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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2012.10.21 Sunday - 17:41

みことばのしずく ハガル・荒野のもう一つの民族の母  その6(最終回)

 

「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません」』

サラが夫アブラハムに向かって投げつけたヒステリックな叫び声は、ハガルにも聞こえただろう。サラははっきりと、イシュマエルをはしための子、イサクを私の子と呼んで区別した。区別ではなく差別した。いや蔑視したのだ。

 

サラはイサクが生まれるまでは、イシュマエルを私の子と呼んでいたのだ。ハガルの子などとは一言も言ったことがなかった。それが今や、荒々しくもはしための子と呼び捨てるのだ。ハガルは身の凍る思いで聞いた。そして、もうここには自分と息子イシュマエルの明日はないと直感したのではないだろうか。アブラハムがどのように対処するか、そこに一縷の望みを繋ぐ以外になかったろう。

 

翌朝、まだ暗いうちにアブラハムはハガル母子を呼んだ。アブラハムは沈痛な面持ちでパンの入った袋と水の入った革袋をハガルの肩にかけた。ここを去って行けというのである。どんなに考えてもそれしか方法がないことをハガルはすでに悟っていた。今度こそエジプトに帰ろうと思ったかどうか、想像するばかりだが、この子といっしょならきっと生きていけると思ったにちがいない。

 

ベエル・シェバの荒野をさまよっているうちに、とうとう革袋の水が無くなってしまった。一草一木さえない果てしない荒野の真ん中である。このままでは命も尽きることは明らかだった。若いイシュマエルが先に衰弱してしまった。ハガルは恐ろしさのあまり息子のそばにいることができなかった。イシュマエルは荒い息をして悶えていた。ハガルは天を仰いで振り絞るような声で泣いた。

 

神が呼びかけられた。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行って少年を起し、力づけなさい。私はあの子を大いなる国民とするからだ」

それは、かつて身重のハガルがシュルへの泉のほとりで出会った神だった。神はピンチのど真ん中で再び鮮やかに声をかけられ、するべきことを指示された。

 

ハガルがハッとして我に返ったとき、神の声の代わりに水の音が聞こえた。目を見開くと、なんと井戸があるではないか。すぐ手の届くところになみなみと水をたたえた井戸があったのだ。絶望と恐怖でパニックに陥っていたときは見えなかったが、心に平静が戻ったとき、気がついたのであろうか。

 

ハガルは空っぽの革袋に水をいっぱいにして、息子のそばに駆けよった。少年イシュマエルがまたたく間に元気を取り戻したことは言うまでもないだろう。

 

ハガル母子は、この時から荒野に住み着いた。もう、かつてのようにアブラハムのところに帰ることはなかった。イシュマエルはたくましく成長していった。

後年、エジプトから妻を迎え、神様の約束通りイシュマエルからもう一つの荒野の民族が誕生した。現在のアラブ人の祖である。後に彼らはイスラム教国を作り出し、今も、世界を大きく二分する。ユダヤ人とアラブ人が一人の父を持つのは神様の摂理、歴史の不思議であろう。

 

サラによるイサクを愛した神様は、ハガルのイシュマエルをも祝福なさった。神様には愛の不公平はない。敵も味方もない。ユダヤ人もアラブ人もない。何よりも世界の平和を願っておられるにちがいない。   (終わります)

 


  • 2012.09.30 Sunday - 15:35

みことばのしずく ハガル・荒野のもう一つの民族の母 その4

 

前回までの要旨

アブラハムの子を宿したハガルはサラのいじめに耐えきれず、ついに逃亡。故郷エジプトへ通じるシュルの泉のほとりまでやってきます。孤独と恐怖のただ中で一つの声を聞きます。「サラの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」それは神でした。

 

シュルへの泉のほとりで声をかけられたハガルは、夢中で、しかし即座に答えた。

「私の女主人サラのところから逃げているのです」この返答は確かに偽らざる現状を示している。しかし、質問の半分でしかない。「どこへいくのか」との問には答えていないのだ。ハガルは答えられないのだ。自分でもわかっていないのだから。

 

