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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2018.08.04 Saturday - 07:08

サムエル記を愛して その21

サムエル記第一・第二三章 逃亡するダビデ、ジブの荒野を転々と

 

 ダビデのもとにペリシテ人が近くのケイラの町を責めているとの知らせが届きます。

 戦士ダビデはじっとしてはいられません。

 主に訊くと「ケイラを救え」と言われます、2節。

 ダビデは逃げ隠れする身でありながら勇敢に戦い、ペリシテに大損害を与えてケイラを救います。しかしこれは危ない橋なのです。ケイラの人々にとってはありがた迷惑だったかもしれません。サウルが黙っているわけがありません。攻めてくることは自明のことです。サウルの手にかかれば先のノブの町のような目に遭うかもしれないのです。

 

 ダビデが主に伺うと「サウルはケイラに攻めてくる」、

「ケイラの住民はダビデをサウルに引き渡す」と言われます。主のお答えは無情です。ダビデは立つ瀬がありません、絶体絶命ともいえます。

『そこでダビデとその部下六百人はすぐにケイラから出て行き、そこここと、さまよった』13節。

 幸いダビデがいないのでサウルはケイラ討伐を中止しました。

 サウルはダビデだけが目当てです。その執拗さは異常です。

 

 およそ一〇から二〇キロ圏内の荒野を逃げあるいは追いかけて、まるで鬼ごっこのようです。

 大の大人、しかも一国の王とその武将が命を懸けてすることでしょうか。

 マオンの荒野では山の両側を両軍が追いつ追われつになります。ダビデは不利です。

 

 そのときでした『ペリシテがこの国に突入して来ました』27節。サウルはあわてて引き返します。

ダビデは危機一髪のところで難を逃れます。


  • 2018.07.15 Sunday - 14:11

sサムエル記を愛して その20

サムエル記第一・第二二章 逃亡するダビデ、アドラムの洞穴

 

 アヒメレクのところでドエグを見たダビデはサウルを恐れてペリシテのガテの王アキシュの所に行きますが、ダビデだと見破られると狂人を装って逃げ、再びイスラエル領内の荒野にあるアドラムの洞穴に隠れます。狂人のふりまでして逃げるダビデには戸惑いを感じますが、こんなところでむざむざ死ねるものかと思うダビデの心中も察しが出来ます。単に命が惜しいのではなく、主に油注がれた者としての強い使命感、責任感、誇りがそうさせているのだと、よい方に解釈してしまいます。

 

 洞穴にいるダビデのもとには一族をはじめ、弱者や不満分子が続々と集まってきて、四百人もの一大集団に膨れ上がっていきます。ダビデは両親だけはモアブの王に託します。

 

 一方サウルはギブアでダビデの居所を知ります。サウルは家来たちに向かってくどくどしく自己アピールをし、ダビデの価値を下げようとします。その愚痴をノブの祭司アヒメレクの所に居合わせたドエグが聞き、アヒメレクがダビデを助けたことを告げます。

 

 さあ、サウルの怒りはアヒメレクに集中しました。

早速、アヒメレク一族はサウルの前に呼び出され、詰問された上、皆殺しにされようとします。しかしサウルの家来たちもさすがに神の祭司たちに手出しをしません。

 

 ところが狂ったサウルはエドム人ドエグに命じ、エポデを付けていた八五人の祭司たちを虐殺するのです。さらに、祭司の町ノブを襲撃し、家畜に至るまで殺戮します。これは神への大いなる反逆です。サウルは一片の信仰心も失くしてしまったのです。

 


  • 2018.06.21 Thursday - 14:33

サムエル記を愛して その19

サムエル記第一・第二一章 逃亡するダビデ、ノブの祭司アヒメレクの所へ

 

