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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2021.05.28 Friday - 09:55

会津若松の火炎*若松賤子の生涯*その20 最終回

 若松賤子の生涯は今回で終了です。

 一年余に渡った長い連載を忍耐をもって愛読してくださった皆様に

 厚く感謝申し上げます。

ビジターの数字に励まされ、喜びを与えられて、

 続けてこられました。

 

 

あとがき 

賤子の足跡を追って

 

 二〇一六年七月一二日、まだ梅雨は明けやらずでしたが、東京は朝から快晴でした。深く青く澄んだ真夏のような空の下を会津若松目指して東北新幹線に乗り、郡山へ向かいました。そこから磐越西線に乗り換えました。車窓から青田の広がるかなたに磐梯山の雄姿が見え、東北地方の力強さを感じました。

 

 旅の目的は賤子の生家に立つ『文学碑』を確かめるためでした。地番表示の青地のプレートに白い字で『会津若松宮町6』とあり、そばには『旧弥生町』と彫られた石板が立っていました。『古川家』の門前です。

その裏庭に、うっそうと生い茂った夏草の群れに埋もれるように石の『文学碑』がありました。折から盛りののうぜんかずらの真っ赤な花が額縁のように枝垂れ咲いていました。

 

 碑には賤子の魂の告白ともいうべき

『私の生涯は神の恵みを/最後まで心にとどめた/ということより外に/語るなにものもない/ 若松賤子』が、ようやく読み取れる程度に細くかすかに彫られていました。あたりは観光地化された鶴ヶ城界隈の華やいだ雰囲気はなく、賤子の愛した古都にふさわしくひっそりと静まり返っており、文学碑を見つめながらしばらく賤子を偲びました。

 

 東京豊島区にある賤子の墓所、染井霊園にも行ってみました。墓石には確かに『賤子』としか彫ってありませんでした。神の賤女とする自己評価を喜んで貫いた静謐満ちる強い信仰を目の当たりにして、賤子への敬慕の思いが激しく突き上げてきました。

 

 また並んで善治のお墓があり、さらに長男荘民夫妻と娘巌本真理の墓石がありました。巌本真理は世界的に有名なヴァイオリニストです。

 

 ある一日は横浜に行きました。賤子の生涯の結晶ともいえるフェリス女学院を眺め、洗礼を受け、結婚式を挙げた横浜海岸教会では、敷地内を歩き回りました。

 文中でも触れましたが、明治女学校の講師、校医、舎監になった『荻野吟子』がその後渡った北海道のせたな町を訪れた時、町の一隅に「会津」という木柱を発見し、この地が、賤子の父勝次郎が何年か居住した地であることを知り、歴史の妙技に胸が震えました。ついでに寄った函館では五稜郭に行きましたが、ここは父勝次郎も含めて会津藩士が最後の戦いをした場所でした。

 

 近くは千代田区六番町の明治女学校跡にも行ってみました。銘板があるだけで当時の面影はひとかけらもありません。寂しい限りでした。本文では触れませんでしたが、あれほどの名声を博し、当時の有名文化人たちが出入りして時代の先端を走った学校が、一夜にして焼失し、その後巣鴨の庚申塚に再建されたものの、明治四二年には廃校となってしまったのです。少し前の三七年には、かの『女学雑誌』も廃刊に追い込まれました。廃校、廃刊という悲しい響きを耳にしながら、その理由はどこにあるのかと問わざるを得ない心境です。しかし、真実は神だけが知っておられるのでしょう。

 

 賤子を取り巻く周辺事情、また賤子の文学活動、教育活動、著作については膨大な数の文書がでています。本著はその中のほんの数冊をもとにしました。また本著は研究書ではありません。日本の歴史の中でも稀有な激動の時代に、稀有な激動の生涯を送った若松賤子という楚々たる女性の小史です。賤子の遭遇した出来事とその時の心境に想像の筆を入れながら記しました。

 

 賤子がもし長命であったならどれほどの偉業を成し遂げたかと、思い返すたびに残念でなりません。わずか三二歳足らずで神さまのもとに旅立ってしまったとは、あまりに悲しすぎやしませんか。しかし、神さまの真意はここでも深すぎて計り知れません。賤子が一途に神さまを慕ったために、神さまが引き寄せたと思うしかありません。それにはだれが逆らえましょうか。

 

 賤子は晩年、有名無名の女性たちを簡略ではあるが書きたいと願ったそうです。筆者は賤子の遺志を深く心にとめ、まずは賤子を書こうと意を固めました。

 

 ここで、「キダーさん」についてもう少し加えたいのです。補足ではありません、書き足りなかったのです。賤子が、私のことはいいからもっとキダー先生を書いて!と言っている細い声が聞こえるのです。

 ミラー夫人ことメアリー・エディ・キダーは草創して一〇年になるフェリスを退くと、四国、信州上田、盛岡、北海道など日本各地を回って伝道に従事しました。

 

 ところが明治三三年五月(この時賤子はすでに帰天していますが)に、乳がんの手術を受けます。その後アメリカに帰国しますが、三八年秋に日本に帰ってきました。しかしまもなくがんが再発して病床に伏し、明治四三年六月二四日、東京麹町区平河町の自宅で生涯を終えました。時に七六歳でした。

 

 日本最初の女性宣教師として来日し、女子教育に重荷を負い「フェリス女学院」の礎を築いたキダー先生は、賤子にとっては生みの親にも勝るまことの親、慈愛に満ちた母でした。キダーとの出会いとその愛が無かったら、賤子は、「島田かし」のままであり、神さまの愛を知る「若松賤子」はいなかったかもしれず、まして賤子の手になる『小公子』は誕生しなかったかもしれません。 なお末筆ながら、キダー先生は横浜の外人墓地に葬られていることを添えます。 二〇一七年葉桜のころ     

 

 

■参考資料

山口玲子『とくと我を見たまえ』

相馬黒光『黙移』

相馬黒光『明治初期の三女性』

早乙女 貢『明治の兄妹』人物往来社

フェリス女学院編訳『キダー書簡集』

 

■訪問地

フェリス女学院・横浜市中区山手町

横浜海岸教会・横浜市中区日本大通

染井霊園・東京都豊島区駒込五丁目

明治女学校跡・千代田区六番町

会津若松市生誕地 福島県会津若松市宮町

函館五稜郭 函館市五稜郭町

北海道久遠郡せたな町(当時は札幌県後志国字島静色内町)

 

予告

これからも、拙著のなかから作品を掲載してまいります。

準備をしているところです。

なお、つづけて愛の忍耐をもって、

この小さな部屋を訪問してくださることを

願い、祈っています。

 

 

 

 

 

 

 

 


  • 2021.05.08 Saturday - 09:57

会津若松の火炎*若松賤子の生涯*その19

*再び東京へ・明治女学校焼失・賤子の召天

 

 

 明治二八年、三一歳になった賤子は、王子村で生まれた民子を加えて三人の子の母となっていた。そもそも主治医高田耕安は二人の結婚の時に「肺結核は子孫のためにいけない」と反対したほどであるが、賤子は助言に感謝しながらも、子どもは神からの預かりものと確信していたので、自分の命は勘定に入れず、難行に挑戦してきた。だから元気な三人の子どもを抱きかかえながら、天にものぼるほどの歓喜に包まれていた。