どこへ行くのか、ですか。どこへ、どこへ。ハガルは改めて自分に問うてみたと思う。ほんとうに、私はどこへ行くつもりなのだろう…。どこへ行ったらいいのだろう…。

今まで以上に、背中がぞくぞくするほどの孤独感と、立ちすくんでしまいたいような恐怖に襲われたことだろう。

 

そんなハガルを見透かすように再び声がした。

『あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで、身を低くしなさい』

はっとしてハガルは辺りを見回した。この荒野に人がいるはずはない。

ハガルはとっさに理解したはずだ。それが神の声であることを。

 

あなたは神様ですね。アブラハムとサラの神様ですね。あなたは私とは無縁のお方だと思ってきました。エジプトの奴隷など相手になさらないと思っていました。とても悲しく思っていました。事実、あなたは一度も私には現れてはくださいませんでした。

 

でも、今、あなたはこんな死のような地で私に近づいてくださいました。あなたは私を見ておられたのですね。私のすべてを見ておられたのですね。私はひとりぼっちではないのですね。あなたは私の《エル・ロイ(ご覧になる神)》なのですね!

 

ハガルは夢から覚めたよう思いであったろう。

そうか、戻るのか。戻ればいいのだ。サラさまのもとに帰ればいいのだ。お詫びして置いていただくのだ。そしてこの子を産むのだ。育てていただくのだ。この子にとってはそれがいちばんの幸せに違いない。

 

なおも声が続いた。

「その子をイシマエルと名づけなさい。

主があなたの苦しみを聞き入れられたから。

その子は野生のろばのような人になり…」

 

ハガルは身を翻して振りかえった。今来た道がくっきりと映る。凍てついた心に温かさが戻ってきた。

 

こうしてハガルは再びサラのもとに帰り、無事に出産するのである。

ハガルは荒野で出会ったエル・ロイの神を我が神として、イシマエルを育てていったことだろう。

しかし、ハガルは再び苦難に追いやられることになる。(続きます)

 

  • 2012.09.29 Saturday - 12:06

みことばのしずく ハガル・荒野のもう一つの民族の母 その3

 

夫アブラハムから高慢なハガルの処分権を手に入れたサラは即刻決行した。

『サラが彼女をいじめたので…』と聖書は語る。いじめたとは…。具体的なことは記されていないが大いに見当はつく。身分の上下は明白である。もともと権力を持っているサラがさらに夫からのお墨付きを持っているのだからことはしやすい。隠れてする必要もない。陰湿ないじめではない。制裁に近いものだったに違いない。ハガルはいたたまれなかった。ついに『彼女はサラのもとから逃げ去った』のである。

 

それにしても、ハガルの胎内に宿る小さな命について、三人の親たちはどう考えていたのだろう。神様のご計画を実現するために信仰を持ってサラの申し出を受け入れたアブラハムは、正真正銘の父親ではないか。また、言い出しっぺの張本人サラは、一時の激情に駆られてハガル母子を追い出してどうするつもりなのか。そして、ハガルは身重の体を抱えてどこへ行こうというのか。

 

ハガルは荒野へ逃げていったのである。心の荒野を抱えて、はてしなく広がる荒野をさまよったのだ。ハガルの心中を行き来するものはなんであったか。あたりはまったくの荒野、身を寄せる一本の樹木すらない。出身地エジプトへ向かう隊商路シュルの道らしきものはあっても人影はない。色濃く覆うのは空恐ろしいほどの静寂のみ。

ハガルを荒野へ追いやったパニックはまだ続いていただろうか。多少は落ち着きが戻ってきただろうか。足は故郷に向かっていても、身重の女が一人でいけるわけがない。心はむしろ出てきたところへ向かったのではないか。

 

アブラハムもサラも私をこのままほって置くわけがない。じきに使いの者が迎えにくるにちがいないと、そんな期待を抱かなかったろうか。いや、だれに頼まれても帰らない。あんな辛い思いは二度としたくない。そうだ、このまま死んでもいい、この子といっしょに死んでもいい…。

 

だが、実際には死ねるものではない。それどころか行く手に広がる荒野を見ていると不安や恐怖すら感ずる。このまま夜になったらどうするのか…などと。

 

泉のほとりに来ていた。ふいに、何か気配がした。動くものを感じた。風ではなかった。ぬくもりがあった。声が聞こえた。

「サラの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」神であった。

(続きます)

