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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2017.02.13 Monday - 07:10

利根川の風 その11★渡道する志方、後志(しりべし)半島の利別原野、インマヌエルの丘開拓 

★渡道する志方、後志(しりべし)半島の利別原野、インマヌエルの丘開拓 

 

 明治二四年五月、志方と丸山は横浜港から汽船で出発した。二人が入植した中焼野は瀬棚から利別川を二日遡った前人未踏の原始林であった。昼間も暗いほど木々が生い茂り、特に熊笹が密生し、開墾は困難を極めた。蚊とブヨの大群に襲われ、手も足も顔も膨れ上がった。のこぎりと斧だけではわずかな平地を作るのにも気の遠くなるような時間と労力が要った。その厳しさを吟子は想像もできない。

 

 越冬は不可能と思えた。丸山はどうしても残ると言い、志方は十月末に一人で引き上げた。翌年春、志方は姉夫婦など新しい仲間五人と出発した。志方は心流行る吟子を押さえた。あの未開の恐ろしい地へ妻と言えども、いや、愛する妻だからこそ、連れて行く気にはなれなかったのだ。しかし事実をそのまま伝えるわけにはいかない。もう少しめどがつくまで東京で待機していてほしいというほかはなかった。

 

 吟子は瀬棚の町や利別川に、生家のある俵瀬と利根川を重ねた。故郷のように懐かしく恋しい思いがこみ上げた。利別川の風に吹かれてみたい、北海道の川風はどんな風合いなのだろうと、未知の地へ憧れにも似た思いを抱いた。

 

 

★吟子の出発 利別、国縫(くんぬい)

 

 ついに吟子は渡道を決意した。一人で東京に残っている意味を見いだせなかった。夫婦は一心同体、生きるも死ぬもいっしょだ。吟子は相変わらず一直線であった。みな大反対であったが、だれひとり止められる者はいなかった。若くはない吟子の行くところではないのだ。東京には吟子ならではの重要な働きがいくつもあった。みな、かつての吟子が勇んで選んだものだった。富と名誉も自然についてまわり、何よりも吟子自身が女性の地位向上の見本のような存在なのだ。折しも、次期婦人矯風会会頭にとの話があったとか。姉の友子だけは、肉親ならではの情をもっておろおろと心配した。

 

 明治二七年六月、四四歳の吟子は単身、志方の開拓する原野に入って行った。

 志方はその地をインマヌエルと名付けた。インマヌエルとは、【神ともにいます】の意味である。彼らは理想郷建設を目指して希望に燃えていたのだ。現実には、吟子の予想した通り医者を必要とする日々が待ち構えていた。吟子は人々の間を駆け回って医療を施した。

 当時、政府の開拓奨励策もあって、全国各地から続々と大規模な開拓団が渡って行った。利別原野にもキリスト教徒の開拓団が入植してきた。志方は信仰者同士が一致すれば、理想郷の実現も進むだろうと、さらに意欲を燃やした。 

 

 ところが思わぬ状況になった。

 志方たちプロテスタントの信者と聖公会の信者たちの間で組織の運営などで意見の相違が表立ってきて対立状態になった。あとから入植した聖公会の人数は多く、しだいに志方たちの影は薄くなってしまった。もう、志方の意見は聞き入れられなくなった。

 志方はやる気を失い、同志たちにあとを任せて、さらに奥地のクンヌイ(国縫)にあるマンガン鉱山開発へ行くことにした。彼は熱しやすく冷めやすい性格だと人は評す。一理あるだろう。

 志方は新しい仕事しか頭にないようであった。彼もまた夢を追う人であった。

 さすがに吟子は志方より冷静であったろう。マンガン採掘など素人ができることではない。吟子は止めたに違いないが志方の意志は固かった。

 

 あとさきになるが、内地からやってきた志方の姉夫婦は、女子を産むと相次いで死んでしまった。他にもこの劣悪な環境に耐えられず、亡くなる人はあとを絶たなかった。吟子夫婦は姪にあたる遺児にトミと名を付けて養女とした。その後トミは吟子と暮らし、吟子の最期を看取った。

 

 吟子夫婦は生まれたばかりのトミを背負って奥地、国縫に向かった。しかし、成功するはずがないのは初めからわかっていた。半年を待たずして吟子夫婦とトミはそこを出ることにした。しかし、もとの開拓地、インマヌエルの丘で生活するつもりはなかった。志方は瀬棚町に出て町暮らしを計画した。もともと志方は吟子を開拓地に迎えたくなかったようだ。極寒と飢えと熊や蚊とマラリヤの惨禍にみちた地に、女医第一号の栄光に輝く有能な女性、しかも丈夫ではない妻を連れていくには忍びなかったのだ。志方の吟子への愛は敬愛に近かった。志方は吟子には下男のように仕えたという。

 

 吟子には志方の愛が痛いほどわかっていた。吟子もまた夫のビジョンに身を捨てて尽力する思いがたぎっていた。割り切って、渡道せずあるいは離婚して、東京で最初の使命を続けていたら、吟子はもっと大きな働きが出来たかも知れない。

 しかし吟子は自分を捨てた。

 瀬棚の顕彰碑には吟子の愛唱聖句が刻まれているとはすでに述べた。

 

『人 其の友の為に己の命を損なう

 之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節)

 

 吟子は医術を持って、またキリストの愛を持って、地域社会の人たちを愛し仕えたのであるが、己を捨てる愛の対象者の中に夫志方之善が、最初に入っていたのではないか。夫への愛は神の愛による献身だと自覚していたと思う。

 

 

Category : 利根川の風

  • 2017.07.17 Monday -

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