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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
クリスマスの賢い女たち おとめマリヤ その7 イエス様のたとえ話に四つの種の話があります。神のことばである種を受け入れる人の心を、四種類の土地や畑にたとえて真理を教えています。どんな良い話しも聞き方ひとつだということです。せっかくの話をむだにしてしまう人もいれば、三十倍、六十倍、百倍の実をならせる人もいます。 良い聞き方とはどういうことでしょうか。 *謙虚に注意深く聞く。 *聞いたことをしっかり心に留め、十分考える。 *聞いたとおり実行する、生活に生かす。 マリヤは聞き方が良かったのです、全身で聞き受け止め、考え、考え込み、質問し、考えたのです。 マリヤの賢さのひとつは聞き方が上手であったことです。ここにポイントを置きたいとおもいます。『聞き上手』という言葉があるでしょうか、マリヤはよい聞き手でした。聞いて考え、思い巡らすことのできた人でした。聖書にはこの『聞き方上手の賢いマリヤ』を映し出す記事が他に二箇所あります。 降誕の夜のこと、ベツレヘムの家畜小屋で飼葉おけに寝ておられるみどり子イエスを訪問する羊飼いたちのシーンでは、 ルカ2・19 マリヤはこれらのことのすべてを心に納めて、思いを巡らしていた。とあり、また十二歳になったイエス様がヨセフ、マリヤとともにエルサレムまで都上りをした時、帰途の一団の中に姿が見えず、大騒ぎをして探し回る記事がありますが〈イエス様は神殿に残っていたのですが〉その中で、 ルカ2・51 それからイエスはいっしょに下って行かれ、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。とあります。 マリヤは天使のことばだけでなく、身辺に起こる一切のことを心に留め、それらを深く思い巡らす人でした。 私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、 あなたのみわざを、静かに考えよう。 詩篇77・12 マリヤは今日まで評価されてきたように確かに信仰深く、従順で、耐え忍ぶこともできた模範的な女性であったでしょう。夫ヨセフの良き妻であり、イエス様をはじめ、その後生まれた子どもたちの良い母親であったでしょう。りっぱに家庭を切り盛りし、隣近所や親戚つき合いも申し分なく果たして、ナザレ村切っての評判主婦であったでしょう。戦前の日本なら、当時の女性の評価基準である良妻賢母にりっぱに合格したことでしょう。 マリヤを形成しているもの、つまりマリヤの賢さとは、一言でまとめますと現実のひとつ一つを心に留め、深いところで思い巡らしたことではないでしょうか。それも、神さまの御前で考え、祈りの中で思い巡らすことを日常としていた女性であった、これこそがマリヤの最大の特質であり、今日のマリヤ像を作り上げた源であると分析し、主張します。 二十世紀後半に大活躍した世界的な偉女マザーテレサですが、彼女は三度ほど来日しています。ある時二百名の国会議員と朝食をともにしたそうです。 席上マザーはこう言いました。 『皆さんが、国民を平和へ、愛へ、喜びへと導くにあたって、一日三十分でいいから、心の中の神に耳を傾けてください。神と二人きりになって祈っていただきたいと思います。神は必ず道を示してくださるし、光が見えてくるでしょう』 この言葉は物の豊かさに酔っていた当時の日本の人々には新鮮に響き、刺激的であったと一人のジャーナリストは語っています。一日三十分祈るとは正にマリヤがしていたことです。 フランスの哲学者パスカルが『パンセ』の中で説いている言葉はあまりにも有名です。 『人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である。……我々のあらゆる尊厳は考えると言うことにある。我々が立ち上がらなければならないのはそこからである。だからよく考えることを努めよう』 考える、思い巡らすと言う働きは神様が人間を創造したとき、すでに与えてくださった能力ではないでしょうか。神様は人間を『ご自身の形に似せて創造された』とありますが、神様と似ている最大の箇所は心がある、思考力があると言うことではないでしょうか。私たちはすでに与えられているこの能力を使えばいいのです。マリヤはそれを十分に駆使したのです。そこがマリヤの賢さです。 思考喪失の時代と言われる悲しむべき時代に生を営む私たちですが、神様が愛のうちにプレゼントしてくださった、我がうちにある思考能力をもっともっと活用したいものです。 マリヤのように聞き上手、考え上手という賢さを発揮して、一度限りの地上の歩みをより豊かにしたいものです。 おわり