 

 しかも、そのうえである、賤子は四人目の生命を宿したことを知った。しかしだれの目にももはや生み出す力がないことは一目瞭然であった。さすがに医師ははっきりと強く中絶を示した。賤子に恐れはなかった。それどころか新しい生命が我がうちに息づいているのを知ると、全身に力が満ちてくるのを体感したのだ。聖書の言葉が聞こえてきた。『わたしの力は弱いところに完全に現れる』というものであった。賤子は神が直接語りかけてくださったと信じた。この生命のためになんとしても生きねばならない。

 

 久しぶりに床から起き上がり、着替えまでして頬を紅潮させながら立ち働いた。善治もみやもただ茫然と目を見張るばかりだけであった。

「私たち、麹町に帰りましょう。すぐにでも。今度の赤ちゃんは麹町で生みたいのです」

 みやはいたたまれずその場を走り去って慟哭した。

 

 善治も賤子の意見に同意した。移転の支度は賤子には過重な負担になり、命を縮めることになるかもしれないと思わないではなかったが、今はもう賤子の希望をすべて叶えてやるしかない、それが最善だと判断した。賤子は、たとえ無事に出産できたとしても自分の命はそこまでだと悟っていた。だからこそ、家族が暮らしやすいように、さらに善治の仕事場でもある学校内に移らねばならないと考えたのだ。

 

 秋の訪れを待ちかねて巌本家は王子での転地生活に終止符を打ち、麹町区下六番町六番地の明治女学校の構内にある校長舎へ移った。賤子には目の前に「死」の扉のノブが見えていた。扉は一陣の風でも全開してしまうのがわかっていた。病勢は進んでいた。咳が続き呼吸困難に陥ることもあった。

 

 前述したが、フェリスからわざわざ転校した相馬黒光は賤子に会えることを楽しみにしていた。ところが授業を受けるどころか、寄宿舎の二階の窓から見える校長舎には「時々廊下に憔悴した賤子の姿がみえるばかり」でとても面会を申し込めるような状況ではなかったという。のちに黒光が自著の中で記している賤子への感想は貴重である。

『理智と教養のあらわれた際立った顔、大きく注意深いやさしい目、神経質ではあったけれど、自制力もあって、成人してからの女史は、あれほど外国人の特質をのみ込み同情と同感を充分に持ちながら、やはり日本婦人らしい魂を最も強くあらわしていたとは、当時の外人教師たちの後に思い出として語るところでありました』

病状はますます絶望の色が濃くなってきたが賤子の執筆の手は止まらなかった。

 

 この年の締めくくりとして『日本伝道新報』一二月号に『私の知っている少女たち』を英文でまとめて発表した。賤子は書く。「ミッション・スクールの一四年の学園生活で、いろいろな少女たちと会いました。……その人たちの顔がわが脳裏に、なんと押し合いへし合いひしめくことでしょう」

 

 賤子は今までも有名無名の女性たちを簡略ではあるがほとんど毎号取り上げてきた。賤子が書きたいと願ったのは同性の歴史、民衆の歩みだった。「ご覧の通り、私はヘボ作家ではありますが、不器用にこつこつと働いてきました」と述懐している。

 

 年が改まって明治二九年(一八九六年)二月四日、その夕べ、賤子は久しぶりに家にいた善治ほか二、三人の知人たちと歓談の時を過ごした。ときどきお腹の子の胎動を感じながら、母子の命が保たれていることを喜び、神に感謝していた。

 

 夜更けて五日の午前二時半ごろ、明治女学校は教員宿舎の一階のパン屋から出火した。火事である。真冬の深夜の事であった。学生の寄宿舎、賤子家族の校長舎などすべてはほとんど焼けてしまった。

 

 幸い、三〇人ほどの生徒たちは日ごろの訓練の成果で落ち着いて行動し、四谷坂町にある善治の妹香芽子の嫁ぎ先木村俊吉宅へ避難、全員無事であった。一方、火元に近い巌本家は火の勢いが強く着替えする暇もなくみやとねえやが三人の子をおぶって逃れた。最後に賤子は消防夫に助けられながら一丁西の学習院教授石川角次郎宅へ避難した。善治は先頭に立って消火に当たった。

 

 賤子は氷雨のあとのぬかるみ道を引き摺られ、抱えられていった。一瞬、会津の戦火を逃げまどった記憶がよみがえり、重なった。母と祖母がそばにいる気がした。賤子は小さく「母上、お祖母様」とくり返した。また「神よ、主よ」と祈りをくり返した。あの時、母の胎内には「みや」が宿っていた。母は死んだがみやは今も元気にしている。私の子もきっとみやのように生き延びる、たとえ私が母のように死んでも、この子はきっと生きる。

 一日置いて七日の夕刻の事であった。賤子の容態はいよいよ危険になった。みやは善治を呼びに走った。善治はすべてを悟り病床に駆けつけた。賤子は最後の喀血をした。

 

 十日、午後一時半、高田医博と善治の二人だけが見守った。

賤子の意識は最期まではっきりしていて、「お墓には、賤子、とだけ、彫ってください。親しい方にだけお知らせして、葬儀は公にせず、伝記なども書いてはいや。人に話すようなことは何もしていません。一生、基督の恵みを感謝した、とだけ言ってください」、その後「ありがとう」と言って、五分後に息を引き取った。明治二九年二月一〇月曜日、満三二歳に満たない短い生涯であった。 高田耕安医博は死因を「心臓麻痺」と診断した。

 

 葬儀は一二日午前八時、避難していた石川邸で執り行われ、染井の墓地に葬られた。その日は寒風強く雪もよいの曇り空であった。生徒たちの合唱する葬送曲が風に舞った。

 その後も善治は賤子との約束を守って伝記を書くことはしなかった。ひそかに日記に追憶の思いを記し、家族にだけ見せたが、大戦中の東京空襲で焼け失せてしまった。

 

 賤子の一生は死後までも火炎がつきまとった。まことに若松賤子は火炎の人であった。墓石にはただ『賤子』とだけ記された。

 

 


  • 2021.04.11 Sunday - 12:28

会津若松の火炎 *若松賤子の生涯*その18

*賤子の病状・転地

 

 

 

 清子、荘民の二児を抱えながらも賤子の執筆力は弱まるどころか反対に勢いを強めていた。ただしその分病魔も負の勢いを増し、賤子の体奥深くまで浸食していった。賤子は『小公子』執筆中からすでに床を敷きっぱなしであった。

 

 育児と家事を支えるのは妹のみやであった。みやは賤子より四つ下である。かの会津戦争の真っ只中、城下が戦乱の炎と化し、賤子が祖母、母に手を引かれて命からがら逃げる途上で生まれたのであった 産湯を使うところもなく、飢えのために出ない乳房にしゃぶりつきながら細い声で泣いていたのだ。母は衰弱して死んだがみやは強かった。賤子は七歳で横浜に貰われてきたがみやがどこでだれにどのようにして育てられたかは知るすべはなかった。

 

 ところが賤子には全能の神の不思議な導きとしか思えないのだが、みやと父松次郎の消息が分かりともに暮らすことさえできたのだ。みやは賤子の計らいでフェリスで学業を修めた。

 