 

  • 2012.09.15 Saturday - 21:05

みことばのしずく ハガル・荒野のもう一つの民族の母 その2

 

敬慕する女主人サラから代理妊娠を依頼されたハガルは、どんな思いだったろう。いい話だと思ったか、とんでもないことだと思ったか、どちらであろう。どう思ったにしろハガルには逃れの道はなかったろう。主人の命に従うほかはないのだ。ちょうどそこにあった格好の道具のようにひっぱりだされたと言える。そこには人格の尊重は見られない。

 

いや、あったのだろうか。サラはハガルの意志を聞いただろうか。

引き受けてくれますか、いやならいいのですよ。あなたの意志次第です。決して強制ではありませんからねと、サラは優しく言っただろうか。例えそうであっても、ハガルは首を横には振れなかったであろう。

 

みごとに、まことにみごとに、ハガルは妊娠した。創世記16章である。ところが事態は思わぬ方向に向かっていく。聖書はこう記している。

『彼女は自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった』

これが大きな事件に発展していくのだ。妊娠したハガルは、なんと、大事な主人サラに対して高慢な態度をするようになったというのだ。しかしこれは当然と言えば当然かもしれないのだ。だがアブラハム夫婦には計算外だった。特にサラにはまったくの番外。自分の作ったシナリオのどこにも出てこないことだった。サラは憤然とした。黙ってはいなかった。押さえていたプライドや憤懣が火のように吹き出した。

『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです』と夫に詰め寄ったのである。

 

ハガルはどうして急変したのだろう。サラからの申し出があったときは、そこまでのいきさつと今後のこともよく理解したはずだ。自分が産んだとしても決して自分の子ではない。乳を与え育児をしたとしても、母として、するのではない。それは仕事なのだ。

子どもはサラの子、アブラハムの息子、一族の大切な跡取りである。自分とは立場上親子の繋がりはない。子どもはご主人様なのだ。

 

本能として与えられている母性は日に日に目覚めていく。子への情愛が激しく高まっていく。この子はだれの子でもない、私の子。私は母なのだ。サラ様が母ですって。とんでもない。あの老女に子育てができるわけがない。私が育てるのだ。産んで育てるのだ。この子は私の子。だれにも渡さない。跡取りになるのは結構。父親はアブラハム様だもの。悪いけど、サラ様は無関係だわ。

 

エジプト人のハガルが胎内に息づく我が子を感じながらそう思ったかどうか、単純な想像に過ぎないが、ハガルはサラに対しては以前のようにはなれなかった。秘めても心の内は外に出るもの、匂うものである。サラは鋭く見て取り、嗅いでしまったのだ。

 

アブラハムは大いに当惑しただろう。火のように、はたまた鋼鉄のようになった二人の女性を扱うすべを知っているはずがない。アブラハムは逃げの一手でいく他はなかった。

『あなたの女奴隷はあなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい』これは理にかなってはいるが、サラに対してもハガルに対しても無責任の何者でもない。

 

さあ、そこでサラは逆襲に出た。(続きます)

 

  • 2012.09.04 Tuesday - 20:33

みことばのしずく ハガル・もう一つの荒野民族の母 その1

モンゴル


ひとこと
8月下旬、モンゴルのウランバートルとその周辺に行ってきました。
この民族はもともと遊牧民族です。現在は都市化し定住する人々も多いですが、民族の血には古来からのものが流れているはずです。国土の風景も中東の荒野に似ているように思います。パレスチナを移動する聖書の族長たちを重ね合わせながら、旅をしてきました。


荒野の母ハガル 


創世記のアブラハム物語にはハガルという不幸な女性が登場する。教会の説教ではあまり真正面から取り上げられることはない。しかし、神様は彼女にも目をかけ祝福を与えられた。神様がアブラハムやサラを大いなる者とされたように、ハガルもまたもう一つの民族の母となった。現在のアラブ人の祖なのである。

 

ハガルは、正妻サラの提案によって、アブラハムの子を産むことになり、その過程で思っても見なかった苦しみに遭う、たいへん損な役回りをさせられた女性である。貧乏くじを引かされ、無理矢理に主役たちの人生に引きずり込まれた脇役である。

