サムエル記を愛して その43  終わり

 今回で「サムエル記を愛して」は終了です。

長期にわたっての掲載になりましたが、

忍耐を持って愛読してくださった皆様に、

心から感謝申し上げます。

 

サムエル記第二・第二一章〜二四章(終章)  

 

 この章から二四章の終章までは、一般には、付記として扱われています。

今までに書ききれなかったことや前後関係が不明瞭な事柄なのでしょう。思い出して書くと言う作業の中で、順序立てては入れられないが、闇に葬ってしまうわけにもいかない、そこにも神が働いておられるのだからと、選択、収録されたのかもしれません。

 

 二一章では、国を襲った大きな飢饉の原因がサウル王の罪にあることを主から示されたダビデが、その清算をして王国の安泰を得る記事があります。この罪はサウルがギブオン人を滅ぼそうとしたことです。イスラエルとギブオンはヨシュアの時代に和平契約を結んでいたのです。主はサウルの罪を見逃しませんでした。ギブオン人はサウルの子どもたちの命を要求してきます。ダビデは七人を引き渡すのです。サウルの罪をダビデと王国が負うことに違和感を抱きますが、神の支配する国に未処理の罪があってはならないのです。ダビデは王国の最高権力者ではあっても、神様から託された神の国の管理人なのです。

 

 二二章はダビデの賛歌です。『主がダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを主に歌った』と前文に説明があります。

見ればこの歌は詩篇一八篇とほとんど同じです。詩篇の中でも有名で親しまれています。しかし詩篇の中の一つとして読むのと、サムエル記の終わりに当たって読むのとでは迫って来るものが違いリアル感が強いのは不思議です。

 前書きの『特にサウルの手から彼を救い出された日に』が、胸に迫ります。救い出された日とはどの時のことでしょうか。確かなことはわかりません。ダビデはどれほどサウルに苛められたことでしょう。いきなり槍を投げつけられることから始まって、三千人の精鋭を引き連れて追いかけられることもありました。その度に危機一髪のところで助かってきました。神が救ったことは明らかです。ダビデもそれがわかればこそ、こうして魂を全開して神を賛美し神に感謝し、美しく歌い上げているのです。

 

 二三章の前半はダビデの最後のことばとされていますが遺言とは違うようです。人生の集大成としての神への賛歌ではないでしょうか。

『義をもって人を治める者/神を恐れて治める者は/太陽の上る朝の光/雲一つない朝の光のようだ/雨の後に/地の若草を照らすようだ』3、4節。実に今や世界はこうしたリーダーを切望しているのではないでしょうか。

後半の、ダビデ軍団、ダビデ王国の勇者の一覧は楽しい限りです。戦いの猛者たちですが、神の国のために選ばれた王ダビデに誇りを持ち、命を賭して仕えた人たちなのです。

 

 二四章の最終章が結びとは思われない記事で終わるのは理解に苦しみます。旅のバックに、思い出して大急ぎで突っ込んだグッズのようではありませんか。しかし内容は意味深長で理解に苦しみます。テーマは聖書の他の箇所でも出てくる人口調査です。国民の数を知るのは為政者にとっては大切ですが、それをどのように用いるかが問われるのでしょう。《数》は所有者の誇りになります。ダビデは、自分の罪がわかるとすぐに悔い改めて償いをします。神へのいけにえは、悔いし砕かれた魂!この姿勢こそ神がもっとも喜ばれる信仰なのでしょう。

 

 ダビデの信仰の結語は《主はわが羊飼い》!!

 

おわりに

聖書の風は止むことはありません。

主の愛には終わりはありません。

これからも永遠に力に満ちたいのちの風をそよがせ続けるでしょう。

しかし、

キャッチする人間のいのちは有限です。

いただいた聖書の風を、いつまで文章化できるか、

それは、神のみぞ知る領域です。

風に吹かれて、風に導かれて、

ペンも持つ手(実際にはキーを叩く手)が動く限り

細々ではあっても

書き続けたいと思ってはいますが

ひとまず手を休めます。

 

ハレルヤ!!