 ダビデは二度とサウルの前には出られません。見つかれば命を奪われることは必定です。本格的な逃避行が始まりました。ここから終章まで、サムエル記第一の三一章のうち、実に一〇章が逃亡物語で埋められているのです。これがダビデの生涯の事実とはいえ、神がダビデにこうした苦難を通らせ、また詳細に記載する意図はどこにあるのでしょうか。

 

 理不尽なことが降りかかってきた時、立ち向かっていかないでひたすら逃げるのがよいと教えておられるのでしょうか。《三六計逃げるにしかず》を推奨しておられるのでしょうか 悪に勇敢に立ち向かって行くべきではないのでしょうか。負け犬のように逃げるだけでいいのでしょうか。ダビデは逃げ通しました。サウルに逆襲できるチャンスさえ、みすみす放棄するのです。机上で物語と追う者としては歯がゆくてなりません。

 

 さて、ダビデはおそらくごく少人数で安全なところを祈りつつ探して進んで行ったと思われます。まず、エルサレムに近いノブの祭司アヒメレクのところに行きます。ダビデは逃亡しているとはいえかなり冷静です。祭司アヒメレクはあのダビデがなぜこんなところにと、不審を抱きつつも要求に応じて多少のパンと武器を差し出します。

 ころがそこにサウルの配下のドエグが密かに成り行きを観察していたのです。のちにここから大惨事が起こってしまいます。ダビデはドエグを気にしつつも、なすすべがありません。


  • 2018.05.07 Monday - 21:05

サムエル記を愛して その17

サムエル記第一・第一九章 ダビデをねらうサウル王

 

 サウル王は最後の切り札である娘ミカルを使ってもダビデを追い落すことができません。息子はダビデ大好きの筆頭です。サウルの心中には殺意が煮えたぎっているのです。『ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた』1節。これが王でしょうか。

 

 ダビデがサウルに謀反を企てたとか、だれもが認める大罪を犯したならともかくも、王の感情だけの問題で一人の人を、それも有能な国家的英雄を亡き者にすると公言するのは全くおかしなことです。ヨナタンは父でありますが盲従してはいません。諄々と父の非を諌めます。このときはサウルは自分の非を認め、ダビデは再び王のそばで仕えます。

 

 しかし長くは持ちません。悪い霊に悩まされると槍を振り上げてダビデを殺そうとするのです。ついにダビデは逃亡します。妻のミカルがそれを手伝うのです。ミカルはダビデを愛していたのでしょう。父を欺いてダビデを逃がします。サウルは息子にも娘にも背かれるのですが同情の余地はありません。

 

 ダビデはついにラマにいるサムエルのもとに逃げていきます。ダビデは初めて気を許し、これまでのいきさつを話します。老いたサムエルはダビデには父親以上、慈愛に満ちた祖父のように思えたことでしょう。しかし、ダビデの居所を知ったサウルはなんども追っ手を遣わすのです。埒が明かないとわかると自ら出向いてくるのです。ここには神の民イスラエルの最高指導者としての姿は微塵も見えません。

 


  • 2018.04.17 Tuesday - 10:13

サムエル記を愛して その16

サムエル記第一・第一八章 ダビデを愛する人たち、妬みと敵意にかられるサウル王 

 

 死んだゴリヤテのかたわらで首を持って立っているダビデを見て、だれが事実だと信じたでしょう。サウル王にしてからが『あれは、だれの子か』とうわ言のようにくり返しています。つい数分前まで兄たちから『なにしにきたのだ』と邪魔者扱いされた羊飼いの少年ダビデは、今や国中の人気者、いや、敵側にまで知れ渡った英雄です。天から飛び降りてきた戦う天使ミカエルのようです。ダビデに心をときめかしたのは乙女たちだけではありませんでした。

 

 サウルの息子ヨナタンはダビデのファン第一号です。王の世継ぎ、王子ヨナタンがです。『ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは自分と同じほどにダビデを愛した』1節。以後、ヨナタンは自分の命をかけて何度もダビデの危機を救い、愛を全うします。

 