Category : クリスマスの賢女たち
クリスマスの賢女たち おとめマリヤ その6 さて、最後のカードを見せられて、マリヤの心は新しく働き出します。マリヤはついにガブリエルの前に、いや、全能の神様の御前にひれ伏して自己を全開して『私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように』と潔い応答をします。このひとことこそが今日までマリヤの地位を不動にさせている一大要因です。これが出るまでのプロセスを見逃してはならないとおもいます。信仰者といえども、決断をして、決行していくことはなまやさしいものではないのです、簡単な直線や平面図形を描くようにはいかないのです。定規とコンパスを動かせばすぐにできるというものではないとおもいます。 マリヤの『おことばどおりこの身になりますように』が実現した場合、すなわち未婚の母となった場合、どうなるのでしょうか。 確実に三つの大切なものを失うことになります。 第一に失うものは最愛のヨセフです。当然のことながら結婚もできないでしょう。すでに許嫁の関係にあるのです。当時の習慣によって夫、妻と呼ばれ、世間も認めていた結婚が破談になるかも知れないのです。なによりも耐え難いのはヨセフに軽蔑され、忌むべき女と思われることでした。考えただけでも生きた心地がしないことです。 次ぎに失うのは世間の信用です。たぶんマリヤは清純で美しい娘としてさしずめ『ナザレ小町』とでも呼ばれていた村いちばんの評判娘だったことでしょう。それがこともあろうに不始末をしでかしたということになったら、おそらくナザレでは生きていけないでしょう。 三番目はいのちそのものを失う恐れがありました。 当時姦淫の罪は石打の刑に処せられるという律法がありました。マリヤはその刑に相当することになり、成り行きによっては実行される危険がありました。 イエス様の公生涯中のことです。一人の姦淫の女が捕らえられ、石を手にした衆人の前に引きづり出される事件がありました。幸いこの女性はイエス様の途方もない知恵によってすんでのところで一命を取りとめましたが。 マリヤが『おことばどおりこの身になりますよう』と従えば以上のようなリスクを覚悟しなければならないのです。それはマリヤの明日はないと言うことです。 こうしたことをマリヤはガブリエルの言葉を聞きながら考え込み、思い巡らし、思い当てていたのです。その上での『おことばどおりこの身になりますように』なのです。文字どおり祭壇に自分自身をささげたのです。 考えることなしにはマリヤの決断はなかったのです。マリヤの決断とそれに続く信仰の従順がなかったら、人類救済という神様のご計画も実現しなかったのです。この偉大なプランが名もなき一少女の決断に係っていたとは、一抹の頼りなさをおぼえつつも、ああ、いかにも神様らしいなさり方だと思えてなりません。神様は承知の上でマリヤを選んだのです。無きに等しい者をあえて選んだという聖書のみことばは確かに真実です。 つづく
Category : クリスマスの賢女たち
クリスマスの賢女たち おとめマリヤ その5 さて、じっと聞いていたマリヤは、実に単純率直な質問をします。 『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに』 マリヤにしてみればいちばん肝心で当然の質問でしょうが、こうした内容は言葉にするには勇気が要ります。ことは厳粛で清い祈りの最中です、最もおごそかな霊的体験のど真ん中で、マリヤはこれだけ冷静に考えたのです。マリヤは素朴な中にも度胸のある女性だったと言えないでしょうか。とてもまねはできません。 今、私たちは日々に聖書に親しんでいます。単に読むと言うだけでなく神のことばとして読んでいます。ときに神からの語りかけとして極めて個人的な読み方をします。そしてみことばを黙想し、祈りへと導かれていきます。そうした祈りの中で特別にみことばが響いてくることがあります。そんなとき、ああ、これは神様が私個人に語りかけておられるのだ、私へのことばにちがいない。神様のみこころだ、神様のみ声だと、信仰で受け止め感謝します。しかし、心のどの辺り、どこまでの深さで受け、思い巡らしているでしょうか。たいていの場合、ごく表面の部分で理解し、納得し、喜び感謝し、それですませてしまうことが多いのではないでしょうか。 が、マリヤは質問した、食いさがったのです。もちろん御使いがマリヤに伝えた内容は、かつてだれ一人として聞いたことのない未曾有の大事件です。マリヤの小さな人生の器には入りきれない、それこそ人生を根底からひっくり返すような一大事です。