利根川の風 その15 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯 おわりに

  • 2017.04.18 Tuesday
  • 21:38

15回にわたって連載しましたが今回で終わりです。

長らくのご愛読ありがとうざいました。

出典は、拙著「利根川の風」からの全文です。

なお、取材地の写真がありますので、次回に掲載します。

 

 ■おわりに

利根川の風の中で・生誕地に立って

 

 この書を閉じるにあたって、生誕の地を訪問した。最後に、生誕の地訪問を記すのは順当ではないが、そもそも、終焉の地に立ったことから吟子を追かける旅が始まったのだ。終わりからの始まりであったわけである。

 

 だれのことであれ、どこでこの世に第一声を上げ、どこで最後の息をしたかは興味深いものがある。その間にその人の人生模様がある。誕生と死が同じ場所の人は今では少ないかもしれない。異国の地で客死した人もいるであろう。吟子がその信仰に生きたイエス・キリストは、ユダヤのベツレヘムの家畜小屋で旅の途中に生まれ、エルサレムの丘で十字架にかかって亡くなった。

 

 吟子は利根川の風に包まれるようにして産声を上げた。そして、隅田川の水を流す横十間川の源森橋のたもと近くで息を引き取った。そのとき吟子の耳には利根川の水音が聞こえ、一陣の川風が頬をかすめたかも知れない。六二歳とは、今では若すぎる死である。あと二十年生きていてほしかったと思う。吟子より一八歳年上の矢島楫子は九二歳、羽仁もと子も八四歳まで生きた。

 

 俵瀬は交通網の発達した今でも行きにくい僻地である。

 八月の末、暑さの和らいだ日に、熊谷市の荻野吟子生誕の地顕彰碑と記念館を目指した。高崎線普通電車で上野から一時間余りである。その後はバスに乗る。これも一時間を要した。バスは果てしなく広がる田園の中を走る。青空の下に畑や田んぼが整然とフラットな大地を埋めつくしている。点在する家々はまるで住宅展示場からそのまま運んできたモデルハウスのようだ。人々の暮らしの豊かさを物語っているように感じた。バス停の終点で下車。帰りの時刻を睨みながらまずは生誕の地へ。ちなみに降りたのは私一人であった。記念館見学者も終始一人であった。

 

 見上げるような顕彰碑に惹かれた。幅2メートル、縦3メートルほどの大きな石で、読むにもカメラに収めるのも難しかったが、碑の後部に、吟子女史の愛唱聖句『人 其の友の為には 己の命を捨つる 之より大いなる愛はなし』(ヨハネ15章13節)がしっかり刻まれているのがこの上なくうれしかった。この碑は北海道の瀬棚に同じく顕彰の碑が建てられたのに触発されて一年後に設置されたと、これもたった一人の記念館のボランティアの老男性が語ってくれた。

 

 この地を訪ねた大きな目的は利根川を見ること、利根川の風に吹かれることであったから、碑の裏手に見つけた階段を上がって土手に上った。広い河川敷のはるか向こうに利根川は静かに流れていた。吟子の産声を聞いたであろう利根川、失意の吟子が実家へ戻る心のうめきを聞いたであろう利根川だと思うと、胸が張り裂けそうだった。

ちょうど快晴に近い空の下を微風が吹いていた。心地よい風であった。しかし、離縁覚悟で家出してきた吟子には剣の刃先のように痛かったに違いない。

 

 今、私を急き立てるのは北海道の利別川の風と吟子が十年以上暮らした瀬棚の空である。

 吟子をその地へ導かれた神が、鷲の翼に乗せて連れて行ってくれる日を待望している。

 

                                   おわり

▼参考資料

『続すみだ ゆかりの人々』墨田区教育委員会社会教育課 

『荻野吟子 実録 日本の女医第一号』 奈良原春作 国書刊行会  

『花埋み』 渡辺淳一 新潮文庫

『人物近代女性史 明治女性の知的情熱』瀬戸内晴美編 講談社文庫 

『明治の女性たち』 島本久恵 みすず書房

『黙移』相馬黒光 日本図書センター

『とくと我を見たまえ 若松賤子の生涯』山口玲子 新潮社

『人物近代女性史 自立した女性の栄光』瀬戸内晴美編 講談社文庫

『ふぉん・しいふぉるとの娘』吉村昭 新潮文庫

『我弱ければ―矢嶋梶子伝―』三浦綾子 小学館

『時代を駆け抜けた三人のなでしこたち』DVD いのちのことば社

その他パンフレット等

 

 

▼訪問地

吟子終焉の地 墨田区向島   

吟子の写真を見に国立国会図書館 

吟子の墓地 豊島区雑司が谷霊園  

本郷教会 吟子受洗の教会 文京区真砂坂上 

荻野医院開業の地 千代田区三組坂下    

明治女学校跡 千代田区六番街   

吟子生誕の地 熊谷市妻沼町俵瀬  

吟子夫妻渡道の地 北海道久遠郡せたな町

 

 

 

利根川の風 その14 十二年ぶりの帰京 墨田区本所小梅町へ  

  • 2017.04.11 Tuesday
  • 10:25

 ★十二年ぶりの帰京 墨田区本所小梅町へ 

 

 志方の死後、吟子はなお三年瀬棚にいた。瀬棚は吟子には生まれ故郷の俵瀬につぐ、長期に住んだ土地であった。戦い激しかった、また、栄光の東京には、順天堂に入院の時から数えると二四年になるが、医者として活動したのはわずか六年に満たない。瀬棚で開業していたのは十一年に及ぶ。吟子は北海道の人になっていた。思えば、志方も吟子も世渡りの下手な人たちであった。これは否めない事実である。

 

 が、吟子はついに帰京することにした。

 吟子が渡道する時は、反対の声の渦巻く中を突っ走った。しかし、離道に際しては、瀬棚町の人たちが別れを惜しんでくれた。この町でこそ、吟子のキリストのスピリットは大きく開花したのだ。聖句の様に、吟子から愛を受けた人たちが別れを惜しみ涙した。

