女ベタニヤのマリヤ その11(おわり)

  • 2009.07.11 Saturday
  • 20:38
 

香油をささげて

 

さて、マリヤに目を注ぎましょう。なぜマリヤがとっておきの大切な財産を、それこど湯水のように一度に使ってしまおうと思ったのでしょう。

 

マリヤはその時、自分のいちばん大切なものをささげずにはいられなかったのです。そういう思いに迫られたのです。前々から計画していたことではなかったと思います。その時、なにか自分以外の強い力に押し出されて、憑かれたように壺を取りに行き、その壺を割り、注いだのでしょう。ある種の興奮に支配されてしまったのです。感極まってどうしようもない強い思いだったのでしょう。霊の衝動、霊の激動と言うことだと思います。

 

私たちも時としてイエス様を身近に感じて、つまり主の臨在に触れて、叫び出したくなるような感動、歓喜を体験することがあります。悲しくはないのに泣けてしかたがない。あかるい、輝きに満ちた喜びで涙があふれてくるような経験をします。

 

おそらくマリヤもそのもっと濃密な思いに占領されたのでしょう。そのとたんにマリヤの側からは主への愛がほとばしり出たのです。イエス様が慕わしくて、恋しくて、なにもかもささげてしまいたい、自分自身はもちろん、自分の持てるものをすべてささげてしまいたい。それがマリヤにとってはナルドの香油を注ぐことだったのです。いちばん大切ものを思い切ってささげることのできるマリヤは、自分のものを、しかもこの世の中の物差しで測っても十分価値のあるもの、財産を上手に使うことができた、財産の賢い利用法を心得ていたと言えましょう。これがマリヤの三番目の賢さです。

 

 

まとめてみますと、ベタニヤのマリヤ、外側から見れば、姉がじれったがるほど機転が効かなくてもたもたしている、世の中のことに疎く、消極的、そんなマリヤですが、内面をよく探ってみますと、驚くような賢さを備えた女性であったのです。

 

第一にいちばん大切なときの用い方を知っていた。それは、イエス様のおそばにいることでした。

第二はいちばん大切な心の用い方を知っていた。人間の根元的ないのちへの激しい哀惜の心を持っていた。周囲を巻き込むような清い泣き方ができた、なによりもイエス様を泣かせた、それによって神の一大奇蹟を起こす一因を作り、神の栄光を見ることができた、見せることができた、どんな伝道者も及ばない主の働きができたのです。

第三に、この世の宝をもっとも効果的に用いることができた、それは主にささげたのでしたが、主の御手のお計らいで、救い主のお体を飾ることができた。救いの一大事業に参加し、確実に成果を上げることができたと言うことです。マリヤは女性の賢さに満ちていた女性であった。時間、心、財産という人生にとってなくてならないものを、なくてならないことに使うことができた、人生の使い方の達人と言えましょう。

 

さあ、私たちもマリヤをまねしましょう。

自分の人生に与えられている、持ち駒として今、手の中にある時間をどのように使いましょうか。みことばには『時を生かして用いなさい』とあります。

また私たちの全存在を示す心をなにに使いましょうか。みことばには『油断することなくあなたの心を見張れ。命の泉はそこから湧くのだから』とあります。

また、人によって多少の違いはありますが、地上の宝をどのように使いましょうか。昨今は財産管理も難しい時代になったと聞きます。安全だと信じて銀行に預けても一定の額以上は保証されないとか。それで思い煩っている方も多いと聞きます。

イエス様はただ一言『あなたの宝を天に蓄えなさい』と断言しておられます。

 

マリヤのように『福音が語られるときこの人のしたことも語られるでしょう』と言われるような賢い生き方をしたいものです。

                                                    おわり      

賢女ベタニヤのマリヤ その10

  • 2009.07.08 Wednesday
  • 12:28

香油をささげて

 

イエス様がおっしゃるのは、マリヤは今この時でしかできないことをした、自分にできる範囲の中で最善、最高のことをした、せいいっぱいのことをした。わたしがもうじき死ぬので、はやばやと埋葬の油を塗ってくれたと言うことです。これがイエス様の解釈ですが、いちばん正しいのです。

 