いい加減には聞けない、簡単には応答できない、そう言うたぐいのものです。マリヤはたかが十三、四歳のおとめでありながら、それを全身で受け止め、理解しようとしています。ガブリエルの前に身を乗り出して問うマリヤの心情がずんと確かな響きをもって伝わってきます。 『どうしてそんなことになりえましょう。わたしはまだ男の人を知りませんのに』 マリヤの直接表現にはいささかドキッとさせられます。 御使いはそれをそっと受け止めてからひとつの身近な話題を持ち出します。マリヤの親類エリサベツが妊娠六ヶ月を迎えていると知らせます。ごぞんじのようにエリサベツは子を宿すことのなかった不妊の女、そのまま年老いてしまった人です。そのエリサベツが妊娠しているというのです。もちろん胎内の子は正真正銘ザカリヤの子で、マリヤの妊娠とは次元の違うものですが、人間的にみればだれにも考えられなかった不可能なことでした。そこに神様の力が働いていることは明白です。マリヤも恐らく、「えっ、あのお年寄りのエリサベツが。ほんとうにそんなことがあるものなのかしら」と驚いたことでしょう。 ガブリエルはその例を楯に「だからわかるでしょう。あなたに起こることだって神様の御業なのですよ」と言わんばかりです。 そして最後にオールマイティーの切り札『神にとって不可能なことはひとつもありません』を差しだして宣言します。おそらくこの札をいつ出そうかと最初から考え、チャンスを窺っていたことでしょう。切り札は出せばいいと言うものではありません。出し方如何によってはせっかくの効力を十分に発揮させることができません。使うべき時をみる、時を知ることが大切です。さすが神様からの全権大使ガブリエルは絶妙な時を見抜きました。 この言葉の威力は絶大です。たとえば信仰が足りなくてあることに決断できないでいるとき、あるいは押し寄せる苦難の大波に飲み込まれそうになっているときに、正に救命具の役割を果たします。夢中でしがみついて窮地を脱出した経験をクリスチャンなら必ず持っていることでしょう。聖書中でもよく使われ親しまれている評判高いみことばです。これをガブリエルはマリヤの前に見せるのです。 一方、見方を変えますと、そこまでしなければマリヤを納得させることができなかったとも言えます。ガブリエルは持ち合わせの武器を全部投げ出してしまいました。マリヤはこの間ずっと聞いては考え、考えては聞き続けたと思われます。だからこそガブリエルは掌中の玉である切り札を使ったのでしょう。と言うことは、天下の一言であるこのみことばを言わせたのはマリヤと言うことになります。(つづく)
Category : クリスマスの賢女たち
クリスマスの賢女たち おとめマリヤ その4聖書のストーリーにしたがって追っていきます。 ある日、乙女マリヤのもとに神様から天使が遣わされていきます。 まず、天使が人を訪問するということですが、これは実際にはどういうことでしょうか。 フラ・アンジェリコの壁画『受胎告知』では天使はマリヤと等身大の若い女性の姿をしています。大きな翼があるのですが。これはあくまでも画家の想像です。天使は霊体ですから肉眼では見えないはずです。ということは、天使訪問とは霊的体験と言えます。それなのにいかにも人間がマリヤを訪問したように描かれているのはどういうことでしょうか。 考えますに、マリヤはこの時おそらく祈っていたのです。マリヤは祈りを愛し、祈りを友とする信仰者だったとおもいます。当時よく見られた形骸化したユダヤ教の信仰ではなく、生きた神様を信じる生きた信仰を持っていたのです。形式という額縁に閉じ込められた一枚の絵のような飾り物の宗教ではなく、素朴で素直な実際的な信仰を持っていたのです。信仰生活と日常生活の間に少しの亀裂も矛盾もない、信仰すなわち生きること、生きること即信仰と言える、単純で明快なすきっとした信仰者だったのです。その生き生きした信仰が生きておられる神様のお目に留まったと言えないでしょうか。 ガブリエルは『おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられます』と言って近づいてきます。この語りかけを聞いてマリヤはひどく『戸惑った』そして『これはいったい何のあいさつかと考え込んだ』とあります。ということは、日ごろ祈り深いマリヤであってもこんなにダイレクトな霊的経験は初めてであったのでしょう。だから戸惑ったのです。単に驚いたというのではありません。戸惑うとは、驚き、疑い、不安、恐れなどのあらゆるマイナス感情が一度に押し寄せてきてどうしたらいいのかわからなくなった状態を表します。口語訳聖書では『このことばにマリヤはひどく胸騒ぎがしてこのあいさつは何のことであろうかと、思い巡らしていた』となっています。