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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2016.10.23 Sunday - 15:56

利根川の風 その5 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

★東京女子師範学校入学 私立医学校好寿院へ入学

 

 甲府で一年余り女子教育に誠心誠意で携わった吟子の評判は高かったが、吟子の内心は満たされてはいなかった。女医の志があるからである。吟子の心には生木のままかまどに放り込まれた丸太のように黒い煙がくすぶり続けていた。そんなとき、ある説によれば、故郷俵瀬以来強い絆で結ばれている松本万年師の娘荻江がわざわざ甲府まで吟子を訪れたという。

 

 荻江は驚くような話をしに来たのである。

政府はついに女子の教育者を育てるために東京女子師範学校を設立することになり、松本万年と荻江はそこの教師として招聘を受けたという。すでに上京して備えている。それにつき、入学を勧めるために来たのだ、女医の道は今は閉ざされているが、世の中は大きく動いている、きっとその時が来る。その時のためにも東京へ戻って目の前に開けた新しい道を歩んでみたらどうだろうと荻江は言うのである。

 

 荻江の親切と適切な助言は吟子の心を動かして余りがあった。吟子は応じる決意をした。

――女性の教師を育てる国の学校ができる、その次は女性の医者の学校の番かもしれない。今、開かれた道を歩いてみよう――

 翌年明治八年、二四歳の吟子は後のお茶の水女子大になる女子師範の第一期生として入学し、四年間、寝る間も惜しんで厳しい勉学に挑戦した。努力の甲斐あって、明治十二年、吟子は主席を守り通して卒業した。二九才になっていた。約五年間の学びであった。

 

 しかしめでたく卒業したからといって吟子は学校の教師になるつもりは毛頭ない。先の見えない五年間はどんなにつらかっただろう。それに耐えられたのは女医になるという初心があるからこそであった。

意志あるところ道ありというけれど、五年経ってもまだ女医の道はない。有るのは強烈な意志だけである。医学を学ぶための医学校は男子のみで女人禁制であった。が、立ち往生してはいられなかった。

 

 卒業面接で幹事の永井久一郎教授に医学を学びたいのでなんとしても医学校に行きたいと志を明かした。永井教授は驚きつつも、現行制度では女子には門戸が閉ざされていることを語った。しかし吟子の鋼のような意志と健気さを前に、真摯に向き合ってくれて、医学界の実力者、陸軍軍医監石黒忠悳(ただのりあるいはちゅうとく)子爵を紹介した。石黒子爵も吟子の熱意を理解し、下谷練塀町の私塾『好寿院』に入学することができた。ないはずの道がほんのわずかではあったが備えられたのである。

 

 しかし吟子の戦いはいよいよ本番を迎えたにすぎない。本番とは苛烈なものだ。志を抱いて上京してからすでに五年が経っていた。学びの場が与えられたとはいえ当然ながら塾生は全員男性である。しかも、女性が自分たちと同じ医学を学び医師を目指すことは到底受け入れられないことであった。自分たちの誇りが汚されたとさえ感じたのだ。吟子への嫌がらせはすさまじかったそうである。今でいえばセクハラ、パワハラの類が公然とまかり通った。レイプの危険さえあった。吟子は野獣の檻にいるようで、極度の緊張を強いられた。いつも命がけであった。

 

 学費、生活費の問題もあった。どこからも援助はないし頼むつもりもない。すべて自立である。吟子はいくつも家庭教師をした。すぐ上の姉友子が始終心にかけて援助してくれたがそれだけではどんなに切りつめても間に合わない。幸い、女子師範を卒業していることが有利に働き、名家に出入りすることができた。中でも豪商高島嘉右衛門は後々まで吟子を支援した。

 

 当時は乗り物がない。すべて徒歩である。真夏も寒中も雨の日も雪の中も、ひたすら歩くしかなかった。時に持病が頭をもたげ体をさいなむ時もあったが寝込んではいられない。身も心も酷使しながらの勉学であった。無我夢中とはこのことではないだろうか。なりふり構わず食うや食わずの三年間が過ぎ、吟子はついに『好寿院』を卒業したのである。医者としての知識、技術などは男性と同等に習得したから免許さえあればすぐにでも医者として開業できるのだ。明治十五年、吟子は三一歳、あの順天堂での屈辱的診察から、女医を目指して歩いたいばらの歳月は十年を超えていた。

 

 

Category : 利根川の風

  • 2017.07.17 Monday -

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