ところでマリヤはイエス様のおことばにあるように、埋葬のために香油を注いだのでしょう。そこまでは考えていなかったでしょう。そんなことは微塵も思わなかった、思い浮かびもしなかったでしょう。しかしイエス様は一座の前ではっきりとそう言われたのです。そして事実、イエス様は数日後には十字架にかけられるのです。イエス様の遺骸は当然埋葬されるわけです。その時にベタニヤのマリヤが駆けつけて香油を塗ることはありませんでした。他の弟子たちや女性たちが携わりました。

 

この事実を見ますとイエス様のお体に最初に埋葬用の香油を塗ったのはマリヤと言うことになります。もちろんこの時はイエス様はまだ生きておられましたが、ご自身の意識は十字架に集中しておられたのでしょう。ですからマリヤの香油をそのように受け取られたのです。イエス様はマリヤの香油を単に自分を愛して、自分のためにささげられたその場限りのプレゼントだとは思わなかったのです。神さまの大きな大きな仕事、十字架は神さまの御業の中でも最大級の大仕事です、その十字架にかかわる働きとして受け取りそのために用いてくださったのです。主の御業のため、主の栄光のため、すなわち、救いの働きの一端として用いてくださったのです。これはなんという大きな、巧みな活用法でしょうか。

 

ここに大きな慰めや希望を見いだします。

 イエス様は私たちの小さなささげもの、ちいさな信仰でも喜んで受け取ってくださり、神さまの栄光として用いてくださると言うことではないでしょうか。そんなつもりもない、考えもしない、ささやかなささげものがこんな形で用いられるとしたらなんとうれしいことでしょう。私たちが献金をするとき何げなくご用のために清めてお使いくださいと祈ります、またわたしのような無益な者をもなにかのお役に用いてください、と祈ります。受け取られた主は、それを最善、最高、最適なところに、私たちにしてみれば思いもかけないところに用いてくださるのです。マリヤにしてみれば自分のささげた香油がまさかイエス様の埋葬のためだと、言われると考えもしなかったのです。

 

そしてさらに主は、今後、福音が語られるところどこででも、世界中でこの人のしたことが語られる、それはマリヤの記念となると言われたのです。これは聞き捨てにできないお言葉です。救いのメッセージが語られるところでマリヤの香油物語も語られるというのです。当然マリヤはすばらしいことをイエス様にした女性としてたたえられるでしょう。現に今、私たちは一堂に集まって、マリヤを話題にして、教材にして女性の賢さのお手本を示す女性として、学びの対象としています。今後世界中のどこででもこの女のしたことが語られるとのイエス様の預言は的中しているのです。       つづく

 

 

賢女ベタニヤのマリヤ その9

  • 2009.07.05 Sunday
  • 16:33
 

賢女ベタニヤのマリヤ その9

 

香油をささげて(つづき)

 

驚いた人々の最初の思いはマリヤはすばらしいことをした、ではなかったのです。

非難です。なんてことを、もったいない、無駄なことを、もっと他に使い方があるはずだ、三百万円もするものをむざむざと流してしまうなんて、と。

それでもたりなくて、そこにだれもが納得する一見もっともらしい常識論、道徳論を持ち込みます。

 

そうだ、むざむざと流すなら、それを売ってお金に換え、貧しい人たちに寄付したらどんなに助かる人がいることか、それを考えないで無駄に流してしまうなんて、と言うことです。そして激しくマリヤを責め立てます。とくに数日後にイエス様を敵方に売り渡すイスカリオテのユダが先頭に立ってマリヤを責めたようです。

彼らの考えももちろん一理ありです。それこそだれも非難できない正当な理論です。

 

しかし周囲の人たちが考えることをマリヤだって知らないわけがないでしょう。突然他の世界から来たわけではないのです、同じ文化や習慣、常識の中で生きてきたのですから、だれでも考えることはとっくに考えているのです、それをすべて承知でマリヤは壺を割ったのです。

 

なぜでしょう。マリヤはその理由を一言も言いません。釈明していません。その変わりイエス様がなさっています。思い返しますと、ここで最初に取りあげた場面、イエス様のおそばに座り込んでしまったマリヤの時も、イエス様がマリヤを弁護し、マリヤの行動の根本にある真理を説明なさいました。今回もそれとよく似ています。イエス様は周囲の人たちと全くちがう視点でマリヤの行為を見、理解しました。そしてそれをマリヤに代わって明確なことばで人々に伝えました。イエス様は言います