胸騒ぎとはいやな予感です。 次ぎに、戸惑ったマリヤは何をしたかというと『考え込んだ』『思い巡らした』のです。ガブリエルに一言も応答しない前に考え込んだのです、思い巡らしたのです。これは驚きのあまり声も出なかったというのとは少しちがいます。聞いて、受け止めて、考え込んだのです。驚きつつ、戸惑いつつも、しっかりと事実の中に立って、拒絶するのではなく逃げ出すのではなく、受け止めて自分の胸深くに入れて考える、思い巡らすという精神的行動に入ったと言えます。 この時マリヤは何歳だったでしょう。十三、四歳ということです。現代で考えますと中学一、二年生の女子です。まだまだ少女です。まずそれを考慮に入れておかないと正しいマリヤ解釈ができません。 マリヤはガブリエルの不可解なあいさつに対して何のアクションも起こしていませんが、精神はすでに行動を開始しました。考え込んだ、思い巡らしたという行動です。これは非常に賢い行動ではないでしょうか。考え込むと悩むとはちがいます。思い煩いでもありません。深く考えたのです。思考のアンテナを四方に立て、思いの幅を広げ、思いを交錯させ、思いを高く飛翔させたのです。 ここにはしばらくの沈黙ができたことでしょう。沈黙のひとときです。ガブリエルの声は消え、せわしかった息使いもおさまって、ほんの一瞬ではあったが沈黙ができました。非常に貴重な沈黙です。その間、天使はじっとマリヤを見つめている。マリヤの反応を観察しているのです。マリヤの出方によって、神様のみ告げをどのように伝えようか、その方策を探さねばなりません。マリヤの方はそれとは知らずにひたすら考えている。無言のままにです。 ついと、ガブリエルが口を開きます。マリヤの表情をよくよく見ての言葉でしょう。 『こわがることはありません。マリヤ、あなたは神から恵みを受けたのです』 戸惑うマリヤ、考え込むマリヤを、安心させるように、慰めるように、気をつかっている様子が伝わってきます。そうしながらガブリエルはマリヤは男の子を産むことになり、その子をイエスと名付けなさいと指示し、その子の将来像までかなり詳しく説明します。 つづく
Category : クリスマスの賢女たち
クリスマスの賢女たち おとめマリヤ その4聖書のストーリーにしたがって追っていきます。 ある日、乙女マリヤのもとに神様から天使が遣わされていきます。 まず、天使が人を訪問するということですが、これは実際にはどういうことでしょうか。 フラ・アンジェリコの壁画『受胎告知』では天使はマリヤと等身大の若い女性の姿をしています。大きな翼があるのですが。これはあくまでも画家の想像です。天使は霊体ですから肉眼では見えないはずです。ということは、天使訪問とは霊的体験と言えます。それなのにいかにも人間がマリヤを訪問したように描かれているのはどういうことでしょうか。 考えますに、マリヤはこの時おそらく祈っていたのです。マリヤは祈りを愛し、祈りを友とする信仰者だったとおもいます。当時よく見られた形骸化したユダヤ教の信仰ではなく、生きた神様を信じる生きた信仰を持っていたのです。形式という額縁に閉じ込められた一枚の絵のような飾り物の宗教ではなく、素朴で素直な実際的な信仰を持っていたのです。信仰生活と日常生活の間に少しの亀裂も矛盾もない、信仰すなわち生きること、生きること即信仰と言える、単純で明快なすきっとした信仰者だったのです。その生き生きした信仰が生きておられる神様のお目に留まったと言えないでしょうか。 ガブリエルは『おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられます』と言って近づいてきます。この語りかけを聞いてマリヤはひどく『戸惑った』そして『これはいったい何のあいさつかと考え込んだ』とあります。ということは、日ごろ祈り深いマリヤであってもこんなにダイレクトな霊的経験は初めてであったのでしょう。だから戸惑ったのです。単に驚いたというのではありません。戸惑うとは、驚き、疑い、不安、恐れなどのあらゆるマイナス感情が一度に押し寄せてきてどうしたらいいのかわからなくなった状態を表します。口語訳聖書では『このことばにマリヤはひどく胸騒ぎがしてこのあいさつは何のことであろうかと、思い巡らしていた』となっています。胸騒ぎとはいやな予感です。 次ぎに、戸惑ったマリヤは何をしたかというと『考え込んだ』『思い巡らした』のです。ガブリエルに一言も応答しない前に考え込んだのです、思い巡らしたのです。これは驚きのあまり声も出なかったというのとは少しちがいます。聞いて、受け止めて、考え込んだのです。