 

ハガルはサラの女奴隷で、エジプト人だった。サラだけに仕えていたサラお気に入りの下女だったのだろう。ちなみにサラは見る影もない老女と思いがちだが、そのころアブラハムは数百人の下僕と莫大な冨と家畜の群れをもつ族長、日本の徳川以前になぞらえると地方豪族の頭首であろうか、お殿様であり、しがたってサラは奥方様なのだ。

 

ハガルは16章に初めて名前が出てくるが、アブラハム一行は12章でエジプトに行っている。カナンの地に飢饉があったのでエジプトに避難したのである。ハガルはその時から何らかの理由でアブラハム一族に加わったと思える。サラは一時パロの宮殿にいたから、もしかしたらハガルはそこでサラに巡り会い、サラに仕えるようになったのではないか。もしエジプトの宮廷にいたとしたら、例え仕え女であっても、美人で利発な娘だったと思う。そしてハガルはサラを慕い、サラもハガルを可愛いく思い、二人はまるで母娘のようだったのではないか。

 

いまだに跡継ぎがいないことが、アブラハム夫婦の最大の悩みであるとは、家の者たち全員が周知していたにちがいない。口にこそ出さないけれど、奴隷の子にいたるまでひそかに先行きに不安と強い関心を抱いていたことだろう。主人夫婦の老いぶりを見れば、もしかしたら、使用人の中からでも跡継ぎに指名される者があるかもしれないと考えたかも知れない。サラのそば近くにいたハガルにはなおらさ、苦悩の程が我がことのように思えたにちがいない。そうこうしている間にも、歳月人を待たず、主人二人は老いていく。


神様は『あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡をつがなければならない』と言われる。親類縁者ではいけない、まして家にいる者は対象外である。苦渋の末サラに一つのアイデアが生まれた。――子を産めない私に代わって、ハガルがアブラハムの子を産めばいい。私はその子を自分の子として認め、育て、神様に跡継ぎにしていただこうーー


サラは心を決めるとすぐに夫アブラハムに提言した。ところで、サラの女心が心底承知したのだろうか。どうか想像する以外にないが、ここは深読みしないでハガルを追っていく。(続きます)

  • 2012.08.18 Saturday - 11:05

みことばのしずく《さあ、天を見上げなさい》その3・ その4

みことばのしずく《さあ、天を見上げなさい》その3

神様のお声の通りにアブラハムが見上げた夜空は満天の星!

満天の星とは重宝なことばである。そう言えばだれでも自分の記憶にある星空を思い浮かべる。山で、海辺で、南国で、北国で見た夜空、あるいは幼い日のふるさとの星空を思う。間違っても東京には満天の星空はないが。しかし今、3500年前にアブラハムが見た星空をだれが見ることができるだろう。想像すらできないのではないか。

 

だが、アブラハムにとっては特別の景観ではなかったはずだ。むしろ、毎晩のように眼にしていたもの、見慣れたものだったにちがいない。また、神様が《外に連れ出した》ところは、遠隔の地ではなかったろう。住まいの入り口からほんの少しのところだったように思う。つまり、アブラハムはいつもの場所からいつもの夜空を眺めたのだと思う。変わりばえしない日常のただ中のことに違いない。

 

神様が私たちにお声をかけ、恵みを示してくださるのは、なにも特別に取り分けた時間や場所ではない、もちろん、そうしたこともあるだろう。しかし神様はたいてい私たちの日々の真ん中に御自ら体を動かし足を運んで手を差し伸べられる。《外に連れ出して》《さあ、天を見上げなさい》と容易な方法をお使いになる。ちょっと場所と視点を変えさせるだけなのだ。ハガルが荒野で見つけた《そこにある泉》と本質的に同じだと思う。

 

アブラハムは、神様に手を引かれるようにして戸口の外へ出た。神様に頬をつつかれるようにして空を見上げた。暗い夜空を、ふんだんに金粒や銀砂をまき散らしたような星空を。

すると、星たちの瞬きが生き物のように見えた。小さな生き物たちが息をしているように思えた。いつもの見慣れた星空とはまるで違っていた。新しいものを見た気がした。いままで星空がこんなにも美しいとは気がつかなかった。アブラハムの心に大きな感動の波が押しよせてきた。

