まず政通に近づかねばならない。そのために、彼の歌道の門人になるのである。これは具視の知略の使い始め、「姦物デビュー」と言えようか。歴史の寵児のひそかな誕生というところか。二九歳である。
遅い気もするが、歴史は彼の歳も知っていたであろう。時は奇しくも嘉永六年(一八五三年)、ペリーが来航して日本に開国を迫った年。いよいよ幕末、維新の激動の幕開けである。本に首を突っ込むだけの私でさえ、心沸き立ち、脱藩して走り出したい思いに駆られるのだから、その空気を肌で感じ耳で聞く具視が、全身火のように燃えたとしても不思議ではない。(つづく)
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闇の世に、降誕された主の聖名をあがめます。
主の「希望」は躍動する信仰と愛で満ち満ちています。
その恵みに与った感謝と喜びを「希望の風」に託してお届けします。
なお、この一篇は、日本クリスチャン・ペンクラブ機関誌
「文は信なり降誕号 光に向かって」に寄せたものです。
★羊飼いの光
クリスマスは光から始まった。
天のみ使いは暗い夜空の下で羊の番をする羊飼いたちに、イエス様のご降誕を最初に知らせた。その時主の栄光が周りを照らしたと聖書は語る。み使いは『今日、あなたがた方のために救い主がお生まれになりました』と告げる。目もくらむような光の中で、羊飼いたちはこの良い知らせを聞いたのである。世界でいちばん先だったとは知らなかったろう。
時は真夜中、小さな星のまたたきもとどかない暗闇の山野に、真昼より明るい光が彼らを包んだのだ。彼らは世の底辺を這うように暮らす貧民である。心にも光はなかったであろう。
突然の良い知らせ、突然の光、とまどう彼らの上に天の軍勢の歌声が響き渡る。
『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が御心にかなう人々にあるように』 光と賛美の声は彼らの重い心の扉を大きく開け、一瞬にして歓喜で満たしたにちがいない。光は命である。彼らのうちに命が満ち満ちた。新しい命が躍動した。うずくまっていた彼らは立ち上がった。彼らは都ベツレヘムへ駆けて行った。飼葉桶に寝ておられる赤子イエスを礼拝し、町中に触れ回った。彼らは最初の礼拝者であり最初の伝道者になった。何というあわれみ、なんというめぐみであろう。神は『無きに等しきものをあえて選ばれた』! クリスマスは光から始まった。
★マリヤの光
み使いガブリエルに受胎を告知されたマリヤはひどくとまどった。一瞬目の前が真っ暗になり恐れおののいた。しかしガブリエルは『怖がることはない。マリヤ』とやさしく語りかけた。マリヤはまだ年端も行かない少女であった。ガブリエルは天の光で暖かくマリヤを包んだであろう。その光はマリヤの心深くに射し込んだ。マリヤは『私は主のはしためです』と身をかがめて従った。マリヤの従順が主のご降誕にうるわしい光を添えた。
マリヤはナザレから遠くユダの町までエリサベツを訪ねた。老女エリサベツと乙女マリヤはハグし合って互いの使命を感謝し喜びにあふれた。マリヤの唇からあの賛歌があふれ出た。『わがたましいは主をあがめ、わが霊はわが救い主なる神を喜びたたえます。この卑しいはしために目を注いでくださったからです』。マリヤはうら若い乙女だったが、自分の貧しさ弱さを知っていた。さすがに主の母になるにふさわしい賢い女性だったと思う。光は水に似て、低きに向かって走る。
★パウロの光
クリスマスを飾るメンバーではないが、パウロもまた天の光に出会い、ひれ伏して改心し、聖書中最大の宣教者になった。パリサイ人出身、主の民の迫害者である彼が、ダマスコへの途上で光に打たれた。復活の主が待ち受けていたのである。光は彼の信仰を一変させた。自分の義ではなく、イエス様の贖いのみわざによる義を信ずる者へと新生したのだ。
パウロは光がアガペーの「愛」であるのを知った。『いつまでも残るものは信仰と希望と愛です』と確信に満ちた書簡を書き送っている。
この言葉は二千年を経た今も多くの人を励まし、私の信仰の旗にも書き込まれている。
そのパウロが、『私は罪びとの頭です』と大胆に自己の弱さを告白し、『神の恵みによって今の私がいます』と、光の前にひれ伏している。 光は命であり言葉である。『ヨハネの福音書』によれば最初に言葉があり言葉に命があり命は人の光であったとあとさきがていねいに記されている。が、順番は優劣を意味しないと思う。同質と考えたい。なせなら、主イエスは『私は世の光です』と言われた。
★光であるイエス・キリスト
十一月中旬になると巷は早くもクリスマスのイルミネーションであふれる。街路樹一本一本にまで電飾線が巻き付けられ七色に瞬く。近頃は戸建ての住宅にも光入りのリースやツリーが飾られる。まるでキリスト教国のようだ。しかしクリスマスの本質であるイエス様はどこにも見当たらず、異質のクリスマスが独り歩きをしている。いくらきらびやかでも、人の心は人工の光や雰囲気だけで真に満たされるのだろうか。
私はクリスマスの光の中でも礼拝堂にしつらえたクリスマスクランツのろうそくの火が好きだ。ろうそくの火はかよわく、いつも小さく揺れている。まるで呼吸をしているようだ。華やかさはないが暖かさがある。静けさがある。
そっと人の心の中にも灯る。心がおだやかになる。クリスマスの主、イエス・キリストの愛のようだ。
イエス様がベツレヘムの家畜小屋で産声をあげられた時、大きな星の光を頼りに、遠く異国の地から博士たちが訪ねてきた。マタイの福音書はそのいきさつを楽しく記している。
日頃から天体を観察していたと思われる博士たちは不思議な星を発見した。その星こそ待望のメシヤ到来のしるしに違いないと確信し、星を追いかけた。星はイエス様のおられる真上でとどまった。彼らは喜びに満ちて、黄金、乳香、没薬を捧げて礼拝した。星の光はイエスさまの寝顔とマリヤ、ヨセフを明るく包み込んだことだろう。
三十歳でご自分の使命に立ち上がったイエス様は『私は世の光です』と公言し、闇の中を生きる人々を招いた。『私に従う者は・・・闇の中を歩くことはなく、いのちの光を持つのです』と約束された 貧困、病気、虐待、搾取、戦争、不安、恐れ、憎悪・・・。これが世である。闇の世界である。人はそこであえいでいる。イエス様はそのただ中にご自分の命を丸投げして入って来られた。闇に打ち勝つ光として。従う者を光と子としてくださるために。
主の光の方へ行きたい。光に出会い、光の子になりたい。マリヤのように賛美したい。
『我がたましいは主をあがめ・・・』
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毎年稚拙ながらクリスマスカードを手作りし、友人知人に送っています。
その手段も昔ながらの郵送、手渡し、メール添付、
近ごろはlineに貼り付けることもあります。
年賀状を兼ねる場合もあります。
小さな発信ですが、
主がクリスマスの聖風に乗せて
お一人一人の心に届けてくださるのを期待しています。
メリー クリスマス!
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聖書 ヨハネ 2・1―5
ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
イエスも・・・その婚礼に招かれていた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありませんと言った。
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
物語
マリヤの心は弾んでいた。足取りも軽やかだった。
「こんなに浮き浮きするなんて、年がいもなくおかしいかしら」
ナザレからカナヘ向かう道は起伏が多かったがいっこうに苦にならない。マリヤは結婚式へと急いでいた。新郎新婦には、マリヤはわが子のような情愛をいだいている。彼らの晴れ姿を見るのは心楽しいことだ。
長雨が切れて、胸を開いた大空が太陽を抱いて澄みわたっている。 マリヤの胸も久しぶりに喜びをで広がった。ぬくもりを含んだ薫風がアメンドウのつぼみとたわむれている。風はときおりマリヤの胸元をかすめては吹きぬけていった。
マリヤにはもうひとつの喜びがあった。そのほうが大きいと言ってしまったら結婚式の主役たちに気の毒だろうか。結婚式に、イエスが弟子たちといっしょに招かれているのだ。
イエスに会える!イエスに会える!イエスに会える!
