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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2017.01.08 Sunday - 13:11

利根川の風 その9 日本の女医第一号 婦人矯風会と矢島梶子、明治女学校

★婦人矯風会と矢島梶子、明治女学校

 

 矯風会の中心人物である矢島楫子については、かの名門女子学院の初代院長であり明治、大正の女子教育と社会運動家としてその名を海外にまで馳せた熱血女子であるから、知らぬ人はいないだろうが、多少紹介する。

楫子もまた封建制度、男尊女卑の苦杯を飲み干して立ち上がった人である。明治元年三五歳を自分の「新生元年」と名付けて屈辱の婚家を飛び出して以来、大正十四年九二歳で天に帰るまで、女性の福祉のために一生をささげた優しき猛女である。

 

 天保四年、一八三三年熊本生まれ。二五歳で富豪林七郎の後妻として嫁いだ。夫は儒学者で維新十傑の一人横井小楠の弟子であった。しかし家庭内では暴君、酒乱。時に白刃を振り上げた。楫子は今でいえばDVに苦しみ、ついに半死半生で婚家を飛び出した。数年後上京して病気の兄直方の家庭を取りしきりながら教員伝習所に通い、明治六年に学制が施行されると芝の桜川小学校に採用された。明治十四年桜川女学校の校主代理に就任した時、楫子は生徒たちに「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と言って校則は作らなかったという。このエピソードは忘れ難い。教育者として資質が美しく匂ってくる。

 

 明治十二年、築地新栄教会でディビッド・タムソンから洗礼を受けた。明治十九年には東京婦人矯風会を組織して初代会長に就いた。二六年、楫子六十歳のとき全国組織を結成し、会頭になった。以後、活動は海を越え、明治三九年にはバンコク矯風会大会に出席しルーズベルト大統領と会見した。楫子七四歳である。その後も海外に出かけ、八九歳で三回目の渡米を果たした。楫子の姉たち、また親族からは社会に名を馳せた有名人が多数輩出されている。書き出したら相当の紙面が要るだろう。

 

 楫子の一生は三浦綾子の評伝『我弱ければ』にまとめられている。楫子は自分自身を筆頭に、人間の罪に対する《弱さ》を知り抜いていた人であった。ついで吟子は大日本婦人衛生会幹事に就任し、さらに明治女学校の生理衛生担当教師になり、校医になった。

 

 ここで、少し明治女学校と係わった人たちに言及する。

 

 千代田区六番町にあった学校跡をたずねてみた。

 東京は連日猛暑日を更新しついに37、7度まで行きつき天地が溶けるような、猛暑日の最中であった。明治女学校は、高校生の頃、島崎藤村に熱中したことから覚えていたが、まさか今ごろ荻野吟子のことで再会するとは思っても見なかった。懐かしさがよみがえり、すっかり忘れていた青春の血が噴き上げてきた。

明治女学校は明治一八年に開校し、明治四二年には閉校したが、そのわずかな二三年間、全国に名を馳せた、しかもきらびやかに存在を示した学び舎で、まるで夜空を焦がす花火、あるいは一日だけの朝顔、聖書で言えばヨナの日よけになったとうごまの木のようだ。明治の世が、特に女性たちに見せた真夏の夜の夢ともいえる、近代日本の女子教育の先駆けとなった学校である。

 

 創立者は木村熊二牧師、二代目はかの岩本善治(彼の妻が小公子などの翻訳で有名な若松賤子)であり、日本初の女性誌『女学雑誌』が刊行された。この雑誌の投稿者である文学者たち、なかでも島崎藤村も教壇に立った。初期の講師の顔ぶれは華やかである。音楽は幸田幸子(幸田露伴の妹・幸田文の叔母だと記憶する)英語は津田梅子、若松賤子、医学を荻野吟子(ここに吟子の顔が見える)。島田三郎、内村鑑三、植村正久まで教壇に立ったこともあった。

 

 生徒からは羽仁もと子が出た。この人こそ明治女学校が生んだ最高の偉人ではないだろうか。実践家もと子が夫君と建設した自由学園と女性誌『婦人之友』は今に至るまで栄え続けている。

 

 若松賤子も忘れられない。会津藩の悲劇をまともに経験し、孤児同然の身ながら不思議な出会いを重ねて横浜のフェリス女学院の一期生として学び、教師になり、英語力と文学の資質を用いて『小公子』などを翻訳した。若くして亡くなったのが惜しくてならない。羽仁もと子も若松賤子もキリストの信仰に生きぬいた人たちである。

彼女たち他、明治女学校の様子を詳しく書いているのが相馬黒光の『黙多』である。読み出したら止められない本である。この人のことも書けば一冊になるだろう。しかし、キリストの信仰を捨ててしまったことは嘆かざるを得ない。

 

 さて、今は無き明治女学校の跡であるが、そこに千代田区の建てた銘板があると知ったので、行ってみた。千代田区六番町である、JRでは四谷と市ヶ谷の間になる。土地勘であの辺りだと想像はつくが、その一地点を探すのは容易ではない。案内の通り、わざわざ市谷から有楽町線に乗って一駅の麹町で下車し、出口番号も間違いなかったのに、いざ、地上に出るとわからない。地番名も手にしているのに、なぜかそこだけ逃げてしまうのだ。『文人通り』というわかりやすい通り名もついている。まさにそこを歩いているのに、一軒の商店で訊いてみると、ここは確かに文人通りですがと言って、スマホで探してくださったが、ついに分らなかった。

 

 しばらく行くと、ようやく目指す地番名が現れてきた。うろうろしていると、自転車を引く初老の女性が声を掛けてこられた。「明治女学校ですか」といわれた。ずばり明治女学校の名が聞こえてきて、顔に血が上るのを感じた。「そこですよ、私は羽仁もと子の集まりの帰りです」とも言われた。なぜかその女性はとてもうれしそうだった。ついに銘板に行き当たった。マンションの植え込みの中に立っていたのだ。真紅の二〇センチ四方の千代紙の様な版で、菱形にしてあった。しかし、人工的な銘板だけとはなんとも物足りなく悲しい。建物の一部とか土台とか、なにか当時のものがすこしでもあれば現実感が沸くのだが、跡形もない。資料を思い出しながら想像するしかない。歳月の無常、歴史の一方的な流れには逆らえないのだろう。

 

 吟子は明治二二年に、講師、校医になり、女子教育の現場に立つのである。さらに、明治二五年には医院を畳んでここの舎監に就いている。この三年の間には、吟子の生き方を根底から変える大きな出来事があった。

 

 

Category : 利根川の風

  • 2017.06.16 Friday -

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