 

『人 其の友の為に己の命を損なう

      之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節)

 

 明治四一年十二月、吟子は五八歳になっていた。

 

 吟子は友子が用意したであろう隅田川の東岸、本所小梅町に住むようになった。かつての本郷や下谷はあえて避けたのかもしれない。吟子が初めて上京してから、また東京を不在にした十年余りの間に、明治の世は、特に東京はフルスピードで姿変わりをした。医学界の女性の活躍は目覚ましかった。明治十八年に吟子が初の公認の女医になったときはたった一人であったが、吟子の開いた門には洪水のように女性たちが押しよせた。明治三三年には、二七番目の女医、吉岡弥生が東京女医学校を開いている。三五年には十一番目の女医前田園子の声で日本女医会が設立された。女子教育も開かれていた。津田梅子が津田英語塾を、さらに翌年には日本女子大が開校した。女医界も女性教育も飛躍的に前進した。

 

 吟子は目がくらみそうであった。医学そのものは日進月歩、吟子が学んだ医術はもう過去のものであった。

――私は女浦島太郎――

 しかし吟子は過去の栄光をなつかしみ、感傷に更けり、立ち止まり座り込む人ではない。

もとより野心はない。道なき道を前へ前へと進む人である。婦人矯風会も過去の一ページ、再び訪れる気持ちはない。

 吟子は心身に老いを感じながらも、小梅町の自宅に医院を開設した。在京時代に深く係わった人たち、女医になるまでに支援してくれた多くの人たちと旧交を温めあうことができたであろうか。ある資料には、吟子の身内が近寄ってきて、小梅町の家に親しく出入りしたとある。姉友子の仲立ちによるものであろう。

 

 残念ながら俵瀬の実家は紆余曲折の内に没落して跡形もない。そのかわり、上京している者が幾人かいた。

荻野家の血筋の者たちは、一門から日本初の女医が出たことが大きな誇りであったようだ。吟子と友子とトミのおんな三人暮らしの家は結構賑やかであった。

 

 『荻野医院』であるが、吟子の手に負えない病気もあったが、今までの処方で間に合う患者も多くいた。今でいえば『かかりつけ医』、『ホームドクター』である。人々は気軽に吟子の医院を訪れ、喜んで診察を受けた。

はからずも、『信仰に生きている吟子の、自然ににじみ出るような徳性は人を引きつけずにはおかなかった』と、ある吟子研究者の証言を目にして、胸が熱くなった。

 

 ★吟子の最期

 小梅町での穏やかな五年余りが過ぎた大正二年(一九一三年)三月二三日、吟子は肋膜炎を併発して病床に臥した。さらには、姉の友子、養女トミを初めとする近親者の必死の看病のさなか、五月二三日は脳卒中を起こし、一か月の後の六月二三日、吟子は波乱の人生を終えて神の御元に旅立って行った。六二歳であった。

 『人 其の友の為に己の命を損なう

      之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節) 

  

 吟子は神の命ずるように、何にも勝って、神を愛し人を愛する人であった。

利根川の風 その13 志方、学業復帰、同志社へ 

  • 2017.04.01 Saturday
  • 18:40

★志方、学業復帰、同志社へ 

 

 一方、志方にはずっとくすぶっている課題があった。もともと志方は伝道者、つまり教会の牧師になるために人生をスタートさせたのである。その準備のために同志社に学んでいた。たまたま夏期伝道に参加して大久保牧師に同行し、秩父で伝道を終えて関西へ帰る途中に吟子宅に宿泊したのであった。そこで、吟子に出会ったところから方向が変わってしまった。同志社を中途止めにして情も意志も吟子に傾注してしまった。やがて北海道の開拓にのめり込んで行った。命も惜しくなかったインマヌエルの理想郷建設は、志方のビジョンを越えて大勢の人の手で、そこそこ進んでいる。

 

 志方は中途半端な立場であり、不完全燃焼なのだ。彼はいつも真っ赤に燃えていたいのだ。立ち止まること、まして座り込むことは彼の性分ではないのだ。ふと、心の隙間に囁くものがあった。中途にしている同志社の学びに決着をつけて正式に牧師になろうと。牧師になって教会に仕え、伝道するのだとの思いが満ち満ちてきた。ローランド宣教師の強い勧めもあったようだ。

 

 明治三六年九月、四十歳の志方は京都の同志社へ再入学し相国寺畔の寄宿舎へ入った。吟子とトミはそのまま瀬棚である。時に吟子は五二歳、渡道して十年近くが経っていた。志方が京都にいる間に、吟子は勧める人たちがあって札幌で開業した。医師会名簿にも登録した。しかし理由ははっきりしないが、一年ほどで瀬棚に戻っている。札幌は吟子が精魂込めて活動できる地ではなかったようだ。その間にインフルエンザに罹って一時熊谷の姉友子宅で療養している。夫の志方は京都である。幼いトミを連れて、札幌、熊谷、再び瀬棚と、吟子の足取りをたどるとその時々の吟子の心境がおのずと偲ばれる。いくら奮い立っても逆境の中では平安な笑みは浮かばない。もともと吟子は寡黙で笑顔の少ない人だったようだ。

 

 同志社を卒業した志方は浦河教会の牧師として赴任した。念願かなったのである。しかし同じ北海道とはいえまたまた別れ別れの生活である。吟子もトミも寂しかったに違いない。ところが志方は早々に浦河教会の牧師を辞し、ひとりで自給伝道することにした。この辺りに来ると、志方の行動には着いていけないし共感もできなくなる。なぜ落ち着いて一つのことに身を入れることができないのか。半年ほど自給開拓伝道に奔走し、基礎が固まりつつあった。たが、どうしたことだろう、一度も寝込んだことのない強靭な志方が、高熱にうなされ、吟子は肺炎を疑ったが、数日で息絶えた。明治三八年九月二三日、志方四二歳であった。吟子が渡道して十一年の歳月が流れていた。

