風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その25

  • 2016.04.06 Wednesday
  • 10:47
いよいよ最終回になりました。
 

ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。
 
 臨終に当たって、ヤコブが息子たちに残した言葉を掲げます。
『彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買ったものである。」
 
 ヤコブは移住先のエジプトで何不足ない晩年を暮らしました。息子や孫たち大家族に囲まれ、家長としての尊厳を保ち、さらに、アブラハム、イサクの一族を継承した堂々たる族長でした。異国エジプトに身を寄せていたとはいえ、息子ヨセフはパロから篤い信任を受け、宰相として国家の最高地位にありました。いうなれば、一大成功者です。大きな顔をしてエジプトに住み、エジプト流の壮大なお墓に入れたのです。ヤコブはエジプトに葬られようとは望みませんでした。


 神様が祖父アブラハムに約束した地、カナンこそ帰るべき地、骨を埋める場所だと決めていました。信仰者ヤコブの誇り高き一面を見る思いです。
 
ヘブル書を思い出します。『彼らはさらにすぐれた故郷、天の故郷にあこがれていたのです』(一一章一六節)



創世記五〇章(終章)二〇節
「あなたがたは私に悪を計らいましたが、神はそれをよいことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして多くの人を生かしておくためでした」
 
 兄弟全員が力と心を合わせて父ヤコブを葬ったあと、残された者たちの心にすきま風が忍び入ります。これはよくあることで、時に遺産を巡って骨肉相食む凄惨劇が展開すると、今でもよく聞きます。ヨセフの兄弟たちが遺産相続争いをしたとは聖書にはありませんが、ヨセフを疑う思いが浮かび上がるのです。過去の罪が苛むのです。加害者の苦しみというのでしょうか。裏返せば、仕返しを恐れる自己保身の心理でしょう。今までは父親がいたから何とか穏便にすんだけど、盾とも杖ともしたものが無くなったのだから、タダでは済むまいと恐れるのです。

 赦しを信じ切るのも難しいことだと思わずにはいられません。せっかくの赦しなのに、もったいないことです。ヨセフは嘆きます。そして兄たちに言うのです。赦しは神がなしたことだ、人を救うためにと。ヨセフは信仰の秤で、自分の人生を計ったのです。

『神は、愛する者たち、ご計画に従って召された者たちのためには、万事を益としてくださるのです』


 創世記全体から、救いのメッセージを乗せた恵みのファンファーレが高らかに聞こえてきませんか。
アブラハム、イサク、ヤコブを用い、さらに御ひとり子主イエス・キリストを私たちに賜ったみわざに万感の思いを込めて感謝し聖名を崇めます。ハレルヤ!



長期にわたってご愛読いただき心から熱くお礼申し上げます。
また、聖霊なる生ける神に導かれて、「聖書の緑風」をお届けしたいと願っています。




 

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その24

  • 2016.03.25 Friday
  • 20:19
お詫び・まただいぶ間が空いてしまいました。今度の理由がパソコンの故障です。前回もそうだったかもしれません。修理センターへ運んだり、引き取りに行ったりの作業が、一人ではできません。人のお世話にならねばなりません。そのために2倍の日数が要りました。ブランクの期間の間も驚くほど多くの方々がお訪ねしてくださったのを知りました。心からお礼申し上げます。さて、「創世記」もあと一回を残すだけになりました。早めにアップする予定です。感謝して。

創世記四七章二八節
ヤコブはエジプトで一七年生きながらえたので、ヤコブの一生の年は一四七年であった。
 
 だんだんと真相を知るにつけヤコブは元気になり、私は死なないうちにヨセフに会いに行こうと、ヨセフの勧めどおり一族郎党の先頭に立ってエジプトへ下っていきます。総勢七十人の小さな民族移動ですが、ヤコブはヨセフから送られたエジプト風の立派な車に乗るのです。王侯貴族のようではなかったでしょうか。