 賤子が結婚して病身ながら子どもも生まれ、教頭夫人(善治が正式に二代目校長になる明治二五年)としてまた教育者、文筆家として多忙を極めるようになると、専心、姉を助けるようになった。賤子には何にも勝る味方であった。善治は学校や雑誌運営のため全国を駆け回っていた。病床を訪れることも夫婦で時間を過ごすことも稀であった。

 

 「みやさん、あなたがこんなにたくましく賢い女性になるなんて、想像もできませんでした。母上がおられないのは返す返すも悲しく悔しいことだけど、あなたがいることがどんなにすばらしいことか、神に感謝するばかりです」

 賤子はみやに話しかけた。みやの膝には清子も荘民も抱かれている。

「私はいくさも母上のこともひとかけらも覚えていません。お祖母様とあね様がおられたらしい気配が感じとして残っているだけです。今はなによりも、当代きっての名女性におなりのあね様のおそばにいられることが誇らしくうれしくて、私も神に感謝するばかりです」

「私が安心して仕事ができるのはあなたがいてくれるからです。みやさん、私はね、自分の命が長くないことを察しています……」

 

 賤子は思いつめた目でみやの視線を捕まえようとした。みやははっとしながらもさりげなく賤子の視線を逃れた。

「あね様、人の命は神さまの御手の中にあるのではないでしょうか」

「そうでした。軽率でした。でも、でも……」

 賤子は血を分けた妹だけには言いたのだ、頼みたいのだ、自分亡きあとの子どもたちのことを。

「あね様。お気持ちはわかりすぎるくらいわかっているつもりです。今は存分にお仕事をなさってください。何もご心配なさらずに」

「みやさんの言われたことは胸深く刻んでおきます。ありがとう。神さまに感謝します」

「あね様には何と言ってもお義兄さまがおられます。神さまのような大きな愛であね様を愛し包まれるご立派なお義兄さまがおられます、頼もしいお方だと尊敬しています」

「もちろん、ですとも。でも善治には私よりもっと大きな使命があります。神さまから託された使命です。命がけで働かれるでしょう。私は足手まといにはなりたくない」

 

 そう言いながら、賤子は少しばかり寂しい気持ちになることもあった。

――白きヴェールを取りて とくとわれをみたまえ――

――わが心をとくとみたまえ――

 

 賤子は結婚の日に贈った英詩の一節を胸の中で反芻した。あの日以来、善治の口からは詩の話題は一度もなかったし、今になっては詩の所在さえ知らなかった。あの頃、賤子は本心では「詩」を挟んでとことん議論したかった、意見も聞きたかったし自分の思いも洗いざらい吐露したかった。婚約時代の続きを期待するほのかに甘い思いもあった。

 

 だが現実はそれを許してはくれなかった。時間は二人を別々の流れに引きずり込んだ。善治は多忙であった。賤子も多忙であった。互いに家庭人であるより先に社会人だった。使命に基づく事業があった。志は間違うことなく一つであったが、具体的な活動は個々に違っていた。つまり、四六時中いっしょにいるわけにはいかなかったのだ。その上、賤子には女性に与えられた最大の使命、妊娠、出産、育児があった。

賤子の体力は限界を超えていた。賤子は自分を知らないわけではなかった。しかし、内に燃える火炎には勝てなかった。炎を消してまで手を休め安楽を得たいとは思わなかった。

 

 賤子の病状は目に見えて悪化していった。医師は転地を勧めた。善治も周囲も賛同した。

 明治二五年三月、賤子は清子、前の年に生まれた荘民を連れて北豊島郡王子村字上の原に移転した。そこは桜の名所飛鳥山公園にほど近かった。翌年には善治も王子へ住むようになり、そこから麹町へかよった。善治は自ら住まいを「安息蘆」と命名した。折から時局は危機をはらみ、善治は学校経営の資金繰りのために疲労しきっていたので、久しぶりの家族との団らんは得難い休息になった。

 

 賤子は膝に吾子らを抱きながらもけっして筆の手を止めることはなかった。王子村でのおよそ三年の間に六〇篇ほどの作品をものした。その中には『小公子』に対になる同じバーネット夫人の『小公女』の翻訳もあった。

二七年八月には二女民子を出産した。日本が日清戦争へ突入したばかりの時であった。

 


  • 2021.03.22 Monday - 10:55

会津若松の火炎 *若松賤子の生涯*その17

*文筆活動・小公子の翻訳・言文一致体を模索

 

 

 

 賤子は文体に苦慮していた。結婚後発表した作品は口語体を使ったがまだまだ自分でも納得はしていない。しかし従来の漢文くずしや雅文体では十分に自己表現できない制約を感じていた。賤子がいちばん使いやすいのは英語であり英文である。しかしこれを発表の媒体とするのは言うまでもなく不可能である。

 

 もっと日常使う口語のような文体がほしかった。文末は「です」、「ます」で結びたかった。同じ時期に「言文一致体」に挑戦したのは二葉亭四迷であった。もちろん二人に出会いがあったわけではない。それぞれ孤独に試行錯誤、苦心惨憺、孤軍奮闘していたのであった。二人とも時代の流れを先取りしていたのかもしれない。しかし先駆者の仕事は困難を極める。二葉亭四迷は「浮雲」第三篇を発表した後、根が尽きてしまった。

 

 結婚の翌年、明治二三年九月二七日、賤子は長女清子を無事出産した。母子ともに元気であった。胸を患う身には生まれる日まで不安が付きまとった。周囲もハラハラした。そもそも不治の病を抱えては結婚そのものに苦言を持つ人もいた。無理からぬことであるから、賤子夫妻はその圧力に耐えるのも容易ではなかった。それだけに元気な赤子の誕生は夫妻にとって二重、三重の喜びであった。賤子には単に母になったという以上の思いがあった。

 新しい家庭像を描きそれを築こうとする賤子は「我ら二人なりしホームに先頃客人の来まして、はじめてまことの家庭を成しつるなり」と記している。賤子は、我が子はホームの客人というのだ。我が子は親の所有物ではなく、お越しくださったお客様というのである。ここには子どもは神からの預かり物、神からの使者であるとのキリスト教スピリットが躍如としていた。

 

 賤子は懐妊と同時に代表作となる『小公子』の口語訳に手を染め、『女学雑誌』に連載を始めた。それは明治二五年一月まで丸一年半で完結した。その間に長男荘民をも出産した。ところが賤子にとっては単純な出産と育児では収まらず、時に持病が牙をむき体をさいなむこともあった。執筆はそうしたすさまじいばかりの戦いの中で進められた。

 

 先述の相馬黒光は「病躯を床の上に横たえながらの仕事ですから、いっそう疲労も甚だしかったようです」と記す。しかし賤子は泣き言はいわない。一番近くにいる夫善治だけは妻を凝視し、実情を把握していたであろうが、差し出がましい忠告は極力避けた。妻の人格と使命感と情熱を重んじて全幅の信頼を寄せ、働きを受け入れていた。一方賤子もまた善治の大きな愛情を感謝し、同時に周囲の人々の気遣いを痛いほど察し、ありがたく思うものの、生き方を変える思いはなかった。

 