 

『なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。』マタイ26・10〜13。マルコには『この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです』ともあります。

つづく

 

賢女ベタニヤのマリヤ その8

  • 2009.07.01 Wednesday
  • 09:05

 

香油をささげて

 

さて三番目の場面を見ましょう。


 
ここも又聖書全体から見てもたいへん重要な場面です。

内容を申し上げますと、ときは十字架を数日後に控えたある日、ベタニヤでの出来事です。ヨハネはこの日を十字架の六日前、エルサレム入場前日と記していますが、他の福音書は受難週の間にはいっています。実は拙書『神のときに生きる』の『ピラトの妻』でこの場面を扱かったのですが、その日をいつにするかずいぶん迷いました。いくつかの参考書調べましたが結論が出ませんでした。それだけで半年も一年も過ぎてしまいました。でも思い切って受難週のなかの一日にしました。

 

覚えておきたいことはこの出来事の数日後にイエス様が十字架にかかったと言うことです。イエス様を取り巻く情勢はかなり緊迫し、危険が迫っていたことは確かです。もっともそれを知っておられたのはイエス様以外にはだれ一人としていませんでした。

 

イエス様が弟子や村人たちと食事をしている最中でした。突然なにを思ったのかマリヤがつかつかとイエス様のおそばに近寄り、大事そうに抱えてきた壺を割って、中の香油をイエス様に振りかけたのです。香油とはすばらしくよい香りのする油のことです。高価な香水や近頃はやりのハーブオイルをイメージするとよくわかるのではないでしょうか。

 

マリヤの持っていたナルドの香油、ナルドとはインドの奥、ヒマラヤの山奥に生息するナルドと言う植物の根から採集した油だそうで、当時ローマ帝国では輸入していたそうです。聞いただけでどんなに高価なものかが想像できます。ユダヤの片田舎に住むマリヤがどうしてそのような高価な油を所持していたのか知りませんが、マリヤは裕福な家の娘でもあったのでしょうか。祖母や母の形見であったかも知れません。この日までマリヤは少しも無駄にしないように注意深く大切な、大切な宝物として保存していたことでしょう。

 

マリヤがそんな高価な香油をそんなに多量に持っていたなどとは村の人の誰も知らなかったのかも知れません。マルタは姉ですから、もしかしたらマリヤと同じようにあるいはそれ以上の量を持っていたと推察することもできます。

 

マリヤはその高価な香油の壺を割ってイエス様に注いだのです。計算高い居並ぶ人たちがとっさに見積もったところによると三百デナリに相当するというのです。デナリとは当時のお金の単位です。一デナリが標準的労働者の一日分の賃金だそうです。たとえば一デナリ一万円として三百万円です。二万円とすると六百万円にあたりこれは驚きに値する金額です。そんな高額なものを一度に使ってしまった、流してしまったと言うことです。しかも入っていた壺を割ってですから、あとかたもなく、一滴も残さずにすべてを使い尽くしてしまったということです。容器さえないのです。残ったのは、えもいわれぬ香りの充満です。香りは部屋中にあふれ流れたのです。弟子をはじめ列座の人々が腰を抜かすほど驚いたのも無理からぬことです。

 
                                                  つづく

 

賢女ベタニヤのマリヤ その7

  • 2009.06.28 Sunday
  • 07:17
フィレンツェ10 



涙ってどうしようもないときに流すものです。泣くことしかできないと、そう言う風に使います。ですからここでイエス様が泣くのは、神としてはあまりにも人間的で、無力にさえ思ってしまいます。

 

理由は何であれ、イエス様はマリヤの涙を見、人々の泣く声に合わせるように涙を流されたのです。つまりマリヤの涙は神の涙を誘ったと言えます。イエス様を泣かせた女性マリヤ、と言って彼女の大手柄のひとつに数えてもいいほどです。これは決して冗談ではありません。

 

死にたいする深い深い悲しみと嘆きが村全体を覆ったのです。この時、イエス様は最高に死への憤りに満たされ、感情があふれています。死はもともと神様の天地創造リストの品目にはなかったものです。人間の罪が生んだ、罪の落とし子です。罪を嫌う神さまは当然死をも憎んでおられます。人類の最大の的が死です。そもそも神さまは死を滅ぼすためにイエス様をこの世に送られたのです。今、イエス様はラザロの死を通して、死と対決しようとしているのです。そのきっかけ、起爆剤ともなったのかマリヤの涙といえます。