 エジプトへは父祖アブラハムも飢饉を逃れて行っています。その話は知っていたかもしれません。途中、父イサクが居住していたベエル・シェバに寄って礼拝をします。ヤコブは若かったころを偲んだことでしょう。

 さて、エジプトでヤコブ一族はゴシェンに居住を許されます。へブル人街とでも呼ばれたのでしょうか。ふと、後代のゲットーのそもそものルーツはここにあるのではないかと思うのです。強制的居住区ではなかったにしても、パロが一方的に定めた居住区であったことは確かです。

 しかし神様の特別な恩寵の中で、民族は存続し続け増え続けていきました。よい時ばかりではなかったでしょう。モーセが生まれたころは、ヘブル人の男の子は産まれるとすぐにナイル川に捨てなければならなかったのです。その患難困難を越えてなお民族は数を増やしていったのです。

 現代の神の民、クリスチャンもこうした一大集合に増えているでしょうか。もちろん一か所に身をひそめる民でなく、世界中に散って花を咲かせ実を結ぶ民としてです。
 
創世記四八章一一節
イスラエルはヨセフに言った「わたしはあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった」
 
 いよいよ創世記も終わりに近づき、最後の楽章が高らかに奏され、フィナーレに向かっていきます。ヤコブが最愛の息子ヨセフに向かって語るこの言葉は、ヤコブの人生の凝縮版ではないでしょうか。思えば、創世記のもう一人の主人公はヤコブではないかと思うほどです、読者は彼の言動に、ある時は怒りを感じ、ある時は同情し、ある時は喝采し、共感し、自分の人生を重ね合わせるほど、親近感を感じます。もしかしたら神様は、私たちの見本としてヤコブを選んだのではないでしょうか。
 
 そのヤコブがしみじみというのです。あなたの顔が見られるとは思わなかったと。これは偽らざる言葉でしょう。ヤコブはヨセフが荒野で獣に襲われて命を奪われ死んでしまったと信じ切っていたのです。ヨセフはヤコブの中では死んでいたのです。失われていたのです。心の墓の奥底に葬ったのです。死んでいたのに見つかり、とはイエス様の福音です。復活のみわざです。イエス様のたとえ話の放蕩息子の父が叫んだ歓喜に繋がります。ヨセフは放蕩息子ではありませんが、父親に多大な喪失の涙を流させました。あなたの顔が見られようとは思わなかったとは、死んでいた者が復活したのと同じです。この再会に勝る喜びがあるでしょうか。ヤコブは孫にまで会えたと、祝福のおまけにも喜びます。


 神様の無限の恵みです。ヤコブの弱さも醜さも、神様の前では数えるに足りません。

 

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その23

  • 2016.01.25 Monday
  • 14:15
創世記四五章三節
ヨセフは兄弟たちに言った「私はヨセフです。父上はお元気ですか」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、こたえることができなかった。
 
 ヨセフがどうして意地悪なたくらみをして兄たちを困らせたのか、その意味はよくわかりません。しかし仮にも復讐だなどと世俗的、短絡的には考えたくありません。
 
ユダの命を懸けたとりなしを聞いて、ヨセフはもう黙ってはいられませんでした。思えば一回目のときから、ヨセフは名乗りたくてたまらなかったでしょう。一刻も早く父に自分の無事を知らせて安心させ、できれば会いたかったでしょう。しかしもうヨセフは一時の感傷に負けて前後を見失うほど未熟ではありませんでした。数々の辛酸の経験から状況を見る目や判断する力や知恵を備えていたと思われます。そして、今や時は熟したと判断したのでしょう。一番言いたかったことを涙ながらに切り出しました。


 私はヨセフです、私はヨセフです、私はヨセフですと。もうひとつ言いたかったのは、父という言葉でしょう。ヨセフは母ラケルの記憶はほとんどなかったでしょう。心から母と呼べる人はいなかったのです。複雑な家族関係の中で、安心できたのは父の胸ひとつのみ。兄たちの嫉妬と恨みを買った父の盲愛もヨセフには唯一の喜びだったでしょう。ヨセフは父を恋い慕い、再会を夢見ながらエジプトでの歳月を耐えたのではないでしょうか。このときの兄たちの驚きは聖書にあるとおり、ことばにも、そして声にもならなかったのです。
 