 

 

この書も終わりに向かっている。もの寂しく悲しい。吟子の身の上に起こった出来事を拾い集めてみれば不幸な人、悲劇の人と言わざるを得ない。世間はそうやって吟子の人生の収支報告書を出している。しかし、そもそも、その評価に不服で、吟子を追かけてみたのだ。吟子は志方が利別原野に最初に入植し、一足を付けたインマヌエルの丘に彼を葬った。これを知った親戚たちは東京へ戻ることを勧めた。志方がいない以上、吟子のいる意味がないとの思いからだったのだろう。しかし吟子は同意しようとはしなかった。吟子にとって瀬棚は志方以上に生活の場であった。志方がどこへ行こうとも吟子は町の医者として町の社会活動家としてしっかり町に根を下ろした生活を営んできた。志方のそばに単に妻としていたのではなかった。瀬棚の人たちは、吟子は知っていても志方を知らない人が多かったそうだ。現に、吟子が往診の時、馬を曳く志方を、下男と思っていた人もいたほどである。

 

 吟子には瀬棚は立ち去りがたい愛着の地であった。自分の半生を掛けて愛し従ってきた夫、働きの同志でもあった人生の同伴者を残すには忍びなかった。夫の墓に骨をうずめるのが本意であった。吟子はトミと静かな暮らしを続けた。しかし、吟子は老いていた。臥せる日もあった。姉の友子からは毎月のように帰京を促す便りが届いた。いっしょに暮らそうと言うのだ。そのころ友子は夫とはとうに死別し、子や孫も成人し、一人暮らしであった。吟子は長い間経済的に支援されてきただけに、姉の誘いには心が動くのであった。恩返しの思いも働いた。トミの将来のこともあった。自分亡きあと身寄りのないトミを僻地に残すのは養母としての責任から不安があった。今ではトミは吟子の支えでもあった。

利根川の風 その12 瀬棚へ

  • 2017.03.12 Sunday
  • 14:57

★瀬棚へ

 

 明治三〇年、吟子四六歳の時、瀬棚の町に転居し、ここで吟子は渡道して初めて『荻野医院』の看板を掲げて本格的に医療に従事する。吟子のたっての願いなのか、吟子に本来の働きをさせたいとの志方の思いやりなのか、そのあたりは判然としないが、生計をたてるのにはこれしかなかったこともある。志方は医師としての吟子を助けながらも利別のインマヌエルの地を往復しながら開拓と伝道にも力を注いだ。

 

 ここではかなり腰を落ち着けて吟子らしさも発揮でき、慣れない気候のもとではあるが利別原野や国縫ほどの苦労はなかったのだろう。瀬棚はニシン漁の港町であり、当時は町として経済的に繁栄していた。女医が開業したといううわさで一時は多くの患者が押し寄せたそうである。しかし目立った看板を掲げることもなく、まして吟子が日本の公認女医第一号であることなど誰も知らず吟子も言わず、ひっそりした物静かなおばさん医師と言われ、それで通したらしい。いかにも吟子らしいではないか。医院では専門の性病もさりながら、日常の様々な病気を扱い、病人たちには分け隔てなく誠実に暖かく応対した。往診にも出かけた。

 

 馬に乗る吟子のかたわらで、志方は轡を取り、患者の家々を訪ねた。志方は吟子をいつも労り下僕のように仕えた。夫婦は確かにキリストの愛で結ばれていたのだ。お互いの人格を尊重し、お互いのビジョンを理解し、相手の必要に徹しようとする自己犠牲の愛があった。吟子も志方もともに生きることに喜びを感じていたのだろう。幸せ感を味わっていただろう。端が見るほど不幸でも失敗でもないのだ。吟子にはいつでも『人 其の友の為に己の命を損なう 之より大いなる愛はなし』が息づいていた。 

 

 瀬棚では吟子の持ち前の実践力が働き出した。吟子は頭脳明晰であるが、机の上の人ではなく体の動く人であった。医師として町の人たちには一目も二目も置かれていたから話は早かった。町の有力婦人たちに呼び掛けて『淑徳婦人会』を立ち上げ、自分から会長になった。会にはいわゆる町の名士婦人たちが集まってきた。村長夫人、警察署長夫人、神社宮司夫人、住職夫人、呉服屋や小間物屋、菓子店の主婦などが主だった人たちであった。活動内容は、吟子のことだからまず女性としてのあるべき考え方や女性たちの地位向上のための講座、また病人の救急法や衛生面のことなど医師の立場からの知識を教えた。さらに親睦の場もある会であったようだ。吟子の頭の隅には東京の婦人矯風会があったと思う。吟子はここでは張り合いと生きがいを感じてうれしかったに違いない。

 

 さらに吟子は日曜学校も作った。志方もかかわった。インマヌエル教会の牧師や、宣教師ローランドも応援した。ローランドの国や日本に来た動機などは今の所資料を見つけられないが、瀬棚には二度訪れており、伝道の演説会もしている。吟子がこうした伝道にも一線に立って働いているのを見ると、信仰が単に精神的なものではなく、生活そのものになっているのを知る。吟子は生きた信仰者であった。だからこそ、自分の過去の栄光に捕われず、もちろんひけらかすこともなく、辺境の地で黙々と隣人愛に励み、日々の働きに喜びを感じたのだ。吟子は大東京の医療や社会活動と同じ重さで瀬棚のそれにも体当たりした。

 

利根川の風 その10 日本の女医第一号 ★後半生 風の真中で

  • 2017.01.28 Saturday
  • 10:01

後半生 風の中で

 

★若き伝道者、志方之善との出会い

 いよいよ吟子の名声は高まり大東京のど真ん中で押しも押されぬ名士となった。本業の医業と心の支えとしての信仰生活、そして熱情を燃やすに足る矯風会を始めとするいくつかの社会活動で、吟子の心は明るく張り合いに満ちていた。

 