 

イエス様はこのとき死をも滅ぼすご自身のお働きを、その予告編とも言うべきものをラザロの死を通して行おうと計画しておられたのです。しかしイエス様は決して魔術師でもなく手品師でもありません。おまじないを唱えれば奇蹟を起こせるという漫画のような神さまではありません。周囲の信仰がなくてはイエス様といえども奇跡おこなうことはできませんし、なさいません。 

マリヤの悲しみに満ち満ちた涙、村人たちの純朴な同情心からの涙、そうした美しい真実がイエス様を力づけ、死と対決し、ラザロをよみがえらせることができたのです。


マリヤのなみだはイエス様から復活の力を引き出した一因を作ったと言ってもいいでしょう。マリヤの涙は御業に用いられたのです。これは驚くべきことです。

 

ではなぜマリヤの涙が用いられたかと言えば、マリヤの心の使い方です。マリヤは人生の根元的なこと、死の悲しみを徹底して味わいました。死の悲しみに全存在を傾けました。その純粋な悲しみの深さが人々の心にも及び、清い涙を誘い、イエス様をも泣かせたのです。マリヤは表面的なこと儀礼的なこと、習慣的なことに心を遣いませんでした。生きることの本質の部分に集中したのです。こういう生き方は外から見ると決してスマートではありません。マルタの生き方の方が世間受けするものです。

 

マリヤは一見不器用で鈍くあまり賢そうには見えません。しかしよくよく見れば、ほんとうの意味で人間味あふれる生き方なのです。喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣けと聖書の他の個所にありますが、そのみことばを百%行ったのがマリヤではないでしょうか。マリヤは使うべく所に十分に心を使うことができたのです。そこに女性の真の賢さを見ます。これがマリヤの第二番目の賢さです。

つづく

 

賢女ベタニヤのマリヤ その6

  • 2009.06.24 Wednesday
  • 22:25
聖堂 


マリヤはマルタの前では出る幕もなかったのでしょう、ひたすら泣いていたと思われます。マリヤが立ち上がると村人たちは、またマリヤは泣きにお墓に行くのだと察してみんないっせいにマリヤのあとをついていきます。マリヤの深い悲しみの涙は村人たちに死の悲しみを知らせるに十分でした。村人たちはマリヤの涙をみてもらい泣きしたのでしょう。また親しかったラザロを思い出して悲しみに沈み、みんな一様に涙を流します。

 

死は悲しいものですから、なみだはつきものですが、正直言って身内以外の者たちが心の底から張り裂けるような悲しみに浸ることはまずないでしょう。またできないでしょう。お葬式は特に形式だけになりがちです。もちろん天国の信仰と希望をもつクリスチャンたちの死にたいする態度は別です。世間一般のお式を思い浮かべますとよくわかります。

 

当時はイエス様がまだ復活していません。ですからイエス様を信じている人たちであっても明確な復活信仰はありません。マルタもマリヤもおなじです。ですからたったひとりの兄弟ラザロの突然の死は耐え難い大きなショックと深い悲しみであったのです。

 

マリヤは葬儀の雑事にかかわらないだけ深い悲しみに沈みます。マリヤのほうがたくさん悲しんで、マルタはそうでもなかったなどとは言えませんでしょう。マルタもラザロへの情愛においてはマリヤと同質であったと思います。ただ、マルタはその性質や立場から手放しで何時までも泣いているような人ではなかったと思います。しかしマリヤはひたすら泣いていた。

 

その涙が実に不思議な働きをするのです。周辺の人たちがもらい泣きをしたのはわかりますが、なんとイエス様も泣いたのです。『イエスは涙を流された』という聖書の一文は、聖書の中でもいちばん短い文章として有名です。

 

イエス様が泣くというのはなんと意外なことでしょう。イエス様が愛のお方であることは私たちはよくよく知っています。でもそうだからと言って、イエス様が弟子の一人の死を前にして涙を流して泣くというのはすんなりと理解できない、受け入れがたい違和感を感じませんか。イエス様だったら泣くより他にもっとすることがあるではないか、そんなことを考えませんか。たとえば泣いている人たちを慰め励ますとか、あるいは涙の原因である不幸なことそのものが起こらないように奇蹟を行ってくださるとかなんとか。 