マリヤは一足一足歩むたびに叫んでいた。
「主よ、喜んでもいいでしょう。イエスと会えるのですから!」
イエスが三十歳を迎えたころだった。
「時が満ち、神の国が近づきました」短くそう言ってマリヤのもとを去って行った。
ああ、この子、いいえ、このお方と――このお方は神の御子――もう二度と語り合い、食する日はないに違いない。
その時、マリヤは覚悟したのだ。
「いつまでもじくじくと思いわずらってはならない。イエスの母役は今日を限りに終了。 これからの使命は母だったことを捨てること。きっぱりと忘れること。こんなはした女を 主はよくぞ母にしてくださったものだ。もったいないことだった・・・」、
主よ。お返しします。あなたの御手に、あなたのみふところにおゆだねします。
「少しでも負担を感じさせてはならない、未練を残してはならない。できるだけいさぎよく、できるだけさわやかでありたい」
マリヤは強い意志で祈り、祈って努めた。
そのせいだろうか、不思議に寂しい思いをしないですんだ。じっと神の前にひざまずいていると、心の重心が上昇し、さえざえと澄み切ってくるのだった。朝は暁を引き出すように、昼は時の足音を忘れて、夜は静寂に身を沈めて、 ひたむきに祈り続けた。
イエスと再会した瞬間、 マリヤの全身は小さく震えた。思わず両手を握りしめた。母だった時の笑顔が浮かぶまでに、わずかに時間がかかった。 イエスは、去った時と同じに、深く澄んだ瞳でマリヤをみつめやわらかなほほえみを 返した。
変わっていないわ、この子は私のイエス。
いいえ、ちがう。すっかりお変わりになった。お姿が輝いている。お声にも、 お目にも、ふるまいにも、気高さがいっぱい。
ああ、神の御子、主よ。
マリヤはひざまずいて礼拝したいほどであった。
カナの村は結婚式で沸き立っていた。小さな村のどこもかしこも大きな喜びではちき れていた。祝宴は盛り上がったまま終わろうとはしなかった。次から次へと、飲み物や食べ物が運ばれた。
まあ、なんとにぎやかな楽しい宴でしょう。花嫁の美しいこと。どうでしょう、花 婿のあの得意顔。どうぞ新しい家庭が祝福されますように・・・。
マリヤの視線が会場を一巡した時だった。
おやっ、料理がしらの顔色が変わったわ。何か困ったことでもできたのかしら。
「 えっ、何ですって。ぶどう酒がないですって。どうしてなの。一大事だわ。この分では宴はまだまだ続くでしょうに。 このままでは、このままでは花婿の面目は台なし。晴れの日に傷がついたら後々まで惨めだわ。なんとかならないかしら」
とっさにマリヤはイエスのもとに駆けていた。
いつもいつもそうだった・・・。
イエスが家にいたころ、マリヤはなにかにつけてイエスを頼っていた。今はもう息子で はないのだ、母ではないのだと太い線を引いたつもりだったが、マリヤの心身は古い習慣を完全に捨ててはいなかったのだ。
「ぶどう酒がないんですって」
マリヤは訴えるように言ってしまった
「・・・」
イエスの視線がひたとマリヤを見据えた。突然、マリヤは濃い暗雲に包まれたような孤独感に襲われた。はっとして、思わず後ずさりし、手を口に当てた。越えてはならない深い深淵を見たのである。いや、見せられたのである。
「女の方。わたしの時はまだ来ていません」
イエスの声は静かで穏やかだった。あたたかかった。
えっ、「女の方」ですって、「わたしの時」ですって・・・。
思いがけないことばに戸惑った。
そう、そうでした。お赦しください、主よ。
あなたは神の御子でした。もう、起き伏しをともにした私の息子ではないのですもの、 ぶどう酒の相談などしてはいけないのでした。
「わたしの時」、「わたしの時」・・・。
そうでした、あなたは神の時に生きるお方ですね。あの時「時は満ちた」とおっしゃって、神の時の中に入っていかれましたね。あなたが神の時そのものなのですね。
マリヤは偉大な真理に気づかされた。と同時に、暗雲は押し上げられ、まばゆい光線が差し込んできた。
マリヤはイエスのそばを離れると、数人の手伝いの男たちに命じた。
「あの方の言われることは何でもしてあげてください。」
手伝いの者たちはけげんな顔をした
イエスは招待された客ではないか。自分たちに何か言いつけるなんて妙な話だ。ところで、なにを言いつけようとするのかな。マリヤが息子に頼んだことでもあるのかもしれない。 よし、めでたい席だ、何でもしようじゃないか。おい、 みんな、なんでもしようじゃないか、そうだろう。
マリヤは手伝いのものたちの同意を見てとると、ほっとして席に着いた。入れ替わるよ うに、イエスがすっと彼らに近づいた。風に乗るように手伝いの者たちは勝手口から外へ出て行った。
一瞬のことだった。だれも気がつかなかった。マリヤだけがイエスを見つめていた。
神の時は近づいているのだわ。新しいことが起ころうとしている。いや、すでに起こっている。
手伝いの者たちに言いふくめておいたことが、神の時のためにお役に立つのかもしない。
外では水くみが始まっていた。
「かめに水をいっぱい入れなさい」。
イエスから言われたとおり、男たちはせきたてられるように村の井戸に走った。水がめは六つあった。
何度往復したことだろう。ようやくいっぱいにした時、彼らの心は味わったことのない充実感で満ちていた。不息議な歓喜が体を割って吹き上げてきた。汗を拭きながら互い顔を見合わせた時、期せずしてドッと笑い声が起こった。
つと、イエスが近寄ってきた。
「さあ、くんで、宴会の世話役のところへ持って行きなさい」
早速、小さなかめに移された水が運ばれた。
「何とすばらしいぷどう酒ではないか!」
宴会の世話役の叫び声がマリヤの耳に飛び込んだ。
「ぶどう酒ですって!すばらしいぶどう酒ですって!」
おわり
おわりのひとこと
私は青春の入口で『聖書』の主人公であるイエス・キリストと出会い、以米、信仰の目をもって聖書を読んでまいりました。 聖書は何回読んでも飽きることはありません。それどころか読めば読むほど放せなくなる魅惑の書物です。読んでいくうちに文字と文字の間から、神様の愛が噴水のように吹き上がるのがよく分かります。そしてその愛がほかでもない、読んでいる自分に向かって真一文字に注がれているのを発見するのです。もう、手放せるものではありません。
ふり返ってみますと、青春時代には青春時代の読み方をしました。人生半ばで、いくつかの闇に突き落とされた時は、みことばの命にすがりつき、生きていく勇気と平安をいただきました。
母親になってからは、聖書の〈母たち〉の生きざまが、子育ての知恵となり慰めとなり希望となりました。
主から託された子どもたちがどうやら独り立ちして、主の御前を歩み出した今、小さな欠けだらけの者を母として用いてくださったみわざを思い返して、胸のはじけるよう感動を覚えています。
その感動の波が〈母たち〉のドラマに共鳴しました。そんなわけで〈母たち〉を書かずにはいられませんでした。
主をおのれの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
詩篇37・4
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聖書
そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
ルカ1章39、40節
物語
マリヤの背に午後の陽が揺れていた。
ロバはナザレから一路南へ進んでいく。途中進路を東に向け、 ヨルダン川を渡って渓谷沿いに南下し、塩の海の手前で西へ向かい、再びヨルダンを渡る。さらに都エルサレムを越し、 ユダの山地の小さな村へと進んでいった。
そこにマリヤの親族エリサベツがいる。夫はエルサレムの神殿に仕える祭司でザカリヤと言った。
マリヤはどうしても彼らに、とりわけエリサベツに会わねばならなかった。主の霊がせき立てていた。
「あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています」