 最初の医院ではどうにも手狭になりすぎたので、十九年秋に下谷西黒門町にひとまわり大きな家を借りて移転した。看護婦、下働きの男性、女性、車夫も雇った。今や一国一城のあるじである。時に四十歳になっていた。

 しかし吟子の生涯はここで大きく向きを変えることになる。吟子自らが選んだのだが、神が吟子を捉えて新しい道の先頭に立っていると思えてならない。だが、それは前半生にも勝る苦難の道であった。

 

 終焉の地である墨田区向島、源森橋のたもとに立つ案内板は語る。

『開業もまもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す十四歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治二七年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めてこの地に開業したのは志方と死別してまもない明治四一年十二月、五十八歳の時でした。晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました』

 

 案内板が、『開業もまもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです』、『晩年は不遇でした――』と語るのに不服を感じる。安穏とは何か、不遇と決めつける基準はなにかと問いたい。こうした偉人を、単なる世の秤の上に乗せて、幸福な人、不幸な人と色分けするのはどうであろうか。

 吟子の後半生を追いかける。

 

 人の日常はある日突然、一瞬の出来事によって大きく変わる。出来事をもたらすものは人災、天災、あるいは人との出会いがある。吟子の前に、一人の青年が現れた。突然、天から降りてきたようであった。もっとも天使のような容貌ではなく、もさっとした大男、九州は熊本の男児で、志方之善(しかたゆきよし)といった。

 志方は同志社に学び新島襄から洗礼を受け、大久保慎二郎牧師の助手として秩父伝道の帰途に下谷に寄ったのである。吟子はかねてから懇意の徳富蘇峰・蘆花兄弟の実姉大久保慎二郎夫人に彼を一晩泊めてほしいと依頼されていた。ちなみに徳富蘇峰・蘆花兄弟は婦人矯風会の創始者矢島楫子の甥たちである。大久保夫人はその後矯風会の代表となる久布白落実の母である。

 

 吟子と志方は一瞬のうちに恋に落ちたと世の人は非難めいて言う。吟子については、恋情に負けて、医師の座も社会活動の栄光の立場も投げ捨てて、十四も年下の男を北海道くんだりまで追いかけて行き、悲惨極まる年月の果て、無一物になりはててひっそりと東京に引き上げ、墨田区の片隅で息を引き取ったと、嘲笑めいた噂を立てる。

 人はそれぞれの価値観から自分流の判断を下す。「自分が見たいように見」、聞きたいように聞き、書きたいように書く。悪人が善人になったり、その逆があったりする。歴史は超然とその評価に任せ、関知しない。

 

 私は、私なりに吟子像を描きたい。史実のすきまに突っ込みを入れたい。突っ込みに使うメスは、吟子の人となりへの愛であり、吟子への信頼と友情であり、吟子を導かれる神への信仰である。

 

 明治二三年夏、吟子三九歳のある日、大久保夫人が紹介して寄こした志方之善が荻野医院を訪れた。二六歳の九州男児は小山の様な体躯をすぼめて吟子の前にかしこまった。全身キリスト教の伝道熱に燃える同志社の学生志方は、吟子の敬愛する海老名弾正牧師と同県人で面識もあるという。

 

 この時、確かに吟子の内に固く立っていた長年にわたる男性不信の垣根が一度に壊れたと言えよう。吟子は目を細めて、熱弁をふるう志方の話を母親のような心持ちで聴き入った。一方、志方はその名を知らぬ者のない女傑吟子に直接会えたことで感情は激しく昂り、吟子の柔らかな雰囲気に包みこまれ敬愛の色濃い親しみを抱いた。ごく短期間のうちに二人の感情は一つになった。周囲はそれを常軌を逸した不釣り合いな恋だと激しく批判した。

 

 結婚の意志を固め、親しい人たちに知らせたが、日ごろ吟子を応援してきた人たちはだれ一人として、理解し賛成しなかった。俵瀬の実家は無論だが、松本万年・荻江父娘も、志方を吟子に紹介した大久保牧師夫妻も、さらには海老名弾正牧師も反対の手紙をよこした。四面楚歌とはこのことではないか。しかし二人はひるまなかった。もともと吟子は反対されることには慣れていた。女医を目指した時に比べれば取るにたりなかった。二人は熊本の志方の生家で式を挙げた。

 

 まもなく志方は学業半ばで北海道の開拓に行きたいと言い出した。キリスト教の理想郷を建設しようというのである。志方は瀬棚郡利別(としべつ)原野に二百町歩を借りることができた。北海道の南西部渡島半島の日本海側である。そこへ丸山という二十歳の青年と入植していった。吟子との結婚にも勝る冒険であり無謀ともいえた。しかし志方は理想に燃えていた。九州男児の一徹と信仰による希望は周囲の声を聞く耳をふさいでしまった。

 

 吟子は若き夫の唐突で非現実的なビジョンをどのように受け止めたのだろうか。おそらく心からではないにしても、賛成したのではないだろうか。熱っぽく語る夫の夢を聞きながら、しだいに共感が増し、やがて自分の夢としたのだ。できることならすぐにでもいっしょに飛んでいきたいとさえ思った。

 

 考えるに、吟子という女性は現状に留まるタイプではないのだ。どんなに困難が待ち構えていようと、自分で納得できることなら突き進んでいく人だ。未知の世界へ冒険するエネルギーがたぎっているのだ。小柄で痩身な体は全身が希望の風なのだ。女医もその一つだったと思う。一つ達成するとまたもっと違う目標を発見し、前へ前へ、上へ上へと向かっていく、そんな人に思えてならない。そのためには今の名誉も地位も勘定に入れない。吟子はまもなく夫の冒険をそのまま受け入れたのではないだろうか。

 