 『小公子』は当時の有名な文学者たちの賞賛を余すところなく勝ち取った。坪内逍遥、石橋忍月、森田思軒らが絶賛し、その他、森鴎外、巌谷小波等からも好評を博し、「豆腐と言文一致は嫌いだ」と豪語する尾崎紅葉にも一目置かれた。こうして『小公子』は広く愛読され、賤子の代表作となった。

 

 蛇足であるが、『小公子』の原作者バーネットはイギリス人であるが、一六歳の時、南北戦争が終わったばかりのアメリカへ移住した。『小公子』は一八八六年に出版されている。賤子が連載を始めたのはその四年後である。


  • 2021.03.01 Monday - 08:41

会津若松の火炎 *若松賤子の生涯*その16

*明治女学校と賤子の家庭

 

 

 そもそもフェリス時代から巌本善治、女学雑誌、そして明治女学校こそ賤子をひきつける強力な磁石であった。三つの力が一つになって賤子を抱え込み引っ張り込んだのだ。

結婚した賤子夫妻は東京麴町区三番町六七の新居に住んだ。この時善治は教頭であった。校長になるのは明治二六年である。同時に「女学雑誌」の主宰でもあった。

ここで明治女学校の成り立ちを紐解いてみる。                                                

 

 女学校はプロテスタントの牧師木村熊二が女子教育を目的として一八八五年に九段下牛ケ淵(千代田区飯田橋)に開校した。発起人は島田三郎、田口卯吉、植村正久、巌本善治であり、熊二の妻の田口卯吉の姉の鐙子(とうこ)が代表を務めた。ところが翌年鐙子がコレラで急逝してしまった。急きょ善治が教頭になって実務を執った。善治が賤子と逢うようになったのは教頭時代である。熊二と善治の関係であるが、二人は前述しているが同郷人であり、善治は下谷教会で熊二から洗礼を受けている。善治が二代目の校長になるのは明治二五年、賤子と結婚して三年目のことである。

 

 善治は学校創立の年の二か月早く創刊した『女学雑誌』の主宰もしていたことから、寄稿者を教師として招いた。星野天知、北村透谷、馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村、青柳有美ら新進の若い文人たち、哲学者、国文学者、すでに牧師として有名な植村正久、また内村鑑三もある時期教師として生徒の前に立った。そうそうたる気鋭たちである。今風には豪華キャストというのだろう。女性たちの顔ぶれもにぎやかであった。音楽の幸田延子、英語の津田梅子・若松賤子、医学の荻野吟子らも教えた。著者としては若き文学者たちの一人ひとりに言及したいが脇に置くとして、特に女性たちには一言添えたい。

 

 音楽家の幸田延子はかの文豪幸田露伴の実妹であり、露伴の娘幸田文の叔母に当たる。津田梅子が津田塾大の創立者であることはあまりにも有名であるが、医学の荻野吟子を知る人は多くない。吟子は日本初の公認第一号の女医として先駆的な働きをした。先年筆者は吟子の生涯に胸打たれ『利根川の風』を上梓した。

賤子はフェリス時代から吟子の名声を聞き知っていて、講演の中でも吟子の名を上げている。まだそのときは面識はなかったであろうが。

 

 ついでながら、これも先述したが、父松川勝次郎が東京麻布の賤子宅に転入するにあたっての転出先は札幌県後志国字島静色内町八番地である。この地は会津藩が斗南に屈辱の国替えになってから、その後、加増された土地である。勝次郎以下元会津藩士はそこにも入植して行った。

先般吟子の足跡をたどって、北海道のせたな町を訪ねたとき、町の一隅に『会津』と刻んだ一メートルほどの木柱を見た。これは会津の人たちが住んでいた証拠である。

 

 奇しくも、筆者の血を沸かす二人のパイオニア荻野吟子と若松賤子のかぼそい接点を見つけることができたのだ、なんという感激であろう。ところがその接点は面になるのである。賤子が結婚したころ、吟子は講師として医学衛生看護学を教えていた。吟子は同じ千代田区の本郷三組町に産婦人科を開業していた。善治は女子生徒たちには思想、文学もいいけれど、吟子の医学など実践的な学問も必要だと考えて吟子を招聘した。同時に校医としても就いてもらった。病身な賤子を思う一念が影響したのかもしれなかった。

 

 明治女学校は全国に名を馳せ一世を風靡した流行の先端を行く学校であった。全国から誇り高き良家の女性たちが集まってきたが校舎や設備は簡素というより粗末であった。フェリスには足元にも及ばなかった。ちょうどこのころ相馬国光と言って仙台からフェリスへ入ったもののその校風を拒否して明治女学校に入寮した悍馬のような才媛が、自著の中で「その建物の粗末なことは、そういう若い精神が盛られている学校とは見えない程で、机も椅子もがたがた、設備の点では全く零(ぜろ)な学校でした」と物語っている。

 

 賤子は結婚早々矢継ぎ早に「野菊」、「御向こうの離れ」、「すみれ」、「忘れ形見」を口語体で女学雑誌に発表した。しかし賤子は人知れず健康に悩んでいた。不治の病である病魔の攻撃にしばしば立ち往生した。内に燃え、あふれ出る火炎を表現したいのだが、根を詰めるとたちまち燃え尽きてしまいそうで、身の置き所のないほどの倦怠感に覆われた。

 

 賤子はおぼつかない足取りで校医荻野吟子を訪れることがあった。血の気の失せた蠟のような面に吟子は深く同情した。

「ミセスが持病をお抱えのことは陰ながら耳にしていました」

 吟子は賤子をミセスと呼んだ。その斬新な呼び名を賤子は気に入った。

「私も荻野先生のご高名は以前から存じ上げ、先生の生き方に共感しておりました」

  賤子は自分とは十歳以上も年上の吟子が頼もしい姉のように思われた。しかも医学のプロであることが心強かった。

「持病はなかなか完治しません。特効薬でも発明されない限り上手に付き合っていくしかありません」

 吟子の言葉には実感がにじみ出ていた。賤子は知らなかったが吟子には若き日に夫から移された性病が今もしぶとく巣食い、時に頭をもたげることがあった。

「はい、ドクターからもアドヴァイスをいただいています。しかし私は神から託された使命があります。それを推進するためには、この命も惜しくはありません」

「ミセスの情熱と使命感と優れた賜物には敬服するばかりですが、体が元手です。養生なさってください。それと、赤ちゃんがおられますね」

 吟子はさりげなく言った。

「えっ、赤ちゃんが」

 賤子ははっと面を上げた。頬がパッと赤らみきらきらと瞳が輝きだした。

「私の専門は産婦人科です。お産のお手伝いもしますよ」

 ついでながら荻野吟子は性病のために不妊の体になり、その後離縁され、一念発起して、女医の道を選び、前人未到の苦節十余年を歩んで、日本初の公認女医の免許を手に入れた鉄女であった。

 

 

 

  


  • 2021.02.02 Tuesday - 11:45

会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その15

 *花嫁のベール

 