驚きつつ、戸惑いつつも、しっかりと事実の中に立って、拒絶するのではなく逃げ出すのではなく、受け止めて自分の胸深くに入れて考える、思い巡らすという精神的行動に入ったと言えます。 この時マリヤは何歳だったでしょう。十三、四歳ということです。現代で考えますと中学一、二年生の女子です。まだまだ少女です。まずそれを考慮に入れておかないと正しいマリヤ解釈ができません。 マリヤはガブリエルの不可解なあいさつに対して何のアクションも起こしていませんが、精神はすでに行動を開始しました。考え込んだ、思い巡らしたという行動です。これは非常に賢い行動ではないでしょうか。考え込むと悩むとはちがいます。思い煩いでもありません。深く考えたのです。思考のアンテナを四方に立て、思いの幅を広げ、思いを交錯させ、思いを高く飛翔させたのです。 ここにはしばらくの沈黙ができたことでしょう。沈黙のひとときです。ガブリエルの声は消え、せわしかった息使いもおさまって、ほんの一瞬ではあったが沈黙ができました。非常に貴重な沈黙です。その間、天使はじっとマリヤを見つめている。マリヤの反応を観察しているのです。マリヤの出方によって、神様のみ告げをどのように伝えようか、その方策を探さねばなりません。マリヤの方はそれとは知らずにひたすら考えている。無言のままにです。 ついと、ガブリエルが口を開きます。マリヤの表情をよくよく見ての言葉でしょう。 『こわがることはありません。マリヤ、あなたは神から恵みを受けたのです』 戸惑うマリヤ、考え込むマリヤを、安心させるように、慰めるように、気をつかっている様子が伝わってきます。そうしながらガブリエルはマリヤは男の子を産むことになり、その子をイエスと名付けなさいと指示し、その子の将来像までかなり詳しく説明します。 つづく
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クリスマスの賢女たち おとめマリヤ その3マリヤにはひとつだけ行きたいところがあった。 「エルサレムの都にはぜひ上りたい。できたらヨセフ様とごいっしょに」 いいなづけのヨセフの名を口に乗せるとき、マリヤのほおはかすかな紅を帯びるのだった。 マリヤはエルサレムに激しい思慕を抱いていた。毎年、村人たちが隊を組んで都詣でをする。過越を祝い、メシヤを待望して祈るためであった。中にはひそかに祖国の独立を祈る者たちもいた。マリヤはいつも巡礼団の後ろ姿を熱い視線で見送っていた。 「私も行って祈りたい。神殿の間近で、主のご臨在を感じながら祈りたい」そう思った。 「ハンナはシロの神殿で熱烈な祈りをささげたわ。そして主からサムエルをいただいた。サムエルはあの時代を救った。私もハンナの信仰を見習い、ハンナの祝福をいただきたいものだわ」 マリヤは日頃からハンナの賛歌をそらんじていた。愛唱していた。 私の心は主を誇り、 私の角は主によって高く上がります。 私はあなたの救いを喜ぶからです。 主のように聖なる方はありません。 あなたに並ぶ者はないからです。 ハンナの時代も……。 イスラエルは荒れていた。国土も人心も。ペリシテ人が息つく暇も与えぬほど頻繁に戦いを挑んできた。有能な士師もとだえがちで、民は力ある神の人を待ち望んでいた。 ハンナは子どもがほしくて祈った。夫エルカナのもう一人の妻には多すぎるほどの子があった。短慮な女はそれを笠に着て、弱き同性ハンナをいじめた。 いじめに耐えかねてハンナは祈ったのだ。 「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら…」 マリヤはハンナの祈りを知れば知るほど、この偉大な母が、屈辱をはらしたいという、ただそれだけの理由で子を願ったのであろうかと思うのだった。 ハンナはこう祈ったからだ。 「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」 やがてサムエルが生まれたが、ハンナはサムエルが乳離れするとすぐに、祭司エリに託した。潔くささげた。母としての情愛はどこにあるのだろうと思えるほどみごとなささげぶりであった。 恐らくハンナは、祖国を救う主の器を産み育てたい、わが子が主の栄光のために用いられたらこれ以上の幸せはないと、願っていたに相違なかった。 マリヤは祈り場でのあれこれをじっと心に留め、じっと思い巡らし、辛抱強く祈りを重ねていた。 陽はいよいよ赤く、いよいよ哀しく、山陰に半身を沈めようとしていた。 また、長い夜が来るのか、闇が迫ってくるのか、わずか一条の光さえ消え去ってしまうのか。祖国の闇はいつまで続くのだろうか……。 もどかしく、狂おしいような魂の興奮を感じた。 思わずマリヤは口にした。 「私もいつか救国の器を育てたいのです、主よ」 言ってしまって、マリヤははっとした。