 

 

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サムエル記を愛して その42

 

サムエル記第二・第二〇章 ヨアブの行動

 

 もともと十二部族から成るイスラエル国家ですが、初代のサウルはベニヤミン族出身、ダビデはユダ族から出ています。リーダーを排出する部族は何かと優位に立ちます。要職には出身地の者たちや親族やお気に入りが占めるのは今も昔も変わりがないようです。いわゆる《お友達内閣》でしょうか。先の王サウルのベニヤミン族がダビデに抱く怨念は深いものがあります。今の時代よりもっとすさまじい敵対関係があります。血で血を洗う闘争もありました。

 

 一方、ダビデとアブシャロムの悲劇は、ユダ族の、しかも王家の血縁関係、突き詰めれば単に親子関係のもつれです、そしてその絆の破綻と言えます。しかし単純ではありません。関係者を巻き込んでいきます。利害が絡まって行くからです。今回のアブシャロムの謀反は国中を巻き込み混乱させる迷惑千万な出来事でした。

 

 そのどさくさに乗じてベニヤミン族のシェバというものが、民心を巧みに操り扇動してダビデに反抗します。思わぬ伏兵です。聖書は『たまたまそこによこしまな者で名をシェバという者がいた』と書き出しています。「たまたま」という言葉が面白いです。シェバの謀反は深謀遠慮の末ではないのでしょう。しかし『すべてのイスラエル人は、ダビデから離れてシェバに従った』2節、のです。

 

 ダビデのそばにいるのはユダ族だけです。ダビデは、事件を重大視し、ヨアブに代わって長にしたアマサに三日のうちに全ユダ族を招集せよと命令します。ところがどうしたことかアマサは指定された期限に間に合わなかったのです。理由はわかりません。しかしあってはならないことです。重責を担う資格はないと言えます。アマサは着任早々に失態を演じたのです。

 

 そこへ登場したのがヨアブです。ヨアブはアブシャロムに直接手を下したことから、軍団の長を解任されてしまいました。しかし彼は無冠であってもダビデのそば近くにいたようです。ヨアブはすぐに昔取った杵柄を使ってかつての部下たちを集め、ともにシェバを追います。ダビデは黙認したのでしょう。

 

 ところがそこへかのアマサがやってきます。アマサの行動は理解できません。ヨアブは一突きでアマサを殺してしまいます。なぜ殺さねばならないのかそれもわかりません。ヨアブは過去にも直接、何人も殺しています。残忍な人のように思えますが、その殺人はダビデを助ける結果に繋がっているのも動かしがたい事実です。ヨアブは単に私利私欲で邪魔者を征伐しているのはなく、ダビデを助け王国を守っているともいえます。

 

 ヨアブの存在はダビデにとって、今風に言えばウザったいのですが、いないと困る人でもあるのです。ヨアブもまた、ダビデに一物ありながら、その人のそばにいるほかはない自分を知っているのかもしれません。 

 

 シェバの造反は、ヨアブの知恵で地域の人々の平穏な暮らしを犠牲にすることなく、シェバ一人だけが征伐されて収束します。こうしてヨアブはシェバの首を手土産にビデのもとに帰ります。この章の最後にダビデ内閣の顔ぶれが発表され、ヨアブは全軍の長に返り咲きます。その後のヨアブについては『列王記』で知ることになります。

20:52 | - | - | pookmark
サムエル記を愛して その41

サムエル記第二・第一九章  エルサレム帰還の途上で

 

 謀反とはあってはならない非常事態です。子が親に反逆するのを謀反と言うのか、いささか違和感がありますが、ダビデとアブシャロムの場合は、単なる親子の問題ではなく、国を二分するような公の事件だからでしょうか。謀反で有名なのは、信長の家臣明智光秀が起こした本能寺の変がありますが、裏切ったほうも裏切られた方も、表向き勝利したほうも負けたほうも支払う犠牲は大きいものがあるはずです。

 

 ダビデの場合、国中を動員して謀反人を征伐できたのですから、ダビデ側の大勝利といえます。勝利者は歓声をあげて凱旋できるのです。ところがダビデは、我が子の死を嘆いて泣き続けます。これでは命がけで戦った民は立つ瀬がありません。

 

 一番不服に思ったのはヨアブです。ヨアブがダビデの心を知りつつもアブシャロムを打ったのは、ひとえに王国のためでしょう。いつまでもダビデが取り乱していたら、民心はダビデから離れることは自明のことです。ダビデは民をねぎらい、速やかに都に入り元通り王座に着き、政務を執らねばならないのです。一国のリーダーなのですから。

 

 ヨアブはダビデに向かって怒りを込めた口調でなじります。5節から8節まで、ここまで言うかと思えるほど長々と非難します。『もし、アブシャロムが生き、われわれがみな、きょう死んだのなら、あなたの目にかなったのでしょう』6節、と、まるで捨て台詞です。