 ところが、英雄に試練はつきものですが、ダビデは一番愛されていいはずの王サウルに激しく嫉妬され、ねたまれることになります。《ねたみ》ほど恐ろしいものはありません。ダビデを凱旋将軍のように迎えた乙女たちが手に手に楽器をかき鳴らし『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』とはやしたてるのを聞くと『サウルは非常に怒り「彼にないのは王位だけだ」』と言って、その日以来、ダビデを疑いの目で見るようになった』9節。

 

 サウルはいつかダビデが自分に代わって王になることを感じたのでしょう、この思いは神がそっとサウルの心に入れたのかもしれません。サウルはダビデを戦いの前線に出して、いつ戦死してもいいように図ります。ところがダビデは行くところどこでも戦勝をあげます。負けを知らないダビデに、サウルはますます恐れおののくのです。主の霊はすでに彼を離れ、ダビデに激しく降っていたのですから、勝敗は明らかです。サウルは次第に重く心病むようになり、時に行動は常軌を逸し、ある時はダビデに槍を投げつけるのです。

 

 サウルの心は邪悪に満ち、姦計をめぐらします。王はダビデに、長女メラブを与えるから勇敢に戦えというのです。王の婿の地位を提供するのです。将軍以上の地位です。国の支配者になれる立場です。男としてこれを望まない者はいないでしょう。女性が王子様の花嫁に憧れるように、ダビデに男性シンデレラの夢があっても不思議ではありません。ダビデだけが特別に野望や功名心が強かったわけでもないでしょう。

 

 ダビデはその気になり、たぶん結婚の準備も具体的に進められていたでしょうに、その直前でサウルは約束を反故にしてメラブを他の人に嫁がせてしまいます。周囲も知っていたでしょうし、当のメラブにショックを与えなかったはずはありません。メラブは国中の乙女たちの熱い羨望を一身に浴びて得意の絶頂に立っていたはずです。もしかしたらメラブは花嫁衣装に身を包んでいた時だったかもしれません。婚宴の直前でひそかに連れ去られたのかもしれません。

 

 これが実の娘にすることでしょうか。サウルは父親でしょうか。メラブがダビデを慕っていたことは当然知っていたはずです。ところが続いて『サウルの娘ミカルはダビデを愛していた』20節、とあります。破廉恥な出来事に続く一節は意味深長です。サウルはまたも娘の乙女心を利用してダビデを殺害しようと企みます。ダビデは真正面からサウルの難題をクリヤー、婿資格テストに合格し、みごとにミカルを妻にします。

 


  • 2018.03.18 Sunday - 20:35

サムエル記を愛して その15

サムエル記第一・第一七章 ダビデとゴリヤテの一騎打ち

 

 聖書中、これほど痛快な個所は他にはないでしょう。すぐにビジュアル化できそうです。無名の少年ダビデが、名だたる職業軍人、だれひとり手向かうことのできないペリシテの戦士を、石ころ一個でとどめを刺してしまうのです。出来事の順を追ってみましょう。

 

 今度の戦いの相手はペリシテ人です。『聖絶』事件の相手はアマレクでした。

 イスラエルとペリシテは谷一つ隔てた山の両側に陣を敷いています。双方にらみ合いというところでしょうか。互いの動きも声も手に取るようにわかる距離です。ほんの小さなきっかけでも起きれば、またたく間に一大戦闘になること必定です。ペリシテの陣営には、ゴリヤテという巨人の戦士がいて、毎日大声でイスラエルを挑発します。一騎打ちをしようじゃないか、一人を出せというのです。三メートル近い身長があり、五五キロほどの青銅のよろいを着こんでいます。イスラエルはこのひとりの出現にさえ震え上がっています。サウル王もじりじりしていたことでしょう。

 

