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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2012.12.08 Saturday - 18:00

エッセー ガラシャの炎  その6

 

 ガラシャをヒロインにした二つの小説を思い出している。永井路子の『朱なる十字架』と三浦綾子の『細川ガラシャ夫人』である。

ガラシャが死を覚悟した時のことであるが、永井路子はガラシャの死を、恩寵によって与えられた恵みだと理由付けしている。


「御恩寵の日が来たと、わたしは今思っております。キリシタンの御禁制は日を追って厳しくなるとも和らげることはありますまい。私がキリシタンであることは細川家のために大きな障りとなることは明らかです。かといって、私にはキリシタンの御教えを棄てることはできませぬ」


 一方、三浦綾子は、ガラシャに、夫忠興を前にしてこう言わせている。
「デウスを信ずるものには肉体の死はありましても、霊魂の死はありませぬ」三浦綾子は、ガラシャは、永遠のいのちを信じ、そこに希望のすべてを託して敢然と死んでいったと強調して、キリスト教の福音を明確に示している。



 確かにガラシャは積極的に死を選んだ。
決して逃避や自己の思惑を優先したのではなかった。死ぬことに志を見いだし、信仰の証しとして死んでいった。


 パウロの声も聞こえてくる。

『私にとって生きるはキリスト、死ぬこともまた益です』

イエス・キリストの十字架の死も見えてくる。主もまた敢えて十字架にご自分をさらした。イエスの死を、人間と死と同じ平面の上に並べることは脱線であり、論外かもしれないが。

永井路子の小説の最後は印象的である。

『マリヤは炎の中に微笑をたたえたお玉の俤を見たと思った。そしてそのお玉の背後には、紅蓮の炎をあびながら、くっきりと丈高い十字架がうかび上がっているように思われたのであった』時代小説を書き慣れた作者の筆がひときわ冴えた終結となっている。

 

ガラシャの生死を分けた二つの危機から、二つの色が見えてきて、興味深い。

幽閉の地味土野の新緑と、命果てるとき夜空を焦がした火炎の朱色である。

が、さらに広がる思いがある。ガラシャの心の色である。心に燃える炎の色である。

味土野ではどんな色に染まっていたのだろう。

最後のひととき、心に燃えた炎はなに色だったろうか。

緑色でも、朱色でもなかったような気がする。
                      (おわり)


  • 2012.12.02 Sunday - 16:52

エッセー ガラシャの炎 その5

 

ガラシャは逃げなかった。

忠興がさせなかった。最後まで大阪にとどまらせた。大阪にいるということで、どこまでも豊臣側と思わせたかったのだ。一方で家康にも秋波を送っていた。が、家康もさるものである。旗色を鮮明にせよとばかり、豊臣に味方する会津藩の討伐に加わるように命じたのである。いよいよ細川家も腹をくくらねばならない時が来たのだ。

三成も細川の動向に目を光らせ、疑ったであろうが、正室ガラシャが悠然と屋敷に居残り逃亡する気配もないことに、一縷の望みを持ったのではないか。

ところが、忠興が会津に立ったのである。

裏切られた三成はどす黒い火の塊になり、その夜の内にガラシャを大阪城内に差し出すように命じた。細川家はあるじが出兵中なのでと、断固拒否した。命に服せば、ガラシャは凌辱され、はては命を奪われることは自明のことであった。

忠興は、三成が何を言ってきても従ってはならぬと言い渡して出兵した。

玉よ、そのときは、どうすればいいかわかっているな。

出陣の酒杯を飲み干す忠興の全身がそう語っていた。

夫に言われるまでもなく、ガラシャは三成のもとに行く気はない。三成はガラシャのキリシタンの信仰に目をつけ、神をなぶりものにしながら棄教を迫るに違いなかった。

三成からは再三再四催促の使者が遣わされた。

ガラシャ捕縛のための兵が細川屋敷に向かったとの知らせが届いた。

ついに、玉子は冷静に迅速に家中の者をできるだけ逃がした。一人でも犠牲者を少なくしたかった。厳しく殉死を禁じた。キリシタンになった者たちは神の前に生きるすべを知っていたから、ガラシャを神の御手に託して屋敷を後にした。清原マリヤをも逃がした。