 一

われら結婚せりと人は云う

また君はわれを得たりと思う

然らば、この白きベールを取りて

とくとわれをみ給え

見給え、きみを悩ます問題を

また君を嘆かす事柄を

見給え、君を怪しむ疑いの心を

またきみを信ずる信頼を

見給う如く、われはただ、ありふれし土

ありふれし露なるのみ

われを薔薇に造型せんとて

疲れて悔い給うなよ

ああ、このうすものを

くまなくうちふるいて

われそいとぐべきや 見給え

わが心をとくと見給え

その輝きの最も悪しきところを見給え

昨日君が得られしものは

今日はきみのものならず

過去はわれのものならず

われは誇り高くして 借り物を身につけず

君は新たに高くなり給いてよ

若しわれ 明日きみを愛さんがためには

 

  二 

われらは結婚せり、おお 願わくは

われらの愛の冷めぬことを

われにたためる翼あり

ベールの下にかくされて

光のごとくさとくして

きみに広げる力あり

その飛ぶ時は速くして

君は追い行くことを得ず

またいかに捕らえんとしても

しばらくしても 影の如く 夢の如く

きみの手より抜け出づる力をわれは持つ

 

 三

いなとよ われを酷と言い給うな

われを取るを恐れ給うな

生ある限り われはきみのものなり

きみが思うがままの者とならん

結婚のしるしとして 覆いとして

わが白きベールをまとわん

きみはわが主

愛しき人なることをあかしせんがため

そは消え去りし平和を覆うもの

また筆舌に表しえぬ恵みのしるしなり

             (乗杉タツ訳)

 

 賤子は大宮への道々で胸深く秘めていたこの英詩の一葉を善治に手渡した。善治は驚きもせずいかにもうれしそうに受け取った。賤子は今までにも自分の思いを書面にしたためて送ることがあった。相対しての会話では熟慮した思いや意志や意見をとっさには語りつくせない。賤子は後からじっくり整理して書き表すことが好きだった。話すよりも書くほうが得手だと思えるからだ。善治のほうも文を送られるのが楽しくて心待ちにしてきた。

 

 結婚早々のこの書面にはいったい何が書いてあるのか、賤子は何を言うのか、期待が膨らむのであった。

 結婚にこぎつくまでの多忙な日々、とりわけ式に臨むための数日来の支度のために賤子の体力はかなり消耗していた。もともと結核を病む体であった。結核は不治の業病なのだ。気力だけでは済まないのだ。賤子は大宮までのわずかな車中でも意識が濁るほど疲れ果てていた。目を閉じて消え入りそうな細い息をやっと繋いでいるようだ。そのかたわで善治は書面を取り出して開いた。

 

賤子はうつらうつらしていたが、紙を開く音が耳に届くと、ふっと体のこわばりが消えて意識がはっきりし、気持ちが楽になった。

きっと善治殿は困惑しておられるだろう。

私の真意をはかりかねているかもいれない。

いや、全部理解し受け止めてくださっているかもしれない。

笑っているかもしれない。

もしかしたら楽しんでいるかもしれない。

 

 善治はかなり長い時間じっと紙面に目を凝らし、小さくため息を漏らしながら考えているようであったが、それをまた折りたたんで懐中深く納め、賤子の肩を軽くたたいた。賤子はなにか言葉があるのかと待ち構えたが善治はずっと無言であった。しかし賤子は善治の気配から自分の思い、愛、理想がすべて理解され、同意されているのを感じ取った。賤子は満足した。自分たちの結婚は決して従来のような日本式因習にとらわれず、新しい時代の先駆けとなるものであり、新しい形の家庭を築いていくのだと、賤子の心はさらに強められた。善治は夫の役割、妻の役割を承知しつつ、人格的には神の御前に差別はないことを確認、確信したのであった。

 

 善治はこの英詩を英文のまま「かすみ」というペンネームで「女学雑誌一七二号に掲載したが、「訳しがたきに艱やむ」とのコメントをしたまま、長い間訳されないまま手元に置かれていた。外部からの大きな反響もなく、読者のそれぞれがそっと味わい記憶の隅にしまったようである。賤子はそれで良しとした。

 

「この白きベールを取りて とくとわれをみ給え」と賤子は最愛の夫に渾身の思いを込めて投げかけたのだ。当時、花嫁が夫にここまで己をさらけ出すことは考えられないことであった。この一篇こそ、時代の先端を行く真新しい結婚を示す象徴と言える。一人の女性として妻としての人権宣言の羽ばたきと言える。その希望を、理想を、信念を、賤子は果たそうとしている。実現させようとしている。空理空論であってはならないのだ。賤子は意気高く新生活に飛び込んでいった。

 


  • 2021.01.04 Monday - 13:31

会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その14

 *結婚

 

 明治二二年は賤子の人生にとって大きな意味を持つ特別な年になった。

 六月一日、フェリスは創立一四周年と献堂を兼ねた祝いの式を挙行した。前年に西校舎と南校舎が新築され、フェリスの第二期拡張工事が完成したのだ。緑の丘の上には赤い風車が立ち、まるで外国のようであった。冬場はスチームが通り、お湯が出るようにもなった。

 

 式典は大講堂、三〇〇人を収容できるヴァン・スコイック・ホールで行われた。生徒数は一八五人に達した。賤子が寄宿した当時は二〇人にも満たない少人数であり、教師として就任した時でさえ四〇人ほどであった。なんという発展であろう。賤子は夢を見ているようであった。賤子は祝辞を述べた。賤子はフェリス開校の日を知っているただ一人の貴重な存在である。草創期からこの日までの一四年間を回顧しながら、明日へのビジョンまでを、あふれる思いをこめて説得力豊かに熱く語った。

 演題は「Yesterday and Tomorrow」。

 ――フェリスは私にとって長い間隠れた唯一の家庭だった。私のうちにある良いところはすべてこの家庭で養われた。母であったミラー夫人は、女性は卒業したら家庭にはいるものと考えておられた。しかし女子教育に無関心であった世の中も婦人問題をとりあげるようになり、ブース校長は本格的な学校経営に着手した。カリキュラムを作り、施設の増築、生徒数の増加に大望を抱いて奮い立った。

 

 今やフェリスを生み育てた英雄たちは私たち日本人に席を譲ろうとしている。母の仕事は終わった。これからは日本人が負わねばならない。フェリスは、かつて与えられしものを、与えるべく出ていこうではないか――。

 

 賤子はフェリスの生きた見本であった。ミラー夫人、ブース校長のスピリットの化身だった。自立し社会へ進出して貢献する新しい女性像のモデルだった。賤子の内には消してはならない新しい炎が太く高く燃えていた。

賤子はこの講演を別れの言葉としてフェリスを去っていった。巌本善治夫人になるためであった。いや、それがすべてではなかった。若松賤子として、一人の女性として、フェリスで身に着けた資産を携えて社会へ出ていくためでもあった。

 

 賤子は七歳でフェリスの前進「キダーさんの学校」へ入ってから一四年の「Yesterdayを背にして、身を乗り出すように「Tomorrow」へ輝く視線を送った。過去を思うと、時に涙とうめきが漏れたが、明日には涙はない。意志の人若松賤子は澄んだ瞳で行く手を見た。その瞳に、前途を阻むであろう荒波や挫折や悲哀がうっすらと見えないはずはなかったろう。しかし賤子は自分の内に燃える神の愛と夫になる善治の愛情を信じていた。会津以来の火炎の人若松賤子の希望の炎は巌本善治夫人になろうとする今、なお熱く勢いよく燃え盛っていた。

 