 

つづく

賢女ベタニヤのマリヤ その5

  • 2009.06.21 Sunday
  • 14:05
 アルノ川 橋



 ラザロが死んで

 

二番目の場面を見てみます。

ヨハネによる福音書十一章、ラザロのよみがえりでたいへん有名な個所です。

三人きょうだいの一人であるラザロが病気になり、容態がよくないのです。そこでマリヤ、マルタはイエス様のもとに使いを出します。

 『あなたの愛する者が病気です』と知らせます。二人はこの知らせを聞いたらイエス様のことだからなにを置いても飛んできてくださるだろう。そしてイエス様がおいてくださればただちに病を癒してくださるだろうと固く信じています。イエス様を十分信頼しているのです。しかしイエス様は『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです』となぞめいたことを言われただけで、まるでラザロが死ぬのを待っているかのようにベタニヤには行こうとしません。そのあいだになんということでしょうかラザロが死んでしまうのです。

 

イエス様の一行がベタニヤについたのは死後四日のことで、葬儀はすっかり終わりラザロは埋葬されてしまいました。これは一大事件です。マルタ、マリヤにとってはそれこそ人生の一大事、自分たちも生きた心地すらなかったでしょう。どうして、こんなことが、どうしてこんなことがと叫び続けたことでしょう。神さまはなにをしておられるの、ああ、イエス様はどうしたのでしょう。あの愛のお方がこんな時になんの役にも立ってくださらないなんて、とすべての悲しみや怒りがイエス様に向かって集中したことでしょう。事実、マルタはイエス様一行がおいでになることを知るとおおぜいの弔問客をそのままに迎えに走ります。イエス様をお迎えするためと言うより、爆発しそうな思いを抱えて飛んでいったのではないでしょうか。いかにもマルタらしいやり方です。一方マリヤはどうしたかと言いますと『マリヤは家ですわっていた』と一言だけが記されています。これもまたマリヤらしい態度です。

 

マルタはイエス様のお顔をみるなりぶつけるように『主よ、ここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』と恨みがましく言ってしまいます。無理からぬことでしょう。それに対してイエス様は『あなたの兄弟はよみがえります』といいます。ここから始まるイエス様とマルタのやりとりは復活という聖書のなかでももっとも重要な奇蹟を予告する大切な個所ですが、本日は復活のメッセージを伝える場ではありませんので省します。

 

マルタはイエス様より一足先に家に戻り、マリヤにイエス様ところに行きなさいと促します。そこでマリヤはたちあがってイエス様にお会いするのです。マリヤもイエス様を見ると姉と同じことばをくり返します。『もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』そして激しく泣くのです。その前にも記述されていますが、ラザロが死んだことで、恐らくマリヤは泣くことしかできなかったと思われます。マルタは一家の主婦的な立場の人ですから葬儀の手配などあらゆることに気を配り、泣くにも泣けない、ゆっくり泣いている暇もない、そんな状況だったことでしょう。マルタという女性は世間的なことを巧みにそつなくすることに長けた人だったのでしょう。                    つづく

 

賢女ベタニヤのマリヤ その4

  • 2009.06.16 Tuesday
  • 17:19
  宮殿


 

マリヤたちはそうたびたびイエス様とお会いする機会はありませんでした。定期集会が毎週のように持たれていると言うことではないでしょう。イエス様の伝道なさった期間はわずか三年半に過ぎません。その短期間のエルサレム活動です、マリヤたちはほんのわずかしかイエス様とお交わりをしていないことになります。今回を逃したら次回はいつになるのかわからないのです。それらを考え合わせると、マリヤはもう矢も楯もたまらず、イエスさまのおそばへ座り込んでしまったと言うことではないでしょうか。そんなマリヤのこころの深みを知っておられたイエス様は『どうしても必要なことはわずかです。いや、ひとつだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれをとりあげてはいけません』とはっきりとたしなめられたのです。

 

イエス様はこのことばをマリヤに直接言ったのではありません。マルタをはじめ弟子たちのいるところでマリヤに向かって『マリヤ、あなたは良いほうを選びましたね』ほめているのではありません。たいした違いはないかも知れませんが、ここにもイエスさまの深い配慮がにじみ出ているのです。