エリサベツは子を産むことなく老年になっていた。御使いガブリエルはその老女が胎内に命を宿していると告げた。子を産めるはずがないのだ。若い時からずっと不妊だったのだ。
こんな不思議なことがあろうか・・・。
だからこそ、エリサベツに会わずにはいられない。
「あのお年寄りに子が生まれるとしたら、それは奇跡でしかない。そして私のうちにも命が宿っているとは神様のみわざ以外にない。私たちは神様の太い糸で結ばれているにちがいない。お会いしたら何かがわかる」
小さな旅のあいだ、マリヤは一連の出来事をくり返しくり返し思い出しては、思い巡らしていた。
「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」
あの日聞いた受胎告知はマリヤの耳も胸も突き破った。心に留め置くには大き過ぎた。
が、だれに語れよう。
たとえヨセフもどうして言えようか。
いいえヨセフだからこそ、どうして言えようか。
マリヤは固く口をつぐみ、 ひたすら心を広げた。御使いの告知をそのことばどおりに受け入れるためだった。
思い巡らす、心の旅が始まった。人気のない心の小道を幾度、行きつ戻りつしたことだろう。ユダの山里への旅は、心の旅の続きでもあった。
「神にとって不可能はことはーつもありません」
御使いガブリエルのことばこそ、旅を導く主題旋律であった。一本道を行く時も、山あいを行くときも、坂を下る時も、絶え間なく響いていた。
「神にとって不可能なことはない、神にとって不可能なことはない・・・。そうなんだわ、 そうなのよ」
みことばはマリヤの全身を行き巡った。耳を通って胸に広がり、心を占領し、魂の中心に命中した。
みことばは生きていた。
「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」
そう、神のいのちをお宿しするのはお恵みなのよ、こわがることではないのだわ。
そう言い聞かせた時、恵みは光を放ち、勝利の朝日が昇り始めたのだ。
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれます」
ようやくわかったわ。御使いは不信仰な知恵の足りない私にも納得できるように、こんなにていねいに説明してくださっていたのね。
急にマリヤは頬を赤らめた。御使いに返したことばを思い出したからだった。
「どうしてそんなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」だなんて言ってしまって。
マリヤは民族の母、サラを思い出した。
偉大な民族の始祖アブラハムの妻サラは、九十歳の高齢でイサクを出産したわけだが、 前年、御使いに告げられた時、笑ったのだった。不可能の壁が不信仰の笑いを生んだ。サラは笑ったのだ。
そして私と来たら・・・。
あられもないことを口走った。
サラの笑い以上に愚問だったと思うのだった。
ロバはいったん谷に下り、再びゆるやかな斜面を上り始めていた。青々とした葉の茂るオリーブ畑が点在していた。上りつめたところが訪問の地だ ザカリヤとエリサベツが門口に出ているだろう。
マリヤはまた御使いのことばを反芻した。
いと高き方の力によって、私のうちに聖なる命が宿っている。生まれるお方は聖なるお方、神の御子。
そう思い巡らした時だった。思いがつき当たって、はじけた。光を見たような気がした。
あっ、そのお方はもしかして、メシヤ・・・。
そうだ、メシヤに相違ない。待ち望んでいるメシヤにちがいない。そのお方はダビデやサムエルのように人間で はなく、いと高き方の力によって生まれる聖なるお方。ほんとうのメシヤなのだ。
メシヤの誕生に私が用いられるのか。こんな卑しい、こんな貧しい、こんな小さい私が用いられる。私が主の母になる、メシヤの母になる。
こんな恵みがどこにあっただろう。
こんな幸いがどこにあっただろう。
かつてだれがこのような祝福にあずかっただろう。
こんな私が・・・。
どうして私などが・・・。
主よ。
「おめでとう、恵まれた方」
マリヤは今ようやく、御使いの最初の語りかけを理解した。
私は恵まれた者。主が恵んでくださった。だからおめでとうなのだ。真実、おめでとうなのだ。
「私は主のはしためです。おことばどおりこの身になりますように」
あのとき、よく言いえた。これだけは間違いのない答えだ。何も理解できず、納得もできなかったのに、よくぞ、このことばが生まれたものだ。私の口から出たけれど、私が言ったのではない。
そうよ、聖霊が言わせてくださったんだわ。
私は世にも幸いな女、恵まれた女。
メシヤが来られる、メシヤが生まれる。
マリヤの魂が天にも届けよと感謝の賛美を上げた時ロバの歩みが急に止まった。
到着だ。
「エリサベツ、ナザレのマリヤです。ザカリヤおじ様、マリヤです。ごあいさつ申し上げます」
晴れやかな叫び声がマリヤを熱っぽく包んだ。
「なんとうことでしょう。主の母が私のところに来られるとは。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました」
ああ、エリサベツもとっくにわかっているんだわ。私のうちにいますお子はメシヤ。待 ち望んだメシヤ。
わがたましいは主をあがめ、
わが霊は、我が救い主なる神を喜びたたえます。
主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。
ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。
マリヤは力いっぱい賛美をささげた。マリヤの顔は輝きわたっていた。瞳からも笑み からも主への感謝があふれ、激しく吹きあげていた。
「エリサベツ、私はしあわせものです」
「マリヤ、私もしあわせものです」
二人は手を取り合って、互いの顔を見つめ合った。
そして、同時に言った。
「主がともにおられますから」。
『天の星のように』はあと一回で終了です。
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聖書
御使いガブリエルが、神から遺わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに 来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。ルカ 1:26、27
マリヤとは
救い主イエス・キリストの生母。聖霊によって処女降誕の大役を担った恵まれた女 性。キリスト教二千年の歴史を通じて最高の賛辞を浴びてきた女性の中の女性。
ダビデの血をひくナザレの大工ヨセフのいいなづけであったが、天使ガブリエルの 訪問を受け、受胎を告知される。
「めぐまれた女よ、おめでとう。あなたはみごもって男の子を産むでしょう。」
この挨拶に、驚き、戸惑うが、信仰をもって受諾する。
「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」 応答の一言は信仰の従順を表す最高のモデルとして今もキリスト者を励ましている。
やがてヨセフの信仰と愛と理解によって無事に出産、神の御子イエス様をお育てした。
イエス様の公生涯最初の奇跡をカナの婚宴で目撃し、 ゴルゴタの丘での十字架時にもおそば近く
にいた。
物語
「ナザレはイスラエルのどこよりもいちばん美しいにちがいないわ」
マリヤは夕陽の中に立ち、声を弾ませた。
眼下には愛してやまないナザレの村がつつましく身を寄せ合って一 日の終わりを迎えていた。その上を燃え立つ光の層が薄衣のすそのように広がっている。 マリヤは今日も彼女だけの祈り場を訪れていた。村はずれの坂を上り切った小高い丘の一隅にある。いつも夕暮のひとときをここで過ごした。マリヤはここからの村のたたずまいが好きだった。ちょうど愛する人の後ろ姿のように思われて、ひどくいとおしいのだ。
日没が迫っていた。溶け出したような朱色がマリヤを包み込んでいた。