ガラシャは、神を信ずる身であるために自害を避けた。小笠原少斎に自分を打つように命じておいた。 

三成の兵が屋敷を襲撃する直前、少斎はガラシャの胸元に槍を突き刺し、最後を見届けると、火薬をまいて火を放った。自らも火の中に倒れ、三成には、ガラシャはおろか屋敷にすら指一本触れさせなかった。

ガラシャの辞世の歌はこうであった。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 

 

玉子は、自分は死ぬべき時を知っていたと胸を張って謳っているように聞こえる。

《死ぬべき時》からは『生まれるに時があり、死ぬに時がある』との【伝道者の書】の一節が重なってくる。ガラシャはそれを意識して歌の底に詠みこんだのであろう。この《時》は時間の《時》でなく、神が許し定めた《神の時》だと信仰を総ざらいして確信しているのだ。微塵の私心もなく、すっきりと澄み切った心境を見る思いがする。神は、そのような玉子をどのようにご覧になったであろうか。そここそが、私の一番知りたいところであるが、現世ではすべはない。(つづく)

 

 


  • 2012.11.23 Friday - 23:07

エッセー ガラシャの炎  その4

 

まずは、ガラシャの最後を語る史実に入ってみる。

玉子が味土野から帰って十五年が経っている。その間に玉子はキリシタンになった。忠興の友であったキリシタン大名高山右近の説法が大きく影響しているようだ。が、玉子の心を動かし、神を受け入れさせた真の理由はなんであったのか。神の光はどのようにして玉子の心に差し込んだのであろうか。あの味土野でなくて、どうして玉造の屋敷なのか。

本筋から外れるが、高山右近は家康の時代になってから、禁教令によってマニラに追放されそこで死んでいる。大名の位も領地も捨て、素浪人になったが、信仰だけは捨てなかった。洗礼名をジュストと言った。

ガラシャを追っていく。

慶長五年(一六〇〇年)七月十六日夜、大阪城のそば近くにある細川屋敷が、突然轟音と共に火を噴き、天を裂く火柱と炎に包まれて瞬く間に焼け落ちた。秀吉が亡くなって二年、天下の覇者を賭けた豊臣と川の対立は苛烈さを増し、日本中が固唾をのむようにして両者の動きをみまもっていたさなかである。何が起こっても不思議ではなかったろうが、さすがにこの出来事には耳を疑い、肝を冷やさなかった人はひとりもいなかったにちがいない。

さらに、人々は、屋敷をなめつくす炎の中に、あるじ細川忠興(ただおき)の正室ガラシャがいたはずだとひそかに確信しただろう。その日忠興は、家康の命によって会津へ向けて出陣中であった。

本能寺の変の時はガラシャを犠牲にしてまで秀吉に付いた細川家は、このたびは豊臣に背を向けて川を選んだ。細川家の身のこなしの巧みさには舌を巻くほかはない。このあとすぐに天下分け目の関ヶ原の合戦が始まるのである。

人々が推察した通り、忠興夫人ガラシャは炎の中にいた。己が命と屋敷を盾に、西軍豊臣の大将石田光成の卑劣な策謀に敢然と抵抗したのだ。大胆すぎる反抗であった。三成自身、小刀で首筋を撫でられたような不吉な恐れを感じて身を震わせたであろう。

ガラシャを死に追いやったそもそもの張本人は、この石田三成なのである。

秀吉の政策からであるが、大阪城の周辺に全国の大名屋敷を作らせた。そこに妻子を住まわせたのである。早い話が人質である。いざというとき寝返りを阻むためである。それにしても、人の妻子を盾にして忠誠を誓わせるとは、なんとお粗末な政策であろう。そうでもしなければ政治は進められないのだろうか。しかしこれは秀吉、三成に限ったことでない。家康もそうした。日本だけでない。あの華麗なるヨーロッパの王朝でも盛んに行われた。政略結婚がそもそも人質政策である。犠牲にされて歴史街道に散り果てた名家の花は数知れないであろう。

さて、不穏な情勢を嗅ぎ取った大名たちは大事な妻子をあらゆる手段を尽くして国元へ呼び戻した。妻子たちは変装したり荷物の中にくるまったり、船底に潜り込んだりして、厳重に張り巡らされた監視の目をかいくぐって逃れた。見つかればもとより命はない。