 しかし当面は東京に残って資金援助などで協力することにした。しかし、吟子の思いはすでに北海道に走っていた。そうそうに医院を畳んだ。あれほどの辛苦のあげくに手にした医院をあっさりと閉じてしまったのだ。周囲は唖然として言葉もなかったろう。結婚のせいにして吟子を非難した。確かに常識では考えられない行動である。そもそも常識の範囲内の人だったら、婚家を飛び出しては来なかった。男の中で医学を学びはしなかった。道なき女医の制度を作らせはしなかった。吟子は英雄なのだ。凡人に英雄の心が分かるはずはない。

 

 吟子は幸いにも係わっていた明治女学校の舎監になって渡道する備えに入った。かつての支援者たちは遠のいて行った。吟子は再び孤独の道を行くことになった。しかし今度は夫がいる。同時に神への信仰が燃えていた。それに、医者としての力がある。開拓地には医者はいないだろう、しかし病人はいる。都会よりももっと医者は必要だろう。その人たちを助けることができる。夫の開拓事業のそばで、キリストの愛と医術をもって地域の人々に仕えたい。吟子の夢も膨らんだ。

 

利根川の風 その8 医院大繁盛の中で、洗礼を受け、婦人矯風会活動へ 

  • 2016.12.28 Wednesday
  • 14:55

★医院大繁盛の中で、洗礼を受け、婦人矯風会活動へ 

 

 吟子は多忙ではあったが患者一人一人に十分な医術を施し、治療の成果を確認し、医師として充実した日々を送っていた。初めて心に憂いなく順調な人生の手ごたえを実感した。満足といっていい日々であった。患者の対応も板に着き、患者たちも、特に性病に付きまとわれている女性たちは、医者が同じ女性であることから気を楽にし、ぽろぽろと生活の様子を話すようになり、吟子は彼女たちの私生活や心の内を知るようになった。

 

 思えば吟子はわずか二十歳で独り身になって以来、一筋に勉学の道を走ってきたのだから、世間の実態は知る所ではなかった。医師になって初めて一般庶民の生活を知ったのだった。患者の中には夜の街の女性たちも囲われ女性もいた。そうした女性たちのあからさまな生活ぶりや切ない身の上話や心持ちを知るようになると、吟子の心には、一通りの同情では済まされない、受け入れがたい感情が生まれ、わだかまってくるのだった。

 

 もっと強い意志を持って生きてほしい、自分の態度を変えれば病気も治るのにと、歯がゆくてならないのだ。生き方一つで治る病もあるのだ。診察して施術して薬を出しても、本人の自覚が変わらないからまた病が高じてしまう。泣きついてくるとそれをまた診察するのだ。終わりなき治療の現状に吟子はむなしさを感じないわけにはいかなかった。

何のための医術か、自分は何をしているのか、こんなことのために人生を賭けてきたのでないと怒りを覚えることもあった。

――もっと役に立ちたい、役に立てたい、役に立つことをしたい――

 吟子は自分でもわからない渇望にもだえることもあった。

 

 不完全燃焼の自分をもてあまし、満たされない思いを抱きながら、吟子はキリスト教の教会をたずねた。以前、古市静子に誘われて初めて接したキリスト教は、あの時以来吟子の心の底から消えることはなかった。幸いにも、新富座での説教者海老名弾正が近くの本郷教会の牧師をしていた。吟子は日曜日になると教会へ通うようになった。まもなく洗礼を受けた。明治一九年、吟子三四歳、開業して一年ほどのことであった。

 

 日曜日の礼拝が待ち遠しくなった。渇きをいやす氷水のようであった。説教と聖書のことばは診療で疲れ切った心身の隅々にまで流れ込むいのちの水であった。吟子は夜、仕事が終わると自室にこもって聖書を書き写した。一字一句、かみ砕くように読んでは書いた。

 

 吟子の通った弓町本郷教会は今も活発に活動を続けている。建物は火災や関東大震災に遭って建て替えられ、場所も変わったが、訪ねてみた。都バスで、先の荻野医院跡の本郷三丁目の一つ先『真砂坂上』で下車してすぐであった。吟子が歩いて通ったことがうなずける。平日であったためか、正面入り口は厚い鉄の扉でしっかり施錠されてびくともしなかった。あの時代から130年も経っているのに、教会は健在、今も毎週日曜日には信徒が集まり、讃美歌と聖書を中心とした礼拝が捧げられていることに深く感動し、感謝した。日本でたった一人の女医として日本中から称賛され注目の的になったばかりの吟子が、それに溺れず奢らず、神のみ前に額ずく姿を思い浮かべて、心に染み入る涼風を感じた。

 

 吟子は当時の思想書を手当たり次第に読んだ。吟子は世の中に矛盾を感じていた。特に女性の生き方に失望を感じた。それは社会の在り方への批判に繋がった。つまり、女性の意識改革とそのための教育の必要を強く感じ始めていた。特に諸悪の根源は公娼制度にあると痛感した。こうした前近代的なことがまかり通っている社会が、政治が許せなかった。医術だけを見ていた吟子の目は社会へ向けられて行った。

 

 折しも、矢島楫子を中心にした『東京婦人矯風会』の活動が始まった。禁酒、禁煙、廃娼などの社会悪への運動である。それは吟子の琴線に触れて、新しい音色を奏でた。吟子は運動の中に飛び込んで行った。矯風会の中心女性たちは学識もキャリヤも最先端を行く才女たちであったが、吟子は女医第一号という立場から廃娼制度を強く訴えた。医師として性病に取り組む現場からの声は説得力があった。吟子は早速風俗部長になった。 

 

 一介の女医としての働きに限界を感じていた吟子の熱く広くたくましい精神は、キリスト者の信仰と矯風会の社会活動による女性救済活動で、深められ高められていった。

利根川の風 その7 日本の女医第一号 後期試験合格、婦人科荻野医院誕生

  • 2016.12.13 Tuesday
  • 07:45

★後期試験合格、婦人科荻野医院誕生

 