 七月一八日、賤子は先に洗礼を受けた横浜海岸教会で結婚式を挙げた。

 

 その日は朝から快晴になり、数日吹き荒れた南風も止んでうだるような暑さになった。賤子の装いは長襦袢も着物も帯も白ずくめだった。ただ、和装でありながら白いベールを被った。ウエディング・ドレスを薦められ、だれもがそれが当然だと思っていたが、賤子はこの時ばかりは義母のえいや妹のみやの手を借りて、かねて決めていた通りに整えた。ベールは証人の中島湘煙(とし子)が整えてくれた。湘煙は賤子の案を面白がった。湘煙は賤子がフェリスの生徒時代の漢文の教師であった。とはいえ一歳上でしかないが、女性教育と文筆で活躍しており、賤子の手本とする才媛であった。

 

 夫君の中島信行は、前身は土佐藩士、会津城攻撃の時板垣退助とともに一番乗りで城下へ突入。家老であった西郷頼母の留守宅に乗り込んだとき、妻女以下幼い子どもまで二一人が自害していた現場を目の当たりにした。信行は後年折に触れて涙を流しながら語ったという。

 

 花嫁姿の賤子は凛としてこのうえもなく美しかった。一輪の白薔薇かとまがうほど匂い立っていた。かたわらの善治は純和風の羽織袴である。仲人はいない。中島湘煙・信行夫妻が証人に立った。彼らもまた和服姿であった。式はいうまでもなくすべてキリスト教式で行われた。ミス・モルトンの奏楽の中を二人は静やかに入場した。参列者は親族からは妹の島田宮子、継母松川えいと義弟の一、善治の養父巌本範治、兄井上藤太郎、妹井上香芽子、フェリスの友人たち、ほかに木村熊二、亡き燈子夫人の弟田口卯吉、民権家植木枝盛等が居並んだ。

 

 賤子は司式者ブース校長の方へ進みながらもベールを通して参列者の一人ひとりを意識した。皆心底から自分たちを祝ってくれているのだ。そう思うともったいないような幸せ感にあふれた。ふと、いちばんいてもらいたかった母へ思いがつながった。ひとかけらの記憶もないが母への恋しさがこみ上げてきた。同時に一年前に亡くなった父松次郎の面影がよみがえった。すぐそばにいるような気配さえ感じた。父と母に縋りつきたいような衝動が突き上げ、拭うすべもない涙がほほを伝わった。

 

 奏楽の音の中に、賤子は善治の足取りと息遣いを聞き取っていた。

この人は今何を考えているのだろう。父や母を思っているのだろうか。私の夫になる人なのに、夫婦になる人なのに、今、考えていることがわからない。伴侶と言えども心の中はわからない。自分の心のようにはわからない。なんともどかしいことか。

 

 賤子は当たり前のことだとわかっていながらも煩悶した。司式者の後方に視線を上げた。そこはほのかに明るかった。明るさは神から出ていることを信じた。そこには神がおられた。心の揺れは収まっていった。神がおられる。神は私のすべてを知っておられる。善治殿の心もすべて知っておられる。見ておられる。神は私たちを見ておられる。

 

 式が終わり、挨拶が済むと、二人は一同に見送られて大宮へ発った。さしずめ新婚旅行といえよう。 

 式では賤子はやや気持ちの高揚から感傷的になったが、一方では善治と結婚し、新しい人生を踏み出すことへの意義と決意をいよいよ固くした。その思いはいっそう現実味を帯び、会津以来の火炎はさらに新しい色合いを加えて勢いを増した。

 

 その思いを賤子は一篇の詩に託した。もちろん英文であった。

 

 


  • 2020.12.18 Friday - 09:00

会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その13

 

*巌本善治(よしはる)との出会い・賤子の恋情

 

『女学雑誌』といえば、本来は賤子ではなくてまずこの雑誌の発行責任者である巌本善治に強烈なスポットライトを当てるのが順当である。『女学雑誌』と巌本善治さらに彼のもう一つの代名詞ともいえる『明治女学校』こそ、賤子の新しい人生を開く魅惑に満ちた扉であった。

 

『女学雑誌』に魅せられた賤子は、まもなく巌本善治に魅せられていく。巌本善治こそが若松賤子を燃やした生涯ただ一人の男性であった。二人はまもなく結婚へと進んでいく。二人を結ばせたのはキダー師でもミラー師でもなかった。二人の間に人は要らなかった。二人の主義、信条、さらに信仰が愛を生み、育てたといえる。具体的な愛の使者は『女学雑誌』であった。 

 

 巌本善治は明治に先立つ五年前、但馬国出石、今の兵庫県に生まれた。賤子より一つ年上である。明治一六年、同郷の木村熊二牧師から下谷教会で洗礼を受けた。明治一八年に『女学雑誌』を近藤賢三と創刊したが翌年近藤が急逝したため、善治は明治三七年、五二六号で廃刊になるまで編集者としての任を続けた。『女学』の要旨は『女性の地位向上・権利伸張・幸福増進のための学問』と定義づけられる。

 

善治の妹の香芽子がフェリスで学んでいたこともあって、あるとき善治は講演に来た。善治の手元には『女学雑誌』が、賤子には『時習会』の会誌があり、二人の女子教育と文学にたいする志はたちまち一つになった。じきに二人は同志になった。いくら話しても話は尽きず、いくら論じても話題は続出した。善治の内に燃える炎と賤子の火炎は同じ色合い、同じ温度で燃え始めた。

 

まもなく賤子の炎には善治への恋情が加わった。善治が賤子に対して特別な想いを抱く前に賤子の方が先に恋をした。賤子が、先に、恋をしたのである。少し前、世良田氏から熱き好意を示されたがどうしても気持ちが付いていけず一方的に破談にしたのに、善治には自分の方から先に思慕が募ったのだ。恋とは理屈ではないのだ。賤子は我がうちに高まる不思議な熱情に戸惑いつつ苦悶した。

 

――巌本氏と語っていると、今までに感じたことのない喜びがあふれてくる。氏の深い見識から生まれる意見に圧倒され、それに同調し、納得し、自分と一つだと思うと、信頼感が生まれる。しかし、それにもまして、一緒に語らうことがうれしくてたまらない。もしかして、わたしは巌本氏を慕っているのではないか。この想いはなんだろう。恋ではないだろうか。わたしは巌本氏に恋をしたのかもしれない。時々彼の話し声が消えてしまう。話題は何でもいいのだ。ただ彼がそばにいるだけでいい。いつもいっしょにいたい。昼も夜もいっときも離れたくない。帰したくない。帰っていかせたくない――。

 

二人は仕事を挟んで頻繁に会うようになった。恋は言葉より先に相手の心に伝わるものだ。賤子の想いに感づいた善治は初めひどく驚いたらしい。彼もまた女性論、恋愛論、結婚観を熱く論じてはいた。その論は時代を先取りした卓見であったが、聞き手が一人の若き生身の女性であることはあまり気にしなかったようだ。その理論に意気投合した賤子を同志としては見ていても、恋の相手、結婚の対象とは考えなかったのだ。

 