 
創世記四六章二九節
ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンヘ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。
 
 ベニヤミンも交えて無傷で帰還した息子たちから、ヨセフ生存の知らせを聞いたヤコブの驚きはいかばかりだったでしょう。信じ難さは、目の前にヨセフを見ながら声も出なかった兄たちよりはるかに勝っていたでしょう。すべての思考は停止し、目は開いていても何も見ていなかったでしょう。「ぼんやりしていた」とは至言です。
一度はヨセフを失った悲しみに我を失ったヤコブですが、この度は歓喜の絶頂へ向かう、ふもとの忘我です。

 歓喜の現実へ引き戻してくれたのはヨセフが用意してくれた車でした。それを見ると俄然目が覚めたように元気になり、死なないうちに会いに行こうと、エジプト行きを決心するのです。やがて、総勢七〇人がカナンを後にします。この一族が、四三〇年の後に出エジプトする時には壮年の男子だけでも約六〇万人になっていました。
ヤコブ一行は途中ベエル・シェバで神にいけにえをささげます。神はヤコブに「エジプトに下ることを恐れるな、必ずカナンに導き上る」と約束します。

 一方ヨセフはゴシェンまで父たちを出迎えます。ヨセフは父を見るなり首に抱きついて泣き続けるのです。泣き続けるヨセフとヤコブです。一七歳で別れてから二〇年あまりが経っていたはずです。しかしヨセフは少年のように抱きついて泣き続けたのです。ああ、兄たちも泣いたでしょう。総勢七〇人が泣き続けたでしょう。

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その22

  • 2016.01.02 Saturday
  • 11:01
創世記四三章一四節
「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもう一人の弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように」
 
 エジプトの宰相がシメオンを人質にとり、末の弟を連れて来いと命じたことを知ったヤコブは懊悩苦悩します。ヨセフを失った後のヤコブの喜びはベニヤミンひとりなのです。たった一つの掌中の宝をどうして手放せましょう。思えばヤコブは苦悩の人です。しかし手をこまねいていては飢饉の牙で一族が滅んでしまいます。再びエジプトへ食料乞いに行くほかはないのです。それにつけても、なぜもう一人弟がいるなどと言ったのかと、ヤコブは息子たちをなじります。息子たちは、宰相のしつこい尋問についつい話してしまったと弁解します。親子の繰り言と深いため息が聞こえてくるようです。

 そのときユダが声を大にしてベニヤミンを連れて行かせてくださいと父に懇願します。「わたし自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください」。ユダは決死の覚悟をしたのでしょう。ところでユダは四番目の息子です。本来なら長男ルベンが言うべき言葉ではないでしょうか。


 ともあれ、ヤコブはユダの申し出に心を動かれたのでしょう、エジプトへ下ることを承諾します。その時のヤコブの心情が上記一四節に切々と語られています。最後に「私も失うときには失うのだ」と言い切り、この危機を突破するためには、いざとなったら二人とも失ってもいいと、捨て身の覚悟をします。ヤコブは捨てる信仰に立ったのです。「主は与え、主は取られる」と言ったヨブのようです。輝くのは信仰力です。


創世記四四章三三、三四節
どうか今、このしもべをあの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。……どうして私は父のところへ帰れましょう。
 
 ヨセフの兄弟たちは末弟のベニヤミンとともにふたたびエジプトへ下ります。彼らの心ははかり知れないほど重かったでしょう。いわば命がけです。しかし、かつてヨセフはたった一人、奴隷として売られていった道です。しかも一七歳で。道々彼らはヨセフを思い出したでしょうか。
 