 

 あの、バテ・シェバ事件ではひとことも言わなかったヨアブですが、ここにきて、ダビデに愛想を尽かしたのかもしれません。堪忍袋の紐が切れたのかもしれません。一方でヨアブは、ダビデに、早く民の前に出て 労をねぎらうようにとのアドバイスを忘れません。この一言でダビデは目が覚めたかのように事後処理に向かいます。ダビデの本領が素早く発揮されます。

 

 ちょっと立ち止まって考えたいことは、ヨアブとは一体どんな人だったのか、です。太陽のような英雄ダビデのそばで、まるで影のように寄り添って支えてきた人なのです。その割には報われません。損な役割です。ダビデのそばに近づきすぎて、ダビデの欠点を知りすぎたかもしれません。それが不信感に繋がってしまうことは世間にはよくあることです。ヨアブこそ謀反を起こしたかったかもしれません。明智光秀のように。この後すぐに、ダビデはヨアブを更迭するのです。思えばヨアブは不運な人です。

 

 さて、ダビデはエルサレム帰還に際して、大義名分を立て、凱旋将軍並みの演出をします。まず、ユダの長老たちに出迎えるようにと告げさせます。全王国の前で威風堂々と都入りをして王たることを再確認させ、威信と信頼を集めたかったのでしょう。一時騒然とした王国も、大嵐は跡形もなく過ぎ去って、今や青空のもとに太陽のように輝く神の国ダビデ王国を民の目の前に見せ、納得させ、民心に安心と希望を与えたかったのでしょう。

 

 ヨルダンの対岸ギルガルは出迎えの群れで大賑わいです。ユダの人々に混じって、ダビデを罵倒したゲラの子シムイ、サウル家のツィバ、メフィボシェテ、八十歳のギルアデ人バルジライなど、これまでに登場したすべての人たちの顔が見えます。ダビデは大いに満足したでしょう。ところが、同じ王国の民でありながら、ユダ部族を除くイスラエルとユダとの間に些細なことから波乱を含んだ緊張が生じるのです。

 

10:07 | - | - | pookmark
サムエル記を愛して その40

サムエル記第二・第一七章 親子決戦の前夜模様

 

 都に入って一見勝利者のように見えるアブシャロムですが、このままで済むとは思っていません。父ダビデの命を奪うまでは解決はないと思っています。その積りであり覚悟です。一方、ダビデも息子に都をあけ渡したもののとりあえずの応急処置であり、全面対決の場があると覚悟していたでしょう。

 アブシャロムのそばには、その助言は神のことばのようだと絶対的な信頼を得ているアヒトフェルと、ダビデへの忠誠を心に秘める、これも知恵者のフシャイがいます。アブシャロムはダビデ討伐の作戦を二人に訊きます。二人の意見は正反対でした。アヒトフェルは、自分に兵を与えてくれれば、きっと王だけを撃ち殺してみせると言います。ところがフシャイはアブシャロム自らが全軍を率いて戦いに出ることを進めます。

 アブシャロムはこともあろうか、ダビデの家来であったフシャイの進言を受け入れるのです。見逃せないひとことが続きます。『主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからである』14節。この戦いは主の戦いでもあったのです。主が味方である戦いに敗戦はありません。『神もし我らの味方なれば、だれか我らに敵せんや』です。(文語訳 ローマ八章31節)

 フシャイはひそかにヨナタンとアヒマアツに事の次第を告げ、ダビデには速やかにヨルダン川を渡るようにと助言します。一方、アヒトフェルは失意のうちに自死します。

 

サムエル記第二・第一八章 アブシャロムの心臓を突き通すヨアブ

 

 ヨルダン川を越えてマハナイムに逃げ延びたダビデは、いよいよ決戦の時期が来たと判断すると、長年鍛えた軍人の経験からすばやく戦闘態勢を整えます。『民の三分の一はヨアブに、三分の一をヨアブの兄弟アビシャイに』、2節。残りはガテ人イタイの指揮のもとに置きます。戦略上、ダビデは最前線に立たないことにしましたが、三人の長たちに『若者アブシャロムをゆるやかにかに扱ってくれ』と命じます。懇願とも取れます。ダビデは我が子を惜しんでいるのです。親ごころでしょうか。しかし戦いとは敵の将を射とめて初めて勝利であり終結するのです。ゆるやかに扱うとは何を意味するのでしょうか。