 

マルタに向かって言われたのは私たちへ直接語られたと解釈していいでしょう。イエス様はマリヤの選択、マリヤの方法をよいサンプルとして、私たちにもまねしてごらんと提供されたのです。イエス様はその時のマルタを注意しただけではないのです。この状況下をひとつの例として、永遠の真理、人生の生き方のひとつを現物教育されたのです。

 

イエス様はしばしばそうした教育方法を採られます。野外で説教するときは、足元の野の花を例に、空に飛び交う小鳥を例にしてわかりやすく真理を説明なさいます。この場もその類です。すなわち『人生に雑事は付きもの、あれもこれもと頭を悩ますこと、気を使うこと、心配することは山のようにあるものです。しかし、どうしても必要なことはわずかしかないものです。あれもこれもしなければと右往左往することはないのです。必要なことはわずかなのですから。わずかどころかたったひとつしかない。それは神のことばを求め、神とともに過ごし、神に従うこと、魂の救いを獲得することです。そこに集中することが人生というものです。これが生きることの中心です。そのために時間も才能も財産も使い尽くすのです。マリヤはそれを知っており、そうしたのです。マリヤのしたことを止めたり、変えようとしたり、批判してはいけません。むしろあなたがたもそうしなさい』と。

 

この真理を私たちはよくよく覚えておきましょう。教会ではよくきかされていますから十分に知っているはずです。聞くたびにそうだ、そうだとうなずき反省します。でもまたいつの間にか反省材料を積んでしまいます。

 

マリヤはそうはしなかったのです。マリヤには過去に苦い経験があるのかも知れません。どうでもいいことに大切な人生の一時期を浪費してしまった、あるいはどんなに悔やんでも取り返しのつかない愚かなことに人生を使ってしまったという経験があったのかも知れません。そうした悲しいあるいは苦い体験が教訓となって、もう二度と愚かな選択はしまいと心の底に固い決意ができ、徹底してその生き方を貫いていたと思われます。マリヤは今なにを優先させたらいいのか、なにに時を、自分の人生を使ったらいいのか、必要なことはわずかです、いやひとつですとイエス様が言われたその必要なことのたったひとつのことに時を使うことができたのです。それがマリヤの賢さのひとつではないでしょうか。くり返しますと、たったひとつの大切なことに時を用いることができたのです。イエス・キリストのそばに居続けること、キリストのことばに耳を傾けこと、キリストを愛することを 第一にした人であった。そこにマリヤの賢さがあるのではないでしょうか。

つづく

 

賢女ベタニヤのマリヤ その3

  • 2009.06.12 Friday
  • 07:58
 アルノ川

 


私たちはしばしばイエス様を世間の常識や自分の願いや自分の考え方に最初から当てはめてしまって、ちょうど額縁にぴったり収まる絵のような答えを無意識のうちに要求するのです。祈って、願い通りにならないと祈りに答えがない、祈りは聞かれないと不信仰を起こします。しかし、もしかしたらイエス様はとっくに正解を差しだしておられるのかも知れないのです。自分の想定した通りの答えがないとまだまだ答えられないと思いこみ、目の前にとっくに差しだされているみこころには気がつかないし、見向きもしない、これが私たちではないでしょうか。

 

マルタはイエス様にたしなめられたときどう思ったのでしょうか。イエス様に対してどんな態度をしたのでしょうか。不満がいっそう募ったか、それともはっと気がついたか、聖書はマルタの反応には微塵も言い及んでいません。また、イエス様からかばっていただき、100%受け入れられた、いわば思わぬおほめにあずかったマリヤですが、マリヤの反応も記述されていません。イエス様がマルタに言ったことばだけがくっきりと記されているのみで、その後についてもなにもありません。

 

聖書には時に不親切だ、もう少し書き込んでくれればよくわかるのにと注文を付けたいような個所が無数にあります。この個所もそのひとつです。でも聖書は無駄は言わないけれど必要なことはきっちりと語っています、ですからここではイエス様のことばに集中すればいいのです。 

 

ところでイエス様にたしなめられるマルタはまるで私たち自身のようです。私たちはあまりにもマルタそっくりです。ここを読むたびに自分に言われているようで赤面し、冷や汗が出てきて、穴があったら入りたいような気がしてきます。