 そのヨセフは、もう一度兄弟たちとそこに弟ベニヤミンを見たとき、我知らず泣くのです。無理もありません。ヨセフは彼らを自宅に連行させます。兄弟たちの不安は極限に達したでしょう。ところがヨセフは人質にしていたシメオンを釈放し、兄たちに食事を振舞います。やがてたくさんの食糧を得て兄弟たちは帰途に就きますが、ヨセフは一計を企み、ベニヤミンの袋に自分の盃を入れておき、追っ手を出してベニヤミンに盗みの咎を負わせます。青くなって、全員は再びヨセフの前にひれ伏すのです。ヨセフはベニヤミンだけを置いて全員帰っていいと言います。


 その時です、ユダがヨセフの前に飛び出して自分がベニヤミンの身代わりになるから彼を父のもとに返してほしいと切願します。「このしもべをあの子の代わりに、奴隷としてとどめ」ユダのとりなしは読む者の魂を震わせます。
このユダから私たちのためにとりなすイエス様が見えてきます。

 貴いのは身代わりの福音です。

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その21

  • 2015.12.22 Tuesday
  • 08:49


創世記四十一章一節
それから二年の後、パロは夢を見た。
 
いよいよヨセフ物語は佳境に入ります。キーワードは夢です。またも夢が先行します。ヨセフは神様から与えられた夢解きの杖で苦難の壁を打ち砕いていきます。
 
 献酌官長はヨセフのおかげで命拾いして職場復帰しますが、ヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。しかし神様はご計画を進めるために彼を一足先にパロのもとに返したと考えられます。


 二年後に、今度はパロが夢を見るのです。二年後です。献酌官長にとってはわずかな期間だったでしょうが、ヨセフには気の遠くなるような二年ではなかったでしょうか。それでも外界との一筋の糸に希望を持ってじっと耐えたのです。もちろんこれだけに執着したのではないでしょうが。
 
 パロは不思議な夢に心が騒ぎ、国中に触れを出して解き明かしのできる人を探します。しかし満足のいく答えを出せる人はいませんでした。そのとき、かの献酌官長はようやくヨセフを思い出すのです。遅い!と叫びたいほどです。しかしその後の神様のみわざは超スピードです。牢から出されたヨセフは直ちに王に謁見し、夢を解き、一気に王の信頼を得、この章の終わりにはナンバー2としてエジプト全土に君臨するに至ります。時にヨセフ三〇歳。一三年間の苦闘の暗雲はちぎれ雲となってかなたに飛び去り、主の知恵で政策、政務に実力を発揮します。七年間の豊作、七年間の飢饉を乗り越えるために。

 
 
創世記四十二章三節
そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。
 
 エジプトを襲った未曽有の飢饉は、カナンにもおよび、ヤコブ一族も飢餓に瀕します。そこへ、エジプトには多くの穀物の備蓄があり、内外から大勢の人たちが買い付けに行っているとの風のうわさが伝わってきます。今から三千年も、四千年も前のこと、思えば一番欠けているのは情報の手段だったでしょう。

 しかし、風が伝えるのです。風は神様の足です。ヤコブは十人の息子たちに食料を買いに行かせます。エジプトの宰相が、我が忘れじの息子ヨセフなどとは露も知らずに。もちろん兄たちも知りません。この時ヤコブは末息子ベニヤミンだけは行かせないのです。まだヤコブの偏愛は変わっていません。ところがこのことがことを複雑にする原因になるのです。


 十人の兄たちはヨセフの前に拝むようにひれ伏して食料を乞います。かつてヨセフの見た夢の通りになったのです。あの夢は兄たちの怒りを買い、ヨセフいじめの原因を作りましたが、まさに神様が見させたのです。ヨセフはすぐに兄たちだと気がつきます。しかしその場で名乗ったりしません。ヨセフは一計を巡らし、兄たちをスパイ扱いして詰問します。彼らは怯えながら言うのです「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった」。