耳元に神様の声が聞こえた。『星を数えることができるなら、それを数えなさい』

そんなこと、無理ですよ…どうやって数えるのですか、こんなにたくさんですから…。

神様は返事を期待してはおられなかった。追いかけるように『あなたの子孫はこのようになる』と言われた。

 

突然、十年以上も半信半疑だったこと、つい先ほどまで受け入れがたかったことが、すっとお腹に入った。ああ、ほんとうに、わたしの身から出る者がこのようになるのですね。信じます!感謝します!そのとき、アブラハムの全身は体感できるほどあたたかい神の愛の包まれていたと想像する。(続きます)20日に掲載

 

みことばのしずく《さあ、天を見上げなさい》その4

 

神様に『外に連れ』だされ『さあ、天を見上げなさい』と促され、『あなたの子孫はこのようになる』と、わかりやすい例をみせられたアブラハムは、心底納得した。

その時の状況を聖書は明快に『アブラハムは主を信じた。神はそれを彼の義と認められた』と短く記している。

 

神様はこの時をじっと待っておられたのだと思う。神様はアブラハムのこの心が見たかったのだ。神様のおことばへの信頼、つまり不動の信仰が生まれるのをじっと待っておられたのだ。神様も待っておられただろうが、アブラハムも待ち続けた。『神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました』(ローマ4章21節)と、後世、使徒パウロは説明する。アブラハムは信仰の旅路の必携品として忍耐という杖を片時も手放さなかったにちいがいない。そして、ついに神様はその信仰を見て、我が意をえたりとばかり即座にアブラハムを義と認めたのである。

 

この出来事は以後キリスト教の歴史を貫く一大真理となった。

信仰による義を用いて、神様は人間救済の事業を完成させた。これは律法と福音を分ける唯一の真理である。

使徒パウロはこの真理を駆使してローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙を書き、マルチン・ルターは宗教改革を推進し、私たちの信仰はこの上に立って初めて健全なのだ。これ以外にクリスチャンの信仰の足場はない。自分の信仰を吟味する、なくてならぬ物差しでもある。

 

それにしても、一大真理の原型が、まだ、モーセの律法ができるはるか昔に、一人の流浪の老人と神様の間に生まれたのはじつに愉快なことではないか。神様の真理や啓示は決して大所高所から居丈高に下されるものではないのだ。どこにでもいるような一介の老人の、かそけき小さな信仰を嘉して、義人という冠を与え、信仰の父という太鼓判を押されたのだ。あふれ出る神様の愛が実に楽しい。深遠な場面なのだが、ユーモアさえ感じるのは私の偏よった読み込みであろうか。

 

そしてこの時からアブラハムと神様と間には大人同士の友情が生まれ、関係は深く親しくなっていく。『わたしはあなたがたを友と呼びました』(ヨハネ15章15節)とのイエス様のお声が重なってくる。

 

さて、その日神様は約束を更新する。それは以前のものよりずっと具体的であった。

「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。 15:19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、 15:20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、 15:21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」これが内容である。

もちろんこれもあくまで約束である。所有権を登記したというようなことではない。

 

18章になると神様は『わたしは全能の神である』とご自身について明かす。アブラハム99歳の時である。信仰のスタートをしてから25年の歳月が経っている。神様はアブラハムの信仰の成長に合わせて、徐々にご自身を表し、より深い理解と関係作りをなさったのだと思う。神様は計り知れないほど大きなお方である。一度に全容を見せられても、理解できないばかりか消化不良を起こしてしまうかも知れないから。

 

私たちにできることは、今日、今、『さあ、天を見上げない』とのおことばに従うことだと思う。私の小さな狭い星空でなく、神様が造られた星空を見上げることだ。神様の約束が示され、聞こえてくるのではないだろか。

 

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、

 人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。

 人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは』(詩篇8・3〜4)

新約時代の夜空には、宵の明星、明けの明星であるイエス・キリストが一目でわかるように大きく明るくあたたかく輝いている。希望の風も勢いよく吹いている。

 

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい』ヘブル12章2節 (おわり)

 

  • 2012.08.12 Sunday - 20:49

みことばのしずく《さあ、天を見上げなさい》その2

 

