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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2016.11.21 Monday - 16:08

利根川の風 その6 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯 受験、前期試験合格、後期試験の合間にキリスト教の集会に行く

★受験、前期試験合格

 開業するためには今でいう国家試験にパスしなければならない。医学学校卒業は受験資格ができたに過ぎない。最後の難関は国家試験である。内務省管轄の『医術開業試験』と言った。願書を提出すると、その場で却下された。そもそも女性には受験資格がないのである。新しい時代、文明開化の明治の世が進んでいるのに、いまだに女性が医師になるという発想は政府や官僚のお役人にはなかったのだ。依然として封建時代の男尊女卑のままである。

 

 吟子はほとほと困り果てた。押せども叩けども聳え立つ扉はびくともしない。受験期が来ると願書を出すがそのたびに却下された。また挑戦した。むなしいばかりであった。しかしじっとしてはいられない。吟子の焦燥と苦悩を深く理解し同情したのは、吟子の家庭教師先の高島嘉右衛門であった。吟子のかつての漢学の教師井上頼圀を通して、時の衛生局長長与専斎に紹介してくれた。また、石黒子爵も長与に頼んでくれた。しかし女医の前例はなく現行制度にもないと断ってきた。すでに長与はじめ内務省に女医を認可するべく、全国から多くの女性たちの声も上がっていた。吟子以外にも女医志願者たちが各地にいたのである。彼女たちもみな吟子に劣らない苦節の道を歩みながら女医を目指していたのだ。

 

 吟子の志を応援する井上、石黒、高島たち有力な男性たちの熱心な口添え、また時流の力もあって、ついに女性にも受験の道が開かれた。ついに、ついに巨大な沈黙の石は動き、鋼鉄の扉は開かれたのであった。しかし、扉は開かれたが通過するには試験に合格しなければならない。吟子は勉学から離れていた二年間を取戻し是が非でも合格するために、再び昼夜分かたずの受験勉強に力を振り絞った。

 

 明治十七年九月三日、吟子は前期医術開業試験を受験した。他に女性三名が受験したが、月末の合格発表では女性の合格者は吟子一人であった。それは吟子にとってどれほどの喜びであったろう。支援者、理解者の喜びも大きかったろう、しかし吟子と同じ振動で喜びの共鳴板を鳴らせた人はいなかったのではないか。この十年、吟子の流した涙の量は大河を造り、うめきの数は天にまで達したであろう。吟子は合格通知を手にしてひとり座していつまでも泣き続けたにちがいない。

 

 ゴールまであと一息である。半年後に後期の試験があるのだ。安閑としてはいられなかった。

 

 

 ★後期試験の合間にキリスト教の集会に行く

 ある日、吟子は友人の古市静子からキリスト教の大演説会に誘われた。吟子はそこへ出かけたのである。場所は京橋の新富座であった。今でいえば超教派の一大伝道集会のことだろう。なぜ、場違いなところへ行く気になったのだろう。

 

 古市静子とは東京女子師範学校でいっしょだった。同室者として特別に懇意でもあった。静子はクリスチャンであった。静子がひそかに吟子のために祈っていたことは想像がつく。すぐ近くで大きな伝道集会があるのだ、これこそ神の備えた絶好のチャンスではないか、静子はそう信じたであろうから、誘わないわけがない。

 

 吟子は義理で誘いに乗ったのだろうか。それも皆無ではないだろうが、いっときの歓楽的な催しなら親友の誘いといえども言下に断っただろう。吟子には無駄に使う時間も心もない。後期の試験が迫っている。しかし緊張と期待とが背中を擦り合わせる、小さなすきまがあったのかもしれない。静子の誘いはその小さな空間に伸ばされたのだ。静子の信じたとおり、その時こそ、吟子の後半生を導く神の時であった。

 

 吟子は、そこで植村正久とともに日本のキリスト教界をリードする海老名弾正牧師の説教に出会った。海老名牧師の説教は内容の斬新さと鋭い舌鋒と内側から燃えたぎるエネルギーで吟子を圧倒し魅了した。吟子は我を忘れ目を輝かせて聴き入った。この日の説教は吟子の魂の深いところに留まったにちがいない。

 

 古市静子と吟子の間には知る人ぞ知るかなり有名なエピソードがある。

 時は遡って東京女子師範時代のことである。吟子は同室で親しくしていた静子からある悩みを打ち明けられた。一方的に婚約を破棄されて苦しんでいるという。聞けば、相手は明治政府の高官、森有礼であった。森も静子も薩摩藩の人で長い付き合いがあった。が、有礼は静子を捨てて他の女性としかも福沢諭吉を証人に立てて、当時としては新式の結婚式を教会で挙げたそうである。大いに話題になって世を沸かせたのだ。

 

 聞いた吟子は義憤に燃え、有礼に単身直談判に行った。彼の非をなじり、非を認めさせ、償いとして静子の卒業までの学費を出させたという。吟子の正義感と勇気に驚くとともに、大胆な行動力に吟子のもう一つの面を見て、興味深い限りであった。なによりも痛快であった。洋行帰りの政府の高官といえども、品位に欠ける男性の横暴さに対して吟子と同じ怒りを抱くからだ。吟子さん、あっぱれと声援を送りたくなった。

 

 ところで、古市静子は日本の幼児教育の分野で草分け的な大きな働きをした、忘れてはならない偉人である。しかし、世間での知名度は高くない。隠れた女傑である。本郷に初めて「駒込幼稚園」を開設し、三〇年間幼児教育と経営に力を尽くした。鹿児島県種子島の人で、種子島には静子の偉業をたたえた記念碑があるという。

 静子は、その後もずっと吟子のそば近くで力強く祈り支えた人ではなかったろうか。

 

 

Category : 利根川の風

  • 2017.08.01 Tuesday -

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