「なんとおだやかな、たそがれでしょう。神様、悲しい祖国を、愛するナザレを、こんなにも美しく装ってくださり、ありがとうございます」
祈りの一言を口に乗せるとマリヤの魂は一路、天に向かってはばたいた。マリヤは祈りを愛した。祈ることがうれしかった。楽しかった。祈りは親しい友のよう だった。
「悲しい祖国なのに、こんなに美しいタベがある。確かに主はイスラエルを愛しておら れるわ」
マリヤは多感な乙女だった。こよなく祖国を愛していた。祖国にはいくつもの悲惨な傷跡があった。
たびたび異国に脅かされ、踏みにじられた。国全体が捕囚となった時代もあった。そして今は、ローマの属国になり果てていた。 マリヤの小さな胸は祖国を悲しんでつぶれるほどだった。
「メシヤさえおいでになればユダヤは救われるのに。ああ、どうか、一日も早く来られますように」
マリヤの祈りの中心はメシヤ待望だった。はるか都エルサレムの神殿の方角にむかって、日に三度、祈りを欠かしたことはなかった。
暮色が忍びよっていた。なだらかな斜面を伝って、羊飼いが群れを率いて下りていった。 あとを追うように薄い風が音もなくわたっていった。
マリヤは ガリラヤ地方の一寒村、ナザレに暮らしていた。ナザレで生まれ、ナザレで 育った。何の良いものが出ようかとさげすまれている片田舎だったが、マリヤはこの地を愛してやまなかった。
東には、豊かな水をたたえたガリラヤ湖があり、国中に名を馳せた町々が水面を飾って いる。けれど心惹かれたことはなかった。
そして、ナザレで・・・。
まもなく結婚しようとしていた。
その日が迫っていた。
その後もおそらく、夫となるヨセフとナザレで暮らすことになるだろう。それを疑ったことはなかった。幸せにちがいないその日々を待ち望んでいた。
一方で、祖国がこんなに悲しい時に、自分だけ幸せでいいのだろうかと戸惑うことが あった。その思いがメシヤ待望の信仰を強めた。主さえおいでになれば万事が解決するの 一日も早く主よ来て下さいと、祈らずにいられなかった。待ち遠しくてならなかった。
「私の生きている間に、ぜひお出でいただきたい。ローマは盛んになるばかり。このままではイスラエルは消えてしまう。」
マリヤは深い憂いを抱えて、石臼で麦のひくように、主の前に魂を砕いた。
マリヤにはひとつだけ行きたいところがあった。
「エルサレムの都にはぜひ上りたい。できたらヨセフ様とごいっしょに」
マリヤはエルサレムに激しい思慕を抱いていた。毎年、村人たちが隊を組んで都詣でをする。過越を祝い、メシヤを待望して祈るためだった。中にはひそかに祖国の独立を祈る者たちもいた。マリヤはいつも巡礼団の後ろ姿を熱い視線で見送っていた。
「私も行って祈りたい。神殿の間近で主のご臨在を感じながら祈りたい」そう思った。
また、マリヤは歴史の糸をたぐっては偉大な父祖たちや預言者たちを思い出し、その信仰を思い巡らすことが好きだった。とりわけハンナの生き方はマリヤの心を強く捕らえた。
「ハンナはシロの神殿で熱烈な祈りをささげたわ。そして主からサムエルをいただいた。 サムエルは当時のイスラエルを救った。ハンナの信仰を見ならい、ぜひハンナの祝福をいただきたいものだわ」
マリヤは日ごろからハンナの賛歌をそらんじていた。
心は主を誇り、 私の角は主によって高く上がります。
私の口は敵に向かって大きく開きます。
私はあなたの救いを喜ぶからです。
主のように聖なる方はありません。
あなたに並ぶ者はいないからです。
ハンナの時代も・・・
イスラエルは荒れていた。国土も人心も。ペリシテ人が息つく暇も与えぬほど頻繁に戦いを挑んできた。有能な士師もとだえがちで、民は力ある神の人を待ち望んでいた。
ハンナは子供がほしくて祈った。夫エルカナのもう一人の妻には多過ぎるほどの子があった。短慮な女はそれを笠に着て、弱き同性ハンナをいじめた。 いじめに耐えかねてハンナは祈ったのだ。
「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら・・・」
マリヤはハンナの祈りを知れば知るほど、この偉大な母が、屈辱を晴らしたいというただそれだけの理由で子を願ったのだろうかと思うのだった。
ハンナはこう祈ったからだ。
「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」
やがてサムエルが生まれたが、ハンナはサムエルが乳離れするとすぐに、祭司エリに託した。潔くささげた。母としての情愛はどこにあるのだろうと思えるほどみごとなささげぶりであった。おそらくハンナは、祖国を救う主の器を産み、育てたい、わが子が主の栄光のために用いられたら、これ以上の幸せはないと願っていたに相違なかった。マリヤはじっと心に留め、じっと思い巡らし、辛抱強く日々の祈りを重ねた。
いよいよ赤く、いよいよ哀しく、陽は山陰に半身を埋めようとしていた。 また長い夜が来るのか、闇が迫ってくるのか、わずかな一条の光さえ消え去ってしまうのか。祖国の夜はいつまで続くのだろうか・・・。
もどかしく、狂おしいような魂の典奮を感じた。
思わず口にした。
「私もいつか救国の器を育てたいのです、主よ。ハンナのように」
「恵まれた女よ、おめでとう。
主があなたとともにおられます」
耳が聞いたのか、魂が聞いたのかマリヤの胸は激しく騒ぎ、風に舞う花びらのように思いが揺れた。
恵まれた女、 恵まれた女・・・。主がともにおられるですって。
これはいったい何のあいさつでしょう・・・。
すでに薄青い夕間がおおい始めていた。肩先に触れる冷気がひどく快かった。先程までの闇をいとう思いが跡形もなく消え、新しい充実感が生まれ出ようとしていた。マリヤは心の変化をじっと見つめた。
何かが起ころうとしているわ。私ごときを主は愛しておられる。いと高きお方がともにいてくださる。なんとうれしいお恵みでしょう。わが魂は主を崇めます・・・。
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老やもめアンナ
アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナと という人がいた・・・八十四歳になっていた。
・・・ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、
エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。
ルカ ・2章36〜38節
アンナとは・・・
イエス様がお生まれになった当時、 エルサレム神殿に仕えていた女預言者。
アセル族パヌエルの娘。八十四歳の老やもめ。
若い頃結婚し、七年間だけ夫とともに暮らし、死別してからは、身も魂も主にささげ、昼も夜も断食と祈りの生活を続けていた。
マリヤとヨセフが幼子イエス様を抱いて、神殿に宮参りした時、 ちょうどそこに居合わせた。
アンナと同じようにイスラエルの祝福を待ち望んでいた老人シメオンは、イエス様を抱き、「私の目があなたの救いを見たからです」と神をほめたたえた。アンナもまた幼子がイスラエルを救うメシヤであるのを聖霊によって知っていた。そして感謝をささげ、エルサレムの多くの人々に、メシヤが到来したこと、幼子 イエスこそそのお方であることを大胆に語った。
物語
ようやく雲が切れて、朝から陽がさした。光に勢いがあった。雨期が終わるにはまだ間 があるのに、都エルサレムの神殿界隈は早くも活気づいていた。待ちきれない人々が宮詣に詰め掛けていた。
「今朝の光には神の栄光が重なっている。今日は特別に祝福された日にちがいない」
アンナは曲がった背を伸ばし、光の中へ胸を反らせた。家を出る時、思いきって長衣を替えた。いつもの黒から紫に、である。すそに向かって流れるひだに光の波が揺れている。誘われるようにアンアの心もしきりに躍った。
アンナは今、八十四歳。長くやもめだった。