 結局、ヨセフは彼らに食料を持たせて帰しますが、弟を連れて再度出直すように命じ、シメオンを人質にします。息詰るような場面が続いていきます。

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その20

  • 2015.12.09 Wednesday
  • 17:26


創世記三九章二節
主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の家にいた。
 
 聖書は前章でユダを語ると、切り替えも鮮やかにすっとヨセフの続きを語りだします。ヨセフは十人の兄たちによってたかっていじめられ、ついにミデアンの隊商に銀二〇枚で売られてしまいます。世の中には目を覆う惨劇が多いとはいえ、これ以上のことはそうざらにはないでしょう。母は異なりますが兄弟がそろいもそろって年端もいかない末弟を裸にして穴に突き落とし、挙句の果てに売り飛ばすのですから。

 そのお金は何に使ったのでしょうか。十人で一人二枚ずつ分けたのでしょうか。その場面を想像するとぞっとします。まさに鬼畜といえましょう。彼らはイシュマエルの隊商に連れて行かれるヨセフをどのように見送ったのでしょうか。泣き叫んだであろうヨセフの泣き声を聞き流すことができたのでしょうか。ヨセフの絶叫は鋭い刃物のように彼らの心に深い傷をつけたはずです。

 十数年後に、彼らはヨセフの前でその時の心情を吐露しています。一時の勢いとはいえ、残忍な行為は加害者をも苦しめるのだと思います。極悪人にも良心があるのです。まして、一つ家で育てられた兄弟ですもの、仮にも信仰者ヤコブを父とする子どもたちですもの、ヨセフへの加害は彼らの胸中を一日たりとも離れたことはなかったでしょう。

 一方ヨセフは見知らぬ国の見知らぬ家に売られていくのです。しかしです、神はヨセフとともにエジプトへ下り、ヨセフを守り助け続けます。


創世記四〇章九節
それで献酌官長はヨセフに自分の夢を話して言った。
 
 神に守られ誠実に生きたヨセフは主人パロの廷臣ポティファルの家で信用されていきますが、なんとその家の夫人の愚行と讒言から強姦罪で牢に投げ込まれます。これだけは避けたかった汚名でしょう。しかし釈明などできる立場ではありません。

 不本意な牢獄生活の中でもヨセフは誠実に生き続けます。ヨセフの歩みを強めているのは、ともにいます主を明確に知っていたからでしょう。その結果、監獄の長からも信用され、牢にいるすべての囚人たちを任されます。
 出来事が起こります。神様のみ業でしょう。ヨセフは拘留された二人のパロの廷臣の夢を解き明かします。夢を見たりその意味を解き明かすのは、神様がヨセフに与えた賜物です。もっとも、その賜物が災いして、ヨセフは兄たちから疎まれたのですが。

 パロの廷臣たちの見た夢はヨセフの解いたように実現します。しかし釈放された献酌官長は世に出たとたんにヨセフのことを忘れてしまうのです。ヨセフは彼にめんめんと嘆願したのです。「あなたがしあわせになっときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。わたしのことをパロに話してくださいこの家から私が出られるようにしてください」。ここにはヨセフの悲しみ苦しみが噴き出しています。淡々と、黙々と、軽々と牢にいたのではないのです。燃えるような、煮え返るような、切ないうめきを抱えながら耐えていたのです。救い出される日を待ち焦がれていたのです。
 
 

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その19

  • 2015.11.20 Friday
  • 09:24


創世記三七章二節
これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳の時、彼の兄たち羊の群れを飼っていた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。
 
 いよいよここからお待ちかね愛するヨセフが登場し、以後最後の五〇章まで一気にスリリングな波乱万丈の物語が展開していきます。とはいえ、冒頭には「これはヤコブの歴史である」と断り書きがされているのです。エサウの歴史はわずかに一章です。歴然たるその差には驚きます。ヤコブの一二人の息子たちはイスラエル一二部族の祖になっていきます。彼らはなぜこうまで輝かしい光をいただくのでしょうか。神様はなぜ『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼ばれることを許したのでしょうか。この謎を解くカギはどこにあるのでしょうか。人間の業ではなく、ひとえに神様の選び、神様のご意志、神様のご計画としかいえません。それが正解なのでしょう。人はひれ伏すのみです。
 