 戦場はエフライムの森。密林で行き倒れになった者の方が多かったとあるように、樹海の様な所なのでしょう。アブシャロムは樫の木に頭が引っかり宙づりになってしまいます。それを見たダビデ側の兵士がヨアブに報告します、10節。彼はたとえ敵であっても王子を打つことはできなかったのです。

 ところがヨアブは『三本の槍を取り、まだ生きていたアブシャロムの心臓を突き通した』14節。ヨアブのしたことは戦いの責任者として当然のことです。しかしことは複雑です。ダビデから、ゆるやかに扱ってくれと直々に頼まれているのです。それはとっくに承知しており、ダビデが自分を赦すまいとはわかっていたはずです。

 戦いは終わりますが、ダビデは『わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに』と、ところ構わず泣きながら叫び続けたのです。

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サムエル記を愛して その39

サムエル記第二・第一六章 ダビデ、アブシャロムの周辺模様

 

 この章は緊迫するダビデの側と空っぽのエルサレムに入ったアブシャロム陣営の様子が同時進行で記されています。二つの舞台を一つの観客席から眺めているようです。両陣営の様子が手に取るようにわかります。

 

 ダビデの逃避行は続きます。はだしで泣きながら登ったオリーブ山からエリコ方面へ下ろうとしています。そこへヨナタンの忘れ形見メフィボシェテに仕えるツィバがたくさんの食糧を持って出迎えます。陣中見舞いでしょうか。ダビデがメフィボシェテの安否を問うとツィバは、主人はエルサレムに、つまりアブシャロム側にいて、サウル家再興に期待していると告げます。それが事実かどうかわかりません。どさくさに紛れて火事場泥棒を働く人がいるものです。敵か味方か、とっさの判別は困難です。

 

 ダビデはツィバを丸ごと信用したのか、メフィボシェテのものはすべてあなたのものだと言ってしまいます。すり寄って来る人がうれしかったのでしょうか。

  ところが、サウル家の一人であるシムイが現れて、ダビデ一行に石を投げつけて悪口雑言の限りを尽くしてダビデを呪います『出て行け、出て行け。血まみれの男よこしまな者。/主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した/おまえは血まみれの男だから』7、8節。『血まみれの男』とは、ダビデに敵意を抱く人ならそういう言い方になるのでしょうか。それにもしても失礼千万ではありませんか。人の弱みに付け込む卑怯なやり方です。

 

 ダビデの忠臣で側近中の側近アビシャイは憤慨のあまり『首をはねさせてください』とまで申し出ます。しかしダビデは意外なほど落ち着いて『私の身から出た私の子さえ私のいのちをねらっている。このベニヤミン人としてはなおさらのことだ』11節、と言い聞かせます。他人が言うならそんな理屈も成り立つでしょうが、命の危険にさらされている渦中で、どうしてこうまで悟りきったことが言えるのでしょう。自分の罪を思い出しているのでしょうか。あのバテ・シェバ事件を、です。ウリヤを殺させたことは忘れようとしても忘れられない悔いとなっているのでしょう。シムイの悪態も、主がさせているのだと甘受しているのです。徹底的に打たれ砕かれる姿に、むしろ清々しさを感じます。

 

 ダビデ一行は心身ともにへとへとに疲れ果ててしまいました。

 一方、エルサレムのアブシャロムはダビデの信任厚かったアヒトフェルが味方になったことで大いに気をよくしています。そこへなんとダビデの友フシャイまで恭順の意を表してやってきたのです。アブシャロムはこれには驚いてしまいます。『王様、ばんざい。王様、ばんざい』16節と駆け寄るのですからさすがのアブシャロムも『これが、あなたの友への忠誠なのか』と皮肉るほどです。

 

 フシャイは心の中心に神とダビデを据えながら『私は友の子に仕えるべきではありませんか』19節と、まことしやかに言い放ちます。アブシャロムはその理屈を疑おうとしないのです。数年かけて周到に策を練った謀反人とは思えないほど軽率です。軍人として政治家として王として信仰者としての父ダビデが、どれほどの人物であるのかを知らないのです。ダビデの側近たちの命がけの忠誠心も知らないのです。所詮、世間知らずのお坊ちゃま王子様なのです。

 

 あとはアヒトフェルとフシャイにまかせておけばよいと考えたのか、ダビデが残した十人のそばめたちに近づいていくのです。

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サムエル記を愛して その37

サムエル記第二・第一四章 ダビデ家の悲劇

 

 