 明治十八年三月二十日、後期試験を経て、ついに発表の日である。吟子は合格者の中に自分の名を見つけた。『荻野吟子』、『荻野吟子』、『荻野吟子』。

 吟子は見ては目を閉じ、開いては見た。消えてしまいそうで、吹き飛んでしまいそうで、何度も何度も確かめては脳裏に刻み心に収めた。とうとう女医になったのだ。患者を看られる資格が自分のものになったのだ。吟子は一度に体中の緊張が解けて行くのを感じた。ふわふわと宙に浮くようであった。二十歳で実家に出戻って以来、実に十五年近くが過ぎ、吟子は三四歳であった。

 

 ついに日本で初めての第一号の公認女医が誕生したのである。吟子がこじ開けたこの門こそ大きな意義があった。すぐ後ろには続々と志高き有能な女性たちが押し迫っていた。彼女たちは吟子の苦闘に感謝しながらこの門をくぐり、女医ならではの貴い働きに従事した。

 ――もう、だれにも妨げられずに堂々と患者が見られる。女性たちの喜ぶ顔がみたい。彼女たちを救うのだ。さあ、一刻も早く医院を開こう――

 

 吟子は感慨に更ける暇もなく早速医院開業に着手した。事は終わったのではなく始まったのである。吟子の名はあっという間に広まり、一躍有名人になった。今までの支援者に続いて、ぞくぞくと手が差し伸べられた。しかし吟子は浮かれはしなかった。なるべく人の好意に甘えず乗らず、本郷三組町のしもた屋を借りて診察のできるように改装した。『産婦人科荻野医院』の看板が掲げられると吟子は時を忘れて見つめた。体の奥深くから喜びが込み上げてくる。それは女医の免状に勝るうれしさであった。

明日、最初に医院の戸をたたく人はだれであろう。自分にとって第一号となる患者はどんな人であろう。安心して受診できるように、信頼してもらえる女医にならねばと、吟子は患者受け入れの心構えまで考えたことだろう。

 

 今でいえばマスコミに大々的に取り上げられた女医第一号のニュースを聞きつけて、物見高い江戸っ子、東京人たちはぞくぞくと荻野医院に押し寄せてきた。「産婦人科」と看板に銘打ってはあるものの内科も外科も小児科も扱ったので、患者は女性ばかりではなかった。診察時間の制限はない。患者が来ればどんな早朝でも迎え深夜まで拒まなかった。吟子は連日連夜の診察に疲労過労に陥っても、時に持病が起きても、患者を看られる喜びと使命感に燃えて、持ち前の一途さでひたむきに従事した。

 

 地名を頼りに、場所をたずねてみた。『三組坂下交叉点』あたりとのことである。

都バス錦糸町から大塚駅行きへ乗車し湯島三丁目で下車した。近くには全国的に有名な湯島天神がある。『産婦人科 荻野医院』跡とは文献にあるだけで、実際の地に何一つ記念のものはない。案内板すらない。文京区の怠慢ではないかとさえ思う。医院があったとされるところは、上野から銀座、新橋を南北に走る中央通りの一本西を並行して走る都道452号線を南に250mほど下った地点である。そこには現在があるだけである。私がカメラを上に向けて道路標識を写しているのを、ガソリンスタンドの店員さんが、一瞬視線を向けただけであった。辺りは湯島天神を抱えている土地柄なのか、飲食店や小さな宿泊場所がびっしりと重なり合うように軒を並べていて、表通りにはない独特の雰囲気が漂っていた。

 

 急に、初老の女性と中年女性の二人組に「あの、湯島天神はどこでしょう」と声を掛けられ、すぐ先の木々のこんもりした高台を指さしたが、吟子「ぎ」の字も見当たらないのは寂しかった。無表情な都道452号線を眺めながらも、涙が滲んでならなかった。

 

 ここで余話を一つ。

 世には、日本初の女医は楠本いね子との説がある。いね子はかのオランダ人医師シーボルトの娘である。母は長崎の芸妓である。父が帰国して以後、混血児として好奇の目、蔑みの目、差別扱いされながらも男性世界の中で吟子のように道なき道を血の涙を流しつつ医術を学び、明治三年、東京築地居留地の近くで産科を開業した。

当時はまた明治政府公認の開業試験制度はなかった。いね子は吟子より二八歳上である。いね子も立派な医者であったが、公認の女医第一号は荻野吟子なのだ。ついでながらいね子を主人公にした小説『ふぉん・しいふぉるとの娘』が吉村昭氏の著にあるが、史実を丹念にたどった超大作である。

 

利根川の風 その6 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯 受験、前期試験合格、後期試験の合間にキリスト教の集会に行く

  • 2016.11.21 Monday
  • 16:08

★受験、前期試験合格

 開業するためには今でいう国家試験にパスしなければならない。医学学校卒業は受験資格ができたに過ぎない。最後の難関は国家試験である。内務省管轄の『医術開業試験』と言った。願書を提出すると、その場で却下された。そもそも女性には受験資格がないのである。新しい時代、文明開化の明治の世が進んでいるのに、いまだに女性が医師になるという発想は政府や官僚のお役人にはなかったのだ。依然として封建時代の男尊女卑のままである。

 

 吟子はほとほと困り果てた。押せども叩けども聳え立つ扉はびくともしない。受験期が来ると願書を出すがそのたびに却下された。また挑戦した。むなしいばかりであった。しかしじっとしてはいられない。吟子の焦燥と苦悩を深く理解し同情したのは、吟子の家庭教師先の高島嘉右衛門であった。吟子のかつての漢学の教師井上頼圀を通して、時の衛生局長長与専斎に紹介してくれた。また、石黒子爵も長与に頼んでくれた。しかし女医の前例はなく現行制度にもないと断ってきた。すでに長与はじめ内務省に女医を認可するべく、全国から多くの女性たちの声も上がっていた。吟子以外にも女医志願者たちが各地にいたのである。彼女たちもみな吟子に劣らない苦節の道を歩みながら女医を目指していたのだ。

 