「イスラエルは神のもの。いつまでもローマのものではない。私たちは主の民。 イスラエルは神のもの。いつまでもローマのものではない。私たちは主の民。 いつまでもローマの奴隷ではない。まもなくメシヤが来られる。イスラエルを救うメシヤが来られる。世界を救うメシヤが来られる、 いいえ、もうその方は来ておられるにちがいない」
アンナは沸き上がる思いにうなずきながら、神殿の門をくぐった。老いを感じさせない軽やかな足運びだ。
ずっと、アンナは主の宮に上って祈ることだけに生きてきた。もとより強いられてではなかった。内からの自由意志と熱い信仰心からだった。なによりもメシヤを待つ切実な願いからだった。
「メシヤが来られる、もう来ておられる。一目お会いしたいものだわ。きっと神殿でお会いできる。
イスラエルのメシヤだもの、きっと神殿においでになる。」
アンナはいっそう強くそう思った。心がかきたてられ、大きな歓声を上げたいほど胸が高鳴った。
神様の力が勢いよく働いておられる。
何かが起ころうとしている。それが迫っている。
アンナの透明な魂はいち早くそれを察知していた。
それに・・・
最近しきりに聞こえてくるうわさがひどく気にかかっていた。ベツレヘムの野原で羊を飼う者たちの話だった。彼らはいけにえ用の羊を飼い、祭司や神殿商人の要請に応じて連れてくるのだった。しかし羊がいなくては神殿の祭儀ができないのだ。彼らはその矛盾に耐え、屈辱を忍び、黙々と羊を飼った。彼らの望みはメシヤの到来だった。彼らはだれよりも熱いメシヤ待望の信仰に生きていた。
市中に流れ、アンナの耳を打った話はこうであった。
ベツレヘムの郊外の野原で、一群の羊飼いたちが野営している時だった。闇は深く寒気の強い真夜中のことだった。
突然、天が割れて光のベールが広げられ、天使の御告げが響きわたった。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシヤである。
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」
いと高きところには栄光、神にあれ
地には平和、主の悦び給う人にあれ
光の渦と賛美の調べが遠のいた時、彼らはすぐ立ち上がった。手に手に子羊を抱いてベツレヘムの町を目指した。いまこそ自分たちの育てた子羊を、自らの手で待望のメシヤに捧げることができるのだ。
彼らはベツレヘムの、とある家畜小屋で、飼葉おけに寝ておられる麗しいみどりごを探し当てた。 自分たちの見たことが御使いの告げたとおりだったので、驚きつつ喜びつつ、都中にふれ回った。
つい先頃まで彼らは身を縮めて都との間を往復していた。宗教家たちの厳し過ぎる視線に耐えられなかったからだ。羊を置くと逃げるように帰路を急いだ。
その彼らが、別人のように目を輝かせ、飼葉おけのみどりごの話をした。熱心に、さかんに語った。
我を忘れて多くの人に語った。
「羊飼いたちの話は真実にちがいない。それにしてもメシヤがいたいけなみどりごとなって来られたとは」
みどりごのメシヤとは、なんという深いお知恵であろう。なんと不思議なみわざだろう。
神殿広場に急ぎながら、アンナはまた羊飼いらの話を思い出していた。思い出すたびに 不思議な感動がうまれ、そのたびに胸が熱くなった。
どうして今朝はこんなに胸が高鳴るのだろう。涙があふれてくる・・・
ふいに記憶の扉がはずれて、若かった日々が目の前に現れた。
アンナは一度嫁いだことがあった。
いくつの時だったか、それさえおぼろな、はるかかなたのことだった。夫とともに暮らしたのはたった七年だった。夫は足早に天に駆けて行った。子を残すこともなかった。
ひとしきりアンナの涙の壺はあふれ続けた。が、 いつしかからになった。空いた生活の空間や、心のすき間に主がお入りくださり、ご自身のお住まいとして使ってくださったからだ。以後アンナはひたすら主とともに生きてきた。寂しいと思ったこともつらいと思ったこともなかった。夫とともに生きるように、主とともに生きてきた。
ひとつだけ心をかすめる思いがあった。
子どもがいてくれたら、どんなに人生、多彩だろう。ともに主に仕え、ともに祈れたら、 どんなに賛美が楽しいだろう。
が、その思いにこだわることはなかった。主を慕い主の愛に生きるアンナには心の自由があった。
どんな思い煩いからも解放されていた。アンナの魂はいつも世界を走り、天を飛んだ。日に三度の神殿参拝が、四度、五度になった。主の霊に導かれるとそのままとどまって祈り続けることもしばしばだった。顔見知りが増え、友が増えた。いつしか女預言者アンナと呼ばれて、慕われ、尊敬されるようになった。
アンナの楽しみのひとつは、宮参りする赤子に会うことだった。見かけるたびに近寄っていった。父と母に語りかけ、目を細めて赤子に笑いかけ、祝福と励ましの祈りをささげるのだった。
どんな赤子も天使にまさって愛らしいではないか。どんな親も優しさにあふれ、喜びではちきれているではないか。子の無事を祈る親の姿ほど麗しいものがあろうか。 親に抱かれた赤子ほど無心な存在があろうか。
アンナは赤子に感動し、親たちの姿に感激するのだった。そこだけは、ローマ皇帝も総督も、この世のいかなる富の力も及ばない聖なる領域だった。創造の命が輝き、主の臨在が満ちていた。アンナは幸福感に全身をゆだねて主を賛美するのだった。
「おや、シメオンが赤子を抱いている」
シメオンは名だたる信仰者だ。同時に熱いメシヤ待望者だった。真実、祖国を愛していた。救い主に会うまでは死なないと確信し、常々、街角や神殿で公言していた。アンナは彼のうちには神の聖い霊が豊かに宿っていると思った。主よ来りませと、ともに祈ることもたびたびであった。
「何と麗しい赤子だこと。それにお母さんのお美しいこと。お父さんも落ち着いていて ごりっぱだわ」
アンナがその赤子に足早に近づいた時、一陣の風がそよいで光のうす衣が赤子とその両親の上にひるがえった。
あっ、あの赤子は・・・
アンナの胸は早鐘のように嗚りだした。
もしかして・・・メシヤにちがいない。
そうだ、羊飼いたちが礼拝したみどりごなるメシヤだ。飼葉おけに寝ておられたメシヤだ。
アンナの両眼からみるみる涙があふれこぼれた。
その時、シメオンの賛美が朗々と空に上った。
「主よ。今こそ、あなたはみことばのとおりにこのしもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの救いを見たのですから」
シメオンの顔は晴れ晴れと輝きわたっていた。彼の魂はそのまま天に駆け込んでいったにちがいない。みどりごの両親、ヨセフとマリヤはいくぶん戸惑ったような表情を浮かべた。
「ああ、ついにメシヤがおいでになった、メシヤが」
アンナは天に向かって両手をかざし、感謝の思いを体いっぱいに表現した。
「ハレルヤ!」
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「あなたの親類エリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。
不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
神にとって不可能なことは一つもありません」ルカ1章26,37節
*エリサベツとは
バプテスマのヨハネの母。
イエス様の母マリヤの親族で夫ザカリヤとユダの山里に住んでいる老女。 不妊だった。
夫はアビヤの組の祭司でエルサレムの神殿に仕えていた。
ある年、ザカリヤに神殿内で香をたく奉仕が回ってきた。一生に一度あるかないかの名誉ある任務だった。ザカリヤは喜び勇んで神殿内に入った。その最中、主の御使いから老妻が子を産むことを告げられる。その名をヨハネとつけなさいとまで指示されるが、信じることができず、もの言うことができなくなった。
五か月後、子を宿したエリサベツは世間へ出て行って、「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました」と主のみわざを あかしした 。
まもなく、受胎したマリヤと邂逅し、ともどもに主のみわざを賛美した 。