 ヨセフが生まれたときにはすでに十人の兄がいました。しかも三人もの異母たちによる兄たちです。もつれ合った糸玉のような複雑不穏な家庭に生まれたのです。ヨセフの母は父ヤコブの最愛の妻ラケルです。待って待って生まれた待望の子です。当然、ヤコブはヨセフを盲愛します。自分が母リベカに偏愛されたように。そもそもこれこそがこの一族の悲劇惨劇の出発点なのに、です。歴史は繰り返すのか、それとも人は自分の生育史の呪縛から逃れられないのでしょうか。こうしてヨセフは特別待遇され、兄たちの怒りと嫉妬を招くことになります。

 
創世記三八章一四節
それでタマルはやもめの服を脱ぎ、ベールをかぶり、エナイムの入り口に座った。
 
 この章は邪魔な異物のようです。ヨセフ物語が始まったばかりなのに、突然ユダの物語が始まるのです。出鼻をくじかれたようで神様の筆の向きが理解できません。しかし神様が迷走されるわけはありません。その理由を考えてみますと、ユダとその子孫は神様に特別に選ばれたことが分ります。ユダ部族は後のイスラエル十二部族の中で最強になり、戦いの時は全軍の先頭を駆けますし、イエス様はユダ族の末裔から誕生するのですから、神様としては何はさしおいても記さねばならないのでしょう。

 ユダ族の正当な跡継ぎペレツを産んだタマルこそ、マタイの福音書冒頭を飾るイエス様の系図に最初に登場する女性です。タマルはユダの正妻ではなく、息子たちの嫁なのです。舅ユダの理不尽な扱いで里に帰された不幸なやもめです。しかしタマルは遊女に変装して計画的に舅ユダの子を宿します。ユダの二人の息子は子の無いまま、神様にさばかれて死んだからです。ユダには跡継ぎがいないのです。
 
 ユダはタマルを姦淫の罪で裁こうとします。しかし真実を知った時、潔く公の前でタマルの胎の子を我が子と認めます。タマルは双子の男の子を産みます。長子ペレツはイスラエル民族の祖になり、ルツ記では、村人はルツの子オべデを『タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますようにと』と祝福しています。

ですから、この章は見逃せません。

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その18

  • 2015.10.29 Thursday
  • 09:08


創世記三五章三節
べテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつもともにおられた神に祭壇を築こう。
 
 シェケムを後にするヤコブに、神様は先だって言われます。「立ってベテルに上り、そこにあなたが兄エサウから逃れていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい」。
いっとき茫然としたであろうヤコブは神様のおことばで我に返ったのでしょう、ベテル目指して旅立ちます。神様はヤコブの息子たちの残虐行為をどう思われたのでしょうか、聖書はそれには触れず、ベテルに行け、べテルに行け、そこで礼拝し祈れと言われるのです。

 私たちがまず第一に行くべきところは礼拝の場なのです。べテルは、ヤコブの信仰の原点でもありました。若き日、兄や父イサクを裏切り、自らの蒔いた種のせいで故郷を逃亡したヤコブが、命の危険を感じながら野宿したその夢枕に、主は貴いご自身を現わされ、ヤコブの将来を祝福した、あの忘れることのできない恵みの場所です。   

 ヤコブは目の覚める思いで立ち上がり、魂の故郷へ向かいます。ヤコブは懐かしい場所に立って、過ぎし二〇年を思い返し、神様の身前にひれ伏したことでしょう。ヤコブの心を占領したのは、おそらく自己の惨めさと及びもつかない神の無限の赦しと愛だったでしょう。私たちのべテルはどこでしょう。べテルに戻ったことがあるでしょうか。懐かしい魂のふるさとべテルを訪問したいものです。


