- 2023.07.12 Wednesday -
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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
サムエル記を愛して その6サムエル記第一・第五章 たらい回しの神の箱
思わぬ勝利を収めたペリシテ人は、奪い取った神の箱を意気揚々と自分たちの神であるアシュドデにあるダゴンの宮に運び、ダゴン神の像のそばに安置します。安置とありますから恭しくていねいに扱ったのです。一つ宮に、自分たちの神と天下無敵のイスラエルの神の箱まであるのです。ペリシテ人は単純すぎます。無節制すぎます。 とんでもないことが起こります。翌朝、ダゴン像は神の箱の前にうつぶせに倒れていました。次の日はもっと大きな事件が起こりました。ダゴンの胴体だけがうつぶせに倒れ、頭と両腕は敷居のところにあったのです。像はバラバラに切り離されてしまいました。さらに、です、アシュドデとその周辺の人々に腫物ができました。イスラエルの神のわざであることは明らかでした。
恐れた人々はペリシテ人の領主全員を集めて『神の箱をどうしたらよいでしょうか』8節、と相談します。神の箱は今や災いの元凶、厄介者です。その結果『ガテへ』うつされたのですが、そこでもまた腫物ができ、皆震えあがります。今度は『エクロン』へ廻されます。エクロンの人たちは『私たちを……殺すのか』と怒りの抗議をします『神の箱をもとの所に戻っていただきましょう』11節。またまたペリシテの全領主が集まって相談です。一様に抱いた不安は死の恐慌です。イスラエルの神が生殺与奪の神であることを知っているのです。
サムエル記第一・第六章 神の箱はイスラエルに
この章にもサムエルの姿はありません。 前章に続いてペリシテ人の国は相変わらず神の箱一つをもてあまして大騒ぎを続けています。ついに神の箱は野原に放りっぱなしにされます。雨ざらしにしたとは思えませんが。
やがてペリシテ人たちの考えは決まったのです。それはもとのところに戻すことでした。奪う前のもとの場所、イスラエル領内です。しかし『どのようにして、それをもとの所に送り返せるか』2節、です。迂闊なことはできません。なにしろ神の箱ですから。そうこうしている間に七か月が過ぎてしまいました。
国中の有識者やその道に精通した人たちの意見を集約して、ペリシテ人の王たちが出した結論は、授乳中の二頭の牝牛に新品の車を引かせ、荷台には、まず神の箱を乗せ、そのそばに罪滅ぼしのしるしとしてペリシテの王の数に従った五つの金の腫物とネズミの像を入れた鞍袋を置き、イスラエル領内に向かって放つことでした。これが全ペリシテがあらゆることを想定して必死で考え出した策でした。
思いますに、ペリシテ人は、一致団結して熱心に真剣にことに体当たりする、素朴で純粋な民族なのかもしれません。不思議なことに牝牛はかわいい我が子牛のほうへ向きを変えることもなく、まっしぐらにイスラエル領内のベテ・シェメシュへ入って行ったのです。牝牛を導いたのは神の他にはおられません。神はペリシテ人のアイデアを受け入れられたのです。
Category : サムエル記を愛して
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