その子ヨハネは長じて荒野に住み、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とイエス様を紹介した。
物語
ユダの山地の気のいい村人たちは、エルサレム神殿に仕える祭司ザカリヤ夫婦を村の名士として誇りにしてきた。ザカリヤはアビヤの組の祭司であり、夫婦ともに祭司の家系で、イスラエルきっての名門アロン家の血筋をひく由緒正しい家柄の出だった。二人とも家系に恥じない敬虔な信仰者として村人の素朴な信頼と尊敬を集めていた。夫婦仲も良く、模範的な家庭だった。
この夫婦にたったひとつ欠けたところがあった。子供がないことだった。妻のエリサべツは不妊の女だったのだ。当時は子供が産めないのは神からのろわれているしるしだと判断する時代だった。
「子がないなんて、不幸だねえ。エリサベツが神様の祝福をいただけないはずはないのに」
「神様にそっぽを向かれるような隠れた罪があるのかもしれない。人は見かけじゃわからないからね」
エリサベツは時折耳元をかすめる気まぐれな人のささやきを知っていたが、じっと胸にしまった。
主の祝福は私のそばを急ぎ足で駆けて行くばかり。皆さんの言われるとおり、のろわれた女なのかもしれない。精一杯正しく生きているつもりだけど、そう思うことがそもそも傲慢なのかもしれない。
エリサベツは長い間ひそかに苦悶し続けた。だが、そんな胸のうちを誰に 見せられよう。見せたところで誰が助けてくれようか。
半年ほど前のことだった。ザカリヤに神殿で香をたく任務が回ってきた。ザカリヤの驚きと喜びは大変なものだった。祭司であっても、実際に神殿内で香をたくことができるのは一生に一度あるかないかだ。何しろ神殿に仕える祭司は総勢二万人近くいた。それが二十四組に分けられており、自分の組に担当が回ってくるのでさえ、半年に一度のことだったからだ。
生涯最良のその日、ザカリヤは勇んで家を出た。上り下りの多い山里の坂道を通り、都に繋がる街道まで一気に歩いた。エリサベツの頬には娘時代のように華やいだ笑みがこぼれていた。ザカリヤは妻の横顔を見やりながら、妻がこんなに輝いたことは久しくなかったと思った。
「あなた、ようやく主が立ち止まって、祝福してくださったのですね。この先もすばらしいことが起こる気がしてなりません。お帰りを楽しみにしていますわ」
荘厳な神殿の中で、ザカリヤはありったけの信仰心を奮い立たせて香をたいた。喜びがあふれ、感謝があふれ、神を信じ、神に仕えてきた生涯が誇らしく思えた。
きっとすばらしいことが起こる・・・。
ふいに、妻が妙に確信を持って言ったひとことがよみがえってきた。
本当にそう思えた。胸が熱く燃え、すぐそばに主がおられる気がした。ザカリヤは身を震わせた。
そのはずなのである。主の使いが語りかけていた。
「そっ、そんなこと、どうして・・・」
御告げはザカリヤを仰天させた。持ち合わせの信仰の袋には納め切れるものではなかった。信じ切れなくて疑った。その瞬間からザカリヤは舌を縛られ、ものを言うことができなくなった。
いったいなにがあったのだろう。
ユダの山地の小さな村は大騒ぎだった。
「ザカリヤはあの日からものが言えなくなった」
「エリサベツも家に引きこもったきりだし」
村人たちは顔を会わすたびに、老夫婦ザカリヤとエリサベツのうわさをした。だが事件の真相を知るには情報が少なすぎた。憶測だけが飛び交っていた。
「きっと神殿の中で幻を見たにちがいない。」人々はそう言い合った。
ザカリヤはジェスチャーで多少の意思表示はするものの、どこかへ気も心も置き忘れてきたようにぼんやりしていた。変わったのはザカリヤだけではなかった。エリサベツの様子も理解しかねた。年老いてはいたが闊達な人だった。村人たちは一日として彼女を見ない日はなかったのだ。
神殿奉仕が終わったあの日、変わり果てた姿で帰った夫をエリサベツは大きな心で迎えた。口がきけなくなって戻るとは考えてもみなかった。
これが主のくださった贈り物なのね・・・。でも愛なる主のみわざなら、喜んでいいただきましょう。
そうは言ったものの動揺がないわけではなかった。しかし不幸が起こったとは思わなかった。信仰が試されているような気がした。
よく注意してみるとザカリヤの表情には時々青年の日のような生気がよぎり、瞳には明るい光がはじけることがあった。考えにふけっていることもあったが、立ち居ふるまいに 力があった。
「夫は変わったわ」
エリサベツは絶えず夫に視線を注いだ。不自由だろうと思うと、その分、心も配り、気も配った。「エリサベツは変わったな、ずっと優しくなった」
ザカリヤはひそかにそれを楽しんだ。いつしか二人の心には忘れかけていた新鮮な情愛 が通い始めた。
体の異変に気が付いたとき、エリサベツはようやく主の贈り物の正体に気づいた。予感したとおりに、主は二人の前に立ち止まり、最大の祝福を与えられた。
主は私たちの苦悩をずっと知っておられた・・・。
私はのろわれた女ではなかった。エリサベツは歓喜の中から贅美した。
「主は、今、私を心にかけてくださって、人中で私の恥を取り除くためにこうしてくださいました」
「エリサベツが子を宿したそうだ。」
「へえー、そんな不思議があるものなのか」
「神さまのお恵みだよ」
「生まれてくる子はどえらい人になるぞ」
「サムエルのような預言者になるかもしれない」
「もしかして、メシャかも・・・」
グッドニュースはたちまち天に舞い、快い旋律のように村人たちの耳を揺すった。静かな山地の小さな村は大騒ぎになった。だれもかれもが興奮した。立ち止っては話し始め、座り込んでは語り続けた。老夫婦も村人たちも異常な期待をかけて月の満ちるのを待っていた。
エリサベツは青い空を眺めていた。体は重くなっていくが、気分は快方に向かって行った。
谷を渡って吹き上げる軽やかな薫風がオリーブの畑に波を起こし、エリサベツの衣のすそにたわむれて駆けて行ったとき、胎内の子が大きく動いた。
「まあ、この子ったら笑ったのかしら。風の声でも聞いたらしい」
また、一陣の風が耳元をかすめて走り去った。
「えっ、マリヤが身ごもったですって」
はっとした。
「だあれ、そんなこというのは」
振り返って見回した。と、胎内の子がまた動いた。
「まあ、あなたにも聞こえたの。そら耳じゃなかったのね」
でもマリヤが、ナザレのあのマリヤがどうして・・・。ヨセフとの結婚はまだのはずだし、どういうことなの。マリヤほど信仰深く、清純で、敬虔な娘は二人といないんだから・・・。
あっ、もしかして、もしかして、神様のせいかもしれない。そう、きっとそうよ 石のようなわたしの胎を開いた神様が、もっと大きな、とっておきのみわざをなさったにちがいない。
もしかして、もしかして、マリヤの子はメシャではないかしら・・・。
ああ、マリヤに会いたい。ぜひ会いたい。
そのとき、ザカリヤの弾んだ声が響いた。
「エリサベツ、驚いてはいけないよ、珍しいお客様なんだ。ナザレのマリヤが来るんだよ。 マリヤが」
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『天の星のように その10 サムエルの母ハンナ』
第一サムエル1章10〜11節
『ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。
「もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、
このはしために男の子を授けてくださいますなら、
私はその子の一生を主におささげします」』
*ハンナとは・・・
預言者サムエルの母。
夫エルカナとともにエフライムの山地に住む敬虔な女性。夫にはもう一人の妻ペニンナがおり、大勢の子があったが、ハンナは不妊だった。子のないためにペニンナから侮辱され苦悩の日を送っていた。
当時、女性が子を産まないことは神様から呪われていると言われ、ハンナの心の傷 は深かった。
エルカナ一家は毎年シロの神殿にのぼり、主を礼拝し、いけにえをささげて祝の宴 を張るのがならわしであった。