(つづく)

 


  • 2012.11.17 Saturday - 07:14

エッセー ガラシャの炎  その3

まみどり



 秀吉は細川家の様子を逐一知っていたであろうが、それ以上追及することはなかった。

 戦国の世の常とはいえ、味土野行きはあまりにも惨めだった。玉子に付き添う人は驚くほど極少なのだ。男数名と、女性は清原マリヤと小侍従のみ。まさに流人同然であった。

 およそ二年半、玉子は大海の孤島のような味土野で文字通り《つゆ訪なう人なし》の日々を送った。城中にはまだ赤子の我が子を残してきている。別れ際に夫忠興が、訪ねていく、文も書くとささやいた言葉を珠のように胸中に抱きしめまさぐりつつ、耐え忍んだ。ところが、忠興は一度も訪れることはなかったばかりか、一通の文も寄こすことはなかった。そればかりではない。城からは下っ端の家人一人さえ来なかった。明らかに秀吉を恐れてのことであった。

 

後日、玉子が、秀吉の命で、大阪玉造に造営した細川の新居に晴れて迎えられたとき、忠興には側室がおり、子供までなしていた。

玉子の心は初めて凍った。味土野の地獄以上の地獄が待っていたのだ。以来玉子の心には何をもってしても払拭できない暗黒が棲みついた。これは私の想像であるが。

 

私は、味土野の住まい跡に呆然と立ち尽くした。全山新緑で覆われ、私まで真みどりに染まって溶けてしまいそうだった。私はただ一つ、玉子の心中を思いやった。 

 耳を突くのは玉子も耳にしたであろう鶯の鳴き声ばかり。時々激しく樹々の枝葉を揺する風は、玉子の心と黒髪をちぢに乱したのと同じだったろう。おそらく玉子は日に何度も縁にたたずんでは、夫や我が子たちの住む宮津の城の方角に目を凝らしたにちがいない。

 

しかし、こんな絶望の中にありながら玉子はまだ神を信じるに至っていない。自ら申し出て同行した熱心なキリシタン清原マリヤは、毎日のようにイエスを伝えたであろう。ここぞとばかり説いたであろうに。玉子がキリシタンになったのは大阪に戻ってからである。

人はいつ、どんな時に、神を信ずるのだろう。私はその深い謎に迫りたかった。

もうひとつ、積年の課題を抱えている。ガラシャの死の真相を探りたいのである。(つづく)


  • 2012.11.10 Saturday - 22:29

エッセー ガラシャの炎  その2 

 

私はガラシャの生涯に進んで踏み込んでいった。

 味土野(みどの)の地へ行ったのは二〇〇一年の四月末であった。味土野は京都府とはいえ、日本海に突き出た丹後半島の山また山の中であった。妹が同行してくれた。

今は、半年に一人ぐらいしか訪れる者はいませんと、前日から予約したタクシーの運転手さんは言った。立派にお客のはずなのに、物好きな人たちだと言わんばかりだった。

 

味土野は、ガラシャ隠棲の地である。いや、本能寺の変の後に婚家細川の家から余計者のように幽閉された地である。細川家では、いっそ死んでくれた方がいいと思ったに違いない。そのほうが秀吉の手前都合がいい。なんとしてもお家が大事であった。

 光秀の謀反は予想外のことだったから、天下は騒然となった。時勢は信長の台頭によって収束に向かいつつあったが、まだまだ群雄割拠の戦国時代である。この時、後世の私たちがよく知っているように、機を見るに敏な秀吉が瞬く間に光秀を討伐した。秀吉の時代の幕が切って落とされた瞬間であった。家康などは秀吉恐ろしさに夜を徹して領地へ逃げ帰ったという。

 

光秀の娘を嫁にしている細川家は気が気ではない。嫁の扱い次第では細川家まで滅ぼされてしまう。領地宮津の城内では連日連夜火を吐くような評定が続いたそうだ。即刻殺害すべしと声を大にした重臣もいた。離縁して明智家に戻せという意見もあった。が、明智家は、すでに母熙子をはじめとして一族郎党は惨殺され、城も攻め取られた。玉子は突然天涯孤独の身になった。