 吟子の志を応援する井上、石黒、高島たち有力な男性たちの熱心な口添え、また時流の力もあって、ついに女性にも受験の道が開かれた。ついに、ついに巨大な沈黙の石は動き、鋼鉄の扉は開かれたのであった。しかし、扉は開かれたが通過するには試験に合格しなければならない。吟子は勉学から離れていた二年間を取戻し是が非でも合格するために、再び昼夜分かたずの受験勉強に力を振り絞った。

 

 明治十七年九月三日、吟子は前期医術開業試験を受験した。他に女性三名が受験したが、月末の合格発表では女性の合格者は吟子一人であった。それは吟子にとってどれほどの喜びであったろう。支援者、理解者の喜びも大きかったろう、しかし吟子と同じ振動で喜びの共鳴板を鳴らせた人はいなかったのではないか。この十年、吟子の流した涙の量は大河を造り、うめきの数は天にまで達したであろう。吟子は合格通知を手にしてひとり座していつまでも泣き続けたにちがいない。

 

 ゴールまであと一息である。半年後に後期の試験があるのだ。安閑としてはいられなかった。

 

 

 ★後期試験の合間にキリスト教の集会に行く

 ある日、吟子は友人の古市静子からキリスト教の大演説会に誘われた。吟子はそこへ出かけたのである。場所は京橋の新富座であった。今でいえば超教派の一大伝道集会のことだろう。なぜ、場違いなところへ行く気になったのだろう。

 

 古市静子とは東京女子師範学校でいっしょだった。同室者として特別に懇意でもあった。静子はクリスチャンであった。静子がひそかに吟子のために祈っていたことは想像がつく。すぐ近くで大きな伝道集会があるのだ、これこそ神の備えた絶好のチャンスではないか、静子はそう信じたであろうから、誘わないわけがない。

 

 吟子は義理で誘いに乗ったのだろうか。それも皆無ではないだろうが、いっときの歓楽的な催しなら親友の誘いといえども言下に断っただろう。吟子には無駄に使う時間も心もない。後期の試験が迫っている。しかし緊張と期待とが背中を擦り合わせる、小さなすきまがあったのかもしれない。静子の誘いはその小さな空間に伸ばされたのだ。静子の信じたとおり、その時こそ、吟子の後半生を導く神の時であった。

 

 吟子は、そこで植村正久とともに日本のキリスト教界をリードする海老名弾正牧師の説教に出会った。海老名牧師の説教は内容の斬新さと鋭い舌鋒と内側から燃えたぎるエネルギーで吟子を圧倒し魅了した。吟子は我を忘れ目を輝かせて聴き入った。この日の説教は吟子の魂の深いところに留まったにちがいない。

 

 古市静子と吟子の間には知る人ぞ知るかなり有名なエピソードがある。

 時は遡って東京女子師範時代のことである。吟子は同室で親しくしていた静子からある悩みを打ち明けられた。一方的に婚約を破棄されて苦しんでいるという。聞けば、相手は明治政府の高官、森有礼であった。森も静子も薩摩藩の人で長い付き合いがあった。が、有礼は静子を捨てて他の女性としかも福沢諭吉を証人に立てて、当時としては新式の結婚式を教会で挙げたそうである。大いに話題になって世を沸かせたのだ。

 

 聞いた吟子は義憤に燃え、有礼に単身直談判に行った。彼の非をなじり、非を認めさせ、償いとして静子の卒業までの学費を出させたという。吟子の正義感と勇気に驚くとともに、大胆な行動力に吟子のもう一つの面を見て、興味深い限りであった。なによりも痛快であった。洋行帰りの政府の高官といえども、品位に欠ける男性の横暴さに対して吟子と同じ怒りを抱くからだ。吟子さん、あっぱれと声援を送りたくなった。

 

 ところで、古市静子は日本の幼児教育の分野で草分け的な大きな働きをした、忘れてはならない偉人である。しかし、世間での知名度は高くない。隠れた女傑である。本郷に初めて「駒込幼稚園」を開設し、三〇年間幼児教育と経営に力を尽くした。鹿児島県種子島の人で、種子島には静子の偉業をたたえた記念碑があるという。

 静子は、その後もずっと吟子のそば近くで力強く祈り支えた人ではなかったろうか。

 

 

利根川の風 その5 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

  • 2016.10.23 Sunday
  • 15:56

★東京女子師範学校入学 私立医学校好寿院へ入学

 

 甲府で一年余り女子教育に誠心誠意で携わった吟子の評判は高かったが、吟子の内心は満たされてはいなかった。女医の志があるからである。吟子の心には生木のままかまどに放り込まれた丸太のように黒い煙がくすぶり続けていた。そんなとき、ある説によれば、故郷俵瀬以来強い絆で結ばれている松本万年師の娘荻江がわざわざ甲府まで吟子を訪れたという。

 

 荻江は驚くような話をしに来たのである。

政府はついに女子の教育者を育てるために東京女子師範学校を設立することになり、松本万年と荻江はそこの教師として招聘を受けたという。すでに上京して備えている。それにつき、入学を勧めるために来たのだ、女医の道は今は閉ざされているが、世の中は大きく動いている、きっとその時が来る。その時のためにも東京へ戻って目の前に開けた新しい道を歩んでみたらどうだろうと荻江は言うのである。

 

 荻江の親切と適切な助言は吟子の心を動かして余りがあった。吟子は応じる決意をした。

――女性の教師を育てる国の学校ができる、その次は女性の医者の学校の番かもしれない。今、開かれた道を歩いてみよう――

 翌年明治八年、二四歳の吟子は後のお茶の水女子大になる女子師範の第一期生として入学し、四年間、寝る間も惜しんで厳しい勉学に挑戦した。努力の甲斐あって、明治十二年、吟子は主席を守り通して卒業した。二九才になっていた。約五年間の学びであった。

 

 しかしめでたく卒業したからといって吟子は学校の教師になるつもりは毛頭ない。先の見えない五年間はどんなにつらかっただろう。それに耐えられたのは女医になるという初心があるからこそであった。