ある年、ハンナはペニンナの嫌がらせに酎えかねて、神殿の一隅で主の前に心を注 いで壮烈な祈りをささげた。祭司エリは、ハンナの祈りが実現するようにと祝福した。
やがてサムエルを与えられたが、乳離れすると同時に、主にささげるのであった。
*物語
夜が深くなっていくのに、ハンナはいっこうに休む気になれなかった。気が張っていた。
「ついにこの日が来たのだ。なんど夢に見たことか。今年こそサムエルを連れていける。 祭司様にお預けできる。主におささげできるのだわ」
快い思いが勢いよく全身を駆け巡っていた。
今ハンナはサムエルの晴着を縫い続けている。一針一針に命を縫い込む思いで一心に針を進めた。時々炎が揺れ動くと、油が切れていないかと、ともしび皿に視線を向けるだけだった。
ハンナの夫エルカナが家族を連れてシロの神殿に上る日が近づいていた。特別に信仰深いというわけではなかったが、毎年律義に神殿参りを続けた。思いきったささげ物をし、家族そろって祝宴を張るのが最大の年中行事だった。
「ハンナ、まだ休まないのか。根を詰めすぎると、旅がつらいぞ」
エルカナが柔和な顔をほころばせて入ってきた。
「あなたこそこんなに遅くまでご準備ですか。」
「もうすっかり済んだ。 いつでも出発できるぞ。こちらはどうかな。急がなくてもいい。サムエルが不自由しないように、祭司様にご迷惑をかけないように、十分に用意しなさい」
「私のほうも今晩で終ります。ああ、あなた、いよいよ明日、明日、出発しましょう」
エルカナはハンナの顔をのぞき込んで言った。
「もう一度確かめておきたい。やはりサムエルを手放すのだね。それでいいのだね」
ハンナは手を止めると、正面からはたと夫を見つめた。
「はい、微塵も迷いはありません。あなたには申し訳ございませんが、ぜひそうさせてください。あの子を捧げることは生まれる前からの誓約です。神様とのお約束をどうしてたがえることが出来ましょう」
「私はなにも言わない。思う通りにしていいのだよ。サムエルは私の子だが、おまえの子と言ったほうが正しいだろう。いや、神の子だと言っても主はお怒りにはなるまい」
「ありがとうございます。おっしゃる通りサムエルはひとときだけ私たちに預けられた神の子ですわ」
「そうだな。おまえが祈りに祈ったので、神は膝の上のサムエルを貸してくださったのだ」
「そうです。ですからあの子は神の器です。この惨めなイスラエルを導く大切な指導者になってほしいと思います」
「私もそう祈っている。だが、寂しくなるなあ」
「・・・」
エルカナはともしび皿に油を足すと、ハンナの肩を軽くたたいて出て行った。
「主よ、寂しくなるのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。サムエルはあなたの神殿に住むのですが、私の胸にも住んでいますもの」
ハンナは縫いかけの晴着を胸に抱いて、そっと目を閉じた。
「主よ、私は喜びでいっぱいです。わが子をあなたにささげる特権にあずかったのですから。私ほどしあわせな女はございません。あなたは不妊の女の私をこんなにもお恵みくださった・・・」
胸がつまって、涙があふれた。
この日が来るまでどんなに悩んだことだろう。どんなに泣いたことだろう。どんなに 祈ったことだ
ろう。ハンナはどうしても忘れられない、いや、忘れたことのないあの日を、また新しい感動をもって思い出していた。
ハンナは乙女時代から篤い信仰心を持つ、敬虔な女性だった。天地創造の神、イスラエ ル民族の神を熱心に信じ、その律法に厳格に従ってきた。
当時、人は自分の目に正しいと思うことを行い、めいめいが勝手に生きている混迷した時代だった。
イスラエルの神への信仰も軽視され、多様化する価値親の中で、ある者は迷い、ある者は世と調子を合わせて、安っぽい暮らしに流されていた。
「こんなことではイスラエルはどうなってしまうのでしょう。どうか、モーセやヨシュアのような立派な指導者が早く起こされますように」
ハンナは祖国の窮状を深く憂えてよく祈った。その姿勢はエルカナに嫁してからも変 わることはなかった。夫とも語り合い祈り合ってきた。
歳月がたって、気がついた時、ハンナは不妊の女という石つぶての雨の中にいた。攻撃 してくるのはもう一人の妻ペニンナだった。皮肉にもペニンナは毎年のように子を産んだ。彼女はそれが得意だった。その武器を使ってハンナを責め立て侮辱するのだった。ハンナはじっと耐えた。見事に耐えた。しかし子が生まれない事実に変わりはない。心の偽は深くなるばかり、ぬぐい切れない敗北感に押しつうぶされそうになっていた。
忘れもしないあの日・・・。
そう、あの年ほど神殿参拝がつらかったことはなかった。わけても礼拝後の祝宴の席は針のむしろに座るようであった。ペニンナのかん高い声がハンナの胸を切り裂くのだった。
「お父さん、子供たちのお皿にはどっさり入れてくださいね。ここでしっかりお食事を いただくと、病気も怪我もしないで一年守られるのですから。 あらあら、ハンナ、あなたの膝は今年もからっぼ。抱く子がいないなんて情けないわねえ」
わかっているのにペニンナは聞こえよがしに言い続けるのだった。
「花の命は短いって言うじゃない。いつまでも若くはないわ。今のうちよ。どうにかならないの。よっぽどのろわれているのね。信心深そうに見える分だけ、よけいに罪が深いんじゃないの」
ペニンナの攻撃はとどまるところを知らなかった。
泣くまいと思っても、胸が破れ、心が裂けた。とどめようもない涙がひざをぬらした。
「ハンナ、どうして食べないんだね。子供のことはもういいではないか。あなたには私がいる。私はあなたにとって十人の子供以上ではないのか」
見かねたエルカナがそばに寄ってきてささやいた。そのことばには真実があふれていた。愛があふれていた。傷ついた心を慰めるに十分なはずだった。妻としてこんな幸いがあろうか。 だがハンナの憂いは積もり過ぎていた。
あなた、申し訳ありません。あなたのお心はもったいないほどです。でもこれは私の存在をかけた、私だけの苦しみなのです、わかってください・・・。
ハンナは夫には答えずそっと座を立った。限界だった。これ以上そこにいたら、自分がどうなるかわからないと直感したのだ。 逃げるように神殿の柱の向こうに座を移した時、ハンナは強い祈り心に捕えられた。
(主よ、あなたはほんとうに私をのろっておられるのでしょうか。不信仰のゆえに子供を下さらないのでしょうか。どうか答えてください。祝福してください。愛がほしいのです。あなたのゆるしがほしいのです。あなたがくださる子供がほしいのです。主よ、答えてください)
祈りは人の魂の中から生まれるのだろか。それとも神が祈らせるのだろか。人は自分の勢いで祈るのだろうか。天上から注がれる贈り物なのだろうか。 ハンナは押し寄せる祈りの潮に全身全霊をゆだね、祈りの深みに乗り出していた。そこには我もなく、夫もなく、ペニンナもなく、時間も神殿もなかった。
「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、
このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」
ハンナは言い切って、はっとした。
その子の一生を主におささげします・・・。
ハンナは、あの時確かに主に導かれて、あの祈りをささげたのだと思い返していた。
「主はサムエルを用いるために私の口に祈りを授けたのだわ。だからきっと主の偉大な器になるわ」
ハンナは完成した晴着を灯火の前にかざして見た。
「明日はこれを着せましょう。サムエルの門出ですもの。晴れの日ですもの」
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出エジプト2章2、3節
『女はみごもって、男の子を産んだが、
そのかわいいのを見て、
三か月の間その子を隠しておいた。
しかしもう隠しきれなくなったので、
ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた』
ヨケベデとは・・・
モーセの母。アムラムの妻。 ミリヤム、アロンの母でもある。
そのころ、イスラエルの民はエジプトのゴシェンの地に住んでいた。かつて飢饉の時、イスラエル出身の宰相ヨセフが、神様の知恵で食糧を備蓄し、エジプトを救ったが、その功績によってパロの好意を得、移住を許されたのだった。
売られたヨセフがエジプトに下り、宰相になるまでの物語は創世記三七章以下を占めるダイナミックな摂理の物語である。
さて、ヨセフから三百五十年あまりの歳月が流れた。イスラエルの民は神様の祝福 によって人口を増し、強大な民族になっていた。民族パワーに恐れを抱いた当時のパロが虐待し始めた。民は奴隷にされ、生まれた男の子はナイル川に投げ込めという命令が出された。 ヨケベデはわが子かわいさから隠していたがもう隠し切れないのを悟って、 ついにかごに入れてナイルに流した。
それが後年のモーセである。
物語
「自分の身を分けたわが子を、エジプトの川に、ナイルの水に捨てる母がいますか」ヨケベ・・・」
ヨケベデはわが子を入れたパピルス製のかごを、岸辺近くの葉の茂みに、そっと、そっと、置いた。心ない水に、流れ行く水に、心を託し、わが子を託すほかに方法はなかった。
エジプトの王パロは在留するイスラエル人に対して未曾有の過酷な差別政策を執行した。男の子が生まれたら、みなナイルに投げ込めというのだ。同じ人間がよくもここまで残虐になれるものと、驚き、怒り狂うばかりだがパロの権力の前には真理も正義も通らなかった。逆らうものは虫けらのように踏みつぶされるだけだった。
「自分の子を捨てる親がいますか。おなかを痛めた子を川に流す母がいますか。でも、ああ、私はそうした。わが子を捨てた。わが子を流した。果てしないナイルの川に」
ヨケベデは身をよじって号泣した。身も世もなかった。泣くことしかできなかった。もちろん覚悟の上でしたことだった。きっと神の助けがあると信じた。だが、感情はついていけるものではなかった。
ナイルの水はさざ波を立てて葦の茂みをゆすっていた。そのたびに茎と茎がすれ合い、葉と葉が絡み合って不協和音が走った。それはサタンのあざ笑いのようであり、わが子のいまわのきわの泣き声
のよう・・・」
「大丈夫。神様が守ってくださるわ。いつも母さんそう言ってたでしょう。」ミリヤムは力を込めてまた叫んだ。
もしもその一声がなかったら、再びナイルの岸へ駆け寄っていただろう。わが子を抱いたら最後、二度と手放せるものではない。だが、家に連れ帰ったとしても、エジプト兵の刃にかかるのは時間の問題なのだ。いや赤子だけではない、長男のアロンやミリヤムにも危害が降りかからない保証はない。
ミリヤム、よく見張っていてね。でもあなたにそんなことをさせるなんて、ゆるして・・・。
ヨケベデは両の手で耳をふさぐと、裂かれるような心痛にあえぎながら、重い足を引きずった。
急な石段を下り、ようやく家の扉を押し開けた時、足もとにまつわりついてきたのは三歳になる長男アロンだった。
「アロン・・・」
抱き締めると頬を重ねた。涙で冷たくぬれているではないか。はっとした。
「そう、あなたも泣いていたのね。」
たった三歳の子にも家族の不幸がわかるものなのか。母親の悲しみが伝わるものなのか。
この子は独りぼっちにされたのが怖くて泣いたんじゃない。まだことばもままならないけど心は十分に働いてるんだわ。家族の大事件を知っている。弟がナイルに流されたのを悲しんでいるんだわ。
急に強い味方を得たような力強さを感じた。
「母さんは一人で戦っているんじゃないのね。ミリヤムもあなたもいるんだわ。そう、母さんにはあなたも大切な子。わが家の長子ですもの。母さんはもう泣かない。泣いてなんかいられないもの。ね、
それよりも、お祈りしましょう」
このまま悲嘆に暮れていてはいけない。くじけてなんかいられない。あの子をナイルの水底に飲み込ませてなるものですか。聖なる神の民ですもの。
ヨケべデはアロンを抱えたままひざまずいた。
「どうか親切なエジプト人に拾われますように。あの子をお見捨てにならないでください。あの子は特別にあなたから選ばれているのではありませんか。私にはそう思われてなりません」
実際、赤子は生まれた時から勢いがあった。
「上の二人も元気でかわいいけれど、この子は特別だわ。寝顔は天使のように神々しい。瞳の奥には聖なる光が輝いている。この子には特別に神様の霊が宿っている。私にはそう思えてならない」
赤子はよく乳を吸い、よく眠り、よく泣いた。三か月も過ぎると、もう隠しおおせるものではなかった。元気さがむしろ恨めしいほどであった。
「この子の元気さは格別だわ。この子には神様の霊が宿っている。神様から選ばれた器かもしれない。私にはそう思えてならない。」
ヨケベデは両親や親族から民族史を教えられて育った。ヨケベデだけでなく子供たちはだれもがそうだった。それがイスラエル民族の習いだった。他国に寄留し過酷な労働を課せられ苦しみにあえぐ彼らには、輝かしい過去の歴史だけが財産だったし、将来へつなぐ唯一の希望だった。
ヨケベデは族長たちの冒険物語が好きだった。リベカやラケルのロマンスには乙女心がときめいた。なかでもヨセフのドラマチックな生涯には、聞くたびに熱い涙を流した。
ひとつの思いに捕えられた。
「主はイスラエルを再びカナンヘ導き上ると固く約束しておられる。私たちがいつまでも奴隷でいていいはずがない。帰る日が来るはずだ。でも、それはいつだろう。どのようにその日が来るのだろう」
主は父祖アブラハムにカナンの地をあたえると約束された。エジプトではないのだ。その民がもう三百五十年も他国に住んでいる。愚かなことなのだ。カナンヘ帰るべきなのだ。カナンに神の国を建設することこそ主のご計画なのだ。
「エジプトヘ移住してきたのはひどい飢饉を避けるためでしょう。ここはほんの一時の仮住まいのはずだったわ」
しかもあの時、宰相の位にいて飢饉から人々を救ったのはイスラエル人のヨセフではないか。ヨセフのお陰で救われたのはイスラエルだけではない、エジプトも救われたのだ。当時のパロはそれをよく知っていた。イスラエルの民は与えられた地に誇りを持って住んだはずだ。それがいつの間にか奴隷になり果ててしまった。
「このままでいいはずはない。神様だって放っておくはずはない」
ヨセフは死ぬ時、必ずカナンヘ自分の遺体を運ぶようにと遺言した。こんなに長くエジプトにいることになるとは、想像もしなかったことではないか。
「三百五十年・・・、眠り過ぎたのだ。そのあいだに奴隷にされていた。起きて、立ち上がって、カナンヘ帰らなければ。もう、その時が来ているような気がしてならない」
ああ、でもどうして帰れようか。今は自分の子さえ安心して育てられないのだ。むざむざと死なせなければならないのだ。ヨケベデは母になって、幼いミリヤムやアロンに民族史を話しながら、が来ていると思った。その思いは三人目が生まれていっそう強くなった。
ふっと空気が動いたような気がした。
「ミリヤムはどうしたかしら。もしやあの子になにかあったのでは」。
思わずアロンの手を握りしめた。
「母さん、すぐ来て」
「ミリヤム、なにか、まさか恐ろしいことが……」
「母さん、母さん、神様はすばらしいお方だわ。母さんの言われたとおりよ」
「すばらしいですって。」
「あのね、かごが拾われたの」
「えっだれに」
「拾ったのはパロの王女様。抱き上げて、頬ずりして、私の子にしましょうって言われたわ」
「私の子にですって、主よ」
「そうなの。それで私、お乳をあげられる人を知っていますってお話ししたの。そうしたら、すぐに連れて来てって。乳母に雇いますって」
ヨケベデはすくっと立ちあがった。
「主よ、助けてくださったのですね。しっかり育てます、あなたの民を。きっとお役にたててください。あなたの民がカナンに帰るために」
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