《さあ、天を見上げなさい》その2 


12章でアブラハムは神様からの呼びかけに応答して、妻のサライと甥のロトをつれて、神様の《示す地》、今のパレスチナ、聖書によればカナンの地へ移住していった。彼は農耕民ではなく遊牧民である。一所に定住することはしなかった。

13章ではアブラハムは甥のロト一族と別れることになる。ロトはあの悪徳の町ソドムとゴモラの近くの低地へ移動した。

14章では、カナンの王たちが二つに分れて戦争をし、ロトの家族がエラムの王ケドラルオメル等に連れ去られてしまった。報を得たアブラハムは自分の郎党318人を引き連れて追跡し、戦いの末、ロトを救出する壮烈な出来事が記されている。

15章《さあ、天を見上げなさい》はそれらの後のことである。

 

アブラハムの心の奥深くにとどまるのは神様の約束である。そもそもカナンへ信仰の旅路を始めるに当たって神様は『あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるにしよう』と明言なさったのだ。75歳の時だ。アブラハムは祝福だけを目当て神様に従ったのではないだろうが、神様が言われたことだから必ずそのようになっていくと信じていたに違いない。

 

15章《さあ、天を見上げなさい》までにどのくらいの年月が経ったのか正確には記されてはいない。しかし憶測できる資料がある。次の16章では86歳のアブラハムが妻サライの女奴隷ハガルに子どもを産ませていることから、15章のアブラハムは85歳ではなかったと思っている。約束を信じてスタートしてから10年経っていたと言える。

 

10年間、アブラハムは信仰的にも道徳的にも実に正しく生きてきた。甥のロトに対しては年長者としての当然の権利を捨てて彼の利益を優先させ、また命を投げ出すほど愛を注いだ。神様の約束を固く胸に秘めて黙々と従ってきた。でも、大いなる国民どころか、子ども一人持つことができないでいる。カナンに入ってもまだ一坪の所有地もない。しがない流浪の民に過ぎない。いつ周辺の部族に襲撃されて皆殺しに遭わないとも限らない。アブラハムの苦悩は深く、恐れは大きかったに違いない。

 

その心中を見透かすように神は声をかける。『アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である、あなたの受ける報いは非常に大きい』と。アブラハムはうれしかっただろうか。それとも、ああ、主よ、また約束手形ですか…。と言わなかっただろうか。聖書では、あなたは私に子どもをくださいません。私の跡継ぎは親類のものがなるのでしょうか。それとも家の奴隷の一人がなるのでしょうかと言っている。精一杯の抗議のようにも聞こえる。それは身を捩るほどの悲痛な叫びではなかったか。

 

神様はすぐに『それらの人があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者があなたの跡を継がなければならない』と断言する。その時彼の脳裏を、75歳の老妻サライの皺深い顔が浮かんだか、それはわからないが、神様のおことばとは言え、受け入れがたいものがあったに違いない。

 

神様はまたもやそんなアブラハムの心中を手に取るようにご存じだったに違いない。アブラハムを外に連れ出したのである。《外に連れ出した》とは意味深い。視界の狭い家の中にいて、じっと考え込んでばかりいても、堂々巡りするばかりということがよくある。だからであろう、神様は外に連れ出したのである。時は夜。空には無数の星が瞬きいていた。

外に連れ出した神様は開口一番『さあ、天を見上げなさい』と言われた。アブラハムは物言う暇もなく言われたとおりにした。

 

アブラハムの物語はここが一つのクライマックスである。天を見上げる単純な行為が、その後、神様の大いなる真理を、後のことばで言えば福音の原点を生み出す糸口になるのだ。

『さあ、天を見上げなさい』と促す神様は一体なにを見せようとするのだろうか。アブラハムは何を見て、何を思ったのか。それを通して神様は私たちに何を語ろうとしておられるのだろうか。つづく

 


  • 2012.08.09 Thursday - 22:06

みことばのしずく 《さあ、天を見上げなさい》その1

 

《さあ、天を見上げなさい》その1 


なんといっても創世記最大の有名人はアブラハム。彼は《信仰の父》と呼ばれる。このところ、彼に向かっていままでになく思いが伸びていく。そのうちに姿代わりをしたアブラハムが見えてきた。いや、そうではないだろう。聖書の中のアブラハムが変身するはずはない。彼を見る私の目が変わったのだ。