 しかし、かたわらの賤子の全身から燃え上がる炎が見えないはずはない。その熱を感じないはずはなかった。賤子の中で女性性が眼覚めたように、突如、善治の男性性も目覚めた。そして、善治に賤子を拒む理由は何一つなかった。善治の驚きはたちまち歓喜に変わった。一組の若き男女の間に互いを慕う愛が芽生えたからには、結婚へ進んでいくことはごく自然のなりゆきであった。二人の意志は一つになった。外側から不都合や圧力のかかることは一つもなかった。

 

 ひとつだけ賤子には恐れていることがあった。結核を患う身であることを打ち明けねばならなかった。それには勇気が要った。最後の最後で、善治に去られても仕方のないことであった。賤子は善治を信じ切っていたが一抹の不安がないわけではなかった。「巌本様、私は不治の病、結核に罹っています。今は元気ですが、今後、どうなるかわかりません。ご迷惑をおかけすることが起こるやもしれません。大切なお仕事のお邪魔になるかもしれません。それを思うと申し訳けなくてたまりません」

 

 賤子は善治をひたと見つめながら、心の内を包み隠さず告げた。自分にも善治にも神の御前にも誠実でありたかった。「ああ、そのことですが、妹からとっくに聞いていますよ。また自然に耳に入ってきてもいます。あなたともあろう方が、そんなことで小さくなってどうするのです。病も健康も神のくださった賜物です。あなたのすべてを神がくださったのです。そのすべてを携えてあなたは私のもとに来てくださるのですね。私にしたところが、今のところ体は丈夫ですが、心の方はいたって弱い者です」

 

 善治は大きな笑顔で賤子を励ました。

 その一瞬、賤子の全身は炎と化した。内側からも外側からも火が吹きだし、燃え尽きてしまうかと思われた。しかし燃え尽きはしなかった。賤子は火炎の人であった。心の芯に強く激しい意志が立ち上がった。 この人とともに生きていきたい。働いていきたい。未知の世界へ、確かな希望に向かって進んでいきたい。賤子はあふれる涙のまま、思いをめぐらした。

 

 ――私は幸せ者。生まれたときから厳しい中にいたが、父母の愛があった、祖父母の愛があった。横浜の養父母にも愛された。キダー先生が愛してくださった。ブース夫妻が今もそばで慈しんでくださっている。そして、巌本様の愛がある。そのうえ神が永遠の愛で愛してくださっている。私は幸せ者。身に余る幸せをいただいている――。

 

 明治二一年夏、二人は互いの意志を公にして、神と人との前で婚約した。その一一月、父、会津魂の塊であった松川勝次郎が亡くなった。愛娘賤子の慶事を知って安心したのだろうか。確かにこの一点こそが会津戦争以来のすべての労苦を忘れさせたに違いない。上京して賤子といっしょに暮したのはわずか半年余りであったが、勝次郎には不足はなかった。未来の花婿巌本善治にも会ったであろう。善治の人品は勝次郎を満足させるのに余りあるものがあった。きっと賤子を幸せにしてくれる人だ。それ以上に世のために偉大な働きをする人だと確信し、二人の将来に明るい光を見たにちがいない。

 

 


  • 2020.11.18 Wednesday - 09:26

会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その12

*喀血

 

 真夜中に眠りが途切れた。世良田氏の件が収まってからはずっと快眠でき、一気にさわやかな朝を迎えていたのだ。ところが、うっすらと目が覚めたとたん、胸に突き上げるものを感じた。慌てて夜着の袖を口に当てた。受けきれないほどの血であった。

「この血はなんだろう。喀血か……、もしかして私は、結核に冒されたのでは……。主よ、主よ、あわれんでください」

 ――立ち上がれるだろうか、明日、仕事ができるだろうか――

 

 幸い喀血は一回きりであった。不快感も収まってきた。今さっきの出来事が夢の中のことのように思われるほど、体調は就寝前とちっとも変わらなかった。いっとき騒いだ心も鎮まった。朝になればもっと力が出て、いつものように生徒の前に立てる、いや、立つのだ。賤子は自分を奮い立たせた。一方で、喀血という事実は消せるものではない。体の中に見過ごしにできない異変が起こっていると思わずにはいられなかった。

賤子は血に染まった夜着を固く畳んだ。それを胸に押し付けながら思案に暮れた。

――たとえこのまましばらく収まったとしても、病に侵されていることは確かだ。信頼する方々にお伝えしないわけにはいかない。うそはつけない、神の前にも人の前にも。朝いちばん先にブース先生ご夫妻にお話ししよう――

 

 賤子は床の上に正座すると、そのまま夜明けまで神の御名を呼び、祈り続けた。

 翌朝、賤子はいつもより少し明るい色の着物と帯を揃えて装った。ブース校長のお考え一つで、もしかしたら昨日までとは違った道を行くことになるかもしれない。どのようになろうとも神がなさることに従うまでだと、すでに心は凪いでいた。

 

 ブース校長夫妻は、穏やかな表情でじっと賤子の話に耳を傾けた。

「こんなことがあった以上、私はもう教師としてここにいてはいけないと思います」

 賤子はすでに決心してそういったが、急に胸が詰まってしまった。

「だれが、ここにいてはいけないと言いましたか。私たちより先にそういった人がいますか。神がそう言いましたか」

 ブース校長は畳みかけるように質問した。

「いいえ、だれも……」

「そうでしょう。ああ、よかった。今の気分はどうですか」

 夫人が笑みを浮かべていった。

「はい、昨夜のことはうそのようで、いつもよりさわやかです」

「それはよかった。では、今日はいつものとおりにしてください」

 ブース校長はやさしくそう言った。さらに、

「あなたには特別に休暇を用意しましょう。しばらく静養すればすっかり元気になる。さっそく適したところを探します」と語りかけた。

「まあ、あなた、いいことに気が付きましたわ。賤子、神がともにいてくださりますよ。なにも心配しないで静養してください」

 

 賤子は肩を震わせてむせび泣いた。ブース夫妻の広く深い愛情が身に染みたのだ。今までにもキダー先生をはじめ、自分のようなものにそそがれる彼らの愛をもったいなく思うとともに、そこに人間を超えた神の愛が働いているのを見たのだ。今は二人のお言葉に甘えようと心を決めた。 賤子はそのひと冬を熱海で静養した。それが功を奏したのか、春にはフェリスに戻り、再び教壇に立つことができた。

 

 賤子が学校内に創設した課外活動の文学会『時習会』が三周年を迎えた。この会は次第に全校挙げての事業に発展し、十月二一日は『時習会記念日』と定められ、三周年記念事業をすることになった。

 

 発表会の当日、開会の辞の中で賤子は抱負を述べた。

「針と糸が女の仕事の象徴であった時代は過ぎ去りました。私たちは教育を受けた特権に安住せず、公益に最善を尽くさねばなりません」

 この挨拶は日本の女性史にとって画期的な声明になった。後日、英文で『女学雑誌』に掲載された。

 この一年前になるが、賤子はアメリカのバッサー・カレッジが企画した、世界各国の女性の状況の調査に、日本代表で担当した。賤子は日本における「女子教育の現状」と「自立の手段」の二つの柱を立ててまとめ、明治二〇年十一月に郵送した。その全文が『女学雑誌』九八号の付録に掲載され、また、翌年五月三〇日の東京日日新聞にも紹介され、反響を呼んだ。

 