 そこへ、ダビデがあられます。彼は戦士にもなれない少年です。相変わらず父の羊の番をしています。上の兄たち三人が出陣しています。父エッサイはイスラエル軍と息子たちの様子が知りたくてたまりません。ダビデに、支援物資を持たせて安否を問うために遣わします。

 

 ちょうどダビデが陣地についたとき、ゴリヤテが大声で例のごとくイスラエル軍をあざけりなぶっているところでした。ダビデはその罵声を聞いたのです。ダビデは火の中に飛び込んだように体中が燃え上がりました。義憤です。彼は『生ける神の陣をなぶるとは』26節、とあたりかまわず叫びます。ダビデにとってはイスラエルの軍は神の軍です、イスラエルを侮辱することは、愛する神を侮辱することなのです。ダビデの内にはすでに激しく主の霊が降っています。ダビデの内なる主の霊が働き出しているのです。

 

 ダビデは大胆にもサウル王に『このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう』32節、と言います。だれが見てもダビデはまだ少年です、だれが聞いても吹き出してしまうようなたわごとなのです。サウルも、子どもに言い聞かせるように、無理だよというのです。ところがダビデは真剣そのものです。あまりの気迫にサウルも自分のよろいを着せて行かせます。せめてものあわれみでしょう。

 

 一方、ゴリヤテはようやく一騎打ちの相手が出てきたと気をよくして、見ればなんと子どもです。よろいもつけず剣もなく、おもちゃにも等しい石投げ器一つです。このときのゴリヤテの心境はどうだったのでしょう。自尊心を傷つけられてかなり怒っていたでしょう。しかし戦意はゼロに近かったでしょう。

 

 ダビデは全身戦意に満ちあふれています。『万軍の主の御名によっておまえに立ち向かうのだ』45節と、視線を上にあげて大男を睨みつけます。ゴリヤテがダビデを踏みつぶさんと近づいてきた時、ダビデは日ごろ使い慣れている石投げで、河原から拾ってきた石を挟んでゴリヤテめがけて放ちます。石はゴリヤテの額に命中し、額に食い込み、うつぶせに倒れて息絶えるのです。『こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った』50節。

 

 今や、ダビデは戦場のヒーローです。


  • 2018.02.23 Friday - 08:49

サムエル記を愛して その14  

サムエル記第一・第一六章 エッサイの八番目の息子、羊飼いダビデの登場

 

 この章からダビデの名前が見えてきます。父エッサイの手伝いをして羊を飼う少年ダビデです。待望のダビデ登場です。読者にはすでに立琴を奏でながら羊の番をする紅顔の美少年ダビデのイメージが強く焼き付いています。この印象は詩篇の賛歌と相まって、消えることはありません。

  一方、サウル王は、神への不従順のために王の座から外されてしまいます。神はすでに次の王を考えておられます。サウルの知らないところでご計画は着々と進められます。

 

 神からのことばを預かり、それを民に告げ、あるいはそのおことばを実行していくサムエルの役目はつらく厳しく苦しいものです。神はご自分の決めた人に油を注げと言いつけますが、サムエルは『サウルが聞いたら私を殺すでしょう』2節、と訴えます。サムエルの言い分はもっともです。しかしサムエルは神の言いつけどおりに従います。

 

 サムエルはベツレヘムへ出かけて町の長老たちを招き、いけにえをささげます。これは異例のことなので長老たちは不安になり、なにか特別の事情があると察します。サムエルはその席にエッサイと息子たちを招きます。七人の息子たちがサムエルの前に並び、油を注がれようとしています。町の長老たち、エッサイと息子たちは何事が始まるのか見当もつかず呆然としていたことでしょう。

 

 七人がサムエルの前に紹介されましたが、サムエルは手にした油の壺を傾けようとしません。主からの指図がありません。全員ノーです。おかしいです、神はあらかじめエッサイの息子の中に『わたしのために、王を見つけたから』1節と、言っておられます。

 