 久々にヨアブの登場です。王国の陰でなお隠然たる地位にある将軍ヨアブは、ダビデの姉ツェルヤの息子です。同じいとこ同士で、ダビデより年長と思われます。男三人兄弟の長子、三人ともダビデの側近です。もっとも末のアサエルは早々にアブネルに殺されてしまいますが、そのアブネルをヨアブは公然と殺害しています。かたき討ちの意もあったでしょう。しかし、ダビデはアブネルの殺害をよく思っていません。互いの胸の中には不穏な闇がただよっています。

 

 外側からは二人の内心を推察するばかりですが、ともかくも、ヨアブはダビデにたいへん忠実です。ダビデもヨアブの弱みを握っている強みからか、バテ・シェバ事件ではウリヤ殺害の命をくだしています。ヨアブはすべてを見通したうえで、職務として王の命に服従するのです。そして、この章でも壊れかけている父と息子、ダビデとアブシャロムの関係修復のために腐心しています。

 

 タマルレイプ事件を引き起こした異母弟アムノンを殺害したアブシャロムは、母方の祖父の所に逃亡したままでした。ダビデはいつまでもアムノンの死を嘆くばかり、そのまま三年が過ぎました。王位後継者第一位のアブシャロムを放っておいていいのかとヨアブは思ったことでしょう。手立てを尽くしてダビデの同意を得、ついにゲシュルからアブシャロムをエルサレムに連れて帰ります。アブシャロムはその足でダビデに会って、気持ちよく和解し、その後自宅へ帰ろうとさえ思ったかもしれません。しかし、ことによったらタダでは済むまいと、ある種の覚悟もあったでしょう。そうでなければ三年もの逃亡生活に終止符を打って帰国するはずがありません。

 

 ところがダビデはヨアブに言うのです『あれは自分の家に引きこもっていなければならない。私の顔を見ることはならぬ』24節。ダビデの心はいつになくかたくなです。せっかく帰ってきた息子を罪人のように閉門蟄居しておれというのです。赦すなどとはほど遠く、もしかしたら、これが形を変えたアブシャロムへの制裁だったかもしれません。これにはアブシャロムも、間に立ったヨアブも大いに当惑したのです。そのまま、さらに二年が経ちました。アブシャロムは心の持って行きどころがなかったのでしょう、仲介役のヨアブを逆恨みして、家来たちに命じてヨアブの麦畑を燃やしてしまいます。抗議するヨアブにアブシャロムは『私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない』32節、と言います。これはアブシャロムの偽らざる心境でしょう。

 

 ようやく、ダビデはアブシャロムを呼び寄せます。アブシャロムは、王の前にひれ伏し、王は近寄って口づけをします。しかし、なぜかこの邂逅には心打つものを感じません。空々しいばかりです。

 

 しかし、考えてみますと、この事件は肉親間のトラブルとは言え、単なる一家庭の問題ではなく王国に深くかかわる一大事です。ダビデは二人の王子たちを取り巻く人々の心情と動向を注意深く観察していたのかもしれません。ダビデの出方一つで王国の屋台骨が揺らぎかねません。しかし五年も経てば双方とも激した思いも静まるでしょう。

 

 ダビデは月日の経過に託していたのかもしれません。神の時を待っていたのかもしれません。

12:04 | - | - | pookmark
サムエル記を愛して その36

サムエル記第二・第一三章 ダビデ家の悲惨 

 

『その後のことである』1節。なんとも意味深長な書きぶりです。この後って、なんの後でしょうかと問いたくなりなりますが、問うまでもなく、ダビデの姦淫事件の後を指さすのでしょう。神はダビデの犯した罪は赦すが、『あなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす』一二章11節と予言されました。つまり、罪の結果、家庭の中に問題が起きますよといわれるのです。

 

 しかし、神よ、ちょっと待ってください、読者としては納得できません、親の罪は子に及ばないとは律法以前からの約束ではありませんか、聖書の信仰に因果応報はないはずですと申し上げたいのです。イエス様は目の不自由な人に、本人の罪でも親の罪でもないと明言されたではありませんか。あれこれと反論したくなりますが、神と論陣を張れる人はいないでしょう。あのヨブでさえ、長期戦のあげく明確なロジックを得ないまま御稜威の前にひれ伏し、それが唯一の完全解決であったのです。

 