創世記三六章一節
これはエサウ、すなわち、エドムの歴史である。エサウはカナン人の中から妻をめとった。
 
前の章まではヤコブが主人公、この後の章からはヨセフ物語が延々と続くそのはざまにまるで押しつぶされそうに肩身を狭くして、しかし、丸ごと一章を埋めているのがエサウの歴史です。ああ、神様は粗野で愚鈍なエサウをも憐れんでおられるのだとホッとするのも一瞬で、「エサウはカナン人の中から妻をめとった」がぐさりと胸を突いてきます。裁判官が権威を持って、これがエサウの罪だ、エサウの罪はここにある、これは神の国には断罪に値すると宣言しているような厳しさを感じます。無数の人の名、士族の名はやがてエドム人として巨大な民族になり、イスラエルを悩ます敵になるのです。この章は読んでいても一筋の光も見えず、知らない街を見るようで、できるだけ大急ぎで通り過ぎたくなります。

 カナン人の中から妻をめとったの一言のなかに神様の悲しみ、嘆き、怒りが満ち満ちています。エサウはカナン人の中から妻をめとってはいけなかったのです。弟ヤコブがわざわざ遠路パダン・アラムまで伴侶を求めに旅にでたことは重々承知していたはずです。両親であるイサクとリベカの結婚のいきさつも耳の底にこびりついていたはずです。それなのに、です、カナン人の女を娶るのです。思うに、エサウはいっときの激情を制することができないのです。空腹に勝てず一椀のあつもので長子の権利を売ってしまう人なのです。
 

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その17

  • 2015.10.03 Saturday
  • 11:08


創世記三三章三節
ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄エサウに近づくまで、地に七回も地に伏しておじぎをした。
 
 兄エサウ恐ろしさに、ヤボクの川を渡れなかったヤコブでしたが、一晩中神様に叫び続けて祝福を勝ち取ると、勇気凛凛、群れの先頭に立って会見の場へ進みます。神様を信じ切ると人はここまで変われるのでしょうか。「彼らの先に立って―――」とは見逃せないひとことです。おそらくヤコブの心は平安と喜びに満ちていたのでしょう。  
 すでに莫大な贈り物が先行していますが、兄をみると、遠くから地に伏してなんどもなんどもおじぎをしました。一回や二回ならだれでもできるでしょう。しかし聖書は七回もと記します。土にまみれ砂を浴びてなお地に伏すのです。単なる恐れやうわべだけではここまではできません。心底から過去の非を詫び、赦しを乞う悔いくずおれた心情があふれ出ています。四百人の郎党を引き連れて迎えに出たエサウの本意がどこにあったかわかりませんが、これだけ礼を尽くされれば、あったかもしれない憎悪も敵意も影をひそめざるを得ません。「エサウは、走ってきて、彼を抱き、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた」のです。
 
 ラバンのもとで懊悩苦悩していたヤコブに、生まれ故郷に帰りなさいと言われた神様は、兄とも和解せよとの意を含ませたに相違ありません。ヤコブは徹頭徹尾身を低くしたことでエサウに赦され、積年の関係は修復され、シェケムの町はずれに宿営地を得ました。



創世記三四章二七節
彼らはハモルとシェケムを剣の刃で殺し、シェケムの家からディナを連れ出して行った。
 
 厄介な事柄というものはあとからあとから追いかけてくるものです。問題の原因が全くの災難なのか、こちらにも非があるのか、少なくとも当事者には判別できない場合が多いのです。ヤコブ一族郎党はようやくシェケムの町はずれに地を得て、一息もふた息もつきながら枕を高くして夜を過ごし、晴れやかな朝を迎え、平穏な日々を喜んだことでしょう。

 家族の一人一人に柔らかな笑顔が浮かび、ずっと張り詰めていた神経が緩むのを一番早く鋭く感じるのは若者、それも女性ではないでしょうか。末娘のディナはまるで風に舞う蝶のようにひらひらと異民族の街なかへ入っていったのです。隣の家に遊びにでも行くように無防備のままに。美しい娘は一瞬でシェケムの若者のハートを射抜きます。族長ハモルの息子シェケムは激情のままにディナを凌辱、そのまま離さず、ぜひ嫁にもらってくれと父ハモルにねだります。父はディナを値踏みします。結婚は取引です。族長はヤコブの財産を素早く看破したのでしょう。縁続きになれば互いの得になるだろうとほのめかしながら結婚を願い出ます。ところが、ヤコブの息子たちは妹の受けた屈辱にいきりたち、凄惨な復讐をします。