すぐそばに主がおられ、マリヤの声をじかに聞いておられるような実感に圧倒された。思わず身を正し、息を吸いこんだ。 と、マリヤは確かに聞いた。 「恵まれた女よ、おめでとう 主があなたとともにおられます」 耳が聞いたのか、魂が聞いたのか。 マリヤの胸は激しく騒ぎ、思いが、風に吹かれた花びらのように乱舞した。 これはいったい何のあいさつでしょう。 私が恵まれた女ですって、 どうして、どうして、でしょう。 主がわたしとともにおられるですって、 いと高きお方がですか。 恵まれた女、 恵まれた女……。私が、ですか。 主がともにおられる、ですって。 これはいったい何のあいさつでしょう……。 すでに青薄い夕闇がおおい始めていた。肩先に触れる冷気がひどく快かった。先ほどまでの闇を厭う思いが跡形もなく消えて、新しい充実感が生まれ出ようとしていた。マリヤは自分の心の変化をじっと見つめた。 何かが起ころうとしているわ。私ごときを主は愛しておられる。いと高きお方がともにいてくださるとは。 なんとうれしいお恵みでしょう。 わが魂は主を崇めます……。 『天の星のように』から 聖書箇所に戻ります。 天使のメッセージの内容を今風に言い換えますと、マリヤは『未婚の母』になるということです。それも身に覚えのないことで。御使いガブリエルは、このことは神様の御業であり、宿す子は神の御子だと告げます。最終的にはマリヤはこの最大の受難を、敢えて受難と言いたいのです、ただただ信仰だけで受け入れて神様に従っていくのです。ここはそう言う、人生の一大事、生死を賭けるほどの非常に深刻で緊張した場面です。つづく
Category : クリスマスの賢女たち
クリスマスの賢女たち おとめマリヤ その2以前にここからマリヤを連想しまして『受胎告知の前ぶれ』と題する一篇を書いたことがあります。マリヤの日常を想像してみたのです。転載してみます。 「ナザレはイスラエルのどこよりもいちばん美しいにちがいないわ」 マリヤは夕陽の中に立ち、声を弾ませた。 眼下には愛してやまないナザレの村がつつましく身を寄せあうように一日の終わりを迎えていた。その上に燃え立つ光の層が薄衣の裾のように広がっている。 マリヤは今日も彼女だけの祈り場を訪れていた。村はずれの坂を上りきった小高い丘の一隅がそこである。いつも夕暮れのひとときを過ごした。マリヤはここからの村のたたずまいが特別に好きだった。ちょうど愛する人の後ろ姿のように思われて、ひどくいとおしいのだ。 日没が迫っていた。 溶けだしたような朱色がマリヤを包み込んでいた。 「なんとおだやかな黄昏でしょう。 神様、悲しい祖国を、愛するナザレを、こんなにも美しく装ってくださってありがとうございます」 祈りの一言を口に乗せると、マリヤの魂は一路、天に向かって羽ばたいた。 マリヤは祈りを愛した。祈ることがうれしかった。楽しかった。祈りは親しい友のようだった。 「悲しい祖国なのに、こんなに美しい夕べがある。確かに主はイスラエルを愛しておられるわ」 マリヤは多感な乙女だった。こよなく祖国を愛していた。祖国にはいくつもの悲惨な傷跡があった。たびたび異国に脅かされ踏みにじられた。国中の人たちが補囚にされた時代もあった。そして今は、ローマの属国になり果てていた。マリヤの小さな胸は祖国を悲しみ嘆いてつぶれるほどであった。 「メシヤさえおいでになれば、ユダヤは救われるのに。ああ、どうか、一日も早くおいでになりますように」 マリヤの祈りの中心はメシヤ待望だった。はるか都エルサレムの方角に向かって日に三度、祈りを欠かしたことはなかった。なによりも大切な日課であった。 暮色が忍びよっていた。なだらかな斜面を伝って、羊飼いが群を率いて下っていった。あとを追うように薄い風が音もなく渡っていった。 マリヤはガリラヤ地方の一寒村ナザレに暮らしていた。ナザレで生まれ、ナザレで育った。なんのよいものが出ようかとさげすまれている片田舎だったがマリヤは満足しきっていた。東には豊かな水をたたえたガリラヤ湖があり、水面を飾って大きな町々が誇らしげに名を馳せて栄えていたが、心惹かれたことはなかった。 そのナザレで……。 マリヤはまもなく結婚しようとしていた。 その日が迫っていた。 結婚後もおそらく夫となるヨセフと、ナザレで暮らすことになるだろう。それを疑ったことはなかった。幸せにちがいないその日々を待ちこがれていた。 その一方で、祖国がこんなに悲しいときに自分だけ幸せでいいのだろうかと戸惑うことがあった。その思いがメシヤ待望の信仰を強めた。主さえおいでになれば万事が解決するのだ。主よ、早く来てください、マリヤは祈らずにおられないのだ。 「私の生きている間にぜひお出でいただきたい。ローマは盛んになるばかり。このままではイスラエルは消されてしまう」 マリヤは深い憂いを抱えて、石臼で麦を挽くように主の前に魂を砕いた。