 さて、ダビデ家に起きた最初の災いは、これぞまさに顔を背けたくなるほどの暗澹たる近親強姦事件です。ダビデの子アブシャロムの妹、可憐な王女タマルが、ダビデの子のアムノンに強姦、つまりレイプされ、捨てられてしまうのです。タマルとアムノンは、腹違いの兄妹同士です。この事件が知られないはずはありません。まず、『ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った』21節、のです。兄のアブシャロムは、タマルに、今は黙っていなさいと言いがらも、アムノンを憎みます。つまり、ダビデもアブシャロムも内心では怒り憎んでいるのに、表立ってアムノンに物言うことはしないのです。どす黒い憎悪の炎だけがひそかに燃えさかっているのです。しかし、だれの心にどれほどの憎悪が潜んでいるかは外側にはわからないのかもしれません。みんな黙っているだけですから。

 

 ダビデの家族は、妻たち子どもたちとは言っても血のつながりは薄いのです。おそらく屈託のない団欒などはなかったでしょう。家長としてのダビデがどれほど家族に気を配ったかは疑問です。妻たちそばめたちが大勢いてもいわゆる一家の母はだれなのか、その人の影響力はあったのかどうかも問題です。ダビデ家には秩序も愛もなかったのです、

 

『それから満二年たって』23節、と書き出して、また忌まわしい事件が記されます。二年間、つまり二年もお互いの顔色を上目づかいで盗み見合っていたのです。しかし、ついに一つの噴煙が上がりました。

 タマルの兄のアブシャロムが、羊の毛の刈り取りの祝いに、王の息子たち全員を招待します。ダビデのところにはわざわざ自分で出かけて行き『王も、あなたの家来たちも、このしもべといっしょにおいでください』24節、と誘います。ダビデは上手に断りますが、アブシャロムはアムノンを行かせてくださいと頼み、王の許可を得ます。不気味です。アブシャロムの魂胆を察知しないダビデとは思えませんが、どうしたことでしょう。

 

 宴たけなわのころでしょうか、『アムノンを打て』28節、との命で、アブシャロムの筋書き通りアムノン一人が殺され、他の王子たちは逃げ延びます。兄弟殺しです。カインが兄アベルを打ったように、ダビデ家も兄弟殺しから悲劇の幕が切って落とされました。

 

 

 

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サムエル記を愛して その35

サムエル記第二・第一二章 神に赦されるダビデ 

 

 この章の1節から12節まではまさに息づまる場面です。息を止めないでは読めません。預言者ナタンは神から託された鋭い刃物で、まるで動物の腹を裂くようにしてダビデの罪をえぐりだします。

 

 ナタンは、貧者から平然と持ち物を奪う強欲な富者の話をします。貧者とは兵士ウリヤ、奪うのはダビデ、取り上げたものはウリヤの妻バテ・シェバであるのは一瞬でわかります。にもかかわらずダビデはたとえ話の男に激しい怒りを燃やし『主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ』5節、と叫ぶのです。権力の玉座から判決を下す最高裁の長のようです。しかし笑止千万です。

 

 すかさずナタンは『あなたがその男です』7節、とダビデを指さして糾弾します。ダビデは今度は被告人です。とはいっても、実際にはダビデは神のように生殺与奪の権を握る王です、預言者といえどもナタンの立場はダビデより強かったとは思えません。世々の王たちがどれほど預言者たちを迫害したかは、だれもが知るところです。この時のナタンの命はダビデの胸ひとつです。「無礼者!」で切り捨てることもできるのです。ナタンはそれを知ってなお、迫ります。命がけで神の命に従ったのです。

 

 ところが『ダビデは「私は主に対して罪を犯した」とナタンに言います』、13節。おそらく間髪入れずに絶叫して、王座を降りて、崩れ伏したことでしょう。

 

 なんと見事な告白でしょう、なんと砕かれた心でしょう、なんと立派な信仰でしょう。この時ダビデは自分が王であるのを忘れていたでしょう、目の前にあるのは犯した罪だけ。神に殺されても当然の罪びとでしかないわが身がありありと見えたことでしょう。

 

『我はわが咎を知る、わが罪はつねにわが前にあり。

我はなんじ向かいて ただ汝に罪をおかし、聖前にあしきことを行へり』(文語訳)

 

 この時の悔い改めを記した詩篇五一篇が鮮やかに浮かんできます。これだけ徹底して悔いる者を神がゆるさないはずはありません。ナタンは告げます。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかしあなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ』13、14節。

 