 

イエス様にほめられたマリヤを考えてみましょう。

マリヤは姉の手伝いを無視したり軽んじたりしたわけではないでしょう。それも大切なことだ、今しなければならないことだ、私もしなければと思ったことでしょう。マルタのいらいらを知らないわけではなかったでしょう。多少の心の動揺や焦りや迷いがあったと思います。 

 

しかしマリヤの足は姉のいるお台所へは向かわなかったのです、イエス様のおられる部屋へ動いてしまったのです。その時のマリヤの心境はどんなものであったか、さまざまなことが想像できるでしょうが、ひとつのことを考えてみます。マリヤには激しい心の欲求、渇きがあったのはないでしょうか。

 

マリヤがそれまでどのような人生を送ってきて、今どののような状況あるのか知るすべもありませんが、マリヤは過去のどこかでイエス様とお会いし、イエス様を知ることによって、それまでの生き方を変えられた人、つまり、魂の救いをいただき、それ故に、魂の激しい渇きを持っていたと考えます。イエスさまの話を一回でもよけいに聞きたい、イエス様のおそばに一時間でもよけいにいたい、その思いはなににもまさって強かったのです。最初はマルタのいるところへ急いだのかも知れません。ところがそこへイエス様のお声が聞こえてきてしまった。とたんにマリヤはマルタのことが頭から消え、気にならなくなり、イエス様のおられるところに突進してしまったのです。


                          つづく 

賢女ベタニヤのマリヤ その2

  • 2009.06.09 Tuesday
  • 22:28
 

 

この時もイエス様は弟子たちと滞在なさったようです。そしてイエス様がおられるところはすぐに集会が持たれるのです。イエス様がお話を始めれば、それはもう、最高の説教者がいるということですから、たとえ椅子や講壇がなくてもそこはすぐに立派な礼拝堂ですし、たくさんの聴衆がいなくても集会です。

 

イエス様がひとたび口を開けば、神の国の福音が聞こえてくるのです。この時は三人きょうだいの家ですから、お話を聞くのは弟子たちだけでしょう。少人数ですが、選ばれた側近の者たちだけですから、群衆の前とは又ちがった質の高い、内容の深い、すばらしいメッセージが語られたことでしょう。

 

イエス様の声が聞こえてくると、おちおちしていられないのがマリヤです。マリヤはエス様のお話が聞きたくて、聞きたくてたまらないのです。

マルタはお台所で食事の支度に汗を流しています。女性としてマリヤも当然マルタのそばで手伝わなくてはなりません。しかしマリヤはイエス様のそばにへばりつくようにして話しに聞き入ってしまいます。マルタがいらいらを爆発させてしまうのは至極当然と言えます。

 

イエス様に向かって「主よ、妹がわたくしだけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」訴えます。そんな場面です。実によくわかる日常の場面です。マルタの心情が手に取るように伝わってきます。そうだ、そうだとマルタを応援したくなるような気になります。そしてマリヤに、お姉さんのお手伝いをしなさいよ、あなたの大好きなイエス様に差し上げるお食事なのだから、あなたも十分お手伝いしなければと声をかけたくなるほどです。

 

ところがイエス様はマルタの訴えにも、又私たちが常識から引き出した答えともまったくちがった、意外なお答えをするのです。この場面の中心はイエス様がマルタに言われたことばが中心です。イエス様は単にマルタだけに言ったのではない。私たちに向かって語られたのであり、それは永遠の真理です。生きたかの重要なポイントを教えているのです。

 

イエス様はマルタにこう言います。

『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかしどうしても必要なことはわずかです。いや、ひとつだけです。マリヤはその良いほうをえらんだのです。彼女からそれを取りあげてはいけません』

イエス様の答えは人の意表をつく驚くべきものです。

 

マルタは恐らくイエス様がこう言うのを期待したでしょう。「マルタ、たいへんだね、私たちのためにありがとう。マリヤにすぐ手伝いに行くように言いますよ」と。 

マルタはイエス様からねぎらいの言葉をかけられこそすれ、たしなめられるとは思っても見なかったでしょう。この意外性に注目しましょう。私たちはこうした意外性に案外気がつかないで過ごしてしまうことが多々あります。その結果せっかくの恵みを逃してしまうのです。
                           つづく

 

 

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