意志あるところ道ありというけれど、五年経ってもまだ女医の道はない。有るのは強烈な意志だけである。医学を学ぶための医学校は男子のみで女人禁制であった。が、立ち往生してはいられなかった。

 

 卒業面接で幹事の永井久一郎教授に医学を学びたいのでなんとしても医学校に行きたいと志を明かした。永井教授は驚きつつも、現行制度では女子には門戸が閉ざされていることを語った。しかし吟子の鋼のような意志と健気さを前に、真摯に向き合ってくれて、医学界の実力者、陸軍軍医監石黒忠悳(ただのりあるいはちゅうとく)子爵を紹介した。石黒子爵も吟子の熱意を理解し、下谷練塀町の私塾『好寿院』に入学することができた。ないはずの道がほんのわずかではあったが備えられたのである。

 

 しかし吟子の戦いはいよいよ本番を迎えたにすぎない。本番とは苛烈なものだ。志を抱いて上京してからすでに五年が経っていた。学びの場が与えられたとはいえ当然ながら塾生は全員男性である。しかも、女性が自分たちと同じ医学を学び医師を目指すことは到底受け入れられないことであった。自分たちの誇りが汚されたとさえ感じたのだ。吟子への嫌がらせはすさまじかったそうである。今でいえばセクハラ、パワハラの類が公然とまかり通った。レイプの危険さえあった。吟子は野獣の檻にいるようで、極度の緊張を強いられた。いつも命がけであった。

 

 学費、生活費の問題もあった。どこからも援助はないし頼むつもりもない。すべて自立である。吟子はいくつも家庭教師をした。すぐ上の姉友子が始終心にかけて援助してくれたがそれだけではどんなに切りつめても間に合わない。幸い、女子師範を卒業していることが有利に働き、名家に出入りすることができた。中でも豪商高島嘉右衛門は後々まで吟子を支援した。

 

 当時は乗り物がない。すべて徒歩である。真夏も寒中も雨の日も雪の中も、ひたすら歩くしかなかった。時に持病が頭をもたげ体をさいなむ時もあったが寝込んではいられない。身も心も酷使しながらの勉学であった。無我夢中とはこのことではないだろうか。なりふり構わず食うや食わずの三年間が過ぎ、吟子はついに『好寿院』を卒業したのである。医者としての知識、技術などは男性と同等に習得したから免許さえあればすぐにでも医者として開業できるのだ。明治十五年、吟子は三一歳、あの順天堂での屈辱的診察から、女医を目指して歩いたいばらの歳月は十年を超えていた。

 

 

利根川の風 その4 日本の女医第一号 荻野吟子の生涯

  • 2016.10.06 Thursday
  • 08:39

★再び上京、国学者井上頼圀に師事、甲府の内藤塾へ 

 

女医への志は不動のものであっても、それを家族や周囲に公言し理解を得るのは不可能であった。時代が開いていないのだ。家族の中で唯一吟子を不憫に思ってかばってくれるのは母のかよとすぐ上の姉友子だけであるが、この二人も、吟子の本心を知ったら気が狂ったとしか思わないだろう。吟子は万年父娘にはすぐに打ち明けた。しかしさすがの彼らも吟子の大胆で遠大な志には戸惑ったようだ。

 

ある文書に依れば、吟子は奥原晴湖に相談したとある。晴湖は女流画家として名声を馳せていた。茨城県古河の人であるが、いっとき熊谷の近く上川上村に仮住まいしていた。晴湖は芸術の分野でこの時代に考えられないような活躍をした女性である。岩倉具視、木戸孝允らにも認められ、後には明治天皇の前で揮毫したという。一時は三○○人からの弟子がおり、岡倉天心も門下生であった。吟子はこの力ある女性を信頼したのだ。晴湖は吟子の中に稀に見る学才と固い意志を見抜いたのであろう、なによりも晴湖には男性特有の女性蔑視の視線はなかったにちがいない。

一八七三年(明治六年)吟子は二二歳になっていた。

 

吟子は上京すると、有名な国学者井上頼圀の門に入った。紹介者が松本万年であるのか、奥原晴湖であるかはっきりしないが、吟子を女性と分かって許可した頼圀はかなり開かれた目をもった人であったと思える。明治の世になったとはいえ、たいていの男性の女性に対する見方は旧態依然、封建時代からの男尊女卑であった。女性が学問すること、まして男性と机を並べるなど、奇異としか思えなかったのだ。吟子はめきめきと頭角を現した。松本万年のもとでの学びがしっかりした基礎になっていた。吟子の才媛ぶりは東京の学界にちょっとしたセンセーションを巻き起こした。

 

ある時、吟子の名声を聞きつけて、甲府で女子の私塾を開いている内藤満寿子塾長が教師として招聘したいと訪ねてきた。吟子は内に秘めている女医への夢をいっときも忘れたことはないが、迷った末にしばらくして甲府行きを承諾したのである。理由があったのだ。日々学問を教授されている師井上頼圀から後妻にと結婚を申し込まれたのである。当時頼圀は妻を亡くして独り身であったから、彼にとって美と才を兼備した吟子は妻にするにはまたとない女性であったのだろう。

 

吟子にはその気は皆無である。吟子の心を占めるのは女医の二字だけである。吟子はていねいに断ったがもはや井上塾に留まることはできない。一度は辞退した甲府へ下るのは本意ではなかったが、かといって俵瀬には戻れない。女医になるまではなんとしても自活しなければならなかった。吟子は苦渋の回り道を選ばねばならなかった。

しかし内藤満寿子女史は大いに喜んだであろう。明治七年、二三歳のことである。

内藤塾で、吟子は漢文と歴史を教え、舎監も兼ねて女子教育に専念した。吟子には持って生まれた威厳があり、教師は適役ではなかったかと思われる。今でいうリーダーシップの能力も優れていたのではないだろうか。また手も気も抜かない一本気と熱意があった。

 

 

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