『罪から来る報酬は死です』ローマ六章23節。これが大原則ですが、ダビデは悔い改めが神に受け入れられて死を免れます。しかし、子どもは死ぬと言われてしまいます。『人は種を蒔まけばその刈り取りもすることなります』ガラテヤ六章7節、これも原理です。

 

 さて、バテ・シェバの生んだ子は病気になります。ダビデは大変心配し、断食して夜も寝ないで祈り続けます。しかし、その甲斐もなく七日目に死んでしまうのです。家来たちはダビデが自殺するのではないかとハラハラするのですが、意外や意外、ダビデは訃報を知ると、立ち上がって着替えをし、主の宮で礼拝してから、食事をするのです。

 常識を破る行動ですが、ダビデは、死は人間の力ではどうすることもできない神のわざであることを心底知っていたのです。徹底した神理解と明け渡しに驚きます。この潔さは、ダビデならではの信仰といえます。

 

 その後生まれた子、ソロモンは神に特別に愛されます。神はまるでダビデの罪を知らないかのように、この夫婦を祝し胎の実をいつくしむのです。

 

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サムエル記を愛して その34

サムエル記第二・第一一章 暗転、罪の深みに

 

 

 人はなぜ罪に負けてしまうのでしょう。人はなぜこんなにも脆いのでしょう。人はなぜ一瞬の判断ができないのでしょう。人はなぜ自分を治められないのでしょう。

 

 この章からは同じサムエル記とは思えないほどガラリと様子が変わります。突然、すべての光が消え、深い闇の中を黒い人影がごそごそと動く舞台のようです。おぞましい出来事が起きたのです。英雄ダビデ、神と人に愛されたダビデ、ミケランジェロが大理石に刻んだあのダビデが、今では世界中にだれ一人知らぬ者のない大罪を犯すのです、それも、あろうことか、姦淫の罪を、です。なんと恥ずかしく、なんと情けないことでしょう。

 

 ダビデ王家を覆うそもそもの発端は『年が改まり、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女がからだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった』1、2節。この不気味な暗雲です。

 

 ダビデは女を呼び入れます。女は身ごもったと告げてきます。ダビデはギクリとしたはずです。その段階で踏みとどまれなかったのでしょうか。次の悪事をたくらみ実行するくらいなら、です。しかし、だれにも暴走する野獣を止めることはできなかったのです。

 

 ダビデは前線にいるヨアブに命じて、女の夫、有能で忠誠心あふれる戦士ウリヤをわざと危険な敵前に出して戦死させるのです。姦淫罪に殺人罪が加わりました。読む者さえ身が震えます。これが、ダビデですかと問わずにはいられません。急に、ダビデ熱が冷めてしまいます。裁判官のようにダビデを責め、裁きたくなります。

 

 確かにその時ダビデにはあの逃亡時代には決してなかった油断があったのです。サタンの入り込める小さな隙間があったのです。人は一年中緊張してはいられないでしょう、ほっとするときも必要でしょう。しかしこの時のダビデは休養とは言えない気の緩み、もう一歩突っ込むと、あまりにもすべてがうまくいっていることからくる放漫心があったのだと思います。頭では神のおかげだと分かっていても、傲慢不遜なサタンの風に身を任せていたのではないでしょうか。

 

 軍隊が戦っている最中に、王宮で昼寝をし、屋上を散歩し、湯あみする女をじっと見てしまう、サタンがあざ笑いながら近づいてくるのは当たり前です。

 ヨアブが『ヘテ人ウリヤも死にました』21節、と知らせてきた時、ダビデはどんな思いで聞いたのでしょう。ヨアブは何事かを察したはずでが、じっと腹に収めるだけで何も言いません。不気味です。

 

 『ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ』26節が、この章全体に悲鳴のようにあるいは、忍び泣きのように響き渡るのを感じます。バテ・シェバは犠牲者です。それにもかかわらずダビデを誘惑した悪女扱いされるのはどうしたことでしょう。マタイの福音書のイエス様の系図は、ダビデの子ソロモンの母を『ウリヤの妻によって』とわざわざ断り書きをして記していますが、そのわずかな一句に、神の御心を知る思いがします。神はすべてを見ておられ、見逃しはしないのです。列王記にも、王母として貫録を示すバテ・シェバがいて、救われる思いがします。

 

 さて、ダビデは自分の思う通りに事を進め、バテ・シェバの嘆きにも素知らぬ顔をして、喪が明けると待っていましたとばかり王宮に迎えるのです。そばめのひとりくらいにしか思っていないのでしょうか。

