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聖書の緑風『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。 聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
聖書そぞろ歩き 聖書通読ご無沙汰の言い訳
今年は、エステル記からスタートしました。今、詩篇を味わっています。 61:1 神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。 61:2 私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。 どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。 61:3 まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。 61:4 私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。
Category : 聖書そぞろ歩き
聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その7 最終回《主の御顔を避けて》から 遠藤嘉信著・いのちのことば社 説教集第6章 神の主権と恩寵(本文抜粋、あるいは要旨) 『……あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか』 聖書はヨナ書4章5節〜11節 『ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」 すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」』 本文から ヨナは怒りました。不正なものがさばかれずに、単純に赦されることがあるのか。それなら正しい人間はどうなるのか。正しくても悪くても結末が同じであるならば、正しく生きてきた人間は、どこで報われるのか。そういう怒りです。それで彼は神に向かって言います。「今どうぞ私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだ方がましですから」。 人の命も死も支配しておられるのは神ではないでしょうか。それらのいっさいに主権を行使するのは、それらをお造りになった私たちの主ではないでしょうか。彼は神の主権の座に座ろうと座ろうとしています。ニネベの人々は神のものです。神が、ニネベの人々を生かし、彼らを育て、ここまで導いてこられたはずです。 とにかく彼は、宣教の働きの後、しばらくニネベにとどまることにしました。町の東の方にすわり、そこに自分で仮小屋を作って様子をうかがいます。依然ニネベへの裁きを期待しています。神が心を変えるようにと考えています。 でも、変らなければならないのは、ヨナ自身ではなかったでしょうか。私たちも困難や痛みの原因を自分以外のところに求めます。自分は正しいと思います。まず、自分に問題があると考える必要があるかも知れません。 神は、一つのおもしろい出来事を通してヨナを扱い始めます。神は一本の「とうごま」と呼ばれる植物を生えさせました。これが生えてきて日影となり、思いがけない恵みとなりました。ヨナはこのとうごまを非常に喜びました。 ところが、喜びも束の間、虫が噛んだためとうごまはアッという間に枯れてしまいます。さらに悪いことに、中近東独特の東風が吹いてきました。乾燥した非常に熱い風です。 ヨナはまさに環境の奴隷です。自分の幸せがすべて自分の周りの環境に支配されてしまっているのです。私たちは意外にこの問題に気づいていないのです。ヨナのとうごまは人間の愚かさの象徴です。 私たちの生涯にはわからないことがたくさんあります。不平等とも不公平とも思える多くの痛みや悲しみがあります。でも、わからないことと同居することも大切です。なぜそういえるのかと言いますと、主権を握る神は、私たちをも惜しんで、どうあっても私たちを滅びから救って、恵みをもたらそうとされるお方だからです。そのお方への信頼が求められています。そしてそれこそが信仰です。 神は私たちに問いかけて迫ります。「あなたには、わたしの愛がわかりますか。わたしは、あなたとあなたの隣人を惜しむほどに愛している。この愛がわかりますか」 神の「永遠の愛(ヘセド)」を決して疑うことがありませんように。アーメン。 お詫びと感謝 もっと頻繁にアップする予定でしたが、準備より時間のスピードのほうがはるかに速く過ぎ去り、もがくのみでした。それでも訪れてくださる皆様の忍耐と寛容に心から感謝します。今後も継続の意を強くしていますので、時々覗いてみてください
Category : 聖書そぞろ歩き
聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その6ロゴス氏より 《主の御顔を避けて》から 遠藤嘉信著・いのちのことば社 説教集第5章 ヨナの怒り(本文抜粋、あるいは要旨) 『ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた…』 このこととは、ニネベの人々が神の裁きによって滅ぼされることなく、救われてしまったことです。そもそもヨナが神に逆らって逃亡したのも、敵国ニネベへ行って神のメッセージを伝えることが嫌だったからです。ヨナは本心ではニネベが滅べばいいと思っていたのです。それが救われてしまったのですから、不愉快でたまらないのです。 本文より 神のやさしさ、神の寛容さが許せない。ここにヨナの不幸があります。神がニネベに対してあまりにも寛容であまりにやさしすぎるからです。神が、自分の側にではなく、ニネベの側に立つように思えるのが辛いのです。自分と同じ気持になって、ニネベを憎み、ニネベを滅ぼす神であれば、ヨナは平安を得られるのです。神がいつも私とともにおられ、私の味方であると感じられれば幸いです。しかし神のニネベに対する寛容さが、ヨナにとっては、神に無視されたような疎外感をもたらしたのです。問題は神にではなく、ヨナ自身にあるのです。 ヨナは自分に注がれる神の愛を十分に信じていなかったのだと思います。ヨナは神に対して不信の思いを募らせていました。そして、ニネベへの神のあわれみが示されたとき、ねたみの思いが彼を支配したのだと思います。心が貧しいのです。愛され、温かく包まれる恵みを知らないとき、人はバランスを崩してしまいます。そして、他の人を愛することも、他の人が愛されることを喜ぶこともできないのです。 キリスト者であるということは、祈りを始めるとき、見えない神が、父なる神として私たちの拙い祈りに耳を傾け、側でじっとお聞きになられて、親しく臨んでおられることを心から信じることができると言うことでもあります。それは、キリスト者に与えられる恵みの特権です。 神を信じられない人にとっては自己満足と思われるかも知れません。でも、神はおられます。人が信じようが信じまいが神は存在されて、人間にかかわりを求めておられます。そして、私たちが神に応答する以前から、神はわたしたちを愛してくださっています。神の永遠のご計画の中に私たちを置いてくださっているのです。私たちは、自分に注がれている神の尊い愛と恵みをもっと喜ぶ必要があります。 確認したいと思います。私たちの信じる神は、私たちにとって本当に情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直される神でしょうか。そういう神を心から信じ受け入れておられるでしょうか。神の存在だけでなく、その神の愛に信頼しておられるでしょうか。ヨナにかかわろうとされる神の姿を、今このとき私たちにかかわってくださる神の姿と重ねて見ていただきたいと思います。
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聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その5《主の御顔を避けて》遠藤嘉信著・いのちのことば社(抜粋あるいは要旨) 説教集第4章 思い直される神(本文抜粋、あるいは要旨) ヨナ書3章10節 『再びヨナに次のような主のことばがあった。……神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなった』 大きな魚の腹の中で三日三晩を過ごしたヨナは、助けられた感謝の祈りをささげます。吐き出されたヨナは不思議にもニネベの海辺に打ち上げられるのです。ヨナは町に入って、神様から託された警告を語り伝えます。ところがヨナのメッセージを聞いたニネベの人々は王様から初めて民全員が神の前に激しく悔い改めます。それで、上記のみことばのように、神はさばきをやめてニネベを救ってしまいます。それはヨナの気に入りませんでした。 本文より 私たちには、その時々の弱さがあります。しかし、神は、私たちが成長することに期待して、その弱さをそのまま受けとめてくださいます。私たちが完全でないことは当然なのです。けれども、私たちの側で、他人を、また自分をすら、なかなか受けとめられないと言う問題があります。 失敗して、二度とチャンスが巡ってこないということは悲しいことです。しかし神はその人の弱さを受けとめ、受け入れ、再び同じ使命に招くのです。神は、その人の人格を尊重し、その人をそのままで受けとめ、その人への信頼を失わないのです。 神は私たち一人一人に特別なご計画をお持ちです。今を生きる私たちは、この神の備えていてくださる御心の行程の中にあると、自信を持って言えるかどうかを考えてみたいと思います。それが最高の生涯です。そして、神はその行程に私たちを立たせようと何度も招いてくださる。道を外しても、また神は引き戻してくださるのです。 神は私たちの内面を扱われます。そして、私たちの内にたましいの変革をもたらします。それが聖書の語る救いということです。神はニネベの人々が悪の道から立ち返るために努力しているのをご覧になられ、裁きを思い直された。 神は思い直される神です。何度も何度も忍耐を持って思い直されるお方です。あなたの神は、何度あなたのために思い直し、忍耐してこられたと思いますか。あなたは、そうした神の忍耐とあわれみを知らないのですか。知らずに他人を責めるのですか。 聖書は、そのように矛盾に満ちた私たちに、優しく問いかけるのです。(続く)