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クリスマスの賢女たち おとめマリヤ その1思い巡らすマリヤ マリヤについて イエスの母マリヤはプロテスタント教会では信仰の模範者としてほめたたえられています。一方、カトリックの世界では天の女王として崇められ、マリヤ信仰という言葉があるように神格化され信仰の対象とされています。ギリシャ正教では神の聖女として神の救いの仲介者の立場におかれています。 芸術界では、絵画に、彫刻に、音楽や文学その他多くのジャンルで題材として用いられ、人類の財産とも言える不朽の名作が生み出されています。それらの作品は触れる者に深い感動と楽しみを与えてくれます。絵画では、イタリヤ・ルネッサンス時代の画家フラ・アンジェリコの『受胎告知』はあまりにも有名です。またラファエロの『聖母子像』も忘れられませんし、ミケランジェロのピエタ像の前に立つと涙とともに時の経つのを忘れます。 マリヤは二千年の歴史舞台で脇役になったことは一度もないでしょう。いつもヒロインのライトを浴び続けてきました。その観点から言ってもマリヤは永遠の女性ではないでしょうか。 しかし今ここでは、イスラエルの片田舎、ナザレ村育ちのマリヤ、特に『聖書という鏡に映し出された素顔のマリヤ』と対面したいと思います。 新約聖書にマリヤが最初に登場してくるのは『マタイによる福音書』の冒頭です。この冒頭部分はイエス・キリストの系図ですが、カタカナの名前が延々と続いていてたいへん読みづらい箇所です。しかしイエス・キリストがイスラエル民族の祖先アブラハムにルーツを置くという信憑性を裏付けるのになくてならない重要なところです。その十六節は 『ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった』で締めくくられています。そして十八節には 『イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった』と記されています。この箇所こそ古来から議論を沸騰させてきた注目の部分です。いわゆる『処女懐胎』です。 『ヨセフの妻と決まっていた』とはふたりは正式にいいなずけの関係にあった、婚約していたということです。ここで言う婚約は現代のとはたいへん内容が違います。聖書辞典によりますと、 男性の両親または本人が未来の花嫁のために花嫁料(今日では結納に当たる)を支払うことによって婚約が公認され、口頭のまたは文書によって成立する。この時からふたりはいいなずけ(許婚)の関係に入って結婚に備える。夫または妻と呼ばれて、いいなずけであるが、結婚と等しい権利や義務が認められた。婚約解消には離婚状が必要だった。婚約期間は長くても一年だった、とあります。犬飼道子氏の『聖書の旅』シリーズ第四巻『女性と聖書』にもくわしい研究が記されています。 続いて『ルカによる福音書』を開きます。マリヤといえばこの箇所です。有名な『受胎告知』の場面がしっかりと描かれています。マリヤは二千年に渡って世界中の人々の心に多くの話題を提供してきた女性ですが、聖書の中での登場場面は思いのほか僅少です。まとまっているのはこの箇所だけです。『マリヤの性格も信仰も生き方の具体的な姿勢』もすべてがここに凝縮、圧縮して披瀝されています。(つづく)
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クリスマスの賢女たち 老やもめアンナ その9 おわりその9 エリサベツ、イエスの母マリヤに続いて、クリスマスの第三のヒロインとも言えるアンナは、暗い時代の人々に待望のメシヤの到来を告げる『希望の預言』を語り続け、ついにメシヤその方を現実に指し示しながら希望の成就を宣言できた人でした。『ちょうどこのとき』に居合わせた、いわば超ラッキーな女性でした。 もう少し『ちょうどこのとき』を追ってみます。 アンナにしてみますと『ちょうどこのとき』ではなかったのです。アンナはこの日だけ特別に神殿に来たのではないのです。幸運なときに偶然出くわしたのではないのです。聖書には『宮を離れず』とあります。アンナは八十四歳になってもなお『宮を離れず、昼も夜も、断食と祈りをもって神に仕えていた』のです。これが生活の中心であり、すべてであり、人生そのものだったのです。その連続の上に『ちょうどこのとき』があったのです。偶然ではなく必然の上の『ちょうどこのとき』なのです。 ここからどんなメッセージが聞こえてくるでしょうか。 このシリーズは『クリスマスの賢女たち』ですが、アンナの賢さは何でしょうか。