 

今まではある角度からしか見ていなかった。だが、一面だけでなく、横顔や、後ろ姿が見えてきた。彼への理解と親愛の情が以前より少しばかり深まってきたと思うのだ。深く研究したからではない。たくさんの本を読んだからでもない。名講義や名説教を聞いたからでもない。もちろんそうした外側からの影響もあるだろう。自力です、などと傲慢不遜なことを言うつもりはない。あるとすれば、一年ごとの加齢、登り行く老いの坂道が、語りかけてくることが大きな原因だと思う。

 

私は今、アブラハムのことを、《私のアブラハム》、《アブラハムを愛して》と表現したいとさえ思う。自分ながら興味深いことだと思っている。アブラハムは長い間私には近づきがたい偉人であったから。

 

振り返れば、アブラハムは私が教会へ行き始めた幼い日に、最初に出会った人物だった。教会の老牧師は、いつもいつもアブラハムを語った。おはこの説教だった。


必ず創世記12章1節が開かれた。

『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。そうすればわたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるにしよう』

 

アブラハムは神に従って《行き先を知らずして》出ていった、信仰とは神に絶対服従することだと師は力説した。続いてアブラハムがひとり子イサクをささげる箇所が開かれた。ここでも問答無用、絶対服従が説かれた。そして老牧師はご自身の献身の顛末を語った。それは現代のアブラハムで物語であった。生まれ故郷を捨て、全財産を捨て、それまでの社会的な高位をかなぐり捨てての献身であった。

 

アブラハムも、先生も、私にとっては巨人であった。手の届かない雲の上の超人であった。すばらしい模範だった。彼らの後に従おうと懸命に信仰に励んだ。

若い日に、こうした教えと訓練を受けたことを、私は生涯の宝だと思って深く感謝している。しかし、アブラハムは依然として遠い人であった。

 

アブラハムは75歳で信仰を持ち、175歳で亡くなった。その間100年、神様に従い通した。何と長い歳月だろう。100年間も従順に信仰生活を継続したのだ。気の遠くなるような歳月ではないか。

しかし、最近になって気がついた。私も信仰生活が50年を過ぎたのだ。アブラハムの半分を行ったのだ。それがわかったとき、不敬虔かも知れないが「アブラハムさん」と親しみを込めて声をかけたくなった。「あなたの信仰のあかしを聞かせてください」とかたわらに座したくなった。

 

アブラハム物語は創世記12章から25章8節まで延々と続く。一つ一つの文章の主語は三人称のアブラハム(16章まではアブラム)である。第3者が語っているのだ。単純に正確にアブラハムの信仰生涯が語られている。それを読んでいくのであるが、ふと、アブラハム自身が顔を覗かせて、「そのときわしは…」「そこでわしは…」とか、「あの時の神は…」「神とわしは…」などと、語っているような気配を感じる。そうして読んでいると、物語がお腹の奥にまでじんじんとしみ込んでくる。アブラハムといっしょに現場にいるような気がしてくる。


15章5節『さあ、天を見上げなさい』との神様のお声をアブラハムといっしょに聞いている自分がいる。アブラハムと共に満天の星空を見上げる自分がいる。(つづく)


  • 2012.08.06 Monday - 09:48

みことばのしずく《永遠に生きないように》

ひとこと

前回までのカテゴリー【みことばと対峙して】は、みことばと膝詰め談判するような緊張感の中で、全身を差し出して導きを求め、待ち望む、私の魂の姿勢から名付けました。

今回からの【みことばのしずく】は、もう一つのブログ『希望の風・聖書の風から』に数年前にアップしたものですが、昨今、再読していて、私自身がもう一度、みことばから滴り落ちる天のしずくにうるおされましたので、ここに載せるように心が動きました。一度読んでくださった方も、お時間が許されるなら、立ち止まって覗いていただけたら幸いです。 


≪永遠に生きないように≫
 
創世記3章22、23節 

神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」

そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

 



<永遠に生きないように>とのフレーズがずしんと心にとどまった。なんども読んでいたのに今まで一度も振り返らなかった。見慣れた一本の街路樹のように。

 