 賤子は「女子教育の現状」の中で、早婚と年季奉公、女中の習慣が女性の就学を妨げている。国立大学は女性を受け入れない。代わりにミッション・スクールが大きく貢献していると述べ、「自立の手段」では、女性の職種を具体的に挙げた。多くの女性たちは相変わらず茶道、生花、器楽、舞踏の師匠を仕事とし、また低収入しか得られない産婆、裁縫、洗濯、髪結いなどにやむを得ず就いている。最近ようやくいくつかの専門職の道が開かれてきており、その筆頭は学校の先生、特に英語教師が求められ、ミッション・スクールの卒業生が活躍している。続いて、現在、たった一人だが婦人科医(有資格者)がいる。〔筆者から・この婦人科医とは荻野吟子のことである。吟子は明治一八年に日本初の公認女医第一号として、本郷の三組町で開業中であった〕。さらに音楽、美術、文学などにも言及し、「日本の文化を一瞥するに、西洋の社会制度を取り入れようとしているがまだ本当の姿を学んでいない。キリスト教文化が社会の隅々にまで浸透することを祈る」と結んでいる。

 

 賤子の女性論は社会の先端を行くものでありさらに未来へつながるものであった。こうした幅広い知識とそれを基にして理論を展開していく能力はどこから得たのであろうか。フェリスでの学びや教職期間が長いとはいえ、直接の教師たちはキリスト教伝道に来日した宣教師たちである。フェリスの授業も女性向きのものが多かったのだが、賤子の学識は高いものがあった。賤子は英文の書物を手に入れ、それらを通して欧米の知識を吸収してきた。

文学書はもちろんであった。賤子には体得した知識を表現する能力があった。文筆力である。その力は賤子のうちにひそかに燃え続ける火炎に熱せられ煽られて、人の理性に働きかける説得力と、心を揺さぶる情感あふれる文章となって出現した。

 

 『女学雑誌』は賤子の文学的火炎を盛るのにまことに適した受け皿であった。これなくしては賤子の文筆の花は咲かなかったであろう。その意味では神が賤子のために特別に用意されたと言っても言い過ぎではないだろう。賤子の代名詞ともいえる『小公子』は実にこの雑誌を舞台に華麗に繰り広げられたのだから。

 

  


  • 2020.10.27 Tuesday - 11:21

会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その11

*縁談に迷う

 

 結婚について考えないことはなかった。賤子は独身主義ではない。明治の半ば、二三歳といえばむしろ婚期を過ぎたと思われた時代である。当時の女性には早婚と女中奉公が習慣であり、大方の女性たちはその道を進んだ。それはその後も長く続いた。

 

 フェリスに学ぶ女性たちでさえ例外ではなかった。女中にこそ就かなかったが、多くの生徒たちが入学してもまもなく結婚のために退学していった。賤子はどれほどの結婚話を見聞きしてきたことか。しかし自分を外に置いたことはなかった。周囲の結婚風景の中で賤子の結婚観は養われていったと言っていい。

いつか自分もすばらしい伴侶に巡り合い、理想的な家庭を築きたいと願わないことはなかった。ことに女子教育に深くかかわる中で、女性の結婚は教育論の中心であった。賤子なりの男性像、家庭像が描かれていった。しかしあくまでも理論であり空想であり夢の域を出なかった。

 

 ある時から、賤子の結婚が具体的な姿を取ってきた。一人の男性がその対象としてすぐ真近に現れたのだ。 ミラー夫人が折り紙付きで薦める男性であった。「賤子、わたしはミスター・リョウ・セラダこそあなたのハズバンドとしてもっともふさわしい方だと信じますよ」

 ミラー夫人は単刀直入に迫ってくる。

「はい、ありがとうございます。いつも私のことをお心にかけ、お祈りとアドヴァイスをいただき深く感謝しています。先生からそのように保証されると、安心してお付き合いができます」

 賤子にとってミラー夫人ことキダー先生はいつになっても変わらない大切な恩師であり優しい母である。ミラー夫人の気の入れようはたいへんなものだった。

 

 世良田亮氏、三〇歳。

 氏は妹春子が生徒だったことから機会あるごとにたびたび学校にやってきた。信州上田の出身で海軍士官、大使館づきで実際に渡航の経験があり海外の見聞も広く、礼儀正しい申し分のない紳士であった。賤子の男性像にもかなった人で、好意を寄せることができた。周囲の好奇の目は並々ならぬものがあったが、みな温かく見守り二人の結婚を待ち望んでいた。世良田氏はキリスト者として立派な信仰を持ち、のちに日本基督教会伝道局長、東京青年会会長としても活躍し、植村正久は「武人たる神学者」として賛辞を惜しまなかった。

 

 しかしである。他人がどんなに良い評価をしても、自分の結婚相手として考えるとなると、まったく違った見方があるのではないだろうか。その人の風貌や人格、生活力や社会的立場に非の打ちどころがなくても、また自分に対する愛情や誠実がどんなにあふれていても、自分自身が納得できなかったら、どうしようもないではないか。理性では受け入れられても心において、情において、すべてを超えてなお燃えるもの、内なる炎こそ第一になるのではないか。賤子はそう考えるのだ。一番肝心のところで、会津の火炎の人、フェリスの炎の人、賤子の内なる炎が燃え上がらないのである。

 

 確かに世良田と時を過ごすのは楽しかった。話も弾んだ。特に世良田の外国の話は賤子には刺激的だった。アメリカの話、イギリスの話には夢中で耳を傾けた。しかしそれ以上ではないのだ。一人になると、賤子はホッとするのだ。心が広がるのだ。結婚相手に対してそれでいいのだろうかと、賤子は悩み始めた。

 賤子は次第にわかってきた。自分には世良田を恋慕う思いがないのだ。結婚相手には、身を焦がし、彼のためなら死んでもいいような激しい感情が必要なのではないか。ひと時も離れていられないような、寝ても覚めても想い続け慕い続け恋い焦がれる炎が必要ではないか。

――私は世良田様を愛してはいない――。

 賤子ははっきりそう悟った。

 

 愛してもいない人とともに生きることはできない。神はどのようにお考えになるだろうか。キダー先生はじめ多くの人たちが親身になって自分のことを心配し、真心から幸せを願って薦めてくれるから、それをありがたく思って結婚するべきなのだろうか。また、世良田氏が自分を愛し受け入れてくださるから結婚するべきなのだろうか。しかしそれだけでは神の前に夫婦としてのまことの愛を誓うことはできない。それは神にうそをつくことになる。何よりも私は、神と自分自身に正直でありたい。

――だれが何と思うと、キダー先生がどんなに失望しても、お断りしよう――

 

 賤子は数日間神の御前に自分をさらけ出して祈り続け、固く決意した。心に一陣の動揺もないことを確かめた。むしろ晴れ晴れとし、神の微笑みさえ感じた。世良田氏に直接お断りした。キダー先生にもありのままに打ち明けた。世良田の妹春子にも心を開いて話した。皆、理解してくれた。もちろんひどく残念がったけれど、賤子を非難する人はいなかった。世良田氏は心中の打撃は大きかったであろうが、潔く引き下がり、屈辱に耐えてくれた。賤子はいたずらに妥協しなかった自分に満足した。神の深いあわれみと導きに感謝した。 

 


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