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聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その4《主の御顔を避けて》遠藤嘉信著・いのちのことば社(抜粋あるいは要旨) 説教集第3章 ヨナの祈りから(本文抜粋、あるいは要旨) 『ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って…』 ヨナは、嵐の海に投げこまれました。それで嵐は静まり、彼らが乗っていた船は難を逃れました。また神は、海の真只中に放り出されたヨナを、大きな魚を備えてのみこませます。そうした奇想天外な方法でヨナを溺死から救われるのです。 ヨナは死の脅威と苦しみから救われて感謝しています。しかし、御顔を避けて、御心に従おうとしない態度そのものを悔い改めてはいません。悔い改めることは容易ではありません。必ずしも試練を通過すればすぐに神に立ち返るというわけではありません。人間の心の複雑さ、しぶとさ、強情さがヨナ書にはみごとに描かれています。 ヨナは『もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです』と祈ります。彼は、神との交わりを回復したいと願っているのです。神の方を向いたと言うことです。ここからすべてが始まります。 問題は私たち一人一人が神に向かおうとしているかどうかということだと思います。神の方を向くならやがてその人には救いの確信が与えられるでしょう。神に受け入れられ、神との交わりの中で、その人は変えられていくのです。まず、祈りの中で神に向き合うことが求められています。 ヨナはまだ完全ではありません。しかし神はそのときのヨナを受け入れ、将来の成長を期待して受容されたのです。 私たちを愛してくださる神は、不完全な私たちを同じように扱われます。私たちの成長と成熟を忍耐を持って待ってくださる神とその永遠の愛に感謝したいと思います。
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聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その3(日が空いてしまいましたが続けますので、お訪ねください) 《主の御顔を避けて》遠藤嘉信著・いのちのことば社(抜粋あるいは要旨) 説教集第2章 神の御業と摂理から(本文抜粋、あるいは要旨) 『さて、主は大風を海に吹きつけられた。それで、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった』 私たちは様々な緊張を強いられて生きています。自分思い通りにいかないこと、複雑な問題に直面しながら、どこに向かって進んでいったらよいのわからないことがたくさんあります。すべてのプレッシャーから解放され、束縛のない自分に人生、主体的な生き方をしたいと感じています。でも実際にはどこへ行っても安らぐことはできません。 人は神から失われているとき、本当の自由と平安を求めてさまよっているのです。満たされないたましいを何かで満たそうとさまようのです。 聖書によれば、神は人間にどこまでもかかわり続けようとされる方であるというのです。聖書の神は遠く宇宙の果てに存在していて人間に関心を寄せないお方ではありません。愚かしさ、弱さ、無知から来る逃避を続ける人間に対して執拗にかかわり続けようとされます。 『さて、主は大風を海に吹きつけられた』とあります。 この世界で確実に神の不思議な御業がなされているという主張です。聖書では、大風や暴風は、しばしば、神の裁きの道具として用いられます。全体的には恵みの手段でもあるのです。 ヨナを乗せた船は難破しそうになります。水夫たちはパニックになります。船の積荷を捨てたということからその激しさと人々の恐怖がわかります。最後は神頼みという状態です。 ヨナはこの嵐の原因が自分にあることがわかりました。そこで『私を捕らえて、海に投げこみなさい』というのです。このヨナを、水夫たちはついに海に投げこみます。『すると、海は激しい怒りをやめて静かになった』のです。 主は大きな魚を備えてヨナを呑み込ませました。荒れ狂う海に投げこまれたヨナは、そのまま当然死ぬことになったはずでず。しかし、ここに、神の守りがあったのです。大きな広い海にあって、ヨナを呑み込むことのできる一匹の魚がそこにいたということ自体、確率的にも奇跡です。だから聖書は『主は大きな魚を備えて』と語ります。 ヨナへの神様のお取り扱いはまだまだ続きます。ほんとうの意味で悔い改めまで、神はヨナを執拗に追いかけるのです。 私たちが神の摂理のすばらしさとご計画の最善を確信することができるようにと願います。 ますます神に愛されていることを信じて、御こころに生きることを喜ぶものとされたいと思います。(続く)
Category : 聖書そぞろ歩き
聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その2聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その2 説教集第1章 《主の御顔を避けて》から(抜粋あるいは要旨) 『しかしヨナは、主の御顔を避けて、タルシシュへ逃れようとして 立って、ヨッパに下った』 (9月4日アップの、その1の続きです。日が経ってしまいましたのでご面倒でも参照してくだされば幸いです) ヨナは神の御心を承知しながら、《主の御顔を避けて》タルシシュへ逃れようとしています。しかし神の御心を知っているので、どんなに場所を変えようが後ろめたさがついて回ります。船底にもぐりこんでも、神に背中を見られている感覚を振り切ることはできません。 『御顔を避けて』という表現は聖書の最初、創世記にも出てきます。神様の命に背いて木の実を食べてしまったアダムとエバが、同じ態度を取りました。『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した』 ヨナは意図的に自分から逃げたのです。それは神との交わりが絶たれた事を意味します。聖書は、個人の救いとともに、神との交わりと言うことを大切にします。交わりとは単に祈りをすることだけではありません。信頼して、愛を持って、自分の根本的な問題を知ってもらい、心を通わす交わりこそ本当の交わりであって、神が私たちに求めているのは、そうした親しい交わりです。 ヨナはなぜ逃げたのでしょうか。それはヨナ自身の持つ正義感がそうさせたように思います。ヨナは極端にいえば「あの人たちは悪い人たちなのだから、紙の裁きを受けて滅びでしまえばいい」と考えたのです。それなのに神は救おうとしている。神はあまりに寛容すぎるとヨナは思うのです。 ヨナ書の目的はここにあるのです。ヨナが妬むほどに神は寛容なお方であることを、示そうとしているのです。永遠の愛、これがヨナ書の大切なテーマなのです。 ヨナは神の命ずるニネベと反対の方向タルシシュ行きの船に乗り、船底へ降りてぐっすりと寝込んだのです。意図的な神への反抗です。しかし、神はそのヨナに係わり続けようとします。神はヨナを追いかけます。試練に遭うとき、神の愛のお取り扱いを受けていると確認することです。自分のこだわりを捨てて、御顔を避ける不幸な歩みから解放され、神との親しい交わりの中を歩む者でありたいと思います。(続く)
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聖書そぞろ歩き ヨナの物語から その1旧約聖書に『ヨナ書』という書巻があります。膨大な旧約39巻のなかでは、世界の国々でいえば小国とも言える小さくてマイナーな書です。軽んじられているわけではありませんが、創世記や詩篇のようにいつもいつも熱い視線を浴びているとはいえません。つまり、礼拝の説教や聖書研究会では登場の頻度が少ないのです。 今から2500年も前に書かれた、わずか4章からなる小書です 2001年にヨナ書の講解説教集『主の御顔を避けて』が出版されました。著者は牧師で旧約学の学者であった遠藤嘉信先生です。先生は昨年2007年6月に48歳という若さで天に帰ってしまいました。 この書はわずか126頁の小著ですが、読みっぱなしで書棚に積んでおくにはあまりに内容が豊かで教えられるところが多々ありますので、再度、頁を繰りながら、ところどころを抜粋あるいは引用して紹介したいと思います。 まずはヨナ書1章の内容です。 主人公のヨナは、神様から預かったおことばを伝える人、預言者です。もちろんイスラエル人です。あるとき神様はヨナに、こともあろうに憎むべき敵国ニネベへ行って神の言葉(救いのメッセージ)を伝えよと命じます。ヨナはいくら神様の命令とはいえ、憎んでもあまりある敵国へなど絶対に行きたくないのです。 そこでヨナは神様に背を向けて《主の御顔を避けて》ニネベとは逆のタルシシュ行きの船に乗り込みます。ところが海は荒れに荒れて船は沈没しそうになります。 乗船者たちは、神の怒りにちがいないと、犯人探しを始め、当時の習慣で全員がくじを引いたところ、それがヨナに当たるのです。ヨナこそ張本人と詰め寄られた時、ヨナは自分の罪を白状し、荒海に投げこむように指示します。ヨナが海に放り込まれたとたん嵐は止みますが、ヨナは海中深く沈んでいくのです。 ところが神様は大魚を送り、ヨナをのみ込ませます。 ヨナは三日三晩を大魚の腹の中で過ごします。 説教集第1章 《主の御顔を避けて》から(抜粋あるいは要旨) 『しかしヨナは、主の御顔を避けて、タルシシュへ逃れようとして 立って、ヨッパに下った』 人間は絶えず快適な生活を求め、自分の興味と関心を追求します。自分が賛成できないことをするのは苦痛以外の何ものでもありません。しかし、したくないことから全く逃れて生活することはできません。自分の望むことだけをしていたら、社会生活はできなくなるし、他者のために生きるという次元の高い生活も、自分自身の成長もなくなってしまうでしょう。また自分の思いのままにすることがいつも正しいはずはありません。 ヨナは預言者でした。特別な使命のために選ばれました。ある意味で特権です。しかしヨナは逃げました。ヨナは神様の御心を知っていましたが、それができなくなる場所へ逃れようとしました。《主の御顔を避けて》しまいました。 私たちも日常の中で、あるいは人生という大きな歩み中で、正しい洗濯や判断をしなければならないことを知っています。神の細い語りかけを感じます。わがままな自分がわかっている場合もあります。そして、ある時、平安を失っている自分に気づきます。(続く)
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