この箇所は、アダムとエバが楽園を追放されるときに、神が言われたことばである。アダムとエバは神との約束を破って善悪の知識の実を食べてしまった。人が犯した最初の罪である。それまで、人は罪を知らなかった、罪人ではなかったのだ。だが、罪を犯したので罪の結果の死を負う者になってしまった。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、あなたは必ず死ぬ』(2章16,17節)それを受けて新約では『罪からくる報酬は死です』

(ローマ6章23節)と断言されている。

 

罪を犯さなかった時、人は死を知らなかった。エデンの園には罪も死もなかった。人は園の中央にあるいのちの木から思いのままに取って食べていたと思われる。人はいのちの木の実を自由に食べて永遠のいのちを宿し、生き生きと朗らかに暮らしていたのだろう。

 

だが、罪を犯して死ぬべき者となったからには、いのちの木の実を食べることはできない。もし、そのまま園にいたら、きっといのちの木からも取って食べてしまうだろう。それは神様のルールでは許されないことだった。人は《それを取って食べるとき、必ず死ぬ》と宣言されて、有限な者になり下がってしまったのだ。もう罪なき死なきエデンの園にいることはできないのだ。神様は彼らを追放するしかなかった。永遠に生きないようにするためであった。永遠に生きないようにとは、創世の初めから人間に科せられた悲しい定めなのだ。

 

詩篇の箇所が忽然と浮かび上がってきた。

『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。

しかも、その誇りとするところは  労苦とわざわいです。

それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

だれが御怒りの力を知っているでしょう。

だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。

その恐れにふさわしく。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。

そうして私たちに知恵の心を得させてください』

 

これはモーセの祈りである。モーセは3500年以上も昔の人だが彼のことばは時代を越えて現代にもそのまま通ずるではないか。こんなに科学文明が発達し、医学が進歩しても、病気知らずの人であっても70歳を越えればれっきとした老人だ。健やかであっても80年とは、まことに至言である。

 

現代の医学は延命を探求してやまない。生命そのものまでも作り出そうとしている。人がそれを願うからだろう。いつまでも元気で生きていたい。なんとかして一日でも長く生きたいのだ。いつ死んでもいいと言うかたわら、検査で病気の気配でも見つかったなら、そのままほっておく人はいないだろう。手術して、治療して、服薬して、生き延びようとする。本能なのだろう。いのちを大切にすることは人間として大切な役目の一つだとも思うが。

 

でも、限りがあるのだ。《永遠に生きないように》とされているのだ。人類はそれを忘れているような気がする。さらに、肉体だけがどんなに長く生きても、中身の心が、魂が、病み、痛んでいたら、本当に生きているとは言い難い。失望と寂しさに沈んだままでいいのだろうか。生きるとは愛と希望と喜びと感謝など精神活動の総称ではないか。たとえ苦難の中にあっても希望を持ち喜びがあるなら、真に生きているといえると思う。

 

聖書はそこに信仰を加える。信仰と希望と愛は永遠に続くという。有限とされた人間に永遠が近づいてくる。しかし、両者が一体となるには、人が永遠のいのちを持たねばならない。永遠に生きないように定められた人間だが、神様は人に、永遠に生きる道をもう一度備えられた。永遠のいのちであるイエス・キリストに贖われた者に永遠のいのちをくださる救いの道である。

 

あわれみ深い神様は人が滅びるのを見ておられなかったのだ。一度はエデンの園を追放したものの、神様はどこまでもどこまでも人を追いかけ探された。「あなたはどこにいるのか」と。

 

《永遠に生きないように》と厳しくエデンの園を閉じられた神様が、エデンの東に住むあわれな罪人たちに、独り子イエス・キリストを遣わして、信じる者に永遠のいのちを与えられた。しかもこんどは天の御国で神様ご自身とともに永遠に生きようとしてくださっている。計り知れない無限の愛に感謝せずにはいられない。

 

《永遠に生きないように》から《永遠のいのちを持つためである》の間を貫く神の愛に信じすがって、有限な地上の歩みを進めていきたいと切に願う。終わりを見据えつつ、終わりを越えた永遠の世界に喜びの視線を馳せながら。


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