 サムエルはエッサイに子どもたちはこれで全部かと尋ねます。エッサイは『末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています』11節、と答えます。父親の目から見ても、ダビデは人前に紹介できるような一人前の息子ではなく末っ子の子どもなのです。しかしサムエルは神のおことばに忠実です。すぐにダビデを呼んでこさせます。

 

『さあ、この者に油をそそげ』12節、神の一声がかかります。サムエルはダビデの頭になみなみと油を注ぐのです。兄弟たちの真ん中、ベツレヘムの人々の真ん中でのことです。これは後々どんな意味を持つのでしょう。

 

 その日以来、『主の霊が激しくダビデの上に下り』13節、ます。ダビデは神から選ばれたのです。『人はうわべを見るが、主は心を見る』7節、にあるように、これは主のなさった不思議です。人間の側の価値判断を越えた主の選びです。『わたしがあなたがたを選び』ヨハネ15・16なのです。ダビデは愛すべき少年ですが、まだ、ただの人です。後年、ダビデが目覚ましく大活躍するのは『主の霊が激しく下った』ためです。

 

 サウルは、王になる時に与えられた主の霊はすでに取り去られてしまったのか、悪い霊に苦しめられ恐怖に怯えています。哀れな王様ではありませんか。家来たちは見かねて音楽療法を進めます。家来はダビデを『琴がじょうず勇士であり戦士です。ことばには分別があり、主がこの人とともにおられます』18節、と推薦するのです。

 こうしてダビデはサウルの具合が悪くなると、羊の番から離れて急いでサウルのところに駆けつけて琴を奏でます。なんとも奇妙な関係ではありませんか。

 


  • 2017.12.26 Tuesday - 17:21

サムエル記を愛して その12  

サムエル記第一・第十四章 ヨナタンの冒険

 

 サウル王の息子のヨナタンの名が出てくると、にわかに頬が緩みほほえみたくなります。愛すべきヨナタン、サウルの息子とは思えない美しきヨナタンはダビデ以上に安心して好意を寄せられる聖書中最高の人です。ヨナタンは決して読者を裏切りません。この十四章は五二節もあって長く大きな章です。ヨナタンは一節からさっそうと登場します。

 

 イスラエルとペリシテの両者が陣を敷き、いつなんどき戦いが起こるかもわからない緊張状態のさなかで、ヨナタンは若者一人だけを連れて敵の戦陣へ進んでいきます。ゲリラ戦術でしょう。ヨナタンは従者に『主がわれわれに味方してくださるであろう。少人数であっても、……、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない』6節、というのです。命知らず、無謀とも見えますが、神への一直線の信頼はまぶしいほどです。

 

 二人はそそり立つ絶壁をよじ登って敵の先陣の狭い場所で二十人ほどを打ち倒します。この騒ぎがペリシテ全軍に津波のように伝わり全軍が大きなパニックに陥ります。その状況を見たイスラエル軍は好機到来とばかりサウルを先頭にペリシテの陣地に切り込み、大勝利を納めます。ひさびさの勝利ですが、受動的な勝利ともいえます。勝利の発端は、勇敢なヨナタンと従者の若者二人が開いたのです。二人の手柄によるものです。聖書は『主はイスラエルを救い』23節と明記します。

 

 ところがここでまた奇妙なことが起こります。サウルは一日断食して戦えと命じたのです。俗に《腹が減ってはいくさはできぬ》といわれるほど、戦いには体力が要ります。十分な腹ごしらえは不可欠です。それを、よりによって断食を命ずるとは、サウルには胃袋がないのでしょうか。大勝利をしたのですから、リーダーたるものは気前よくごちそうを振舞って部下をねぎらうべきでしょう。

 

 民は空腹と疲労でへとへとです。勝ち戦も喜べません。とうとう我慢が出来なくなり分捕りものに飛びかかって手当たり次第に食べてしまいます。血の付いたままでもお構いなしです。その気持ちもわかります。ヨナタンは父サウル王の断食令を知らなかったものですから、森の中にしたたっているはちみつを杖の先ですくって口に入れます。ヨナタンの疲れが一変に解消したことは言うまでもありません。