『ひとつのことにひたすら』というワン・フレーズで表すことができるとおもいます。具体的にはそれは神に仕えるという生き方でした。アンナのひたすらな信仰はおそらく結婚以前からのものでしょう。主婦であったときも変わらなかったでしょう。やもめになってからはいっそう大胆に、いっそう深く、いっそう熱いものになったと推察できます。『ひとつのことにひたすらに』の上に『ちょうどこのとき』が重なってくるのです。『ひとつのことにひたすらに』が『ちょうどこのとき』を生んだのです。 『ひとつのことにひたすらに』とはなんと美しい行為でしょう。 ベタニヤのマリヤが思い出されます。イエス様のひざもとから離れないで聞くことに熱中したマリヤを、イエス様は非常にほめました。そして雑事に心を乱すマルタに向かって『どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです』と言い聞かせています。あなたもそうしなさいと聞こえてくるようです。そしてあなたとは、マルタだけでなく、限りあるいのちを生きる私たちすべてではないでしょうか。 ますますせわしくなる日常、ますます短くなる生理的時間、しかしこれら物理的時間の大河の中に、神様のとき『カイロス』は力を持って同時進行していると信じます。一人ひとりに与えられた『ちょうどそのとき』を発見し、確認したいものです。神様は『ひとつのことにひたすらに』を行く人に『カイロスの恵み』のヒロイン役を与えようとご計画しておられるのではないでしょうか。(おわり) 三人目はイエスの母マリヤです。
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クリスマスの賢女たち 老やもめナンナ その8その8 イスラエルの民は、救い主メシヤが必ず来るという待望、希望で生き続けてと言えるでしょう。希望を唯一のよりどころにし、目標とし、無形の財産とした民族です。アンナは『エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々』に生涯をとおして『希望』を語り続けてきました。多くの預言者は語り続けるのみで生涯を終えました。ところがアンナはメシヤに出会ったのです。紹介し続けてきた希望の実体を目の当たりにしたのでした。希望が現実となった瞬間に居合わせたのです。何と幸いな預言者でしょう。イザヤもエレミヤもどんなに心焦がれてこの日を語ったことでしょう。どんなに幼子イエスに会いたかったでしょう。しかしかなえられませんでした。『一人のみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる』と叫ぶイザヤの熱い声だけが時にうれしく、時に悲しく民の心に響き続けてきたのです。 出会いの特権に預かったのは八十四歳の女預言者アンナだけでした。 ひとつのこと『ちょうどこのとき彼女もそこにいて』に、視線を注ぎたいとおもいます。一見、単なる偶然、ふと行きずりのできごとのようですが、『聖書』の語る『ちょうどそのとき』は深い深い奥を持っています。『そのとき』のバックには神様が厳然としておられ、神様の意志、神様のご計画が結集しているからです。 『ちょうどそのとき彼女もそこにいて』で連想するのは『ルツ記』のルツです。アンナよりもずっと年若いやもめですが、神様の絶妙な『時』のヒロインに抜擢されて、抱えきれないほどの恵みを両手に握らされた女性です。聖書では『はからずも』と言う言葉を使っていますが、アンナの『ちょうどそのとき』と内容において同義語と解釈していいでしょう。 ルツはイスラエルの隣国モアブの女性ですが、亡き夫の母ナオミと暮らし続け、やがてエルサレムに帰国する姑ナオミに同行して姑の国に移住します。生まれ故郷を捨ててです。しかも姑を養うために落ち穂拾いという最低の仕事に身をやつします。ところが神様のご計画の時『はからずも』に導かれてボアズというすてきな男性に出会い、聖書全編を揺るがすようなロマンスに包まれて幸いな再婚をします。与えられた元気な男の子、姑ナオミが胸からはなさなかったその子は、ご承知のとおりイエス様の先祖に当たります。 一般に『はからずも』の一言からは確率の低いくじを引くようなはかなさを感じますが、神様の『はからずも』は、はり裂けんばかりの恵みの詰まった福袋のようです。 ルツやアンナのような社会的弱者に惜しみなく恵みを注ぐ主は、私たちにもそれぞれにふさわしい『はからずも』、『ちょうどそのとき』のドラマを用意しておられるのではないでしょうか。 (つづく)
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