 結局、ヤコブ一族は逆襲を恐れて、再び流浪の民になる羽目に陥ります。ヤコブはいつになったら安住の地を得られるのでしょう……。
 

風の置いた籠 創世記を愛して 一章一節一思一考 その16

  • 2015.08.22 Saturday
  • 06:55
創世記三一章四二節
神は私の悩みとこの手の苦労を顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。

 
 
 ヤコブはラバンに騙され続けた二〇年への思いを込めて言うのです。幼い日、母の盲愛の中で我がままいっぱいに育てられ、兄エサウを出しぬき、父までも騙して長子の祝福を奪い取ったヤコブでしたが、故郷から逃げて伯父ラバンのもとに身を寄せて以後は、ラバンの手の中で思うようにこき使われ、苦労のし通しでした。しかし、ヤコブの辛苦の背後にはアブラハムの神、イサクの神の絶大な守りの御手があったのです。ヤコブは試練の歳月の中で、自分を守る神様を知り、信仰を深めていったと思われます。辛苦の二〇年の間に、ヤコブはラバンの二人の娘レアとラケルを妻にし、一二人の息子と一人の娘の父親になり、多くの使用人と莫大な家畜を所有するにいたります。

 ある夜、神様は苦悩するヤコブに「立ってこの地を出て、あなたの生まれ故郷へ帰りなさい」と言われます。ついに、ついに、神様からの帰郷命令が出たのです。望郷の思いに涙した夜が終わるのです。しかしラバンが快く許可するはずはなく、結局ヤコブは一族郎党を連れて、ラバンの留守に乗じて逃亡するのです。逃げ切れるわけもないのに。ところが神様は怒り狂うラバンに「ヤコブとことの善悪を論じないように気をつけよ」と太い釘を刺したのです。ラバンは神様がヤコブの味方であることを知り抜いていました。勝ち目のない戦いをするラバンではありません。ここに、和解が成立したのです。ガルエデ!


創世記三二章二二節
私を祝福してくださらなければ、あなたを離しません。(ヤコブの祈り)
 
 帰郷すると言っても、歓迎を期待し、錦を飾って堂々凱旋になるわけがありません。二〇年前に、身から出た錆とはいえ、兄エサウの殺意の刃を掻い潜って逃亡した地です。果たしてエサウが受け入れてくれるか、それこそが最大の問題です。一難去ってまた一難です。沈黙の二〇年が、エサウの敵意を溶かして愛の両手を広げさせるか、それとも自分はおろか妻子にまで危害を加えるのか、ヤコブには判断不可能なことでした。自分の罪を思い出せば、広がるのは不安ばかり、恐怖さえ覚えます。

 ヤコブは使者を遣わし、先だって莫大な贈り物を届けて、何とかして兄の心をなだめ、また真意を確かめようと手を尽くします。そこへ「エサウが四百人の郎党を連れて向かってくる」との情報が入ります。単純男と思えるエサウは、盛大なウエルカムサインだったかもしれないのです。しかしヤコブは震え上がります。それでも、生来の計算力を働かせて、有事の時の被害を最小限に食い止めるための保全策を立て、妻子を二組に分けて境界線ともいえるヨルダン川を渡らせます。しかしヤコブ自身は、たった一人居残るのです。

 事によったら文字通り裸の自分だけになるかもしれない極度の恐怖の中で、残るは神頼みのみです。ヤコブは命がけで命乞いをします。父祖からの神、全能の主に祈り続けます。執拗に神にしがみつくのです。多分に自己本位ではありますが、乾坤一擲の嘆願を主は軽んじられませんでした。

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