 

 サウルは不機嫌です。血の付いたままで食べて主に罪を犯してはならないと、正式に屠って食べる指示を改めて出します。さらにすぐにでも戦闘を続けるつもりでしたが祭司にたしなめられて、祭司が神意を伺います。ところが神は沈黙されたのです。

 

 さあ、サウルはそれを民の中にある罪のせいにします。最終的に、罪は断食令に違反したヨナタンにありました。サウルは言います『おまえは必ず死ななければならない』44節。サウルは悲壮で大真面目でしょうが、なぜか共感できません。ちぐはぐな思いになります。これはどこから来るのでしょうか。サウルの政策?には統一性がないのです。今風に言うと、ぶれているのです。あるところはいやに律法的ですが、あるところは自己判断です。それが読者を混乱させ不安にさせ、彼への信頼を薄めてしまうのではないでしょうか。ヨナタンは冷静なる賢明なる民のとりなしによって一命を取り留めます。愚かな父によって、あたら命を落とすところでした。


  • 2017.11.28 Tuesday - 07:31

サムエル記を愛して その11  

サムエル記第一・第十三章 サウル王の大罪

 

『サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった』1節。

 イスラエルに王が立てられ軍隊が編成されているとの情報はいち早くペリシテにも知れ渡ったことでしょう。サウルの息子ヨナタンがペリシテの守備隊長を打ち殺したことからペリシテ人はいっせいに戦闘準備をしてミクマスに陣を敷きます。その様子は手に取るようにイスラエルに伝わってきます。再び残忍非道なペリシテの蹂躙を受けるのかと思うと、人心は激しく動揺します。人々は身の安全を求めて国中に逃げ隠れます。

 

 サウルと兵士たちはサムエルの言いつけに従ってギルガルにとどまっていますが、彼らもまた恐怖のために震え上がっています。目の前に自分たちが担ぎ上げた王サウルがいるにもかかわらず、士気は衰え、かえって隙あらば逃亡したいほどなのです。当のサウルも不安と焦燥に駆られています。サムエルが来ないからです。約束の「七日間」が過ぎても来ないのです。サムエルがなぜ約束を守らなかったのかは、謎です。

 

 恐慌状態に陥ったサウルは、祭司職の特権であるいけにえを、自分でささげてしまうのです。大いなる越権行為です。王様は祭司ではないのです。これほどの大きな罪はありません。あまりに大きい判断ミスです。

 直後に到着したサムエルは開口一番『あなたはなんということをしたのか』11節、と攻め寄り、『あなたは愚かなことをしたものだ。今は、あなたの王国は立たない』とまで断言します。最初から『あなたの王国は立たない』とは、気の毒にさえ思えます。しかも『主はご自分の心にかなう人を求め、ご自分の民の君主に任命しておられる』14節、とさえ言い切ります。

 

 思えば、イスラエルの歴史に初めて王様が登場することになり、読者としては、王様についてメルヘンチックな既成概念があるせいか、強き勇ましい王が華々しく活躍する姿を思い描きます。ところがサウルに限っては当てはまりません。そもそも、王様を求める人心は神の嘆きとなり、神の本意ではないのです。かといって神は主権を持って拒否するのではなく、民の願いを聞き入れて『王を立てよ』と許可したのでサウルが選出されたのです。サウルが強引に王権を奪ったわけではないのです。サウル自身もうろたえ、しぶしぶ王座に着いたように思えます。それなのに早々から『あなたの王国は立たない』とは、むごいように思えます。

 