 

その渦中に、忠興と父藤孝は髻(もとどり)を切って剃髪した。これも素早かった。つまり出家してこの世とは縁を切ったと秀吉に無言の忠誠を示したのだ。

父の謀反を知った玉子はどう思っていたであろう。あの礼節をわきまえた父が、愛情深い父が、温和な父が、どうして信長様に刃向ったのだろう。よほどのことがあったに違いない。私は父を信じている。私は決して明智光秀の娘の名を恥じない。

我が夫忠興は、私をどうするだろう。殺すだろうか。それなら、いっそ死んでもいい。

玉子は覚悟したと思う。

 結局、玉子の処遇は、夫忠興の必死の命乞いによって、細川領内の山中味土野に流すことに決着がついた。忠興は妻玉子を殺すに忍びなかった。異常なほど熱愛していたという。玉子は人も知る絶世の美人であったそうだ。(つづく)

 


  • 2012.11.07 Wednesday - 22:34

エッセー ガラシャの炎  その1   

今回から数回にわたって、聖書そのものからは少し離れますが、私が特に親愛の思いを抱く細川ガラシャについてしたためたエッセーを載せます。ガラシャについては、過去にも記事がありますが、同じものでないことはもちろんです。主人公はガラシャですが、ガラシャから連想する≪色≫を思いながら綴ったものです。


ガラシャの炎 その1
               

細川ガラシャに、異様な興味を感じたのは十代の初め頃だった。異様といったのは、ガラシャという音が気になったからだ。大きなものが荒々しい音を立てて砕け崩れていく響きのようであった。後になって、その直感があながち見当はずれでなかったと思った。


 ガラシャって、男の人だろうか、それとも女の人だろうか、カタカナだから外人かもしれない。あれこれとたわいもなく想像した。


 どこで最初に出会ったのか今だにわからない。歴史の教科書だったかもしれない。 

まだ信仰を持ってもいなかったから、ガラシャがラテン語で、聖書にあるグレイス、神様の恵みという意味も知らなかった。その後、カトリック信者は洗礼を受けるときに聖書の人物や聖人の名をつける習慣があることを知った。


 そうか、細川ガラシャはキリシタンなのか。

キリシタンといえば迫害されたとよく聞く。この人はどんな目に遭ったのだろう。 

しばらくしてガラシャは玉子といって戦国大名細川忠興(ただおき)の正室であること、しかも明智光秀の娘だとわかった。この時は「えっ」と声を出すほど驚いた。


 もともと戦国時代が好きだからすぐ本能寺の変を思い出した。光秀は、時の天下人織田信長に謀反を企て、京都の本能寺で殺害した逆臣ではないか。あのときほど日本中が度肝を抜かれたことはないだろう。信長の桶狭間奇襲以上ではなかったか。

ガラシャは、あの光秀の娘なのか。

ふーん、歴史って、なんておもしろいのだろう。


 歴史年表に無表情に横書きされた一行、一行が、突然、建築現場の鉄骨のように音立てて組み合わされ、立体化するのを感じた。甲冑のきしむ音、刀や槍の触れ合う音、馬のいななき、兵士たちの雄たけびが聞こえてくるようであった。

謀反人の娘と烙印されたガラシャがどんな苦境に立たされたかなどと、そうしたことへ興味を繋げることもなく、ただただドラマチックな出来事に胸が高鳴った。

 
 ふと、ひとつだけ気になることがあった。クリスチャンになってからである。

 ガラシャは自殺したというではなか。神様を信じている者が自分の意思で死をえらんでいいのだろうか、おかしい。それともカトリックでは許されているのだろうか、ガラシャには、はたしてほんとうの信仰があったのだろうか。 

 
 調べもしないで、ガラシャをさばき、いっときガラシャ像が曇ってしまった。ところが、いくつかの書物からガラシャの生涯を知ることになった。まるでガラシャ自身が誤解を解いてほしいと訴えているかのようだった。しだいに、ガラシャが、歴史上の一人物ではなく、今は遠隔地に住んではいるけれど、かつてはお隣り同士だった幼なじみのように思えてきた。(つづく)


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