『彼女は彼の妻となり』27節、とありますから、特別なお披露目でもしたのでしょうか。すでにダビデの妻としては、ミカルもいますし、あの荒野で娶ったアビガイルもいます。みなひとつ王宮にいるのです。おぞましい気がします。これは時代や文化の違いとして一括りにしていいものでしょうか。

 

 最後の一句が轟音のように響きます。『しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった』27節。みこころをそこなうとは、みこころに傷をつけたということでしょう。心が傷つくとは、ふつうで言えば、信頼を裏切られた時などによく使います。それはすぐに怒りや悲しみに変わります。

 

 ましてや神の『みこころをそこねた』のです。ヨアブは陰険な思いを抱いたまま黙っていたでしょうが、神は黙ってはおられないでしょう。ダビデもまた、心穏やかではないでしょう。『主の霊を注がれ』、『油注がれた』主の器なのですから、平静心を装いながらも、心に差し込まれる認罪の針の激痛に身をよじることもあったはずです。

 ダビデの妻となったバテ・シェバは男の子を生みます。姦淫によって宿った子です。バテ・シェバも不幸なら、生まれてきた子も不幸です。たとえダビデの子であっても。

 

12:27 | - | - | pookmark
サムエル記を愛して その33

パソコン故障のハプニングと私の怠慢で、更新が遅れました。

 

お詫びします。以後もよろしくお願いします。

 

サムエル記第二・第九章 ヨナタンの忘れ形見への慈悲

 

 ダビデがヨナタンの遺児を探し出して『恵みを施す』というこの出来事は、読む者の涙を誘います。なんと寛大な優しい王様でしょうと、まるでメルヘンの世界を見るようです。世にも幸運なこの人の名はメフィボシェテ。足の不自由な人でした。あの戦乱時に、乳母に抱かれて逃げる最中に地に落とされ、それ以来足に障害が出たようです。そのためか、サウル王の直系、孫でありながなら、危害を加えられることもなく生き延びていたようです。しかし、突然にダビデ王に呼び出されたときはどんなに驚いたことでしょう。サウル王の血を継ぐ者としてついに自分にまで処罰の手が伸びてきたとそう思ったでしょう。

 

 ところが恐れおののくメフィボシェテにダビデは優しく語りかけます『あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい』7節。

 

 ダビデの申し出にメフィボシェテは遠くなるような思いになりながらも『このしもべが何物だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか』と、王の真意を知りたくて問うのです。ダビデの真意は『ヨナタンのために』の一点です。かつて、サウルの残忍な刃から命を賭けて守ってくれたヨナタンへの愛と誠意へのお返しです。しかし単なる人間的善意だけではありません。ダビデは神の前でヨナタンと交わした契約を忘れていませんでした。ダビデとヨナタンの真ん中には神が立っておられるのです。   

 

 『私はいつも私の前に主を置いた』詩篇一六篇8節、ダビデの生涯を貫く信仰の柱です。

 

 

サムエル記第二・第一〇章 ダビデ王国の強さ

 

 ダビデの善政は国内だけでなく国外にも及びます。ダビデは不遇時代に助けてくれた人たちを忘れないのです。俗に恩返しという麗わしい習わしもありますが、人はたいていの場合、偉くなったり、苦境から脱出すると自分ひとりの力だけでそうなったかのように思いあがり、忘恩の罪に陥ります。

 

ヨナタンの遺児メフィボシェテを復権させたダビデは、アモン人の王ナハシュをも忘れませんでした。ナハシュが亡くなったと聞くとその息子ハヌンに『真実を尽くそう』として、家来を悔みに遣わします、2節。ところが、アモン人にはダビデの真実は通用しませんでした。使いの者たちの命こそとりませんでしたが、ひげを半分そり落とし、衣服も半分に切って人前には出られない屈辱を与えたのです。さらにダビデを疑って、周辺のアラム、ツォバ、マアカ、トブから兵を雇い、戦いを仕掛けてきます。こうなったら和平交渉の余地はありません。ダビデはヨアブを先頭に、全軍を投入して戦います。ヨアブは巧みな戦術で打ち負かします。アモンは逃げてしまいます。ところが、アラムは団結して新たに戦いを挑んできます。今度はダビデ自身が先陣を切り、連合軍を壊滅させ、アラム以外の弱小民族は和を講じてイスラエルのしもべになります。アラムもイスラエルに恐れをなしてアモン人を救いません。

 

この一連の戦いでダビデ王国はますます強大になっていくのです。

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