 しかし、あまり人間的な低レベルの情を寄せるのはよくないかもしれません。一つ思い当たることは、サウルには『主の霊が激しく下った』ことです。サウルは新しい人に、王にふさわしい人に、神によって変えられたのです。その特権と威力が発揮されていないのです。王とはなんぞやが、認識され自覚されていないのです。王といえども神の前に絶対にしてならないことがあるのです、その境目を厳密にわきまえることこそ、公人と言えるのではないでしょうか。この後も、サウルは独断から来る判断ミスを起こします。

 

 それはどこから来るのでしょうか、サウルの性格の弱さでしょうか。傲慢と自己保身、つまり自己中心が最大の原因でしょう。もちろん机上でサウルを裁くのは簡単ですが、しかし、どうみても彼は不適当な人、そして悲劇の人です。


  • 2017.11.08 Wednesday - 12:09

サムエル記を愛して その10  

サムエル記第一・第十一章 サウル初戦大勝利 神の前での王権設立

 

 イスラエルの外敵の一つであるアモン人が、国境近くのヤベシュ・ギルアデの人々に攻撃の構えを見せてきました。ヤベシュの人々はサウルの所に来て事の次第を伝えます。聞いたとき『神の霊がサウルの上に激しく下った』6節。サウルは激しい闘志に燃え、全イスラエルに徴募の号令を掛けます。単にサウル一人の熱心ではありません。神がサウルの心に働きかけたのです。サウルは今や自分が王に立てられたことを自覚したのです。ぞくぞくと人々がサウルのもとに集結します。この様子を聞いたヤベシュの人々は大喜びします。彼らは残虐なアモン人から救われることに期待したのです。

 

 サウルは兵の先頭に立ち、勇ましく指揮をふるってアモン人の陣営に突入し、壊滅に追い込みます。イスラエルの大勝利です、サウルは初陣で大手柄を立てたのです。

 すかさずサムエルは民に云います。『ギルガルへ行って、王権を創設する宣言をしよう』14節。サムエルはこの時を神の好機と判断したのでしょう。今や、サウルは民からの全幅の信頼を得たのですから。

 ギルガルで主の前にいけにえをささげ、正式にサウルを王とするのです。さしずめ戴冠式といえましょう。こうして、イスラエルは民族集団から王制の国家へと新しい歩みを始めます。サウルも民も有頂天です。しかし、王を立てることはそもそも神のみ心を痛め、サムエルを不快にしたマイナス旋律から始まっていることは忘れてはならないことです。

 

サムエル記第一・第十二章 サムエルの引退説教  

 

 イスラエルは、神と民の前で正式に王制を発足させ、まだ宮殿はなかったにしても、サウルは押しも押されぬ初代の王位に着きました。イスラエル国家が誕生したのです。しかし国家といっても現代とは違って神政国家です。最高主権は神にあります。王を選ぶのは神です。サウル選出にはくじが使われましたが、くじにこそみこころが現れています。

 サムエルは大役を果たしました。士師(さばきつかさ)の役割のひとつ、政治や軍事の役割は終了です。しかし預言者としては最高峰に位置し、民はひとえにサムエルを信頼しています。若葉マークの王サウルも彼を差し置くようなまねはできません。

 

 サムエルは民の前で、これまでの自分の働きを総括します。若い時から白髪の今日まで先頭に立って歩んできたがもし不正をしていたら申し出てほしい、償いをするからと。さらに出エジプトからカナン定住までを物語り、安らかに暮らせたのは神の救いによるのだと、イスラエルの神を強調します。その神を二の次にして王を求めたのは罪だと言い切るのです。たった今、王制が始まったばかりなのに罪だと断罪するのは言い過ぎではないかとさえ思います。サウルはどんな思いで聞いたでしょう。王の椅子も座り心地はよくなかったでしょう。

 

 その時、乾期には降らない激しい雷雨があり、民は震え上がって神とサムエルの真意を悟ります。そこでサムエルはこれからも祈り続けるから、あなたがたも『ただ主を恐れ、心を尽くして主に仕えなさい』と切々と言い聞かせます。引退説教といえましょう。


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